日本の芸能と文化



氷河期来る

 いつも人の芸をあれこれと語っていても仕方がないので、たまには自分の芝居に関する考えを語ることにしよう。ふとしたことから芝居の世界に関わりを持ち、気が付いたら三十年以上も劇場通いをしている。その間に演劇界は大きく変貌し、それを取り巻く世間も変わった。そして今、とうとう近来にない氷河期に突入した。昨今の芝居の質の低下は目に余るものがあり、このままの状態が続けば、劇場には閑古鳥が鳴き、役者の仕事はなくなり、芝居の数も減る。観客は、もう「面白い芝居」をチョイスする余地もなくなる。一見すると活況を呈しているかのよう見える演劇界だが、見方によってはまさに「崖っぷち」にいるのだ。その兆候は、いろいろなところに現われている。順次語って行こう。

1.入る芝居と入らない芝居の二極分化

 タイトル通り、入る芝居は、黙っていてもチケットの奪い合いになる。「質」はともかく、もだ。テレビで名の売れたスターを集め、知名度の高い作品を、高名な演出家での看板で見せる。こういう芝居は、当たる。観客が、芝居そのものよりも「生の誰々」の姿を観に行きたいからだ。同じようなことをしていても、こける場合もある。その差は非常に微妙で、劇場の場所や顔ぶれの一人だったりする。入らない芝居は、いくら有名人を並べても入らない。そこには、プロデューサーのセンスの問題があるからだ。

 ここ数年、この二極分化が特に激しくなった。芝居も商売である以上、儲けなくてはならないという大前提がある。それは興行会社の企業論理としてごく当然の話だ。しかし、その一方で、「時代の文化」を創る仕事でもあることを忘れてはならない。このバランスを欠いた状態が続いたために、演劇界が氷河期に突入したのだ。「質」よりも「利益」を追求することにだけ腐心したために、観客も騙されることが少なくなってきたのである。

 芝居は娯楽としては非常に贅沢な遊びだ。1枚10000円を超えるチケットはざらにある。安いバスツアーなら温泉にも行ける金額だ。芝居を観に行くために、自宅ないしは会社から劇場へ足を運び、どこかのタイミングで一度は食事をしなくてはならない。時間的にも金銭的にも大変な遊びだ。10000円のチケットは、時給1000円のアルバイト10時間分の賃金だ。一日とちょっとのアルバイト代が芝居一本で飛んでいく。それが、12000円払っても良かった、と思えるものであればまだしも、「これで10000円!?」という芝居も決して少なくはない。いくら日本の消費者がおとなしくても、これでは劇場へ足を運ぶ人が少なくなるのも当然だ。生身の人間を劇場へ引っ張り出すのは並大抵の仕事ではない。

 「観客が入る芝居」=「良い芝居」であるかどうかというと、この公式は必ずしも成り立たない。いくら観客が入っても、「これは?」と思うものもあるし、ガラガラでもいい芝居はある。そこの見極めをするのは観客であり批評家なのだが、その声が正しく届いているのかどうか、はなはだ疑わしいものがある。

 怖いのは、観客が入ったことによって、その芝居の評価が高いものだと勘違いをする興行サイドである。また、華やかな顔ぶれや話題に眼を奪われて、ついチケットに群がる観客の心理である。今はインターネットの先行予約などのシステムが当たり前になっており、芝居の内容もろくにわからないうちにチケットを買うケースが非常に多い。新作の場合などは、実はチケットが発売された時点でまだ脚本が出来ていない、などというのはざらにある。これがプロのする仕事と言えるのだろうか。もっとも、こんなことまでは一般の観客にはわからない。それをいいことに、こうした悪癖がまかり通っているのである。

 エンタテインメントとのしての質はともかくも、観客が入ればそれが実績になり、発言権が大きくなる。これはそこの世界でも同じことだ。しかし、それが悪循環を招いているのだ。

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2.腐った豆腐

 今、食品に関して賞味期限などの問題が過敏なまでにやかましい時代である。昔はそんなものは消費者の味覚で判断をしたものだ。それはともかくも、我々が近所のスーパーで豆腐を買ったとしよう。それを家に持ち帰り、開封した時に嫌な匂いがしたりおかしな味がすれば、スーパーへ返品や交換を求めるのは当然の行為だ。しかし、同じ理屈で考えた時に、観た芝居がつまらなくても、誰も「金を返せ」とは言わない。外交に始まり、日本人のおとなしさにはあきれ返るほどだが、これでは完全になめられていると言われても仕方があるまい。豆腐ならば一丁100円程度だが、芝居は先に書いたように10000円もするものはざらにある。それを時間をかけて観に出かけ、結果が面白くなくとも、何も言わずに黙って帰ってくる。それでいいのだろうか? 本当のところを言えば、我々評論家が書くよりも、普通の演劇ファンが「つまらない」と大声を上げてくれた方が、場合によっては効果があるものなのだ。

 先日、蜷川幸雄演出の「さらば、わが愛覇王別姫」を観た。東山紀之が京劇の女形に扮することでも話題を集めたが、あのレスリー・チャンが演じた世界がどこをどうしたらあんな芝居になってしまうのか、まったく訳がわからなかった。もはや、「天下の蜷川幸雄」に対して真っ向から物を言える人が劇界にはいないのだろう。私が以前中日新聞に書いた時もただ黙殺されただけだった。それはともかくも、再演の作品でない限りは、観客は芝居の内容や出来不出来を知らずにチケットを買うことになる。その責任は、一体誰が取るのだろうか。

 日本の芝居は、アメリカなどと違っていくら評判が悪くても、即刻クローズになることはない。決められた興行期間は必ず上演する。千秋楽近くに貸切や団体が入っていることもあるのだろうが、総体的に興行サイドにシビアさが欠けるのである。興行はある意味では「博打」であり、幕を開けてみるまでは観客が入るかどうかはあくまでも「予想」の範囲である。前売りでは売れていなかった芝居が、初日を開けてみると意外に評判が良く、観客の口コミでどんどんチケットが売れて完売につながる、というケースも少なくはない。納得が行かないのは、上記のような理由があるにしても、決められた期間延々と芝居を続けていることである。簡単に言えば、そこには、興行師の良心がないからだ。「せっかくご予約を頂いている芝居ですが、幕を開けましたものの、お客様からお金を頂戴してごらんいただくようなものではございません」と言い切る勇気のある興行師はいまい。また、複雑に絡み合った今の演劇界のシステムが、良心を持った興行師を殺すように出来ている。仮に、の話だが、自分の首を賭けるつもりでそういう行為を取ったプロデューサーがいたとしよう。その時に、「自分も悪かった」と反省するのならともかくも、「一ヶ月のスケジュールを空けたのにこんなことになり、どうしてくれる。うちのタレントの評判が落ちるではないか。賠償金を出せ」と言いかねない事務所があるのだ。それでは、心の中でお客様に謝りつつも芝居を続けるしかあるまい。

 「お前はどうなんだ」と言われかねないが、またこういう芝居をマスコミが弁護する。新聞の劇評をまともな劇評と捉えるかどうかはともかくも、いい加減な宣伝記事を書き、少しでも観客動員に協力をする書き手がいる。「物言えば唇寒し」とはこのことだ。

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3.迷走する劇場たち

 東京には、キャパシティが30人程度の劇場から、2000人を超えるコマ劇場のような大劇場まで、「劇場」と呼ばれる空間が幾つあるのか正確にはわからないほどだ。一応、小劇場、中劇場、大劇場と便宜的な区分はあっても、明確な定義があるわけではない。もっとも、小劇場や中劇場と呼ばれるところの多くは貸し劇場としての公演が多く、あまり劇場での自主制作はしない。たとえば、歌舞伎座や新橋演舞場と言った松竹系の大劇場や、帝国劇場、東京宝塚劇場などの東宝系の大劇場、独立の明治座などが自主制作公演で興行を行う。しかし、こうした大劇場が「迷走」状態もはなはだしい。劇場としての「コンセプト」が何もなく、場当たり的にその月をしのぐことができればそれでよし、というスタイルにしか見えないのである。

 たとえば帝国劇場。年間12ヶ月の公演のうち、日本の芝居がかかるのはたったの2ヶ月である。後はジャニーズ事務所公演への貸し公演と、相も変わらぬ東宝ミュージカルのロングラン公演だ。個別に考えていけば、どの公演にもそれなりの理屈はつくし、評価できるものもある。しかし、年間のラインアップを通してみた時に、「これが天下の帝国劇場か」と慨嘆したくなるような内容である。これを素晴らしいことだと心の底から東宝が考えており、観客も何の疑問もないのであれば、私の考えがおかしい、ということになる。しかし、「儲かりさえすれば何でもいい」時代は、もう終わっていることに、興行会社が気づき、襟を正してこの問題に真正面から向き合わない限り、解決の端緒にはならないのだ。今の東宝にとっては、「確実に客が動員できる」対象がミュージカルである、というだけに過ぎず、観客がこの繰り返しに飽きた時にどうすれば良いのか、また、他の芝居をどう「育てていくのか」というビジョンがあるようには見えない。今ここであえてかっこつきで書いたのだが、興行会社には「育てる」義務があるのだ。芝居を打って儲けるだけではない。それと同時に、観客を、役者を、スタッフを、芝居を育てる義務がある。これは、東宝の創立者である小林一三も松竹の創業者である大谷竹次郎、白井松次郎も、大阪新歌舞伎座を創った松尾国三も、明治座のオーナーだった三田政吉も、興行師として名を成した人物はみながしてきたことだ。「今は時代が違う」とは言わせない。こうした大きな流れのもとに、日本の演劇という土壌が育成されてきた。これは、一般の観客に結果としてその責任が及ぶ以上、興行会社に課された重要な責務なのだ。どこも、これを忘れて眼の前の興行だけに眼を血走らせているから、迷走するのだ。

 かつて国民的歌手だった三波春夫は、「お客様は神様です」とステージで常に言っていた。この言葉を、揶揄の象徴のように使う人がいるが、これはけだし名言である。お金を払って足を運んでくれるお客様のおかげで、スターが存在することができるのだ。今は、プロデューサーに神様がいたり、演出家が神様だったり、役者が神様になったりしているばかりで、肝心のお客様はいつも置いてきぼりを食らっているような状況だ。これでは、劇場に閑古鳥が鳴くのも無理はあるまい。そういう状況を自ら招いているのは劇場自身なのだ。制作サイドが、自信を持って12000円の正札をつけることができ、身銭を切ってでも観たいと思う芝居を作っているかどうか、問題はここにあるのだ。

 迷走しているのは何も東宝ばかりではない。松竹とて同じことだ。歌舞伎や新派の「伝統芸能」を一手に抱えている松竹の問題はまた別の面で傷が深い。

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4.伝統にあぐらをかく人々

 明治半ばまで、「芝居」と言えば歌舞伎しかなかった。そこに、新しく登場し、一世を風靡したのが新派だ。ここで演劇史の勉強をするつもりはないのでここまでにしておくが、以来、女性の観客を中心に人気を集め、今年で創立120年を迎える立派な古典芸能である。独自の女形芸で喜多村緑郎や花柳章太郎などの名優を生んだほか、初代水谷八重子が新派における女優の芸を確立し、それが現在の二代目水谷八重子や波乃久里子に受け継がれている。と言えば聞こえはいいが、素晴らしい日本人の情感を豊かに持っている芝居なのに、その長期低落傾向は一向に歯止めがかからず、120年記念で解散、と聞いても演劇界で驚く人はいないだろう。

