日本の文化と芸能



ヒステリックな劇場の私物化は危険−シアターΧのプロデューサーに告ぐ 2013.03掲載

私は批評家として、自分がその公演に一文字でも文章を書いたものに関しては、一切批評を書かないルールを課している。当然の事で、批判をすれば二股膏薬、褒めればお手盛りで、批評家としての中立性を維持できないからだ。しかし、私が携わっている公演の意義を含めて、一方的に見当違いも甚だしい断罪をされて黙っているほどに寛容ではない。

両国に「シアターΧ」という劇場がある。客席が一部可動式で200席ほどが標準の手頃な大きさで、多くの実験的な試みも行われ、成果を挙げたものも少なくない。この劇場で、1994年に第1回の幕を開けた「名作劇場」という公演が今も続いている。日本の近代劇の中から一幕物だけを取り上げ、通算で100本を上演しようという試みで、川和孝氏の企画・演出で続けられている。この3月の公演で36回を迎え、74本の戯曲を取り上げた。中には名作として頻繁に上演されるものもあれば、知らぬ間に世に埋もれ、台本や著作権継承者探しに苦労する作品も多いと聞く。取り上げる作品やその時の俳優陣によって出来不出来はあろうが、日本の近代演劇を「一幕物」という観点から俯瞰するという意味で、意義のある仕事だと考えている。私は、2008年以来、この公演プログラムに作者のエピソードを10回書いた。

しかし、今回の公演のプログラム(これは観客に無料で配布しているものだ)の最終ページに、「シアターΧ」のプロデューサー兼芸術監督の上田美佐子氏が、全く論点が明確ではない暴論をヒステリックに述べ立てているのを観て、驚きを通して呆れ返った。上田氏の論点の要旨は以下の通りである。

「2011年3月11日の東日本大震災の折に、どこからかの"指令"とか自粛ムードとかが圧しかかってきた際に、『こんな時にこそ演劇はやるべきでしょう』との声に励まされシアターΧが主催する公演の入場料をすべて1、000円とした。しかし、川和氏が『安かろう 悪かろう』と判断される、『研究生の発表会ではない』と異議を申し立てたため、以降の「名作劇場」公演は、シアターΧ主催ではなく「提携」とする」というものだ。

実質的に「名作劇場」を主宰している川和氏には反論の場も余地を一切与えない「断罪」とも言える論調は、数十年も前の学生のプロパガンダやアジテーションにも劣る稚拙な文章で、全く論旨が一貫していない。しかも、それを「名作劇場」公演のパンフレットの最終ページに「大事なお知らせ」として掲載する事は、芸術監督の立場を濫用した「暴力」に等しい。芸能界と暴力団のつながりを排除する動きは結構だが、劇場の芸術監督が暴力紛いの権力を行使しては洒落にもなるまい。これが「芸術監督」が行う事であろうか。

確かに、入場料は高いよりも安いに越した事はない。劇場のプロデューサー、芸術監督という重責を担っている立場で考えれば、観客に安価で良質の舞台を提供したいという気持ちは良くわかる。しかし、それに対して明確な根拠も示さずに、いきなり「主催公演は何でも1、000円。それに従えない公演は関係ない」と一方的に宣言するのは、愚かなるヒロイズムへの陶酔であり、バランス感覚が欠如した行動としか言いようがない。電車の初乗り運賃ではあるまいし、芝居で「一律1、000円」で上田氏の言う「良いもの」が制作できれば、誰も苦労はしない。上田氏は、日本が「文化後進国」として世界に名高いことを忘れておられるわけではあるまい。規模の大小はともかくも、一つの劇場の専任プロデューサーである以上、全般的な経費と収入を考え公演を組み立てるのは当然で、その中で多大な累積赤字が溜まって来た、とインタビューで述べておられるところを見ると、身を削ってこの事業に邁進して来たことは良く分かるし、評価はできる。しかし、ご自身だけの「正義」の旗を振り回されたのでは、迷惑極まりない。埃にまみれた旗が何を撒き散らすかも良く考えていただきたいものだ。

「私はこう決めた。従わない人は排除する」という論調や、先に述べたプログラムへの一方的な「宣言」は、全くもって劇場の私物化である。自費で建築し、運営している「お道楽」ならどうぞお好きなように、と申し上げる。しかし、そうではあるまい。その上に、「東日本大震災」の折に自粛ムードが圧しかかってきた、と関係のない話を持ち出すに至っては何をか言わん、やである。私はあの震災以降、上田氏が声高に叫ぶような圧力が演劇界に掛けられた、という話は寡聞にして聞いていない。逆に、当時の演劇人の多くは、「安全が確保されれば、こういう時だからこそ芝居を上演するべきだ」と考えており、そういう意見は多く耳にした。実際に圧力が掛けられたのであれば、どこからどのような示唆があったのかを明確に示すべきだろう。自分の劇場の公演の主宰者は断罪しても、補助金をくれる先には口を濁す、のが芸術監督の見識というものなのか。

上田氏のヒステリックな文章の結末はこう結ばれている。「良いものだから観てもらいたい−だからこそ誰もが支払える金額で」と。大変素晴らしいお説であり、誰しもが望むところだ。ならば、小回りの効く実験的な劇場の方法論を駆使されて、江戸時代そのままの歌舞伎を、あるいは劇場の規模に合わせて再構成したバレエやオペラなどをどんどん海外から招聘して頂き、誰もが支払える「1、000円」で数多く見せていただきたいものだ。その時は良き観客として1、000円の入場料をお支払いし、堂々と賛辞を呈しよう。

劇場を私物化するのであれば、そこまでおやりになってはいかがだろうか。

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市川團十郎の死 2013.02掲載

私が最期の團十郎の舞台を観たのは、昨年十月の新橋演舞場の「七代目松本幸四郎追遠」の舞台で昼夜にわたり、従兄弟の松本幸四郎と演じた『勧進帳』だった。千秋楽間近のある一日に昼夜を観たが、昼が團十郎の弁慶に幸四郎の富樫、夜は幸四郎の弁慶に團十郎の富樫、義経はどちらも藤十郎という顔ぶれだった。團十郎は、風邪気味ったのか喉を悪くしたのか、発声がいかにも苦しそうで、弁慶と富樫との問答などは聞いていて気の毒なほどであった。役は違えど『勧進帳』という大曲を昼夜二回演じるのは、並々ならぬ気力と体力を必要とする。幸四郎も團十郎も、『勧進帳』には愛着一入ならぬものがあり、体調不良は感じさせながらも、幸四郎に一歩も譲らぬ気迫が感じられた。

