2014.08.24掲載

blast JAPANTOUR 2014 2014.08 東京国際フォーラムC

日本の観客は舞台を観た時の感情表現が巧くない、と言われた時代があったが、最近の観客は、面白い舞台は一緒に楽しむポイントを知っている。2003年に初来日以来、その好評を受けて翌年にすぐ再演され、今回が9回目の来日となる。トータルでの観客動員が間もなく100万人に達しようというミュージック・パフォーマンスだ。2012年からは石川直、和田拓也、米所裕夢の日本人のキャスト3人が加わった。

マーチングバンドにドラム、ダンスなどの要素を加えたステージは、名曲ラヴェルの「ボレロ」で幕が開く。曲ごとにステージには色彩も同時に楽しむ要素として組み込まれ、青やオレンジ、赤などの色が、その曲を象徴するように構成されている。観客は、ノリの良い曲になれば手拍子で参加し、真夏のひと時を楽しんでいるが、観客層の年代の幅が広いのも特徴だ。海外からの招聘作品だから、ということではなく、今までに積み上げてきた累計100万人の楽しみ、という感覚がする。特に二幕目、2013年の朝のNHKのドラマ小説で人気を博した「あまちゃん」のオープニング・テーマが流れた時は、観客席の盛り上がりが最高だった。二幕で合計15曲のステージで、「ボレロ」から「あまちゃん」まで聞ける全体の構成の巧みさが、この作品の魅力でもある。このプログラムも固定されたものではなく、仮に来年も来日が実現すれば、また新たな曲を加え、違った構成で聞かせ、見せてくれることだろう。音楽と色彩の融合という試みは、特筆すべきほど新しいものではない。しかし、その見せ方、聞かせ方の感覚は、テンポも良く、評価できるものだ。

エンタテインメントと呼ばれるものには実に多くの種類があるが、場合によっては観客が一緒に手拍子をし、足を踏み鳴らして楽しみものがあっても良い。まして、音楽であればなおのことだ。クラシックのコンサートではできないことだろうが、ステージの演者と共に楽しめる、という一体感がこのステージの人気なのだ。幕間には、メンバーがエントランスへ出て来て、より観客に身近な場所で演奏を聞かせる。サービスではあるが、演奏者も観客と共に音楽を楽しんでいるのがよく分かる。こうした感覚は、日本人の発想ではなかなか持ちにくいものかもしれない。これだけがヒットの要因だとは思わないが、「いかにして観客を楽しませるか」というエンタテインメントの本質の一つがここにある。

酷暑の中で、バンドの音楽と一緒に違った汗を流すのもまた一興だ。

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2014.08.19掲載

「こっちの身にもなってよ!」2014.08 本多劇場

良質のコメディを描く現代の劇作家として、レイ・クーニーと共に人気を誇るアラン・エイクボーンの「こっちの身にもなってよ!」(原題:「If I Were You」)。イギリスのある町の家族の姿を描いた作品で、どこの家族にもありがちな些細な問題や感情のすれ違い、意識的ではない無理解によって起きるホーム・コメディだが、二幕に入り、様相は一変する。朝、目覚めた加藤健一のマルと西山水木のジルの夫妻が完全に入れ替わっていたのだ。家族はもとより、仕事先のインテリア・ショップで働く娘婿にも気づかれないようにこの非常事態を乗り切るにはどうすれば良いのか…。急に男女が入れ替わった夫婦が、どのようにしてこの危機を乗り越え、どんな結末が待っているのか。

こうした「男女入れ替わり」のパターンは、そう珍しくはない。私個人の体験で言えば、1987年に公開された大林宣彦監督、尾身としのり、小林聡子主演の映画『転校生』は、強烈なインパクトを与え、その後もこれに類する作品が数多く創られた。観客の中には「このパターンか」と思った人々もいるだろうが、大きな違いがある。映像をスクリーンで観る映画と、目の前で演じられている生の芝居、の差だ。スクリーンでは綺麗に完成されたものが、舞台では、一呼吸のタイミングがずれただけで、大きく変わる。そこが生の舞台の面白さでもあるのだが、その分難易度は高い。それを舞台で要求するエイクボーンの芝居、もっと言えばコメディはほとんどが「間」が命、でもある。それを、ドタバタにならない寸前のところで止め、舞台全体に漂う空気感を味方に付けた方法は面白い。たとえ男女が入れ替わっても、完全に入れ替わらないところに、この芝居の「妙」がある。加藤・西山のコンビはその辺りを充分に心得た強者だけに、安心して観ていられる。息子のサムはスタジオライフの松村泰一郎、娘のクリッシーは加藤忍、娘婿が文学座の石橋徹郎と、登場人物は五人しかいない。