 その理由は、以前中日新聞にも書いたが、いつも同じような芝居ばかりを演じ、偉大なる先人たちの築いた遺産を食い潰しているばかりで、何も工夫がないからだ。歌舞伎の旧弊さに対し、それを打破して新しい芝居を創ろう、と産声を上げたはずの新派が、いまや歌舞伎よりも旧態依然とした体のまま、脳死状態になっている。歌舞伎はもともとが「反体制」の芸能と言ってもよく、危機を敏感に察知し、時の権力の圧制を逃れながら四百年も生きているしたたかな芸能である。批判を受けようが何であろうが、常に片方の眼では「時代」を意識し、観客と共に歩こうという姿勢がある。もちろん、歌舞伎とて多くの問題を抱えている。一見厚そうに見える役者の層が、歌舞伎の興行が増えたために手薄になっていること、脇役の払底、演目の選定や義太夫の衰退など、問題は多い。しかし、まだそういう意識を持っているだけ救いがある。

一方の新派は、そういう意味では両目が潰れているに等しい。いくら、考えを変えよ、と叫んでも一向に改める気配がないところを見ると、もはや耳も聞こえないのかも知れない。新派の芝居で育った私が、こんな原稿を書かねばならないのは痛切な想いである。しかし、芸者を三十人舞台にずらりと一糸乱れずに舞台に並べることのできる劇団が他にあろうか。それだけの伝統と力を持ちながら、勉強を怠ってきたから悔しいし、怒りもひとしおなのだ。かつての新国劇のように、散々手を尽くした挙句、刀折れ、矢が尽きての敗戦であればまだ同情の涙もこぼそう。しかし、こちらは道楽息子が親の遺産を使い果たして破産寸前になっているようなものだ。そのツケは、ここまできたら自分たちで取るしかあるまい。それが、他に例のない豊かな一つの文化の灯を消すことだ、という大きな罪悪感と共に、血の涙を流すことだ。

一旦解体し、心ある新派の役者だけが「ネオ新派」でも「ニュー新派」でも作れば良いのだ。元々が、新派の歴史とて離合集散の繰り返しだ。今それをやって悪い理由はどこにもない。それができないのは、役人が大好きな「既得権益」とも言うべき伝統の上にあぐらをかいているからである。新派の作家でもあった久保田万太郎の作品の魅力に魅せられ、年に一回ジャンルを超えた役者たちが集まってコツコツと手打ちのような芝居を続けてきた「みつわ会」がその努力に対して立派な賞を受けた。それを観て、新派のプロデューサーや役者は何を感じたのだろうか。いや、これは愚問であった。何かを感じていれば、行動に移すのが正常な行為である。何も感じていないのだろう。そう断じられても文句は言えまい。

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5.巨大な倉庫

役人が無駄遣いの名人であることは私が説明するまでもなく、毎日のニュースで嫌と言うほど聞かせてもらっている。千代田区隼町。皇居のまん前、都心でも一等地である。下世話な話だが、一坪いかほどであろうか。3000万円として、我々が一生爪に灯をともすような想いでお金を貯めて、やっと一坪の土地が買えるかどうか、である。こんな場所に、巨大な倉庫があるのをご存じだろうか。その名を「国立劇場」という。正式には大劇場、小劇場、演芸場と三つの劇場ないしはホールがある。私が敬意を込めてこの巨大な劇場を「倉庫」と呼んだのは、立派な名前が付いているにも関わらず、自主公演が年間七ヵ月、後は踊りの公演などの貸し劇場になっているからだ。七ヶ月の歌舞伎公演のうちの二ヶ月は、主に学生を対象とした「歌舞伎鑑賞教室」で、歌舞伎の普及に努めている。また、歌舞伎役者や文楽技芸員などの育成事業も盛んに行っており、公共事業でなくてはできない重要な事業は評価してよい。しかし、肝心の劇場公演がガラガラなのは大きな問題だ。国立劇場は今流行の「独立行政法人」で、昭和41年11月に開場した。当初は歌舞伎の「通し狂言や」や久しく上演されない「復活狂言」の上演を主な目的にしていたが、昨今はそうしたものばかりでもない。歌舞伎の三大名作と言われる「仮名手本忠臣蔵」や「菅原伝授手習鑑」や「義経千本櫻」をそれぞれ三ヶ月かけて通して上演するなど、画期的な成果も残している。

 その一方で、「百数十年ぶりの復活!」などと銘打って散々愚にもつかない芝居を上演してきた。そんなに長い間上演されないのは、それなりの理由があるわけで、面白ければそう間を置かずに繰り返し上演されることは誰でもわかる。しかし、ここが「国立劇場」たる所以で、面白かろうがつまらなかろうが、「復活上演する」ことに意味があるのであって、「復活した」という事実さえ残せば、観客が寝ていようが何であろうが関係はない。ずいぶん乱暴な話もあったものだ。

 次世代の歌舞伎の観客を育てるための「歌舞伎鑑賞教室」もずいぶん長いこと行われており、二ヶ月にわたって各地から中学・高校生が集まる。親切なのは、最初に30分ほど、若手の歌舞伎役者が「歌舞伎の観方」のような話をいろいろな工夫で話し、見せる。その後、そう難しくはない歌舞伎を上演するのだが、突然歌舞伎を見せに「強制連行」された生徒たちのかまびすしさは大変なものだ。しかし、それも歌舞伎が始まって二十分もしないうちに、物の見事に静かになる。みな気持ちよさそうに眠っている。幕開き前に「騒ぐな!」と叱っていた先生が、腕組みをし、大口を開いて心地よさそうに日ごろの疲れを癒している風景などは微笑ましささえ感じる。他の歌舞伎に比べて料金は遥かに安いが、劇場でほとんどの人間が爆睡しているような公演に何か疑問を感じないのだろうか。「鑑賞教室」が悪いというつもりはない。対策を講じるなり、新しい方法を模索してはどうか、というアドバイスである。これでは役者もやる気をなくすだろうに。

 こうして、何の反省もないままに(多少の反省はしたかも知れないが、改善はない)、毎年のように同じ状態が続いている。歌舞伎座は連日売れ切れが続いていても、国立劇場でそんな公演はまさに数えるほどしかない。一つ、国立劇場に同情の余地があるとすれば、歌舞伎役者のほとんどの籍が松竹にあり、松竹から役者を「借りている」立場にあることだ。しかし、劇場が出来て40年以上も経ち、研修所出身の役者から名題(幹部)俳優まで出している実績を持っているのだから、極端な話をすれば国立劇場で自前の歌舞伎役者を持っていても悪くはあるまい。そういう、外に見える努力をして失敗したのならばまだ許せもするが、皇居前の一等地で劇場に閑古鳥の巣を作っているようでは、「倉庫」と言われても仕方があるまい。見かけはスケジュールが埋まっていても、貸し劇場にするために国立の劇場を作ったはずはないのだから。

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6.小劇場芝居の是と非

 大劇場演劇ばかりを演じていても他の芝居の観客に申し訳ないので、少し趣を変えて小劇場の話をしよう。一体いくつの小劇団があるのか、正確な数字は誰にもわからないのではないだろうか。それはそれでいい。数字を把握することが目的ではない。問題なのは、玉石混交の中で「石」が圧倒的に多いがために、一部で「小劇場はダメ」という、論拠にならない批判が起きることだ。私は、「良い小劇場芝居」の見分け方を自分なりの判断基準で見ている。まず、サークル感覚の劇団ではないこと。お金を取って見せていても、こういう劇団は非常に多い。これが、小劇場の芝居の発展に水を差す一因にもなっているのではないか、と思う。良い小劇場芝居は、きちんとしたリーダーが、ある方向性を持っており、それを劇団員が強制されるのではなく納得していることだ。こういうところは、何かをきっかけに、大きな舞台へ躍り出るチャンスを持っていると私は考える。もっとも、そのすべてがそうだ、と言うわけではない。脚光を浴びるのはその中の数%という数字だろう。

 たとえリーダーがいても、劇団の方向性や志向が変わり、劇団が分裂を起こし、また新たな劇団が、という動きが多いのも小劇場芝居の特性である。私は、これを「るつぼの中で渦巻く情熱」と感じ、むしろ肯定的である。日本の近代劇、いわゆる「新劇」の劇団とて離合集散の繰り返しを経てこんにちまで来たのだ。小劇場芝居を構成している若い人々たちが、小さなところで納まりきってしまうようではむしろ困る。そこで摩擦を起こし、爆発し、燃えることは大いに結構だ。ただし、それが発展につながるのであれば、という注釈付きではあるが。中には小劇場芝居のまま固まってしまい、行き詰ってしまうところも多い。芝居に対する情熱の枯渇と我慢の限界、であろうか。

 現在、演劇界で大きな人気を誇り、注目を集めている役者にも小劇場芝居出身者は多い。そういう人々が、他の育ち方をしてきた役者たちとは別に存在し、個性を発揮するのは大いに結構なことだ。

 ただ、一番困るのは、小劇場芝居にプロ意識が欠如しているケースが非常に多いことだ。劇団を立ち上げたばかりの頃は友人知人を呼び集め、芝居を見せるから仕方があるまい。しかし、それとていくらかの入場料を払って来てくれるのだ。この意識レベルで止まってしまうと、そこから先の成長はない。たとえ1000円であろうが入場料を取る以上、1200円程度の芝居を見せなくてはならない、というのは有名無名、劇場の大小を問わず、役者を名乗るものの責任だ。それが、身内や友人に囲まれて「良かったよ」「がんばってね」と言われていい気持ちになっているだけでは、それで終わりだ。ここに、小劇場芝居のアキレス腱がある。

 もっとも、プロ意識という点で言えば、大劇場演劇とて最近はその欠如たるや眼を覆いたくなるばかりである。非常にシンプルな図式で言えば、「名優」と呼ばれる人々はただ何となく名優になったのではなく、人の見えないところで努力を重ね、勉強をし、徹底的な自己管理を行った結果なのだ。優れたプロスポーツ選手と同じ理屈である。芝居というものが、自分の肉体で表現するものである以上、その肉体と精神をいかに高いモチベーションに置いておけるか、それがプロ意識だ。大劇場の芝居で、初日が開いて何日も経つのにまだ科白が満足に覚えられずにプロンプターに頼っている役者もいる。演出とは名ばかりで、稽古場にろくに顔を見せずにほとんどを演出補や助手に任せてしまう人もいる。小劇場芝居には「熱意」があるだけ良いのかも知れぬが、それが空回りすると自己満足で終わる。この辺りのせめぎあいが難しいのだ。

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7.プロデューサーという職業

 大まかにその職分を理解してはいても、本来定義づけられるプロデューサーの役割はなかなか理解しにくいものがある。本来であれば、上演演目の選定に始まり、脚本家が必要であればその選任、キャスティング、演出家の依頼などなど、野球で言えば総監督である。その大枠を決めて後は宣伝や制作といった担当に仕事を振り分ける。しかし、その興行の全責任を負うべき立場はプロデューサーである。くだらないトレンディドラマに出てくるようなチャラチャラした人間に勤まるようなものではない。役者の我がままに振り回されたりせずに、全権限を持っているプロデューサーの存在は必要だ。しかし、このプロデューサーという人々、かなり危ない状態にいる人が多いのも確かなのだ。