十二月恒例の京都・南座の顔見世公演を休演したと聴き、過去の大病の再発でなければ良いが、と願ってはいたが、相次ぐ休演の発表は、嫌が上にも病状が芳しくないことを感じさせ、二月三日の夜、訃報が入った。

團十郎の舞台で忘れがたいものはいくつもあるが、私の場合は、昭和60年に歌舞伎座で三ヶ月にわたって行われた「十二代目團十郎襲名披露興行」の『助六』だ。三ヶ月の襲名披露も異例だが、四月には歌右衛門、仁左衛門の当時の大ベテランを向こうに回して助六を演じ、六月には幸四郎、菊五郎らの同世代と助六を演じて見せた。襲名披露の折の溢れんばかりの歌舞伎座の賑やかな光景は今も鮮やかに脳裏に残っている。

明るくて華やかな芸は、若い頃には「科白に難がある」とさんざん指摘されたが、やがて芸容がそれを包み込むような存在になった。

歌舞伎の歴史を語る時、代々の「市川團十郎」の名には特別な想いが込められている。現在までの十二代、「江戸歌舞伎の総本山」とも「江戸っ子の守り神」とも言われて来た。ここ一年の歌舞伎界の相次ぐ悲報には眼を覆いたくなるばかりだ。しかも、四月には新しい歌舞伎座のこけら落としを目前に控えてのことである。團十郎の無念、いかばかりかと思うと、運命の過酷さを思わずにはいられない。松本幸四郎、片岡仁左衛門、中村吉右衛門、坂東玉三郎、尾上菊五郎らの平成の歌舞伎を牽引しているベテラン陣にかかる重責はより一層のものになるだろう。

今すぐにどうなるものでもないが、歌舞伎の大名跡にずいぶんと空位ができてしまったのが気になる。中村歌右衛門、市村羽左衛門、市川團十郎。十二代目が團十郎を継ぐまでに、20年の空白があった。今は、遺児の海老蔵が自他共に「市川團十郎」の名に相応しい芸を見せられる日が来るのを待つだけだ。

歌舞伎座が改築のために姿を消して以降、相次いで名優や働き盛りの役者の訃報が続いた。「歌舞伎座の呪い」などという馬鹿げたコメントもあるようだが、「江戸随市川」の名を誇った團十郎の死で、この打ち続く不幸に幕を引いてもらいたいものだ市川團十郎家の屋号でもある成田山の本尊は不動明王である。燃え盛る炎の中で厳しい顔をしながらも、衆生済度のために端座している姿は、穏やかな人柄と、内に秘めた歌舞伎への熱意が重なった姿のようにも思う。今後は「平成歌舞伎の守り本尊」として、遥かなる虚空から、子息・海老蔵を含めた後輩たちを暖かく見守ってほしいと節に願っている。

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大滝秀治という役者 2012.10掲載

今年はベテランの訃報が相次ぎ、生老病死をことに強く感じている。私が、大滝秀治という役者を初めて意識したのは、舞台ではなくテレビだった。1975年に放送された東芝日曜劇場で八千草薫と共演した「うちのホンカン」というドラマだった。倉本聰が非常に良い仕事を残していた時期の代表作でもある。北海道の片田舎の駐在所に赴任してきた融通の利かない、しかし心の温かな警察官の役が印象的で、好評を博した。もう40年近く前の話で、詳細は覚えていないが、当時から今のような風貌だったような気がする。若い頃から老け役を演じる機会が多かったせいだろう。

舞台で印象に残っているのは、1987年の12月に三越劇場で演じた「御柱」だ。有島武郎の一幕物で、江戸末期の下総を舞台にした芝居で見せた大滝秀治の「不器用なまでに頑固な存在感」が記憶に残っている。この公演は一幕物の三本立てで、瀧澤修の「息子」、宇野重吉の「馬鹿一の夢」、そして「御柱」だった。この舞台で、大滝秀治は憧れの師・二人と共に、堂々と一本の芝居の主役を演じた。それだけではなく、この公演の千秋楽後、年が明けて間もなく宇野重吉が亡くなるという、別れの舞台でもあった。

晩年の舞台では、闊達な芸風で自在の境地を見せたが、2006年に同じ三越劇場で演じた「喜劇の殿さん」が最も印象に残っている。実在の人物で、「喜劇王」とも呼ばれ一時代を築いた古川ロッパを演じた。小幡欣治が民藝に何本も書き下ろした新作の一本で、喜劇王の悲哀と苦衷を見事に演じた。「役者は忘れられたら終わりなんだ!」という意味の科白を吐いた時の大滝秀治の迫力は、同じ役者として深く理解できる感情だったのではないだろうか。喜劇王の名には相応しくない不遇な晩年を過ごした古川ロッパの姿を冷徹なまでの鋭さで描き切った脚本を見事に演じた。好演だった。

役者には若いうちに売れてしまう人と、晩年になってから大きな花を咲かせるタイプに別れる。もちろん、単純に二通りしかないわけではないが、大滝秀治は明らかに後者だ。何かのインタビューで、「役者の仕事だけでどうやらこうやら食えるようになったのは50を過ぎてからだ」と語っていたのを読んだことがある。その間、密やかに心のうちに激しい演劇に対する情熱の炎を燃やしていたのだろう。87歳で亡くなる前年まで舞台に立ち、今年は映画にも出演し、役者の理想である「生涯現役」を貫いたのは見事なものだ。

瀧澤修の役を引き継いだ「巨匠」や、先ほどの「喜劇の殿さん」、「浅草物語」、最期の舞台になった「帰還」など、晩年は主役としての堂々たる芝居を見せたが、大滝秀治は基本的には脇で光る役者だったと私は考える。「主役級」ではないからその分格下だ、という見当違いの誤解は困る。見事な脇役がいてこそ、主役の芝居が光るのだ。それが、年功を積むと同時に、主役と脇役の間を作品によって行ったり来たりするようになった。いわば、「自在の芸境」に達したのだ、と言えるが、これは大変なことだ。主役に向くか、脇役に向くかはその役者の価値ではなく、芸の性質の問題だ。両生類のようにどちらもこなす事ができる役者は、そう多くはない。同時に、役者として名を挙げるまでの苦労は、今の若い演劇人の想像の及ぶところではないだろう。その風雪を乗り越えて、晩年見せた柔和な笑顔があり、好々爺の一面がある。

しかし、大滝秀治の本質は、外見の柔和さとは裏腹の「硬骨漢」ではなかったろうか。

冥福を祈る。

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最後の「女役者」山田五十鈴 2012.07掲載

山田五十鈴が95歳で長逝したのを早朝に知った。数年前から療養中と聴いてはいたし、年齢的なことを言えば大往生だとも言える。しかし、舞台を去るきっかけになったのは、ふとした怪我が元だった。