いわゆるウエルメイド・プレイだが、今回は息子・サムの松村が一番の健闘を見せた。趣向としての「男女入れ替わり」だけではなく、どこの家族でも抱えている小さな問題、あるいは本人にとっては大きな問題に苦悩する少年の姿を活き活きと演じて見せたのは収穫だ。この作品には、「どんなことがあろうとも、家族は家族」という温かなテーマが根底を流れている。それを、一番敏感に感じる年頃のサムが、実は扇の要の役をも果たしているのだ。今は、いろいろな個性を持つ人物を抱えた家族が多く、それをどこまで理解し、受け入れるかが一つの問題にもなる時代だ。そういう視点で眺めると、父親の無理解や頭ごなしの比定に反発しながらも、個性的な家族の面々に対する愛情が一番感じられた。スタジオライフで演じて来た作品とは全く異質の作品で鍛えられたことが、今回は巧く表現できている。こうして、若い才能を育てることも演劇の大きな役目である。

このところ、シビアなテーマの作品が二本続いただけに、加藤健一事務所が得意とするコメディの本領発揮で、久しぶりに笑いの溢れた舞台だ。

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2014.08. 8掲載

「タイトル・オブ・ショウ」2014.08 シアタークリエ

世界のミュージカル・シーンがどんどん新しい潮流を見せている中で、当然日本のミュージカルが刺激を受けないわけはない。これだけの情報が溢れている現在、海外でヒットしている作品や、これから面白くなりそうな作品を日本で上演することが、日本のミュージカルの隆盛に寄与していることは疑いようのない事実だ。そのスケールも、『ミス・サイゴン』や『レ・ミゼラブル』のような大型作品もあれば、この作品のように登場人物がわずか4人、という小品もある。問題はスケールよりも中身で、スケールの大小に関わらず、今の観客がどう捉えるかにある。

この『タイトル・オブ・ショウ』は、男女2人ずつの若者が、ミュージカルを創ることを思い立ち、ブロードウェイへの進出を夢見てわずか3週間でミュージカルを創ろうと奮戦する物語で、ほぼ全編がパロディとパスティーシュに散りばめられている。「こんなことまでばらして!」、あるいは「他の作品にここまで言及して」大丈夫なのだろうか、と余計な心配までしてしまうが、それが、いわば「寸止め」のところで嫌らしくなく、楽しめる仕掛けになっているのが作品の魅力だ。ミュージカル・ファンには幕内の事情が分かって面白い一方、それを知らないファンでも充分に楽しめるギリギリのバランス感覚が、この作品の魅力であり、同時に、今の演劇界に対する「問題提起」にもなっている。その問題とはさまざまな捉え方があろうが、「ミュージカルだからって構えなくてもいいじゃん」「難しく考えることないよね」という、気楽に芝居を楽しもう、という発想だ。これは、すべてのジャンルの芝居に言えることで、歌舞伎も人形浄瑠璃もミュージカルも翻訳劇も同じなのだ。

主人公の無名のコンビ、ジェフが浦井健治、ハンターが柿澤勇人。二人の友人ハイディが玉置成実、スーザンが佐藤仁美。それにキーボードの村井一帆がラリーという仲間の役で少しだけからむ。翻訳・訳詞・演出の福田雄一は、ここぞとばかり数えきれないほどの「小ネタ」を満載し、笑わせどころを作っている。著作権の問題が心配になったが、聞けば100ヶ所以上、日本向けに直したところを現地との確認に費やしたそうだ。こうしたエネルギーと努力が、芝居を少しでも面白くするのだ。キャストについて言えば、脚本の内容上、4人のうちの男性2人に圧倒的な比重があり、それを若手ミュージカル・スターの浦井・柿澤がこなしているために、男女の差が圧倒的に見える。東宝ミュージカルで若手スターの「王道」とも言える役を演じて来た浦井にすれば、この芝居は果敢とも無謀とも言える挑戦だ。また、劇団四季出身の柿澤は、古巣をネタにした科白で笑わせ、「アブナイ」芝居でもある。ただ、こうした若手の役者たちが、今までにはない形式のミュージカルを観客と共に楽しんで演じていること、これが最大の収穫だろう。