 一番問題なのは、「勉強をしていない」ことだ。「忙しいので」などという言い訳を聞く耳は持たない。忙しいのが嫌で、芝居に忙殺されたくなければ辞めればいいだけのことだ。プロデューサーの勉強とは、一言で言えば「芝居を知る」ことだ。そして、その上に立って、目先のプラスマイナスだけにとらわれるのではなく、日本の今後の演劇のあり方を敷衍して考えられるような人材こそ、一流のプロデューサーであろう。出番が多い少ないの、に始まり、横車を押してくるような役者や事務所、演出をしているんだかしていないんだかわからないような演出家に対し、はっきり物を言うには、それだけ芝居のことがわかっていなくてはならない。大物に対して「それは違います」と言えるだけの見識があるかどうか、だ。それがないから、すべて「お任せします」という状態になる。お任せされた方は自分がやりやすいようにやるに決まっている。その時点で、「観客」という言葉や意識はプロデューサーの頭の中からは欠落している。「やれやれ、揉め事に巻き込まれずにすんだ」という程度かも知れない。

ある意味では、作家の原稿の最初の読者が編集者であるように、観客を代表した「眼」も持っていなくてはなるまい。その上で、興行として成り立つかどうかの判断力を求められる。どちらの側に迎合してもいけないのだ。「そんな綺麗事を言われても」と言われるだろうが、決して綺麗事ではない。その狭間に立って、調整をはかり、落としどころを見つけるには知識もいれば信用も必要なのだ。その中で、力になびかず押しつぶされない「見識」を持っていなくてはならない。こんな大変な仕事はない。洋文字の看板にだまされてはいけない。

 昨今の舞台を観ていると、「ありもの」が余りにも多い。漫画が原作のもの、名作の目先を変えたもの、それを配役の華やかさでごまかそうとしているケースが多々見える。それも一つの方法であり、漫画を原作にするのが悪いとは言わない。かつて一世を風靡した「ベルサイユのばら」は漫画が原作であり、他にも評価すべき舞台はある。しかし、そういうすでに評価の得られたものだけに頼ってしまい、新たな作家の育成や脚本を読む努力をしないプロデューサーが多いのも事実なのだ。人を育てることは簡単なことではない。それは承知の上だ。しかし、それをしていかなくては、発展はないのだ。だから、「泥臭い」仕事だ、と言うのだ。その泥臭い部分をはずして当たり障りのないことばかりをしていると、自分の咀嚼能力が衰えるばかりではなく、観客の鑑賞眼を低下させる原因にもなる。低いレベルのもので観客が満足してしまえば、役者はそれ以上の努力はしない。完全な負の連鎖がここで出来上がる。これが一番怖いのだ。

 興行の規模にもよるが、億単位のお金がかかった興行の成否を決めるのはプロデューサーの見識である。今は昔の話になるが、観客も金を払って芝居を観る以上は、厳しい見巧者もいた。かつて、私は歌舞伎座の三階席から、ある役者に「大根!」という声がかかったのを聴いたことがある。今、こういうことをしたら客席からつまみ出されるのか、客席がしらけるのかはわからないが、観客が役者を育て、役者が観客を育てるような芝居を創るのもプロデューサーの役目でもある。「娯楽で芝居を観に出かけるのに、何もそこまでの想いはしなくてもいい」「たまにのことだから、楽しければそれでいいのだ」という意見ももっともだ。しかし、そのレベルが明らかに下がっていることは否定のしようがないのだ。

もっとも、これにはいくつもの要素が絡み合っており、一方的にプロデューサーばかりを断罪することはできない。どうでもいいような、時間潰しにもならない番組を延々と放送し、その毒に脳髄を侵されてしまった観客は気の毒なものだ。もっとも、ここでテレビ論を論じている暇はないし、私はその任ではないが、テレビの堕落は誰しもが少なからず感じていることだろう。良く言えば娯楽の多様化、悪く言えば多様化による個々の質の低下が複合的に絡み合って、舞台の質の低下につながっているのだ。ここで一番、命がけで芝居の世界を立て直そうというプロデューサーがほしいものだ。

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8.名優は一日にしてならず

 良く言えば「旬」、悪く言えば「売れている時だけの使い捨て」がもはや芸能界の常識になった。最初からそれを納得していればまだしも、一瞬の儲けのためにこれを繰り返しているから、人材が育たない。誰でも初舞台から名演ができないのと同じことで、舞台で高い評価を得て、あちこちからのオファーが途切れないような役者になるには相当の時間と努力が必要なのだ。しかし、希望者や代わりはいくらでもいるから、という発想で、一回使ってみてダメなら終わり。また、使い捨てにされた方も「なにくそ、この次こそは」という覇気などさらさらないから、バラエティでも何でもとりあえず暮らしていければいい、という話になる。また、その逆もありで、テレビで少し売れたから次は舞台へ進出、などと気軽に舞台へ上がって来る。それなりの覚悟があれば構わないが、舞台をなめては舞台人に失礼だし、観客は気の毒だ。第一、ついこの間までテレビで騒いでいた若者が舞台に出るからと言って、それに大枚をはたいて劇場へ足を運ぶほど観客は優しくはない。

 先ほど、プロデューサーが勉強しない、ということを書いたが、ご同様ないしはそれ以上に役者も勉強しない。大劇場の芝居では、自分の出番が終わると芝居を最後まで観ることをせずに、さっさと飲みに行ってしまう輩がいる。劇場にいる時間が長くても残業代がつかない、と考えてでもいるのだろうか。毎日微妙に変わる芝居全体を把握する努力もしないで、自分の場面だけでお茶を濁していて、芝居が巧くなるわけがない。それでよしと思っている本人も、それを許している事務所にもプロとしての緊張感が欠如しているのだ。常識があれば、「先輩たちの舞台をこの機会にみっちり勉強して、次の機会に備えろ」というマネージャーがいていいはずだ。次に仕事のスケジュールが入っているのならともかく、まだ幕が閉まらないうちに劇場を後にするなど、言語道断も甚だしい。

 何がどんなに発達しようが、名優が即席では出来上がらないことだけは保障する。人が見ていないところで言うに言えない苦労をし、ただ芝居がうまくなることを目的に一歩ずつ歩いて来た「役者馬鹿」の芝居だからこそ、観客の胸をも打つのだ。こんな単純なことがわからない連中の何と多いことか。そういう人は舞台に出る必要はない。もっとも、役者全員が名優になってもこれはまた困るわけで、大根役者がいるからこそ名優の巧さも際立つのである。しかし、最近は大根まで成長しないうちにおろしてしまうから使い物にならなくなる。時代のサイクルが速くなっていることは誰にも否定のしようがない話で、その中で今までの三分の一のスピードで芝居がうまくなりたければ、人の三倍勉強すればいいだけのことなのだ。いたってシンプルな図式である。

 こういうことが苦にならずにできる人、いわば頭の配線が普通の人とは少し違っている人こそが名優の条件を持っているのだ。誰でも下手なよりは巧い方が良いに決まっている。あらかじめ結果を予測してしまい、努力を放擲するのは誉められたことではない。しかし、自分がどこまで芝居にのめりこむことができるかを、一度客観的に眺めてみる必要はあるだろう。それさえも出来ずに舞台に立っている人々の何と多いことよ。それはある意味では哀しいことでもあるのだ。それを教えてくれる人がいない。気づきもしない。そのままダラダラと坂を下って行くしかないのだ。気の毒と言えば気の毒ではある。

 一見華やかなスポットライトを浴び、人気の中心にいるように見せる役者という商売は、職業として考えればそう割りの合うものではない、と私は思う。本来であれば、一つひとつの作品で苦しみ、悩み、こつこつと自分の中の抽斗を増やしていく、手間のかかる気の遠くなるような仕事なのだ。そこに気がつくかどうか、気がついても実践できるかどうか、そこに名優になれるかどうかの岐路がある。

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9.買ってはいけない

 一時流行った本のタイトルではない。今のチケットの流通システムが非常に便利になった一方で、興行サイドは先行予約だの何だのと称して、前口上で煽りたて、とにかくチケットを売り切ってしまおうとする。そのサイクルが昔よりも速くなった。興行サイドにすれば、二ヶ月前に売り出しをかけ、一ヶ月間様子を見て、売れ行きが悪ければそこでCMを打つなどのてこ入れをする時間の余裕があるからだ。同時に、買う方にしてみても、「先行予約」「優先予約」で、同じ値段で少しでもいい席が手に入るのであれば、という心理で、「うっかり」買ってしまうケースが多々ある。それほど行きたいわけでもないんだけれど…という状態でも、そうやって煽られれば、慌てるのは人間の心理だ。そこに騙されて「買ってはいけない」のだ。じゃあ、いつ買えばいいんだ。幕が開き、知り合いの感想でも聞いて、自分が観たい、と思った時に観ればよいのだ。その時にはチケットがないような人気公演であれば、近いうちにテレビで放送するだろう。芝居に関わる仕事をしているのであればともかく、芝居一本見逃したところで人生が大きく変わるわけもない。それよりも、煽られない冷静な感覚を持つことが、社会生活ではよほど重要だ。

 他の品々と違って、芝居のチケットは一番返金に応じないグループに入っていると言っても良い。出演者が変更になろうが天災が起きようが、よほどのことでなければ返品には応じない。販売側としてこれほどまでに高姿勢な商品は他に類を見ないだろう。チケット売り場で「発券してしまうと、キャンセル・変更はできませんので」と呪文のように繰り返される言葉を聴いていると、何か不安を掻き立てられることがある。そういう時に限って、予感は的中する。恐ろしいことだ。

 これから日本の経済はさらに疲弊するだろう。そんな厳しい生活の中、お小遣いをやり繰りし、心のオアシスを求めて劇場へ通うのに、疲れるわつまらないわ、では明日への活力を一気に失ってしまう。活力だけではなく、チケット代金と交通費、場合によっては食事代まで失っているのだ。これでは目も当てられない。観客がそんな想いをしていても、平然とくだらない芝居を続ける人々がおり、その人のギャランティは保障されているのだ。これはおかしな話ではないか。私は興行師ではないが、芝居のギャラも出来高制にすれば、みんなが懸命にいい芝居にしようとするだろう。一ヶ月の公演が終わってしまえば、座組みも解散し、それですべてがリセットされてしまう仕組みにも問題があるのだ。失敗した場合にその原因を精査し、次への反省とするのはどんな仕事でも当たり前のことだ。それをしなくても許されてしまう状況があることはいけない。

 その一方で、今流行の「格差」で言えば、一所懸命にコツコツと地道な努力を重ねていても報われず、日の当たらない人が大勢いるのも問題だ。椅子取りゲームの椅子の数が限られているから、一旦椅子を手にした人は何があっても離さない。離さずにいるだけの力量を持っている人が座っている分には構わないが、そうではない人が多すぎる。ここも、観客不在なのだ。