私の手元のメモによれば、最初に山田五十鈴の芝居を観たのは昭和52年の帝国劇場公演「愛染め高尾」となっている。子供心に何と豪華な女優だろうか、と思った。たっぷりした体格の故もあったが、顔の造りやその時の芝居の印象で、「豪華絢爛」というイメージを持ったのだろう。

ここでは映画の仕事には触れない。俗に、舞台で「三大女優」と言われたのが新派の初代水谷八重子、文学座の杉村春子、そして東宝の山田五十鈴だった。三者三様の芸風で、杉村春子と山田五十鈴がまだ「芸術座」と言っていた頃の現在のシアタークリエで初共演した「やどかり」は、二ヶ月公演がアッと言う間に売り切れるほどの話題になった。以降、「流れる」まで、まさに至芸のぶつかり合いが客席を愉しませてくれた。杉村春子も山田五十鈴も稀有な女優であったことは間違いない。ただ、新聞の見出しの多くが「最後の大女優」という論調の見出しで書いていたのにはいささか不満が残る。

私に言わせれば、山田五十鈴は「最後の女役者」の匂いを持った女優だった。明治に実在し、山田五十鈴自身も演じた市川粂八。当時は「女團洲(團十郎)」とも呼ばれた役者を思わせるような風情を感じさせるのは山田五十鈴が最期だっただろう。もちろん、私も女役者の実物は知らない。しかし、「こうであったろう」と観客を納得させるだけの雰囲気を身にまとっていた。雑駁な比較をすれば、杉村春子が理論的に芝居を組み立ててゆくのに対し、山田五十鈴は長年の経験による勘で芝居を組み立てているような印象を受けた。尤も、あくまでも客席からの印象による比較であり、実際のところは知らない。しかし、緻密な計算をしていても、それをあえて大雑把に見せ、楽に芝居をしているように見せる技量を持った役者であったのは確かだ。

自らの当たり役を選んで「五十鈴十種」なる芝居が決められたが、その中で最も印象に残るのは女芸人・立花家橘之助の生涯を描いた「たぬき」である。「弾くことは不可能」とまで言われた十数分の三味線の難曲を見事に弾きこなし、観客をアッと言わせたのは、十代で清元の名取という下地はあったにせよ、女優の魂だったに違いない。山田五十鈴を良く知る劇作家の榎本滋民は、劇中に寄席の高座の場面を作り、そこで山田五十鈴にたっぷりと三味線を弾かせた。嬉しそうに三味線を弾き、唄う山田五十鈴の顔と、豪華絢爛な雰囲気が今も鮮やかに残っている。一方で、川口松太郎の「しぐれ茶屋おりく」を、建て直す前の宝塚劇場で観たのも印象的だし、同じ劇場で森繁久彌が演じた「赤ひげ」で琵琶を弾いて見せたのも面白かった。

今頃は、早春に旅立った淡島千景や、森繁久彌、杉村春子、初代水谷八重子らに囲まれて、明るく芸の話に花が咲いているのだろう。

合掌

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追悼・赤江 瀑 2012.06掲載

幻想・耽美の世界で一つの分野を確立した赤江瀑氏の訃報が入ったのは、京都の南座で玉三郎公演を観た直後だった。今年は、中村雀右衛門、淡島千景をはじめ、名優の訃報が多く、さらに、自分が物書きとして影響を受けて来た作家の急逝は、想いもよらぬショックを与えた。

赤江瀑という作家は、世間的には売れっ子作家とは言えない。しかし、ごく一部の熱烈なファンが、その「美毒」とも呼ぶべき独自の世界に魅了され、惑溺していたのは事実だ。更に言えば、赤江瀑の「美毒」の影響を、少なからぬ同業の作家が受けていることだ。これは稀なケースとも言える。「玄人好み」という言い方は、上から物を観るようでしたくはないが、いわゆる一般受けのする作風ではなかった。

「演劇批評」のHPで、なぜ赤江瀑について書くのか。それは、私の中で、泉鏡花以来、谷崎潤一郎、三島由紀夫の系譜を継ぐ「演劇的美学」の持ち主だったからだ。赤江瀑は主に短編小説を得意としたが、テーマは歌舞伎、能楽、香道、舞踊、彫刻、絵画など、日本の文化・芸能の多くを包含したとも言えるほどの広範囲にわたっていた。彼自身、若い頃には国立劇場の懸賞歌舞伎に応募した実績もあり、また、大きな劇場ではないものの、数本の作品が舞台化されている。しかし、いずれも原作の香気をそのまま舞台で反映することはできなかった。それほどに、赤江瀑が持つ言葉の魔術は美しい毒を持っていた。

私が赤江瀑の作品に初めて接したのは高校時代であり、背筋に電気を流されたようなショックを受けた。「こんな世界があったのか」と。その後、個人的なお付き合いをさせていただくようになったが、何かの折に頂いた手紙の中に、「私の世界を追うのはおやめになった方がよろしいですよ。この世界を歩むのは苦しいことです。あなたには、あなたの世界があるはずです」という旨の文があった。先輩が若さだけで猛り逸る後輩を諭すような、柔らかでいて決然とした手紙だった。それから二十年以上を経た今、あえて赤江瀑の世界を自分のようにしようなどという不遜な考えはない。できるわけがないことに気付いたからだ。しかし、赤江作品の何かを、いずれ舞台化したいという欲は、今でも心の中に熾火のように燻っており、これは私が死ぬまで消えないだろう。

読者として三十数年、個人的にお付き合いを頂くようになってからでも二十年以上。私の心の深奥にこれほどまとわりついて離れなかった作家は他にいない。だからこそ、私は赤江作品の魅力をあえて「美毒」という言葉で表現するのだ。この中毒からは、そう簡単に抜け出せるものではない。拠点を下関に構えていたせいもあり、また、ここ数年は体調のゆえか新作の発表がほとんどなかったこともあってか、そう大きな報道がなされたわけではない。しかし、確実に日本の「美」に惑溺させてくれる作家を一人喪ったのは事実だ。

赤江瀑は、得意の魔術で、一瞬にして我々の前から姿を消してしまった。

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追悼・中村雀右衛門 2012.02掲載

立て続けに名優の訃報を聞くのは辛いものだ。先週、淡島千景の訃に接したばかりなのに、歌舞伎の女形の中村雀右衛門が91歳で長逝した。ここ二年ばかりは高齢のゆえか体調を崩して舞台を休んではいたが、いつまでも若々しいイメージを持っていた役者であったことや、舞台へ出なくとも存在してくれている、という安心感があった。昭和の歌舞伎を背負って来た大きな役者がまた一人、逝ってしまった。