今、ジャンルを問わず演劇界は混迷と模索の時期にある、と私は考えている。その時だからこそ、シアタークリエという東宝のお膝元で、同じ東宝の帝国劇場の芝居をネタにして笑うような芝居があっても良いのだ。「やったもの勝ち」とは乱暴な言い方だが、芝居は「こうでなくてはならない」という公式は存在しない。いろいろな実験過程を経て、今の演劇がある以上、今後のために新しい実験をすることを否定する理由はない。そういう意味で、コンパクトではあるが濃度の高い芝居である。

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2014.08. 5掲載

ミス・サイゴン 2014.07 帝国劇場

初日が開いて間もなくの7月29日以降の全公演を、ダブルキャストでエンジニアを演じていた市村正親が早期の胃がん治療のため降板する、というショッキングなニュースが飛び込んだ。8月2日からは以前に同じ役を演じた経験がある筧利夫がエンジニアを勤めることになったが、それまでの間は、駒田一がすべての回のエンジニアを演じた。まず、この奮闘を讃えたい。主なキャストが複数で組まれると、こうした緊急時には助かるが、本来はキャストの組み合わせの違いによる作品の味わいの変わり方を楽しむためのもので、こうした形でダブルキャストが功を奏したのは残念なことで、市村正親の一日も早い回復と、筧利夫の好演を期待したいところだ。

日本での初演が1992年の同じ帝国劇場で、あれからもう22年も経ったのか、という想いがある。その歳月を経て、2012年以降は演出もベトナム戦争の悲劇の結果における再生、ないしは再出発、という点に力点が置かれたものに変えられた。そのため、曲も新たに加わった。確かに、今となっては作品が扱っている時代、ベトナム戦争の末期に当たる1975年も、もはや「歴史的出来事」になりつつあり、若い観客にリアリティを持って伝えることは難しい時代になった。その中で、ドラマの本質は変えずに新たなメッセージ性を加える必要性は重要で、今回の試みは成功していると言える。見渡せば、アンサンブルのメンバーの中には、1975年以降の生まれであろう人たちもおり、現代のように見える箇所がある。しかし、そうした細部をあげつらうよりも、作品全体がより大きなスケールと新たなメッセージを加えたことを評価すべきだろう。

爆撃で故郷を失ったベトナムの人々は、戦争が終わり、「アメリカ」に対してまさに「アメリカン・ドリーム」を見る。しかし、それは言葉の通り「夢」でしかない。厳しい現実の前で生きなければならない人々の姿や苦悩。彼らにこの苦悩を強いたのは、個人ではなく「国家」であり「政治」である。しかし、事情はどうあれ、彼らは毎日の食事を摂らなくては生きて行けない。こうした、一種深刻な問題を突きつける作品がミュージカルになり、世界的なヒットを放ったのは『レ・ミゼラブル』と『ミス・サイゴン』だろう。この二つの作品が、それまでの「明るく華やかな」ミュージカルのイメージを大きく変えた。

駒田一のエンジニアも、アメリカの前では一被害者に過ぎない。しかし、明日に、アメリカに夢を託し、日々を逞しく生きている。クラブ経営に携わり、ほとんど非合法の世界ばかりで生きているが、それとても戦争の被害によるものだ。全体的にもう少し軽さがあり、時折薄っぺらな側面を見せた方が、役柄にリアリティが出るのではないか。そうすれば、名曲「アメリカン・ドリーム」もより効果的になるだろう。キムはトリプルキャストで昆夏美が演じている。クリス、ジョン、エレン、トゥイはそれぞれダブルキャストで、クリスは原田優一、ジョンは岡幸二郎、エレンは木村花代、トゥイは神田恭兵。歌の巧さは岡幸二郎のジョンが圧倒的な迫力を見せる。特に、二幕の冒頭、男性たちだけの「ブイドイ」は圧巻だ。キムの昆は『ミス・サイゴン』へは初参加だが、原田のクリスと共に、自然な感じが悪くない。トゥイの神田は以前にもこの役を演じた経験があり、それが活きた。