 一度でもいい、観客が本当にシビアな眼で眺め、面白くない芝居は「不買運動」をすればよい。ガラガラな客席を眼にしたプロデューサーや役者たちには、それが一番効き目のある薬になるだろう。昔の興行師はさんざんそういう目に遭って来た。博打というと語感が悪くなるが、興行は水物である。失敗すれば当然大損をするわけで、誰もその保障はしてはくれない。そうならないために、自分が味わった惨めな想いを次に活かし、必死で考えたのだ。今は、良くも悪くも企業体としての保障があるため、早く言えばプロデューサーも「サラリーマン」に過ぎない。ボーナスの査定に多少の影響が出るぐらいで、自分の生活が即座に危うくなる、ということもなければ、芝居を打つために借金をする必要もない。そんな中、一匹狼で自分が「いい」と思う芝居を打つためだけに事務所を構え、自分でプロデュースをして芝居を打っているプロデューサーもいる。しかし、数から言えば圧倒的に少ないだろう。興行会社は、観客が損をしても、自分が損をしない仕組みはきちんとできているのだ。そのツケは、観客が払っている。国の公共事業と同じ仕組みだ。

 その赤字伝票を回されないためにも、「不買運動」をしても良いのだ。昨今の物価高で、毎日飲んでいる飲料水が10円上がっても大騒ぎになるし、その積み重ねは懐を直撃する。それなのに、12000円のチケットに対して文句の一つも言わないのは、余りにも鷹揚に過ぎはしないだろうか。

 物価の変動を考えても、私はもっと安い値段でもっと良質の芝居をたくさん観てきた。だから、今の演劇界が歯がゆくて仕方がない。みんな、やってできないわけはないのだ。やらずにいる、やらずにすませているだけなのだ。だから、正直者が馬鹿を見る。これは、いつの時代も同じことかも知れないが、優しさも時と場合によるものだ。

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10.いい芝居

 「いい芝居を」と馬鹿の一つ覚えのように叫んでいても、じゃあ具体的にはどういうものが「いい芝居」なのか。抽象的なことばかりを言っていても信用はされまい。

 私が考える「いい芝居」とは、単に「感動」という言葉にとどまるだけではなく、「人の心を動かす芝居」「訴えるものに過不足のない芝居」だ。最近は、テーマがないのではないか、と思う芝居も多い。通常、芝居は「人を愛する喜び」だの「戦争はいけない」だの、根幹になるべきテーマがあり、それを元に肉付けがなされる。しかし、「何が言いたいのだかさっぱりわからぬ」ままに芝居が進行し、それで終わるものや、言いたいことを散々見せられ聞かされた上で、延々と続くものもある。「過不足」とはこのことだ。

 心が動かされるツボは観客により違うだろう。それは当然である。参考までに、私が今年9月の初旬までに観た芝居の中で、「いい」あるいは「悪くない」と思ったものを以下に挙げておく。

 ・「春興鏡獅子」(二月・歌舞伎座)

 ・「ある結婚の風景」(三月・ベニサン・ピット)

 ・「浅草物語」(三月・東京芸術劇場)

 ・「ラムネ」(三月・歌舞伎町FACE)

 ・「天切り松闇がたり」(四月・アトリエフォンテーヌ)

 ・「第17捕虜収容所」(五月・東京グローブ座)

 ・「レンド・ミー・ア・テナー」(六月・本多劇場)

 ・「死の舞踏」(七月・ステージ円)

 ・「ウーマン・イン・ブラック」(八月・パルコ劇場)

 ・「人形の家」(九月・シアターコクーン)。

1000人を超える規模の劇場から、100人未満の劇場もある。今列挙した芝居も、それぞれが「完璧」というわけではない。しかし、どこかに「心を動かされるもの」があった。それは作品本体であったり、演出の手法であったり、役者の演技であったり、さまざまだ。どんな事象においても、100%ということはないだろうから、それぞれに瑕疵がないとは言えない。完璧なる舞台を求めたい気持ちはあるが、生身の人間が演じ、生身の人間が観るのだ。その時点で、100%はないだろう。それでも、ここに名を挙げた芝居は私の中では「合格点」がつけられる芝居だ。

 一本ずつの内容を事細かに説明している余裕はないが、いずれの芝居も幕が降りた時、あるいは劇場からの帰り道に、今観た芝居に想いをいたすことがあったものだ。とは言え、これはかなり「甘め」の評価である。「あそこが」「ここが」と細かなことをあげつらえば、数はもっと減る。批評家の職分は、「ほめる」「けなす」だけではない。クオリティを上げるためには何が必要なのか、それを客観的な眼で評価し、提言することなのだ。その時点において、いかに公平な視線を保つことができるのか。これが、最も難しい批評家の心構えである。

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11.チケット代の格差

 「格差社会」という言葉が流行語になっている。決して好ましい言葉ではない。しかし、芝居のチケット代にも大きな「格差」が存在している。それが、クオリティにあった格差であればまだ問題にもならないのだが、「これで○○○○円!」という内容の芝居が多いのは事実だ。

 素朴な疑問である。「なぜ、芝居のチケットは高いのだろうか?」

 と書きかけていたら、劇団四季がこの不況の折にチケット代金を下げる、というニュースが聞こえてきた。「劇場はそう簡単に足を運べる金額ではない。だからこそこの厳しい時期に値下げをして、気軽に足を運んでいただきたい」という主旨のものである。値下げ額の合計は全入場料の5%相当の金額になると言う。劇団四季の場合、席のクラスが細分化されているために、値下げにならない席もあるが、消費税分だけでも値下げされるのは芝居ファンにとっては嬉しい話だ。

浅利慶太の四季の運営方法に関しては賛否両論がある。しかし、経営者の眼で今回の決断を出したのは、今持ちうる限りの情報で判断する限り「英断」だと言ってよいだろう。当然、その5%のしわ寄せが劇団四季に所属しているスタッフに跳ね返るであろうし、その分の営業努力も必要になる。しかし、「儲けるところは儲けておいて、赤字が出てもやりたい芝居、やるべき芝居はやる」という、興行師としての姿勢はうかがえる。誤解のないように申し上げるが、どの芝居が黒字でどの芝居が赤字だか私は知らない。私が言いたいのは、本来の興行師の姿勢は上に述べたようなものではないか、ということだ。

最初から赤字を出そうと考えて芝居をする人はいない。となれば、ビジネスである。ビジネスである以上、そのクオリティとプライスが一致してはじめて顧客の満足を得られる。形のある品物であれば、場合によっては返品もきくが、芝居の場合は観てしまった後に「つまらなかったのでお金を返せ」という話にはなりにくい。そういう意味では、どの芝居も一発勝負であり、幕を開けてみなくてはわからないのだ。いくらいい芝居でも入らないものは入らないし、「なぜこの芝居が…」と思うようなものに観客が殺到したりもする。

私は前から、もう大劇場演劇は崩壊しつつあり、その病状がかなり重いということを折あるごとに書いてきたが、今回の劇団四季の「英断」により、多くの劇場が影響を受けるだろう。それで良いのだ。この影響により、劇場の経営者やプロデューサーが本気になり、自分の劇場の芝居のチケット代金が適正価格であるかどうかを客観的に判断すればいい。この景気低迷の時期を乗り切るのに、「価格」を無視して考えるわけにはいくまい。

極端な話をすれば、劇場が潰れても、演劇は潰れない。いざとなれば、江戸の昔に戻って大道で芸を披露すれば良いだけのことだ。そこまでの覚悟が演劇界全体にあるかどうか。劇場が潰れてしまえば、批評家などいらない。そういう末までを見据えて、みんなが腹を据える時期が今の演劇界なのだ。定員が1000人を超える劇場と80人の劇場では経営方針も違えば、一回の公演で扱う金額も桁が違う。そういうものをいっしょくたにして大同団結せよ、とまでは言わないが、この危機を乗り切るために、「考える」ということは必要だ。思索を重ねなくては、新しいものは産まれては来ない。今人気のある人に頼っていたり、その場しのぎで興行を続けているだけでは、生き残れない時代なのだ。チケット代金の中には多くの要素が含まれている。その中身を再度吟味し、次の時代の演劇を考えるには、今の不景気はある意味ではチャンスなのかも知れない。

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12.演劇界の良心を消すな

 2009年の1月で、隅田川左岸劇場「ベニサン・ピット」が閉鎖する、というニュースが流れ、演劇ファンを驚かせた。劇場の家主でもある轄g三の問題から端を発しているのだが、あまりにも突然のことで、双方が納得し、合意した上での閉鎖ではない。今はどこの劇場も不振にあえいでいる時代だから、劇場の閉鎖はやむを得ない部分もあるが、この場合はいささか事情が違っている。平たく言えば、大家と店子の見解が違うことに問題がある。演劇界の問題で言えば、東京に100以上ある劇場の中の一つが閉鎖するだけだ、という見方もあろうが、ことはそう単純ではない。

「ベニサン・ピット」を拠点に制作活動を続けているT.P.Tが、発足以来演劇界に与えた影響は大きい。そこを無視するわけには行かないのだ。今でこそ、デヴィッド・ルヴォーの名は演劇ファンには浸透しているが、彼が最初に日本の拠点としたのはこの劇場である。ここで、いろいろな試みを行ったことが受け入れられ、高い評価を得たことは多くの人が知っている。一時は、役者の間で「ルヴォーの演出の芝居なら、通行人でも出演したい」というほどに刺激を与えた演出家なのだ。こういうことは、所帯の大きな劇場では絶対にできない。「実験的演劇」という言葉を使うと、何かわけのわからない芝居をしているようで誤解を招きがちだが、新しい試み、たとえばかつての名作の洗い直しや新解釈などで、ずいぶん多くの話題を生んだ劇場である。話題になっただけではなく、良質の舞台を生みだしてきたのも事実だ。

私が今回の「ベニサン・ピット」の閉鎖の問題について敏感に反応をするのは、昨年、演劇制作集団の「地人会」が活動を停止したことが大きく関係している。「地人会」は自分の劇場を持たない制作集団で、新宿の紀伊国屋ホールやサザンシアター、地方の演劇鑑賞会などを中心に活動を続けてきた。主宰の木村光一は文学座出身の演出家であり、やはり日本の現代演劇にいろいろな影響を与えた一人である。ルヴォーとは寄って立つ思想は違うかも知れないが、「いい作品を上演したい」という根本は変わらない。これが、「演劇界の良心」だ、と私は思う。その灯の一つであった「地人会」が活動を停止し、今またT.P.Tが風前の灯の状態にさらされている。大資本ではないだけに、金銭面での問題は大きい。しかし、それだけですむ話でもないだろう。

私は、小劇場だけをことさら贔屓にしているわけではない。そもそも大劇場と小劇場ではその役割が違うのだ。「ベニサン・ピット」で北島三郎の公演ができない代わりに、明治座でルヴォーが演出する「かもめ」や「双頭の鷲」は上演できない。そういう役割の問題なのである。それを、資本主義における淘汰なのだ、と言い切ってしまえば話は簡単だが、それだけで日本の文化の灯が消えていくことを説明してしまってよいものだろうか。それは、あまりにも乱暴な話だ。

ハードウェアとしての「劇場」が消えることだけが問題なのではない。それによって、そこにあった「文化」の一つが消えてしまうことが問題なのだ。司馬遼太郎は言った。「マジョリティには文明しかない。マイノリティにはびっしり文化が詰まっている」と。日本の文化は「オタク」によって形成されていると言っても過言ではない。それだけ、演劇も細分化が進んでいるのだ。そこで、マイノリティだからと言って、侮ってはならない。そこをわかってほしいのだ。

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13.脚本がない!