雀右衛門の舞台を観た多くの観客は、その若々しさと清楚で可憐な美貌に魅せられた。しかし、文化勲章という芸術家として最高の栄誉を手にした女形の一生は、決して順風満帆ではなく、いくつもの苦難に満ちたものであった。何度も芸談を聴く機会があったが、雀右衛門は、それらの出来事を決して「嫌な想い出」とすることはせずに、むしろ明日へ足を進める糧としていたように思う。これは簡単なことではない。しかし、「勉強」という言葉を口癖のように語る雀右衛門は、容姿だけではなくしなやかで若々しい感性を持っていた。だからこそ、幅広い年代の役者を相手役にし、長きにわたって第一線で活躍することができたのだろう。幸四郎にしても仁左衛門にしても、先代と当代の親子二代にわたり相手役を勤めて来た女形はそう多くはない。年長の相手でも、若い相手でも自在に芝居を合わせることのできる柔軟性が、若さの秘訣の一つでもあったのだろう。

「金閣寺」の雪姫、「鎌倉三代記」の時姫などの時代物の折り目正しい芝居も見事だったし、「京鹿子娘道成寺」のような舞踊の艶やかさも他の女形とは違う色気を持っていた。当たり役は数多いが、今までに約30年にわたって雀右衛門の舞台を観た中で、忘れがたい舞台がある。

1983年の1月、国立劇場公演で「直侍」が上演された。初代・尾上辰之助の片岡直次郎に、雀右衛門の三千歳という顔合わせだった。この芝居は今も人気で、冬の入谷の寮で直次郎と三千歳が情緒纏綿とした清元の調べに乗って、最後の逢瀬を楽しむシーンが見せ場である。この時の雀右衛門の三千歳が素晴らしかった。直次郎に会いたさに恋煩いになっている三千歳の元へ、危ない橋を渡りながら直次郎が会いに来る。飛び立つ想いで襖を開け、「直はん、会いとうござんしたわいなぁ」と手を取り合う。ここで、多くの女形は、襖を開けていきなり直次郎を見る。しかし、雀右衛門は、視界に入っているにもかかわらず、ほんのわずかな時間、視線をすーっと泳がせ、改めて直次郎を見て科白を言った。時間にすれば0コンマ何秒という「間」である。しかし、この視線を泳がせる間に、直次郎を待ち焦がれた三千歳の恥じらいや喜び、そうした女性の感情が込められていたような気がした。

これは、私の勘違いだったのかも知れない。しかし、その批評を読んだ雀右衛門から、達筆の巻紙の手紙が届いた。名優に私の批評が認めてもらえたことの嬉しさは忘れがたく、若造の意見を真摯に受け止め、聴こうとする謙虚な姿勢は、晩年まで変わらなかった。雀右衛門が口にする「勉強」という言葉が、雀右衛門だけのものではなく、私自身のものにもしなくてはならないと気付いたのは、ずいぶん時間が経ってからのことで、それが恥ずかしい。

アルコールを嗜みながら、食事をしながらの芸談は豊富で、戦争中の体験や映画時代の話題、女形としての再出発など広範囲に及び、どれも興味深いものだった。「回り道の多い人生だった」「私は途中からの女形ですから」という言葉を何度か聴いたが、その中に一本通っている幹は真っ直ぐに「芸道」を見つめ、上に向かって伸びて行くという姿勢は終生変わらなかったように思う。

今は、中村雀右衛門という名女形と共に生きることのできた幸福と、その喪失感が私の中に同居している。この想いは、しばらく続くのだろう。謹んで冥福を祈ると共に、多くの舞台を偲びたい。

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追悼・淡島千景 2012.02掲載

2月16日の朝、満88歳の誕生日を目前に、すい臓がんで稀代の名女優が逝った。初舞台から71年、宝塚の人気娘役を経て退団後は松竹の専属となり、「夫婦善哉」は言うに及ばず、日本映画の黄金期を築いた女優の一人である。

一方、舞台での活躍も幅広く、長谷川一夫の相手役として、あるいは山田五十鈴とのコンビで幾多の作品を遺しているが、私がすぐに思い出すのは、谷崎潤一郎の「細雪」の長女・鶴子と、「毒薬と老嬢」のアビィである。前者は古き良き時代の大阪・船場の旧家の長女のプライドと、それゆえの古風な女性の姿を見せ、後者では海外の喜劇をいとも軽やかに演じ、客席を大いに湧かせた。また、ここ数年の舞台では「あかね空」の料亭の女将の役が印象に残っている。

芝居のたびに楽屋を訪れると、いつも温かな笑顔で迎えてくれ、折々の芸の話に花が咲いた。どんな時でも微笑みを絶やさぬ一方で、常に背筋がピンと伸び、凛然としたたたずまいを崩さない、品格のある見事な女優だった。普段の話の中にも、女優として芸の道をひたすらに歩むことを、言わず語らずに教えてくれていたような気がしてならない。いつもお元気な秘訣は何でしょうね、と伺ったら、「あたしにはこれしかできないんですもの。料理がうまいわけじゃなし」と笑っておられたが、逆に言えば他のことに時間を割く暇などないほどに一つの道に打ち込んだからこそ、最期の最期まで一流の女優で居続けることができたのだろう。その矜持は、無言のうちにも生きる姿勢として示されていたように思う。

最期の舞台となったのは昨年の3月31日に東京国際フォーラムで催された一日限りの舞踊の会「花柳壽輔の傘寿の会」にゲストで出演したものだった。久方ぶりに娘の踊りを見せ、満員の会場がどよめいたのを憶えている。その時に、楽屋を訪れ、いつもの笑顔に接することができた。その後、夏に淡島さんの自宅へ仕事の打ち合わせに伺った。折からの暑さでいささか疲れ気味のようではあったが、機嫌良く芝居の話をし、一時間ほどお喋りをしたのがお別れになってしまった。

淡島さんが長年にわたって敬愛した名女優の杉村春子が、やはり70年間の女優人生を一度も休演することなく活躍し、命を奪われたのもこの病気だった。偶然の一致と片付ける気にもなれないが、何か因縁めいたものを感じることは否定できない。