初演当時から話題になった巨大なヘリコプターも、映像や音響効果のスケール・アップで迫力を見せ、立派に出演者としての役割を果たした。ヘリコプターは降りて来る時は地上の人々には夢のアメリカへの架け橋だが、飛び立つ時には絶望を残して去る。物を言わぬ大道具に込められた想いが、芝居の中で生きている。8月末まで帝国劇場で上演した後、地方公演を経て10月5日までの長丁場の舞台、出演者に故障のないようにと祈りたい。

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2014.07.14掲載

「八月の鯨」2014.07 江南市民文化会館

昨年12月に三越劇場で上演された劇団民藝の『八月の鯨』が、今年、地方巡演に出ている。5月に川崎市からスタートし、大阪、京都、神戸、奈良、などの京阪神、旭川、釧路、江別、苫小牧、函館などの北海道の旅を終え、四日市や伊勢、多治見などの中部・東海の旅に入った一日、名古屋から30分ほどの愛知県・江南市での公演を訪れた。

アメリカのメイン州沿岸の島で暮らすリビーとサラの老姉妹。以前は毎年夏の海に鯨が訪れ、二人を楽しませていたが、歳月とともに鯨は姿を見せなくなった。穏やかに流れる日々の中に、ロシアの亡命貴族・マラノフが訪れ、妹のサラは心をかき乱される…。老姉妹が主人公なだけあって、芝居の中で取り立てて大きな事件が起きるわけではない。淡々と過ぎてゆく日常が描かれているだけにも見える。しかし、作者のデイヴィッド・ベリーは、単に抒情的な風景を描いたわけではない。

もともと舞台劇として、30代の作者によって書かれたこの作品は、1987年に映画の草創期の大スター、リリアン・ギッシュとベティ・ディヴィスの共演で映画化され、大きな話題になった。20代の私も大きな感銘を受けた記憶があるが、それが本来の舞台劇として、日色ともゑのサラ、奈良岡朋子のリビーという民藝の大ベテラン二人によって演じられ、マラノフには客演で篠田三郎を迎えた。三越劇場での公演の評価が高かったこともあり、旅公演での印象がどう変わったのか、を確かめたかったのである。面白いもので、旅公演を観ると、場所によって見事に観客の反応が違う。反応が鈍いところもあれば、要所要所で東京では見られない感情の動きを感じたりする。観客が住んでいる地域の性質や気風がよくわかるのが、旅公演の楽しみだ。

回数を重ねることで舞台の密度も増し、今までには気付かなかったことも見えてくる。いろいろな意味で、東京の環境の整った劇場で観ている時とは違った空気を感じもし、発見もあるのだ。今回の公演でも、芝居の濃度の問題だけではなく、作品の本質の見え方が深くなった。

目が不自由なために、妹の世話なしでは生活できない、気性の激しい姉・リビーの奈良岡と、明るく穏やかで前向きな妹・サラの日色の芝居がより鮮やかな対照を見せたこと。特に、目が不自由でも住み慣れた家の中でのスムーズな動きと張りのある科白の奈良岡の芝居は白眉である。また、姉妹の友人である稲垣隆史のジョシュアと船坂博子のティシャが、点景としての魅力を増したこと。マラノフの篠田三郎が、過去の想い出にすがって生き続ける男の陰影が濃くなったこと、などが挙げられよう。誰でも年を重ね、過去を懐かしく思い出すことは多い。それだけにすがって生きるのか、それを大切に愛おしみながら、そう長くは残されていない残りの人生を過ごすのか。現在の超高齢化の日本の社会とダブる面も多いが、それよりも「人はどう老いてゆくのか」という問題を作者は観客に突き付け、年を重ねることは「何かを一つずつ諦めてゆくことなのだ」と言う。30代で「老い」の発想などなかったはずの作者の筆は、若書きとは思えないしたたかさで人生の急所を突いてくる。

昔、若かりし姉妹を楽しませた鯨は、今、どこの海を漂っているのだろうか。亡命貴族のマラノフは、季節ごとに知り合いの家を訪ね歩く漂流の生活を続けている。しかし、リビーとサラの姉妹もまた、人生という大海を漂う「鯨」なのだ。しかし、海の中の鯨と決定的に違うのは、来年の夏もまたこの別荘へ戻って来よう、という意志だ。その時には、また「死」に近づき、何かを諦めた上でのことなのだろう。しかし、そこに希望がないわけではない。幕切れ近く、妹のサラが、リビングに海が見える大きな窓を造ることを決める。それが老姉妹の来年への希望であり、生きる目標になるのだ。