 いろいろな局面で芝居の製作者に会うと、「いい脚本はないですかねぇ」という話を聞く。演劇界ではいつも、脚本を探している。最近の傾向としては、古い脚本を翻訳、あるいは演出しなおして上演するケースも多い。宮沢りえと堤真一が演じた「人形の家」は130年も前のノルウェーの作家・イプセンの脚本であり、シアタークリエで上演していた「私生活」も70年も前の脚本だ。いずれも、再演される価値のある名作であることは間違いないし、過去の作品の中で歴史の谷間にうずもれてしまいそうな作品を洗い直してその価値を世に問うことは必要な行為だ。

 その一方で、20年以上も前から「新作の払底」が問題にされている。厳密に言えば、「再演に耐えうる新作」だ。新作はたくさん出るが、一回限りの上演で終わりにされてしまうケースが最近は圧倒的に多い。その原因はいくつもあるが、それが複雑に絡み合っていることに問題がある。

 一番大きな問題は、劇作家が職業として成立しにくい、早い話が「食えない」という問題だ。一本の脚本を書くには、相当の労力を要する。脚本一本に対してどれだけの対価が支払われているのか、詳細は知らないが少なくとも決して「多い」という話は聞かない。また、戯曲を本にして出版しても、売れない。戯曲を読む、という習慣が、今の読書人には少なくなったからだ。歯ごたえのいい柔らかい本ばかり読んでいるから、どうしても戯曲を読んで頭の中でのイマジネーションが面倒になる。劇作家の収入が脚本にその大部分を占めるとなると、再演を重ねてもらわないと生活できない。もしくは、数か月に一本のペースで新作を書いて行かなくてはならない。この時点で、劇作家は消耗してしまう。

 また、今の演劇人たちが脚本に重きを置かなくなったという時代の流れがある。30年前までは、自分の書いた脚本の科白を一言変えただけでも上演はさせない、そのぐらいのプライドと自信を持って脚本を書いていた。それだけ立場が強かったのである。しかし、今の劇作家にはそれは言えない。スターシステムの中で、主役が、あるいは制作サイドが「直してほしい」と言う場合に、それをすっぱり断れない状況になっている。芝居を良くするための改良であれば相談にも乗ろうが、単なる仕勝手の問題で脚本をいじられたのでは、劇作家の存在意義は極端に価値が下がる。

 こうなった原因は、今までに一回の公演だけ持てばそれでいい、という風潮の中で劇作家が書き散らしてきた結果もある。昔のように悠長な時代ではないから、年に二本の脚本を書き、それがあちこちで再演されて暮らせる時代ではない。勉強する間も、ネタを仕入れる間もなく、次から次へと脚本を書くことになる。そんなことを二年もしていれば、もう自分のパターンから抜け出せなくなり、そのまま使い捨てになる。

 こうした負のスパイラルが続き、世界同時株安のような状況で脚本が払底しているのだ。日本人の悪しき習慣の一つだと私は考えているが、目に見えない知識に対して、敬意は払うものの、お金は払いたくない、という感覚がある。また、明確な根拠なしに、戯曲が小説よりも下に見られる傾向がある。ここを改善しなくてはならないのだ。私の場合は評論家だが、文字にして発表すれば、その媒体によって規定の原稿料が支払われる。しかし、同じ内容を電話で取材されると「どうもありがとうございました」で終わる。いかにも、象徴的な話ではないだろうか。

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14.イケメンの行く末

 世を挙げてのイケメンブームである。人間、多くの人々は汚いものよりも美しいものを好むのはごく自然の感情であり、それが男性であれ変わりはない。私などの年齢になると、名前が覚えられなかったり、同じような顔に見えてしまって困ることが多々あるが、それは老化の一種であると考えることにする。

 さて、このイケメンブームだが、彼らの人気によって若い女性が劇場に詰めかけ、芝居が活況を呈するのは良いことだ。江戸の昔の歌舞伎だって、二枚目役者に支えられ、信じられない話だが、役者が入った風呂の湯が売り出されたと言う。だから、私は、イケメンブームを否定するつもりはない。しかし、ブームはすぐに終わりが来る。観客は非常にシビアなものだ。ごく一部のファンは、対象とする役者と共に年を重ねていく楽しみを見出すが、それは全体の割合から言えば少ないもので、多くの観客は時代とともに移ろうものである。その前提をしっかり踏まえているのであれば何も言わないが、そうでもなさそうなところに問題がある。

 イケメンの役者とて年は取る。その一方で、腕はともかく自分よりも若くてカッコイイ役者は、続々と登場する。その新陳代謝の中で、消えてしまわないように「腕」を磨いておかないと、イケメンといえどもあっという間に捨てられる時代なのだ。極端な言い方をすれば、芸能界において役者は「消耗品」である。しかし、消耗品でも、他の品物にない魅力が一つでもあれば、消えずに残ることができる。売れている時期は忙しく、本人も勘違いをしがちだが、その時期に自分なりのプラスアルファを探す努力をするかどうかが生き残りを左右するのだ。

 「イケメン」という時点において、他の役者よりもすでに武器が一つ多い。「あいつはカッコイイから」と大根役者でも許される時代ではない。もっとも、大根になるまでに消えてしまう役者が多いのも事実だ。他の人よりも有利な立場にいる分、後の戦いが有利かと言えば、それは逆だ。その分、回りの敵は強い。経験年数であったり、特異なキャラクターであったり、歌の巧さであったりする。そういう武器を持った人たちに、顔だけで勝負をしていても、負ける日が来るのは明白である。

 役者を育てるのは観客であり、興行者であるが、それ以前に役者自身が昨日より一歩でも前に進もうという気持ちがなければ、回りがいくら応援しても屁の突っ張りにもならない。今、イケメンともてはやされている人々やその周囲が、その厳しい事実をどれほど認識し、真面目に立ち向かおうとするのか。顔の出来はともかく、お笑い芸人は自らが「一発屋」という存在価値でしかないことを良くも悪くも理解している。いい面で言えばドライだし、悪く言えば向上心がない。飽きられたら「それでいっか」という程度の芸人が多い。しかし、イケメンのプライド(ばかりではないだろうが)、回りの見方からしても、そういうわけには行かない。

 イケメンが自分を客観的に捉え、自分の方向性を真剣に考えることをしないと、もしかするとこれからの演劇界の起爆剤になるかも知れない要素が不発のままに終わり、消耗のサイクルの中に入ってしまうだけになる。マスコミが異常にイケメンをもてはやす責任の大きさもあるが、ここで自分をどれだけ客観視し、自分の役者としての方向性を考えることができるのか。それが、今のイケメンの大きな、かつ緊急の課題である。すり減らされ、「あの人は今?」にならないようにするためだ。ブームは怖い。例えは適切ではないかも知れないが、高波のようなものである。その大きな波が去った時に、海岸に凛然と立っていることができるかどうか。それがイケメンの今後の行く末を暗示しているのだ。

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15.経験値

 「ドラゴンクエスト」などのRPG(ロール・プレイング・ゲーム)では、ゲームの主人公の経験値が今後のゲームの展開に大きく影響を与えるのは、遊んだ経験のある方であればわかるだろう。敵を倒すごとに自分の経験値が上がり、より強い敵を倒すことができる。しかし、経験値を高めるには、勝っているばかりの勝負ではない。勝ち負けを繰り返しながら、だんだんに経験値が上がって行き、多くの敵を倒すことができるのだ。また、自分が強くなってゲームを進めて行けばいくほど、向ってくる相手も強い。それを倒して進めることに、こうしたゲームの醍醐味の一つがあるのだろう。

 この構図は、芝居の世界に似ているような気がしてならない。どんな大スターも、最初は経験値「ゼロ」からのスタートである。不安と恐怖でいっぱい、頭の中は真っ白になりながら、初舞台を踏む。科白をとちったり、先輩に叱られたりしながら、自分の経験値を高めていく作業だ。「敵」という言い方は適切ではないが、その都度自分が演じる役も違えば作品も違う。そうした中で揉まれ、苦しい想いをして、経験を積むことで自分の腕を上げて行くしか方法はないのだ。

 ゲームであれば隠れアイテムだの近道などもあるだろうが、芝居の世界はそうは行かない。時に褒められ、他の多くの場合はけなされながら、自分で努力していくしかない。中には、何かのきっかけで飛躍的に経験値が伸びるケースもあるが、それはごく稀な話でしかなく、それを夢見ているのであれば、宝くじでも買った方がまだましと言うものだ。

 ただ、この経験値というもの、考え方によっては曲者でもある。ただ回数多く舞台に出ていればそれで経験値が上がる、というものではない。自分が出ている舞台で何を得られるか、それが自分の身についてこその経験値なのである。初日から千秋楽まで漫然と芝居をしていたのでは、舞台に出ても出なくても同じことだ。「今日より明日」、「明日より明後日」の舞台に何かの意味を求めないのであれば、進歩も向上もない。またこれが、即効性のないものだけに役者は辛い。しかし、そういう想いを重ねているうちに、知らず知らずのうちに経験値が上がってゆくものだ。

 これは観客にとっても言えることで、芝居を観れば観るほど、目が肥えて来る。芝居を観始めた頃は何の疑問も感じずに満足し、感動していたものに、いささかの物足りなさを覚えてくる。もっといろいろなテリトリーの芝居を覗いてみたくなる。こうして観客も育っていく以上、役者が安穏としているわけには行かない。しかも、観客はお金を払って劇場へ来る。役者は劇場で芝居をしてお金をもらうのだ。この隔たりは限りなく大きい。

 役者にとって経験値を上げることは、舞台の数を多くすることだけではない。他の芝居を観ることや、ジャンルに関係なく本を読んだり、あるいは映画を観たり音楽を聴いたり、「役者の教養」を高めることにもつながる。時代劇に出て、座った時の刀の置き方がわからないようでは役者の教養がない、と言われても仕方があるまい。どんな仕事でもそうだが、先輩はやる気のある後輩に対して「物を教える」ということを惜しまない。もちろん、「身体で覚えろ」「盗んで覚えろ」という先輩もいるが、それとて、学習方法を教えてくれているのだ。その方が本人のためになることを、「経験」で知っているからだ。

 どういう方法を取るにせよ、経験値を上げておいて損はない。ただし、簡単には行かないことを知るべきだ。

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16.芸人

 暇つぶしにもならない「お笑い」がブームのせいか、「芸人」になりたい、という声を聞く。どこでどう間違えたのか、お笑い芸人=芸人であると考えている人が多いような気がする昨今だ。そんな馬鹿な話はない。これでは、わざわざ頭に「お笑い」とつける意味がないではないか。

 では、芸人とは何か? 辞書がどう定義しているかは知らないが、私は芸能に携わり、何らかの芸を披露して金銭なり物品を得ている人はすべて芸人であると考える。その意味で言えば、役者はもとより、劇作家も幇間も、演出家も芸者もみな芸人だ。私も、どこかで文章を書き、原稿料をいただけば芸人だ。いつぞや講演に出かけた時、手伝いをしてくれた若者が、私の姿を見てこう言った。「ホールへ来てしゃべって金をもらうんだから、芸人みたいですね」と。彼の頭の中には落語家のイメージでもあったのかも知れない。私は、芝居の話をして講演料をいただいた。落語家に叱られるかも知れないが、これは、端的な表現だと私は思う。