実は、私は淡島さんにお詫びをしなくてはならないことがある。昨年の春ごろから、「朗読劇をやりましょう」という計画が進行していた。それまでに「女の一生」や「華岡青洲の妻」を朗読劇として演じていた淡島さんは、経験者ならではの視点でいろいろなアイディアや注意点を意欲的に語ってくださった。その上で、「作品選びも演出も、すべてあなたにお任せするわ。後はあなたの言う通りにします」と言ってくださった。「責任が重いぞ」と思う一方で、何とか形にしようとファイトを掻き立てていたが、私がまごついて日々の雑多な生活に追われている間に、淡島さんに病魔が取り付いてしまった。すでにいくつかの作品がかなり具体的な構成の段階まできていたので、もっと事を早く進めていれば、という後悔と自責の念は尽きない。

26日に護国寺で葬儀がある。その折に、果たせなかった約束をお詫びをしようと思っている。

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野田秀樹と紫綬褒章2011.06掲載

今年は先の震災の影響を鑑みて、従来4月29日に発令されていた「春の褒章」の受章者が先日発表され、その中に「野田地図」を主宰する野田秀樹の名があった。念のために若干の説明を加えておくと、「褒章」にも紫綬、黄綬、藍綬などいくつかの種類がある。社会貢献や人命救助などに贈られるものもあり、「紫綬褒章」は芸術・科学などの文化の発展を中心とした業務に従事する人々の中から選定されるもので、数年前までは60歳以上という規定があったはずが、その枠もはずされ、若いスポーツ選手が受賞したことなども記憶に新しい。

私はここ数年来、文化庁を中心とした国の芸能全般に対する考え方や政策に対してことあるごとに辛辣な批判を繰り返して来た。芸能の分野について言えば、古典芸能には無闇に厚く、それ以外の分野には薄いという印象がどうしても拭い切れなかったからだ。その姿勢に対する提言も繰り返して来たが、暖簾の腕押しどころか、聞こえないふりをしていた。もはや、文化庁の思考そのものが古典芸能と化しており、平たく言えば「芝居のことなどてんで分からず、現場も見ずに年齢の順番に書類審査に明け暮れているお役所仕事」という印象が続いていたからである。

しかし、今回、私は文化庁に対して素直に詫びると共に、そうした姿勢が変わりつつあることを評価したい。60歳以下の受賞は野田秀樹が初めてではないにしても、およそ今までのイメージの中にある「紫綬褒章」とはかなり遠い距離にいると感じる芝居を創って来た野田秀樹の試みが、こうした形で評価されたことを、素直に歓びたい。それには、歌舞伎に新作を提供していることなども考慮の対象に入っているのかも知れないが、この際、そうした細かいことは言うまい。

55歳にして作・演出・出演をこなし、舞台を駆けずり回ってエネルギッシュな芝居を繰り広げている彼の思考や新しい試みが評価されたことは大きい。批評家として野田秀樹を依怙贔屓するつもりはないし、彼とてこうした栄誉を求めて芝居をしているわけではあるまい。しかし、次から次へと、我々日本人が真剣に考えなくてはならない大きな問題を作品の中で提示し、「現代に生きる演劇」を見せている。それに観客が共感し、感動している。文化庁が、古典芸能だけではなく、「危うい現代」を切り取っている野田秀樹を評価したことが嬉しいのだ。どうか、こうした試みを、これ限りで終わらせることなく、演劇の「今」を評価する試みを続けてほしい。

願わくば、この慶事を野田一流のセンスで洒落のめし、諧謔と横溢した言葉遊びに満ち溢れた一本の芝居を創ることを期待したいものだ。そこに、いつまでも少年のような輝きを見せているエネルギッシュな野田秀樹の価値があるのだ。野田秀樹になら、それができると私は期待している。マンネリズムの繰り返しで文化勲章をもらっておさまりかえる大御所の演出家もいるが、そういう野田秀樹を観客は期待しないはずだ。過酷な要求であるのは承知だが、あくなき挑戦を続けられる柔軟性をいつまでも持っていてほしい。それが、野田秀樹にふさわしい姿であり、魅力なのだ、と私は想う。

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【書評】「落語評論はなぜ役に立たないのか」
広瀬和生 光文社新書 740-  2011.04掲載

実は、私は書評を書くのが好きではない。20年近く前に、ある本の書評に一夏を潰した苦い経験があるからだ。もう一つは、私自身が物を書く人間であり、同じ立場に立って他の作家が書いたものを批評するのにいささかのためらいがあるからだ。

しかし、その二つの逡巡を振り切ってなお、「今、書いておくべき」本について書くことにする。「落語評論はなぜ役に立たないのか」。本書を読んで、私は喉元へ匕首を突き付けられたような想いがした。すべてが当てはまるわけではないが、「落語」の文字を「演劇」に置き換えることがいともたやすく、不自然ではないからだ。本書は「落語とは何か」「落語評論家とは何者か」に、特別付録として著者による2010年の落語家のランキングが併載されている。

付録はおくとして、「落語とは何か」で、著者は落語の歴史を語るわけでもなければ、古典落語の定義をするわけでもない。むしろ、そんなものに意味はなく、落語は楽しめばよいのだ、と言う。返す刀で、「とにかく寄席へ行ってみよう」的な導き方をしている評論家は宣伝マンに過ぎない、とばっさりと斬る。「落語評論家とは何者か」では、落語評論のあるべき姿、現在の状況、それを生み出した歴史などを述べた上で、「落語評論家」を「最強の観客であるべきだ」と結論付け、落語家の魅力を語れる者が評論家としての才能である、と述べている。 では、「評論家を評論している」この人物は「何者」なのか。落語評論家ではない。ロック雑誌の編集長である。しかし、落語が好きでたまらず、ほぼ毎日落語を聴きに出かけ、その面白さを誰かに伝えたくて仕方がない。落語への愛情と渇望の果てに、たどり着いたのが本書である。至るところに著者言うところの「無償の愛」が満ち溢れており、「落語評論家は観客の代表である」べきだ、という持論のスタンスが貫かれている。

もう一つの大きな特徴は、落語評論家ではないことが功を奏して、業界内部の複雑な人間関係に遠慮会釈なく物を言えることだ。評論家が真実を語れずに、そうではない人が真実を語る。まるで、今の福島第一原発のような状況だ。しかし、書かれていることに正当性がある以上は、心に覚えのある人は相当の覚悟で受け止めなくてはなるまい。抜身の刃を懐へ忍ばせる覚悟を持って、著者が本書に臨んでいる姿勢があちこちに垣間見えるからだ。そういう意味で、著書は最も落語の評論をするのに相応しい人物だ、とも言える。

演劇を批評する側の人間として言えば、プロの作家、演出家、俳優たちがお金を取って上演している「作品」に対して、好き嫌いだけの感情に頼ることなく、時に批判的な言辞をはっきり述べるのは相当の覚悟がいる。物を見る眼、が問われるからだ。役者が真剣勝負の舞台を演じているのであれば、こちらにも同様の覚悟がなければ、批評はできない。それ以上に必要なものは、「愛情」だ。人間は、悪口に対しては冗舌になれるものだ。しかし、批評家を標榜する以上、次回のためにプラスになる意見を述べてこそ、辛口の意味がある。