『八月の鯨』は、これから9月の末まで、富山、金沢、砺波などの北陸を経て北九州、福岡、下関、鹿児島、都城など九州の旅に入り、長崎で千秋楽を迎える。これから見る機会のある場所に住んでおられる方々の中で、特に「老い」には縁のない若者に、「人生のありよう」を見てほしい芝居だ。

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2014.07.09掲載

PLAYZONE1986…2014★ありがとう!青山劇場★2014.07青山劇場

来年閉館が予定されている青山劇場で、1986年以来29年間にわたって続いてきた恒例の「PLAYZONE」の最終公演である。少年隊の三人が真夏のファンへのプレゼントとして続け、2008年に『Change』と銘打って、次の世代にバトンを渡した。あの年は例年にもました凄まじいほどの熱気で、千秋楽は特別カーテンコールが終わらずに、終演後1時間10分にわたって少年隊が熱いファンの声援に応えていたと、手元の観劇メモに残っている。

青山劇場は客席との距離感や俯瞰した時の視界など、見やすい劇場なだけに、閉館は実に残念だ。しかし、劇場の入り口、プログラム、何よりも公演の名前時代に「ありがとう!青山劇場」と書いてあることに、同じ演劇人として嬉しさを感じる。私にとって、この劇場はジャニーズ事務所の公演だけを観て来たわけではなく、多くの舞台の想い出が詰まっている劇場であり、それを最も多く使ったジャニーズ事務所が、劇場に感謝の言葉を述べている。ここに、ジャニー喜多川がメンバー全員に叩き込んでいるショーマン・シップの精神が見て取れる。「ありがとう!青山劇場」というメッセージは、そこへ足を運び続けてくれたファンに対してのメッセージにも他ならない。

「PLAYZONE」としての総公演数は1208回、観客動員は170万人を超えると言う。これだけの長さになると一つの「伝統」であり、親子二代でのファンもいることだろう。締め括りとなる今年は、今井翼、中山優馬、屋良朝幸の三人を中心に総勢20人でステージを構成し、ジャニーズの先輩たちのヒット・ナンバーを歌い、踊る。それぞれの個性がうまく絡み合い、堂々とステージを取り仕切れるようになった成長の跡が見られる。ここでの公演をバネに、もうワン・ステップ階段を上がることが、出演者それぞれの青山劇場への恩返しだろう。

ステージの幕が降り、観客が通路を出口へ向かう中で、後ろの方から「これで二週間は頑張れる!」という若い女性の声が聞こえた。観客全員を代表する声とは言わないまでも、多くのファンが同様のことを感じていたのだろう。エンタテインメントは、時として人生の重要なテーマに想いをいたすような芝居もある一方で、理屈抜きで楽しむことができ、ステージのメンバーから「元気をもらう」ことも重要な役割だ。中には、ステージを観た後のやるせない疲労感に包まれて家路に着く作品も多い昨今、「演劇を観る」ことが非日常ではなく「日常」になっている私には、いささかの新鮮なショックを伴って聞こえたのは事実だ。すべての面において、作り手が観客に迎合する必要はない。しかし、役者の序列や組み合わせに右往左往し、誰に何を見せるのかが第一の目的なのか分からない芝居が多々あるのも否定のしようのない事実だ。お金を払い、劇場へ足を運ぶ観客の声は正直だ。その中から何を聴き、どこを捉えるのか。この観客の一声は、演劇界が襟を正して聴くべき言葉ではなかろうか。偶然耳にしたものだったが、今後の演劇界の大きな宿題を残し、「PLAYZONE」は幕を降ろすことになる。

しかし、やがてまたどこかで新たに幕を開けることを、多くの観客が期待しているのだろう。多くのファンがその日を待っている。数多くの舞台が本来そうあるべきなのだ。芝居は生きているだけに、その呼吸を捉えるのは難しい。ジャニーズの公演は一過性のブームではなく、「伝統」になった。