 私だけの感覚かも知れないが、「芸術家」と言うと何か立派な仕事をするようだが「芸人」と言うと一段低く見られがちなイメージがある。今テレビに出ているお笑い芸人の多くは、とても芸人などとはおこがましい連中ばかりで、私のようなへそ曲がりは芸術家よりも芸人が好きだ。今、職人が持てはやされているが、職人とて同じことで、大工が建築家とは名乗りたくないのではないだろうか。大工は大工、左官は左官と、その職分が決まっている。その中でいかにいい仕事をするかが芸人や職人のプライドだと思う。

 「一芸に秀でる」という諺がある。言うは易く行うは難しで、そう簡単に秀でることができるものではない。誤解を恐れずに言えば、常人との境界線を踏み出してしまうほどにのめりこんだ末でなくては、一芸に秀でることなどないだろう。どんな芸でも、その道を極めるのは命がけである。一生の大半を燃焼し尽くしても、極めることができないものだ。だからこそ、多くの者が挑もうとしている。簡単に「芸人になりたい」という人々は、この言葉の本来の意味を取り違えているケースが圧倒的に多い。何か面白いことでも言ってテレビに出ればそれが芸人だ、と解釈しているのだろう。これは完全にテレビの責任だ。「瞬間芸」だの「一発芸」だのを乱発しているが、ああいうものは、極論をすれば芸のうちではない。本物の芸人に対して失礼である。三日で取れる資格には三日程度の効能しかないのと同じようなもので、国家資格のない芸人だからこそ難しいのだ。大体が、芸人というものは本物の芸の恐ろしさを知っているから芸に対しては非常に謙虚であり、自らが「私は芸人です」などと名乗ることはない。

 昔の人はうまいことを言ったものだ。「芸は身を助く」と。秀でるまでにはならずとも、何かの芸を身に付けていれば、とりあえず食うには困らない時代の話だ。もっとも、この諺の時代背景にある芸は、長唄や清元などの音曲であることが多い。あるいは書道か学問か。いずれにしても、人様からお金をいただいて教えるのであれば、生半可なことではできない。道楽で始めた何かでも、それが「芸」になるまでには大変なお金と時間を要するものなのだ。寝転がっていて身に付くのは余計な脂肪ぐらいのものだ。

この回は諺が多く出ているが、最後にとどめの一発。「芸が身を助けるほどの浅ましさ」。今は、こういう言葉にも説明が必要な時代になってしまった。誰が説明するものか。

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17.劇場という空間

 一体、全国にどれほどの数の劇場があるのだろうか。大きなものは2000人を超えるものから、小さなものは50人で満員というものもある。箱の大きさや設備はいろいろだが、劇場という場所が、「何かを演じる空間」であり、ひいてはそれが非日常の空間であることに変わりはない。そこで、完全なる非日常を体験するために、観客は劇場へ足を運ぶのだ。今の我々の感覚の中には「ハレ」も「ケ」もないが、劇場は明らかに「ハレ」の空間である。江戸時代の例を引くまでもなく、昭和の中頃までは歌舞伎座がお見合いの場所の一つとして世間に認識されていたことは、非常に示唆的だ。

 現在、多くの人が当たり前のように劇場へ通うようになり、「ハレ」や「ケ」の意識は薄れた。それは時代の移ろいと共に変わりゆくものであり、否定するつもりはない。しかし、それでもなお、劇場という空間が、「非日常」であることは変わらない。これが単なる日常の延長になってしまっては、もうそこに劇場の意味はなくなる。

 40年近く観ていると、いろいろな意味で芝居の見方がすれてくる。斜めに見たり横から見たり裏から見たりしている間に、役者の能力の一つとして、「空間把握の能力」というものが大きな要素であることを感じた。80人の空間で芝居をしていた役者がいきなり1000人の劇場へ出ても、その膨大な空間を把握することはできない。三階席の後ろまで自分の声や芝居を届かせることは至難の技である。同様に、大きな劇場で芝居をしていた役者が、いきなり小劇場で出た時には、圧倒的なボリュームに観客が息苦しくなるケースもある。

 しかし、面白いもので、いろいろな舞台を経験しているうちに、自分の芝居の寸法を、劇場のサイズに合わせてできるようになるものだ。これとても、役者の腕の一つである。その簡単な理論とも言えない法則を知らぬままに、小劇場の役者が大きな舞台に上がると、舞台中に隙間風が吹くという悲劇が起きる。こうした経験を重ねて、自分がだんだんに劇場空間に合わせた芝居ができるようになるのが役者の修行だ。残念ながら、そこまで考えて芝居をしている若い役者が少ない。自分の技量が買われて大きな劇場へ出るのだから、ありのままの姿を「自分なり」に見せればよいのだ、と勘違いしてしまっては、芝居の寸法は伸びない。

 自分の声がどこまで届くのか、自分の芝居がどこまで届くのか、そういうことを、自分が他の劇場へ芝居を観に行った時に、芝居だけではなく「劇場空間」というものに意識を及ぼすことは非常に重要なのだ。役者は職業だからそれをシビアに考えなくてはならないが、芝居を見慣れた観客は、無意識のうちにそれを自分の中で体感している。これは、考えようによっては怖いことだ。自分よりも客観的に見ている人が大勢いるということだ。その結果、「あの役者は小劇場では輝いていたのに、大劇場へ出たら魅力がなくなってしまった」ということになる。これは、観客は鋭敏な感覚を持っている証拠なのだ。

 役者は、自分がどの程度の空間把握能力を持っていて、どの程度の規模の劇場が自分に適した空間なのかを、皮膚感覚で知る必要がある。その上で、どういう空間を制覇しようと努力するのか。そこで上演される芝居で何を見せるのか。昔の歌舞伎などで「役者が大きい」という表現をよくしていたが、これは体格のことではなく、「空間把握能力」なのだ。二十年以上前に、舞台の間口が二十メートル以上ある歌舞伎座の間口が、たった三人の役者で濃密な空間になった。こうしたことも、名優の大きな要素なのだ。

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18.芝居は無学の早学問

 「人権」だの「偏差値」だのの大好きな時代に、「無学」などという言葉を使おうものなら四方八方から抗議が来るだろうが、乱暴な言い方をすれば、そういうことに青筋を立てる人々が無学なのだ。つい100年ほど前まで、無学など当たり前のことで、恥ずべきことでも何でもない。「無知の知」の意味がわからない人間こそ、無学者だ。

 江戸時代は、今よりも圧倒的に識字率が低かったことは皆さんもよく知るところだろう。それと同時に、新古書店などない時代、本というものの価値が非常に高かった。だから、貸本屋という職業が堂々と成立していたのである。それを借りて、多少の心得のあるものは写本をし、またそれを誰かが写本をする。その繰り返しの間に、誤記やら自分の意見が混ざっていく。しかし、これはごく一部の人々の行為であって、その日一日を暮らすのが精いっぱいの人々にとっては、そんな悠長なことをしている暇はない。そんな中で、芝居を見に行くことは、まさに「無学の早学問(耳学問という言い方もある)」だったのだ。

 歴史的な事件や、現代のニュースやスキャンダルに相当するような事象を、わかりやすく芝居で見せてくれる。それを重ねているうちに、だんだんに歴史上の大きな事件が、真相ではないまでもその骨格がわかってくる。まさに、立派な学問である。それが、狂言作者の一方的な娯楽感覚に基づくものであったにせよ、江戸時代の人々にとっては何よりの情報源の一つであったのだ。

 これは、今テレビの前に座っていても絶対にできない行為である。お金は払っても、一日がかりで芝居を楽しみ、その上でいろいろな知識を得られれば、一石二鳥である。もっとも、最近はお金を払った挙句につまらない芝居を見せられてくたくたになるケースも甚だ多い。情報過多の今、わざわざ芝居で何かを学ぼうという人はそう多くはないだろうが、ふとした科白に心を打たれたり、気持ちが洗われたりするようなことはある。それとても、知識ではないが、心の学問である。

 地球はものすごい勢いで狭くなり、情報のやりとりが異常とも思える量の中で世界が動いている。「国際化」が叫ばれて久しいが、外国語のテストで高得点を得て、外国語に堪能な才能は立派に評価できるものの一つであろう。その一方で、日本の文化に関する興味はなく、「忠臣蔵」の粗筋もわからなければ、「源氏物語」がいつできたのか知らない人も多いのは事実だ。偏差値がいくら高かろうと、自国の文化に興味を持ち、誇りを抱いていない人々が、現代版の「無学者」である。古典に精通せよ、と押しつけるつもりはない。しかし、日本の豊かな文化が長い年月をかけて培ってきた言葉の美しさや感性の豊かさに見向きもせず、「古臭い」「難しくてわかりにくい」と一蹴してしまう人々こそ、現代の「無学者」に等しい。

 勘違いしないでいただきたいのは、日本の古い物を押し付けたいわけではない。今の新しい日本の芝居からも現代の人間のありようや物の考え方を知ることは充分にできるのだ。そういう物に目もくれずに、ただただ日本の外を向いているだけでは、日本人として国際化に貢献することなどできないのだ、と言いたいのだ。「何を古臭いことを」という声もあるだろう。それは当然のことだ。しかし、日本人としての血が身体に流れている以上、日本に関する知識があまりにも少ないのでは、江戸時代の無学者を笑うことはできないし、場合によっては、外見は綺麗でも中身は空っぽな現代人と言われ兼ねない。「芝居は無学の早学問」という言葉は、決して馬鹿にはできないのだ。

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19.「劇評」の存在

 人のことばかりああでもないこうでもないという、「演劇評論家」は一体どうなのだ? こうした問いにも自分で答えなくてはならないだろう。昭和初期から今日までの間に、「劇評」というものは大きく変貌を遂げた。率直に言えば、「力を失った」のだ。その理由は枚挙にいとまがないが、その存在価値が低下したのは事実である。新聞の劇評に割かれるスペースは年々小さくなる一方で、宣伝だか批評だかわからないものが多い。だから、私は自分が書きたいことを書くために、文字数に縛られないために自分のHPを立ち上げている。

 客観的に見て、芝居に限らず何かを「批評」するためには、その分野に関する膨大な知識と鋭い感性を持たなくては勤まらない。自分の批評をきちんと裏付けし、読者を説得あるいは納得させられるだけのものが必要なのだ。ここが「感想」とは大きく違うところだ。

 21世紀の今、インターネットを筆頭にこれだけの情報があふれている中で、「演劇評論家」の必然性、あるいは存在意義を尋ねられた時、残念ながら「観客の多くはそれを必要としない」と答えざるを得ないだろう。しかし、後世の観客(そうした人々がいてくれることを悲痛なまでに望んでいる)のために、「演劇の記録」としての批評家の存在は必要である。そのためにも残す批評は公平でなくてはならない、と私は考える。自分の仕事の存在意義を、全面的にではないにせよ「否定」するのは非常に辛く、哀しい。しかし、「評論家」を名乗るのであればこそ、より客観的な眼で自分の仕事を見て、批評することも必要なのだ。私の率直な、いささかの痛みを伴う現状認識は上の通りである。

 私の場合で言えば、歌舞伎をはじめとした古典芸能、新派、ストレート・プレイ、人形浄瑠璃、ミュージカル、小劇場、大劇場演劇などが批評の対象となる。抜けているのは宝塚ぐらいであろうか。それらの芝居の細かな部分にまで目を配り、役者の演技から脚本の出来、演出家の姿勢などを総合的に批評することを心がけている。しかし、不勉強な部分や見逃した部分もあり、100%の批評はかなわない。それを限りなく100%に近づけるために、芝居を観、原稿を書き、書物を渉猟し、過去の映像を参考にしたりという勉強は日々続けている。