ジャンルを問わず批評家と名乗る人々の、必読の書だ。どのジャンルにおいても、健全な発展のためには健全な批評が必要、との著者の言葉は、分野は違えど批評家を標榜する私に更なる覚悟を求められる一言である。

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昭和のコメディアン、また一人旅立つ2011.03掲載

「コント55号」で一世を風靡した坂上二郎が、76歳で逝った。かねてより病気療養中で、今年の明治座公演も降板という状態だったので、「とうとうか…」との想いがあるのは事実だ。誰の人生でもそうだが、長く生きていれば、見送る人の数も多くなるのは当然だ。私自身、30数年芝居を観ていて、今までに何人の演劇人を見送ったことだろう。観客として、だけの場合もあり、個人的なお付き合いのある場合もあった。

坂上さんとの個人的な想い出は二つ三つあるが、それはここでは語るまい。あくまでも「役者」としての姿を留めておきたい。ゴルフのプレイ中に脳梗塞で倒れた後、療養につとめて平成18年3月、下北沢の小さな劇場で「富豪と、嘘と、のぞみ」というコメディで「完全復活宣言」をした。劇場には申し訳ないが、「坂上二郎」という看板が出るほどの大きな小屋ではない。その初日のことだった。やはり、療養はしても脳梗塞であり、科白が滑らかに出るとは言い難い状態の舞台だった。元より軽いコメディであり、観客も坂上二郎の復帰をお祝いに観に来ているという雰囲気の舞台で、アットホームな雰囲気が漂うという意味では小屋の大きさは適切だったと言えるのかも知れない。

カーテンコールで観客に拍手に包まれ、舞台に戻れたことの喜びをいささか高潮気味に語った後、共演者のおかげで何とか今日はできたこと、しかし、出来が思うようではなかったので、今日の観客にはちゃんとやれるようになったらもう一度来てほしい、などと笑わせていた。無事に初日の舞台を終えた安心感も手伝ってか、カーテンコールの「ご挨拶」というよりも、観客とのおしゃべり、のような色合いがあったが、満員の劇場は笑っていた。最後に頭を下げ、観客の拍手の中、登場人物が舞台から消えても、坂上二郎一人だけが、ニコニコと笑って、みんなを見つめていた。しばらくそんな状態が続いた後、共演者が袖から出て来て、「二郎さんがいつまでもそこにいたら、お客さんが帰れないでしょうに」と、無理に袖に引っ張り込んだ。笑い声が一際高くなり、観客が帰り仕度を始めた。この時に、「あぁ、本当に誠実な人なのだな」と感じた。思ったようにできなかったことなど、わざわざ言わなくとも、その日の観客は二郎さんが元気に舞台に復帰したことだけで満足していたはずだ。それを、自分から口に出し、お客さん一人一人に詫びるように照れ笑いをしていた。あの顔は、役者としての顔ではなく、「素」だったのだ、と思う。

私は「コント55号」の全盛期のテレビを観て育った世代だ。そこからの歩みを眺めてみると、役者としては不本意な時期もあっただろうし、人知れず悩んだ時期もあったはずだ。しかし、それらのすべてを照れ笑いの下に隠し、三枚目に徹し、コンビでは萩本欽一の女房役として見事な役割を果たした。「欽ちゃんあっての二郎さん、二郎さんあっての欽ちゃん」であったことは、今更私が言うまでもないだろう。昭和9年生まれ、76歳。昭和一ケタの最後の世代だけに、昭和がどんどん遠くなる気がする。

役者は死んでも名を残す。しかし、どの役者も芸だけは一緒に持って行ってしまう。それが哀しい。

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追悼・森繁久彌 2009.12.26掲載

 2009年11月10日、森繁久彌が96歳で長逝した。ここ数年間は、年齢や体調の問題もあり表立った芸能活動を控えていたが、昭和の一つの時代を築いた稀代の名優であったことは否定のしようがない。今の若い演劇ファンには馴染みのない役者かも知れないが、映画、テレビ、舞台、ラジオの他に、詩人、歌手など、多角的な煌めきを放った昭和を代表する役者である。

 マスコミ的な言い方をすれば、「一つの時代の終焉」、あるいは「巨星堕つ」という見出しになるのだろうが、極端な言い方をすれば、そのエネルギッシュな仕事ぶりは、まさに「怪物」と言ってもよいほどであった。

 森繁久彌という役者を語る際に、900回演じた「屋根の上のヴァイオリン弾き」をはずして語ることはできないだろう。日本中に大ブームを起こしたこの作品の評価は、今でも高いものがある。しかし、森繁久彌という役者を語るには、とてもそれだけではすまない。映画の「社長シリーズ」や「駅前シリーズ」で見せた喜劇人としての間の絶妙さも抜きにはできないし、抒情豊かな詩人としての才能も看過することはできない。30年ほど森繁久彌という役者の芝居を観て来たが、印象に残る芝居は、いくつもある。その中で、あまり話題にされることはないのだが、どうしても忘れ難い芝居がある。

 昭和52年1月の日生劇場公演。「ナポリの王様」という、イタリアの喜劇が上演された。主演の森繁久彌、山岡久乃、一の宮あつ子、井上順、横山通乃(当時の芸名は横山道代)などが顔を揃え、お正月にふさわしいコメディだった。そこで森繁が演じたペテン師とも言える胡散臭い、それでいてどこか温かみのある芝居が忘れられない。当時中学生だった私は、お年玉の中から、奮発して二等席を買い、日生劇場の片隅で大笑いしたことを今でも鮮明に覚えている。誤解を恐れずに言えば、「社長シリーズ」の映画や他の喜劇に見られる、「インチキ臭い」とも思える「間」が、森繁久彌という役者の本質的な評価と言えるのかも知れない。

 森繁がアドリブの名人で、それに困らされた共演者の数は多い。名は伏せるが、私も何人かの役者からその話を聴いた。本来であれば、台本に書かれていない科白を言うことは、作者に対して礼を失することになるし、芝居の「王道」ではないのかも知れない。しかし、即興で芝居の流れをそれることなく、絶妙のアドリブを入れることは、相当の腕がなくてはできないことでもある。私が想像するに、森繁のアドリブに対する感覚は、若かりし頃、新宿にあった「ムーラン・ルージュ」などで、当時は「軽演劇」と呼ばれていたコメディで容易には笑わぬ客を相手に舞台と客席が切り結んだ真剣勝負の中で生まれ、身についたものではなかったのだろうか。

 アドリブに格があるかどうかは知らないが、森繁のアドリブは、今のテレビでちんぴらタレントが口から出まかせのように言っているアドリブとは桁が違う。同じアドリブとは言え、横綱相撲にも匹敵するものだった。「アドリブに横綱も幕下もあるものか」と言うなかれ、ここに、「芸」というものの凄みがあるのだ。その辺りがわかっていないタレントだの役者がいくら騒いだところで、到底相手にはなるまい。

 これは森繁久彌に限ったことではないが、「名優」と呼ばれる人々は、少なからず修羅場を幾度も経験している。そうして観客に、あるいは演出家に鍛えられ、芸を身につけて来たのだ。金箔の厚みが違うのだ。だからこそ、名優と呼ばれる価値もあるというものだ。

 芝居を観はじめてから、一体何人の名優と別れて来たことだろう。生老病死は世の習いとは言え、訃報に接するたびに「また一人…」という寂寥感をぬぐい去ることはできない。十一月十日、小春日和に、森繁久彌はその芸のすべてを持って、旅立ってしまった。昭和という時代を象徴する役者の一人であったことは誰も否定できまい。その寂寥感は、時を経るに従って大きくなる。今となっては、その謦咳に接することのできた幸せと、舞台の上と観客席で共有した時間を懐かしみ、惜しむばかりとなってしまった。大きな感動を残して。

合掌

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芸術院会員と河原崎国太郎 2009.11.05掲載

 先ごろ、秋の叙勲の発表があり、芸能の世界の人びとでは、文化勲章の桂米朝、坂田藤十郎をはじめ何人かがその栄誉に輝いた。勲章や褒章とは制度を異にする中に、「芸術院会員」というものがある。上野公園の中にある「日本藝術院」の会員で、会員の互選により会員の補充が行われるシステムだが、芸能の道を歩く人びとにとっては栄誉なことだ。

 もう二十年以上も前のことだ。劇団「前進座」の五世河原崎国太郎と話をしていたら、ふと国太郎が真面目な顔で「芸術院会員になれないものかねぇ」と呟いた。私は一瞬、耳を疑った。左翼思想を持ち、かつては共産党へ集団入党した歴史を持つ前進座の役者は、当時は国が与える栄誉とは最も遠い位置にいたし、国太郎自身が、そうしたことを嫌う役者だったからだ。

 不思議に思った私は、「なぜ芸術院会員になりたいんです?お客様の拍手が一番の宝物、とつねづねおっしゃっているでしょう」と質問をした。その折の、国太郎の答えが奮っていた。

 「お前さん、知ってるかい?あれになるとね、国鉄のグリーン車の無料パスがもらえるんだよ。そのほかに年金もいただけるんだけど、あたしは劇団からお給金はいただいているから、国鉄のパスだけ、もらえないかねぇ」

 「なぜ、そんなにパスがほしいんですか」

 「ほら、うちの劇団は巡業が多いだろう。あたしは座の立場上、みんなでもってグリーン車に乗せてくれるけど、そのかかりだけだって大変なんだよ。あたしは、普通車でいいから、その国鉄のパスをくれれば、ずいぶん座も助かるだろう。だからほしいんだよ」

 まだJRではなく「国鉄」の時代である。当時は国会議員も同様の特権を持っていたはずだ。しかし、巡業で使うのに劇団に負担をかけたくないから、国鉄の無料パスがほしい、という半分冗談交じりの国太郎の話は微笑ましかった。

 こんなことを書いていたら、もう一人の人物を想い出した。直接のお付き合いはなかったので、直に聴いたわけではないが、彦六になって亡くなった噺家の林家正蔵の話だ。俗に「稲荷町の師匠」と呼ばれ、清貧の中に暮らしていた。私が知るのは晩年の高座だけだが、穏やかな顔をしていながらも若い頃はその正義感からか、ずいぶん喧嘩をしたらしい。あだ名の「とんがり」というのはそこから来たものだ。

 その正蔵が、寄席へ出る時に、「割安だから」と地下鉄の定期券を買った。定期券は期間内であれば何度でも乗り降りできる便利さだが、正蔵は寄席へ出かける時しか使わない。「それじゃもったいない」と注進した弟子に、「何を言ってるんだ、寄席からもらったお足で買ったもんだ、寄席へ仕事で出かける時以外に使えるものか」と言ったそうだ。そう言えば、正蔵も熱心な共産党支持者だったが、二人の精神のつながりはそこではない、と私は想う。

 国太郎と正蔵の微笑ましいエピソードをつないでいる一本の線、それは、「明治生まれの男の気骨」、である。

 成果など、簡単に出るものではない。

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新派復調に喜ぶ 2009.09.07掲載

 歌舞伎に対抗する演劇としてのジャンル・新派ができて121年。立派な古典芸能である。いつ頃からだろうか、同じ古典芸能である歌舞伎の驚異的なブームとは裏腹に、長期低落傾向が続き、観客の離脱に歯止めが利かなくなった。時期を特定するのは難しいが、私の記憶にある限りでは昭和54年に初代の水谷八重子が亡くなったのが大きなダメージだった。それから数えてももう30年の間、新派は「自分たちのするべき芝居」の模索に悩み続けていた。人気漫画「はいからさんが通る」を舞台化して若い観客の動員を図ってみたり、歌舞伎の人気役者や杉村春子、山田五十鈴といった大女優のゲストを仰ぎ、新派の名狂言に何度目かの命を吹き込もうと苦心惨憺して来たが、なかなか思うようには行かなかった。

 確かに、この時代に、いくら名作とは言え、泉鏡花の「婦系図」や「日本橋」ばかりでは観客の動員は難しいだろう。その一方で、先人たちが苦難の果てに残した珠玉の芝居を古くなったからと簡単に捨て去るわけにもゆかぬ。新派に関わる人々の多くは、新派の財産演目を活かすことと、今の時代の芝居との感覚の「ずれ」に悩んできたはずである。