 最近の演劇にまつわる媒体を読んでいると、「演劇ライター」という肩書の方々が増えた。批評ばかりではなく、他の記事も総合的に書く、ということだ。私も、批評以外の原稿も書く。これは、年齢・世代間の感覚の違いで、職分としてはそう違わないと私は考えている。しかし、「演劇評論家」と名乗る人々の中では、おそらく40代後半の私が最後の世代ではないだろうか。そこに貴重性を求めるわけではなく、この事実が時代の象徴なのだ、と私は感じている。いつだったか、ある劇場に電話をした折に、「劇評家」と名乗ったら「劇場家ですか?」と聞かれたことがあった。苦笑いをしたが、これが現実である。それを否定しようとするのであれば、自分の批評にかつてのような価値を持たせ、多くの観客や関係者が「公平で的を得た批評だ」と納得するような批評を書くしかない。過去の劇評家は良かったと嘆いてみたところで、何も生まれはしない。

 より多くの人が納得できるような劇評を書くために、一歩一歩進んで行くしか方法はないのだ。この原稿の中で「名優は一日にしてならず」と書いたが、それは批評家とて同じことだ。私自身が、30年以上芝居の勉強をしていながら「こんなことがわからなかったのか」と驚き、呆れることはしばしばある。その繰り返しで少しずつ積み上げ、少しでも良い原稿を書くこと、それが今まで私を感動させた芝居への恩返しであると考えている。

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20.芸術とビジネスの「間」

 芝居は「舞台芸術」である。その一方で、「ビジネス」でもある。観客に感動や喜びを与え、観客も役者もスタッフも満足、そしてビジネスとして成立するのが理想的な形だ。しかし、それが相当に難しいことは、今までに多くの人々が自分の人生を賭けて証明している。では不可能なのか、と言えば、簡単にそうとは言い切れないところにみんなが足を踏み入れる魔力があるのだろう。

 劇団にせよそうでないにせよ、芝居を打つ側が、自分たちが信奉する思想や芸術的傾向を一方的に観客に押し付けたり問いかけたりしても、多くの観客の支持を得ることはできない。その逆もまたしかりである。

 江戸時代の浄瑠璃作者である近松門左衛門は、「虚実皮膜論」の中で、「本物の芸は、嘘と真の間にあるごく薄い皮のようなものだ」と説いている。近松の名を知らない演劇人はいないだろうが、彼のこの優れた論考を理解している人は、学者はともかく現場の人間では少ないかも知れない。

 これはまことに正鵠を得ていて、今の芝居の様々なシーンをこの言葉で説明することが可能である。観客にとっても役者にとっても理想的なのは、芸術とビジネスのごくわずかな隙間に薄く貼っている皮なのである。元より、そう簡単に気づくものではなし、表現できるものでもないから、ここをどう見せるか、あるいは楽しむかの試行錯誤が何百年も続いていることになる。

 今の言葉で言えば「落としどころ」なのだが、時代の多様化で、これが全く見えない状況である。だから、テレビでちょっと売れた役者を舞台に起用してみたり、過去の作品をもう一度舞台に乗せたりする。その試みのそれぞれには理屈もあろうから、すべてを検証することはできないが、要はこの問題にさっさと気づき、そこを探すことなのだ。一所懸命探したところで、すぐに見つかるものではない。だからと言って、ビジネス一方に走ってばかりいては、今の観客は騙されない。

 その僅かな隙間を探すことがいかに重要であるか、このいたってシンプルな図式に気がつき、実行しようとする「英断」を持つプロデューサーが少ないのは事実だ。こうした問題に日夜苦しんでいる人も多い。だから、私のような者のところにまで「今の時代にはどんな作品が適切か」という質問が寄せられるのである。

 結論から言えば、その答えが見いだせれば、生き馬の目を抜く世の中のことだ、誰かがとっくにやっているだろう。「ああでもない」「これは駄目だ」の繰り返しなのである。しかし今の氷河期の観客は、その結果を待っている余裕はない。これは興行サイドとて同じことである。その焦りが、負のスパイラルとも言うべき失敗につながっているのが今の演劇界の現状の一面だ。

 過去の名作を人気俳優で上演する。一見すれば、確かに芸術とビジネスの「間」をとらえているように見える。しかし、それでは単に二つの「ありもの」をくっつけただけに過ぎない。これで話がすめば簡単だ。そこで、核爆発とも言えるような「何か」が起きた時に、舞台と観客が熱狂するのだ。その「発火点」が、近松が言うところの薄い膜なのではあるまいか。

 ここで私が述べている問題は、主に芝居を創る側の話である。しかし、観客とて、この問題を知っていて損にはなるまい。こういうことは、学校では教えない。高い月謝を払って、さんざっぱら愚にもつかない芝居を観た上でなくては、自分の感覚にはならないものだ。私が四十年近く芝居を観て来て、やっと今になってそんなことを感じている次第だ。それを、何らかの形で、このHPにお付き合いくださっている読者に還元しなくてはならないだろう。

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21.芝居が多すぎる

 芝居の数が多すぎる。かつてない多さだ。限られた時間と資金の中で、一体何を観れば良いのか、それを決めるのは砂漠の中で一粒のダイヤを探すに等しい難しさだ。

 今の若い観客には信じられない話だろうが、私が学生の頃は、観劇の予定が二か月先まで決まっていることなどなかった。極端な話をすれば、その日に思い立って出かけたところで、よほどのことがない限りは切符が買えたものだ。今は良くも悪くもインターネットの発達で、やれ先行予約だ会員特別予約だと、自分が生きているかどうかもわからぬ先の日程の芝居の心配までもしなくてはならない。そうなったのは、芝居が増えたことに見事に比例している。

 芝居の数が多い、ということは、それだけ芝居に魅力を感じている人が多いこと、また芝居の多様化・細分化が大きな原因だろう。その結果芝居が増え、いい芝居で観客が満足できるものばかりが並んでいれば良いが、一番困るのは「悪貨が良貨を駆逐する」ことである。今、すでにそういう時代になった。私が「氷河期だ」と叫ぶ大きな理由の一つはこの問題にもある。

 すべてが東京を中心とした関東圏に一極集中するのは、芝居だけの話ではない。第三次産業の多くはこの傾向をたどっている。地方でそれなりのネームバリューを持って頑張っている劇団もあるが、東京の演劇密度が高すぎるために、入る余地がないのが現状である。それが昨今飽和状態に達し、劇場というハードウェアのスクラップ&ビルドが始まった。大劇場・小劇場を問わずに、である。これだけ劇場が増えると、当然のことながらソフトウェアも足りなくなる。テレビがデジタル放送を始め、その結果としてソフトが足りなくて右往左往しているのと同じことが劇場で起きているのだ。

 劇場には茶の間では手軽に味わうことのできない「ライブ感覚」があり、それが命だ。その楽しさを味わうために、観客は膨大なエネルギーを消費して劇場へ足を運ぶ。あるいは、運びたいと思っている。しかし、その選択肢があまりにも多いために、何を観に行って良いものやら迷っているうちに、チケットが発売になり、公演が始まる。あるいは、チケットが売り切れてしまう。これでは、観客のすそ野は広がらないのだ。

 「何を観るか」という選択権は、常に観客の手にある。これを忘れないことだ。忘れていなくとも、「観なくてはいけない」ような気にさせられてしまうことが往々にしてある。これは宣伝の勝利で、その気にさせられて満足すれば良いが、しない場合もある。百発百中でいつもいい芝居ばかりを観ていることは不可能だが、少なくも、もう少し冷静な眼で舞台を選ぶ必要がある。これは、観客の責任である。

 誰も来ない芝居を、次に上演する劇場はない。これが自然淘汰というものだ。新陳代謝が悪ければ、負のスパイラルに入るだけなのである。その新陳代謝を促すのは、我々観客である。多くの舞台の中で何を観たら良いのか迷った時に、正確な情報を提供するのが、演劇評論家の役目である。正しく言えば、「私が考える正確な情報」だ。長い間芝居を観ている、その経験といくばくかの知識を頼りにして、私独自の方位磁針で「この方向ですよ」と指し示すことができれば良いのだ。それを聞くか聞かないかは、読者の判断することで、強制するつもりはさらさらない。

 ただ、今の芝居がまさに未曾有の混乱状態にあることは間違いない。戦争直後でもこのような混乱はなかったはずだ。容積は同じままで質量が一定を超えれば、崩壊するのは当然のことだ。それを避けるためには、我々観客が慎重な「眼」を持つことも一つの方策だろう。

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22.ネクスト・ワン

 毎回毎回、よくもまあこれだけ芝居に対する悪口が言えるものだ。そんなに文句があるならば、劇場へ行くのを止めたらどうだ、という声が聞こえてきそうだ。確かにその通りで、嫌なら観なければいいだけの話だ。しかし、これが芝居の困ったところで、パチンコなどの博打と同じ、一度いい想いをしたら、それが忘れられないのである。何度損をしても、「次は…」「今度の芝居は…」と、悪女の深情けも真っ青という状態である。

 映画俳優のチャップリンが、「あなたにとっての最高作は?」との問いに対して「ネクスト・ワン」と答えたというエピソードは有名な話。常に次に期待せよ、というプライドもたいしたもので、それだけのものを見せてきた自信に裏打ちされた言葉であり、いささかの諧謔も含まれているのだろう。

 我々観客にとっても、「ネクスト・ワン」は別の意味で大切だ。「今日の芝居は面白かった。また、次もこういう芝居を観たい」と、観客の多くが思えるような状況、それが観客にとっての「ネクスト・ワン」だ。そう次から次へといい芝居ばかりあるわけではない。プロ野球の選手だって、打率三割をキープするのがいかに難しいことか。役者や演出家だけに100%を求めるのは酷な話であり、観客も目が肥えれば肥えるほどにハードルは高くなってゆく。「前は面白かったのに…」の一言で淘汰されてしまうのだ。

 結局のところ、我々の人生において、100%というのは不可能な問題だ。ただ、そこへ限りなく近づくための努力、それが必要なのだ。これは芝居の世界だけに限った問題ではない。とは言え、不断の努力を続けることにこそ価値がある。努力というものは、困ったことに必ず報われるものではない。いくら努力をしても100%もなければ、その努力が見事に結実する保証もない。

 しかし、こと芸能に関して言えば、そういう世界だからこそ、チャレンジする価値があるのも事実だ。「今日の芝居は総合的に何点です」という判断など、誰にも下せるものではない。極端な話をすれば、本人が「人生で最高の芝居を観た」と感動している隣の席で、「今日の芝居は最悪だった」と嘆いている人がいてもおかしくはない。ことほどさように、観る人によって物差しが違う芝居を、より多くの人に喜んでもらえるようなものを創るのが演劇人の役目だ。

 批評とて同じことで、毎回判で押したような批評ばかりを書いていては意味がない。何十年も芝居を観ていて、昨日気がつくこともある。「今までに何度もこの芝居を観ていながら、なぜ気付かなかったのだろう」と自分を戒めながら家路に着くことは少なくはない。そうした自分にとっての収穫を、次の批評に反映させることができなければ、批評を書いている意味はないだろう。人間は、とかくパターンにはまりやすい。また、一度パターンを創ってしまえば、そこに安住している方が楽なのは言うまでもない。しかし、「ネクスト・ワン」のためには、時として自分で自分の殻を打ち破るような激しい行為も必要になるのだ。

 「言うは易く行うは難し」。古の人はうまいことを言うものだ。今の自分にそれができ、目の覚めるような批評を書く自信があるのか、と問われれば、「もう少し時間をください」と詫びるしかない。しかし、いつの日か、批評を書いていることの意味がおのずと明らかになるような、それが演劇界に役立つような批評を書くように、ただひたすらに勉強をするしかない。

 最近、「愚直である」ことの大切さ、がようやくわかりかけて来たような気がする。自分では、まだ遅くはない、と思っている。明日の批評のために。次の芝居のために。

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23.勉強とは?