 しかし、ここ数本の新派の舞台を観ていて感じるのは、そうした長い暗闇にかすかな光が見えてきたことだ。今月の新橋演舞場の橋田壽賀子作、石井ふく子演出の「おんなの家」。水谷八重子、波乃久里子に沢田雅美が加わっての三姉妹の物語だ。観客は実によく反応し、笑っている。実はこの作品、昭和49年から平成5年までの長きにわたって、TBSの東芝日曜劇場で放送され、好評を博したドラマが元になっている。杉村春子、山岡久乃、奈良岡朋子という三人の名優を三姉妹に充て、「花舎」という炉端焼き屋を舞台にした笑いあり涙ありのホームドラマで、当初の好評を受けてシリーズ化されたものだ。当時、とても楽しみに観た記憶は今も鮮烈である。しかし、これをそのままというのはどだい無理な話で、主役の三人のうち健在なのは奈良岡朋子一人になってしまった。また、当時の時代感覚と今の相違もあろう。とは言え、こうして評判の良かったものを、今の新派のメンバーに当てて書き直し、時代も多少ずらして演じる。今回はこの試みが見事に成功した。テレビで描かれていた三姉妹それぞれの性格が今回の八重子、久里子、沢田の三人にぴたりとはまったことも良かった。この芝居で、「おんなの家」という作品が蘇り、新たなる命を吹き込まれたのである。これは大いに喜ぶべきことだ。

 来年には有吉佐和子原作の「三婆」が同じく新橋演舞場で上演される予定である。こちらは、昭和48年に芸術座で新派の市川翠扇、劇団民藝の北林谷栄、東宝の一の宮あつ子で初演され、大好評を博した芝居だ。以来、配役を変えては繰り返し上演されてきたが、今度は新派のメンバーで演じる。これも多少の脚本の改訂は必要になるだろうが、商業演劇の名作が蘇ることに違いはない。考えてみれば、新派の「婦系図」にしても「日本橋」にしても、こうして配役を変え、連綿と受け継がれてきたものだ。今、こうして2,30年前の名作を掘り起こし、新しい酒を注ぐことによって、新派の今後の一つの方向性が見えてきた。もちろん、こうしたことばかりが新派の仕事ではあるまい。先人が遺した財産を、現代の観客が納得し、共感できるような形で上演する大きな使命は変わらない。しかし、今までの試行錯誤が観客の支持という一番ありがたい形で実り始めたことは喜んで良いと思う。

 三越劇場では「太夫さん」や「女将」などの新派の財産演目や、杉村春子の「女の一生」に挑戦するなど新しい試みで新派公演も根付いてきた。ここでいきなり新派がブームになるとは思えないし、そんなことになっても困る。ただ、何度も離合集散を繰り返し、幾多の危機に直面してきた新派が、ここ数十年の中で最大の危機をどうやら乗り切ったような感覚が見えた。これは、評論家としても観客としても非常に喜ばしいことである。とは言え、八重子や久里子の跡を追いかける女優の育成や、若手の男優の育成、脇役の充実など、課題はまだまだ多く、手放しで喜んでいるわけにはいかない。ただ、同じ荷物を背負っていても、先の見えない真っ暗闇を歩くのと、いくらかの光でもトンネルの出口が見え始めたのとでは大きく心象が違うだろう。このチャンスを、うまく活かしてほしいものだ。

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落語ブームのルール違反 2009.07.06掲載

 世を挙げての落語ブームである。古典芸能がこうして何十年かに一度のブームで今まで命脈を保ってきた、その底力は凄いものだ。こうしてブームが起きると、「迷人」が続出し、「毒演会」が盛んになる。しかし、玉石混交でなければブームなど起きないのだから、そこに目くじらを立てるつもりはない。自分の好みに合うのは誰か、は、観客が自分の眼と耳で判断すれば良いだけの話だ。

 ブームが起きると、便乗していろいろなものが商売になる。これも当然のことで、こうしたチャンスに、今まで眠っていた貴重なものが日の目を見る可能性もあり、市場が活性化するのは良いことだ。また、今まで落語に縁も興味もなかった人々が、わが国が誇る話芸に関心を持ってくれるツールが増えるのも悪い話ではない。しかし、歴史と見識を持った大きな出版社がそれに乗じて荒っぽい仕事をしてはいけないだろう。

 小学館が、CD付きのムック「昭和の落語名人 決定版」なるシリーズを発行している。タイトル通り、志ん生、文楽、円生をはじめとして、昭和の落語黄金期を創った噺家たちのCDが付いているのは、落語ファンには嬉しいことだ。しかし、その中の何席かの噺を聴いて、その出来の悪さにがっかりした。噺家が悪いのではない、収録されている噺の出来が悪いのだ。もしも、本人が生きていたら、絶対にCD化することなど許さなかったであろうほどにまずい。これは問題である。

 何が問題なのか。ちっとも夏の暑さを感じさせない「船徳」を聴き、「ああ、これが名人桂文楽の『船徳』か」と想い、噺がもたついてしまう林家正蔵(彦六)の「中村仲蔵」を聴き、「これがあの有名な『中村仲蔵』か」と想われることが問題なのだ。今はこの二人を例に挙げたが、油が乗り切っている頃の二人の同じ噺を聴くと、天と地ほども出来が違う。いかに名人上手と言え、その時々によって噺に出来不出来があるのは当たり前のことだ。その中で、「これぞ」というものを選りすぐって聴かせるのであればまだ納得もする。しかし、そうしたものの多くはすでに何らかの形で発売されている。その中で新機軸を打ち出そうとすれば「初出音源!」などと銘打って世に出すしか方法がないのだろう。

 考えてみれば、今まで商品化されなかったということは、その商品価値が決して満足のゆくものではない、という判断がどこかにあったからだ。それは「これは、あとに残す噺じゃありません」という噺家の矜持だろう。名人であればあるほど自分の芸には厳しく、ハードルは高い。そのルールを無視して、むやみやたらに「これが名人の落語です」という売り方をされたのでは、お墓の中で苦情が言えない本人たちが気の毒である。「俺の芸はあんなものじゃない!」と切歯扼腕している噺家が何人もいることだろう。もちろん、出版社側は遺族や関係者を通じて権利関係は処理しているだろうが、そこには本人の意思はない。

 有名な作家が没後、「未発表の原稿発見!」というニュースとともに、それが出版されることがある。しかし、未発表だった理由の中には、本人がその作品を世に問うことを潔しとせずに「没」にした原稿も数多いはずだ。いかに高名な作家であれ、没原稿がないわけはない。それを捨てずにたまたま残っていたものが「幻の名作!」と売りに出されるようなものだ。どこの世界に没原稿を売りに出されて喜ぶ作家がいるものか。

 せっかく落語のブームが起きている。落語の世界に住む人々の魅力の一つは、おっちょこちょいや間抜けはたくさんいても、根っからの悪人は出て来ないことだ。その落語を扱う人々が落語のイメージを汚してしまっては何にもならないだろう。小学館とて商売だ、道楽で本を出しているわけではない。しかし、売れれば何でもいい、という同業他社の姿勢が、日本の出版や文化を駄目にしてきた一つの要因であることを、そろそろ認める時期ではないのだろうか。

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