 この稿に限らず、私はよく「勉強しろ」とも言うし、「勉強が大切だ」と自分に言い聞かせている。では、芝居の世界に生きる人間にとって、勉強とは具体的に何をさすのだろうか。

 極論をすれば、生きていることがすなわち勉強だが、哲学的な話をしても仕方がない。芝居に関わるものである以上は、「芝居を知ること」がすなわち勉強だろう。芝居を観るのは当然のことながら、戯曲を読む、邦楽でも洋楽でも稽古事をする、身体の維持のためのトレーニングを行う、映画を観る、本を読む、と数え上げれば切りがない。

 批評家はどんな勉強をするのか。私の事例はあくまでも個人もので参考にはならないだろうが、批評家が何を根拠に批評をするのか、を知る手立てにはなるかも知れない。

 自分がまだ観たことのない芝居で、脚本が活字化されているものは、極力事前に眼を通す。芝居のあらすじを頭の中に叩き込んでおく。その芝居の見せ場やテーマがどこにあるのか、をあらかじめ知っておくためだ。台本がないものは、徒手空拳で出かける。

 何度も観ている舞台を別の役者で観る場合は、自分の観劇メモをひっくり返して、過去の舞台がどうであったかを想い出す。良くも悪くも自分の中に比較対象の軸を作る。もっとも、それを批評に書くかどうかはまったく別の話で、三十年も前の舞台と比べても意味をなさない場合も多い。

 後は、本を読むことだろうか。例えば歌舞伎の場合、歌舞伎のことだけを調べ、頭の中に入れておけばよい、というものではない。日本の建築や美術、香道や茶道、舞踊、音楽、そうした文化的な背景をバックボーンとして自分の中に持っておく。

 海外の芝居も同じことだ。「マイ・フェア・レディ」を観るのであれば、原作に当たるバーナード・ショーの「ピグマリオン」から始まり、当時の英国の世相や文化を観る。英国に厳然と貴族が存在し、「階級」というものがはっきりしているからこそあの芝居が成り立つのだ、という背景を自分の中に持って舞台を観ることになる。

 「芝居」という一つの核を中心にして、四方八方へ無限に枝分かれをするようなことになる。その枝分かれをどれだけ広げることができるかという「好奇心」と「欲」を持つことが、すなわち勉強ではないだろうか。

 先日、銀河劇場で市村正親の「炎の人」を観た。現代の日本演劇では非常に評価の高い作品だ。翌日、過去の他の舞台を見直した。戯曲をもう一度読み直した。そうすると、ゴッホ自身のことを調べたくなった。同様に、登場人物であるゴーギャンやロートレックのことも知りたい。また、ゴッホが生きた「ジャポニズム」の時代にも興味がわく。一方で、三好十郎という劇作家が、なぜゴッホを書こうとしたのか、それも気になる。三好十郎関係の本を読んでいるうちに、他の作品も読んでみたくなる。この作業を繰り返していると、永遠に批評など書けなくなるので、頃合を見計らって切り上げる。

 こうしたことの積み重ねで、必要・不要な知識が、牡蠣の殻につくゴミのようにまとわりついて来る。今度は、それをそのままにしないで、「考える」ことだ。「あの作家はなぜ、あの芝居を書いたのか」でも、「この芝居のテーマは何か」でも、「あの役者にあの役は適切なのか」でも、テーマは何でもよい。自分が得た知識をそのまま放り出しておくと、そこで固まってしまう。その知識を活かすために、いつ出番が来てもいいように、頭を常に柔軟におきたい。という理想を持って、勉強をする。

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24.「演劇評論家」というもの

 そろそろ自分の「立場」というものをどう考えているか、それを明確にする時期ではないかと思う。かつて「一億総評論家時代」という言葉があったが、これだけ情報の多い世の中、自分の得意な分野があれば、「評論家」と名乗ることには何の障害もない。問題は、世間がそれを認知するかどうかの問題であろう。かくいう私も、「演劇評論家」と名乗ってはいるものの、何かの資格があるわけではなし、あくまでも「自称」である。

 とは言え、プロのしている仕事に対して何かを言おうというのであるから、それ相応以上の覚悟がなければ批評を書くことはできないのも事実だ。明治以降、「演劇評論家」というものの位置付けが大きく変わり、はっきり言ってしまえばその権威は失墜する一方である。権威を振りかざすつもりなど毛頭ないが、言い方を変えれば「信用」のレベルが下がって来た、ということだ。それには時間の経過に伴う多くの複雑な要素が絡み合っており、このコラムで一口に述べることはできない。

 ただ、しばらく前に現在の評論家が置かれている立場を実感するような象徴的な出来事があった。新聞の連載記事でかなり厳しい意見を書いた折のことだ。見知らぬ読者の方から「評論家は褒めるのが商売なのに、あんなに厳しいことを書いてしまって、後の仕事に差し支えないのでしょうか」という旨のメッセージを頂いたことがある。良くも悪くも、これが客観的に捉えられている「演劇評論家」のイメージなのだ、ということに私はショックを受けた。それと同時に、このメッセージを、襟を正す想いで読んだ。

 確かに、新聞などの劇評はわずかなスペース(昔の三分の一もないほどだ)に、主な出演者、芝居の粗筋、主役級の役者に関するわずかな批評を書いているものが多い。これでは、「褒めるのが商売」と言われても反論の余地がない。今の若い演劇ファンには、演劇批評というものが、かつては情報源であると同時に一つのきちんとした読み物であった時代などは想像もつかないだろう。それが、時代の流れで役割も変化し、今のような状況になっているのだ。

 誤解をしていただきたくないのは、「褒める商売」でもなければ「けなす商売」でもない、ということだ。シンプルに、「良い物は良い」、「悪い物は悪い」と、第三者の客観的な眼で、芝居を観て、自分の知識や過去の観劇経験の中から比較するものがあればすれば良し、なければしなくとも良い。そのシンプルなガラスのような構造がいささか曇っていることは否定のしようがない。

 今、演劇評論家に求められているのは、これほど多い芝居の中で、少しでも多くの芝居の情報を発信し、観客にとってのアドバイザリーの役目を果たすことだろう。そのメッセージを信用するかしないかは、受け取る読者の問題である。

 演劇評論家に求められるのは、劇場の大小を問わず、一本でも多くの芝居を観ることだろう。その芝居に対し、適切な批評を述べることは最低の条件である。その上で、今の演劇界の潮流を肌で感じながら、五年先、十年先の演劇界のありようを考えることだ。その上で、過去の観劇の蓄積を元にしながら、今後の演劇界の動向を見極め、それぞれの考えを発信することなのだ、と思う。

 今は、芝居の数が多すぎて、とてものことにすべてを観て歩くことは不可能である。その中で、自分の眼と感性で観る芝居をチョイスし、それをいかにして観客に伝えるか。観客の中でうまく言葉にできない感情を、活字という媒体で皆さんに伝えることだろう。それが充分にできない状況は多々ある。その中で、少しでも良い芝居を見出すことが、少しでも長く、多くの芝居を観ている人間に課せられた「義務」なのかも知れない。

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25.「見せたい物」と「観たい物」

 この両者がぴたりと一致するケースは相当に稀なことだろう。興行サイドにはそれなりの思惑があり、それに観客が興味を示すかどうか、早い話が博打である。当たれば幸いだが、予想がはずれてこける芝居もある。興行の歴史など、その繰り返しだと言うのは乱暴かも知れないが、そうはずれた話でもないだろう。

 これほどの情報がある中では、観客に「観たい芝居は何ですか?」と問い掛けても、即座に答えを得ることは難しいし、その答えも千差万別で統計のとりようもないだろう。どんなに「良い芝居」だと思って上演しても、肝心要の観客が劇場に足を運んでくれなくては何も意味がない。一方で、観客の好みばかりを優先して、商売だけに走っても演劇という文化の質は向上しない。

 演劇製作者たちはそのはざまで苦しんでおり、試行錯誤を繰り返している。とは言え、決して安い入場料ではない。まして、この不景気である。一度の失敗が致命的な打撃になることも往々にしてあるのだ。この状況の中で、「見せたい芝居」と「観たい芝居」が見事に一致した時に、みんなが満足できるような舞台が幕を開けるのだ。

 「言うは易く行うは難し」。芝居の製作現場をいくつも見ていて、多くのスタッフや役者が限られた時間の中で苦しみ、その結果、みんなが満足のゆく舞台ができればこんなにうれしいことはない。しかし、そういうチャンスに巡り合えることは残念ながら非常に少ない。何事も完璧、というものはない。それはわかっていても、少しでもクオリティを上げたい、というのは人情である。

 情報の発達がいいやら悪いやらで、インターネットのおかげで瞬時にチケットを手に入れることができるようになったものの、芝居の初日が開いて評判を聴くまでもなく、チケットは即日完売、という公演も多い。本来であれば、劇団四季のような徹底したロングラン・システムの導入を図るのも一つの方法なのだが、今のように完全に固定化された劇場のスケジュールの中ではそれもままならないだろう。そもそも、日本の歌舞伎など江戸時代からロングラン・システムを早々と導入しており、評判が良くて客が入れば可能な限り上演するし、不評で入りが悪ければ打ち切るという非常にシンプルな形態である。劇場というハードウェアの意味が当時と現在では異なっているので、そう簡単に移行はできないだろうが、もうそろそろ日本の興行形態も本気で考え直さなくてはならないだろう。

 最近では、地方の高校の修学旅行のスケジュールの中に、東京で芝居を観るというコースが織り込まれている学校もずいぶん増えた。東京タワーを眺めたり、ディズニーランドへ行くばかりではない。演劇という文化が集中している東京で、生の舞台に触れる機会を持たせようという考えは賛成だ。しかし、それでも高校の先生方はあまりにも多い芝居の数に、どれを選んで良いものか選択に迷うケースが多いと聴いた。私の仕事の一角に、そうした地方の高校へ今の東京の演劇事情を知らせ、芝居を観たことのない高校生に芝居の魅力を話すというものも増えてきた。いくらインターネットが普及しても、生の声の方が生きる情報もあるのかもしれない。

 そんなことを考えてみると、今まで四十年近く芝居を観てきたものを、無駄にしないようにするにはどうすれば良いかと真剣に考える。一度に全部を吐き出すことはできないし、正直なところ忘れてしまったものも多い。しかし、時代は変わっても芝居の生の面白さは変わらないはずである。いったんこのコーナーは終わりにするが、また違った形で皆さんに芝居の面白さやその世界が抱えている問題などをお伝えしていこうと思っている。

(了)

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