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2014.06.27掲載

白い夜の宴 2014.06 紀伊国屋サザンシアター

劇団民藝の、昨年の『夏・南方のローマンス』に続く木下順二作品である。1960年代の半ばに近い夏の夜に、応接間で年に一度家族三世代が揃って開かれる「宴」。祖父は昭和天皇と共に、戦争の後始末に尽力した元・内務官僚。父は、かつては左翼思想を持ち、投獄された経験もあるが「転向」した後に、自動車産業を成功させ、今や大企業の社長である。息子は父の会社で働いている。この三世代の男たちを中心に、それぞれの連れ合いや恋人、友人などが一夜の「宴」の中で語り、明らかになる問題とは…。出演者が圧倒的に多い男の芝居を、『夏・南方のローマンス』に続いて丹野郁弓が演出している。

この作品は、三世代にわたる家族劇と観ることもできるし、三世代にわたる思想の歴史と観ることもできる。戦時中の治安維持法で投獄された父の若き日の姿は、そのまま祖父にも、息子にも重なる。家族劇としてみれば、期待されながらも何かと問題を抱える息子・一郎と父、父と祖父は常にお互いに反逆し合っている。これはどこの家にもあることで、特に男が世代交替をしようとする時の家庭ではしばしば観られる場面だ。この二つの側面を描きながら、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』のように、過去と現在を行き来しながら芝居は進んでゆく。三世代の時間の経過を、「応接間」という空間を動かすことなく、自在に行きつ戻りつしながら進む手法は、今となっては逆に斬新にも見える。

丹野演出は、男たちを中心とした家族が織り成すドラマを、家族劇、思想劇のどちらの側面からも見られるような丹念さがある。その一方で、男の心理や行動を、時にぶっきらぼうなまでに読み切っての演出は、今までにはない味だ。奈良岡朋子や日色ともゑ、樫山文枝など、女優陣を中心に据えた芝居の演出が多いこともあるのだろうが、丹野郁弓の演出にここまで男っぽさがあるとは、変な褒め方だが感心した。

時代は繰り返す、と言うが、今から約50年前の時代設定のこの芝居は、今の時代にぴたりと符号するものがいくつもある。治安維持法を特定秘密保護法に、朝鮮特需をバブルに置き換えれば、何もおかしくはない。それは否定しないが、ここに問題が一つある。治安維持法にまつわるさまざまな社会の動きがどういうものであったのか、「昭和史」の教育をまともに受けていない世代には分からない、ということだ。しかし、木下順二の芝居はこうしたことを平然と突きつける図太さと強さがある。事実や事件を知っているかどうか、という表層的な問題にとどまらずに、考えることを止めてしまい、口当たりの良い芝居しか創らなくなっている演劇人に対して「それで良いのか」と、鋭利な刃物を当てられたような気がするのだ。

役者のことを書いておく。父の膨大な科白と格闘した西川明と、同様に若き日の父と長男の一郎の二役を演じた齊藤隆史の健闘を讃えたい。母の箕浦康子が時折見せる陰影の中の強さ、これもベテランのなせる技だ。朝鮮人を演じた天津民生、役者における肉体の重要性を再認識させた点が評価できる。

時代は容赦なく移ろう。人々も同様だ。伝統は破壊され、新しい伝統を生む。だからこそ、時代の断片を演劇という形式で残しておき、それを次の時代に問い掛ける行為が必要なのだ。芝居は娯楽なのだから、そんなに難しいことを考えずに、笑って観ていれば良いのだ、という考え方もあり、それを否定するものではない。しかし、それだけではない。また、こういう作品だけでもない。その幅の広さが演劇の魅力の一つでもある。

「あなたはこの芝居を、この時代をどう感じますか、そしてどう考えますか」。『白い夜の宴』のメニューに密やかに仕込まれた毒は、後からジワジワ効いて来るタイプのようだ。

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2014.06.16掲載

昔の日々 2014.06 日生劇場

20年ほど前、東京・森下にあった小劇場「ベニサン・ピット」でデヴィッド・ルヴォーの演出作品をよく観た。あの頃はルヴォー・ブームと言ってもよいほどで、多くの演劇人がこの演出家の才能を高く評価した。小劇場の濃密な空間の中での人間模様を、時には息詰まるほどの苦しさ、緻密さで描いたルヴォーの演出は、新鮮な感覚を持って歓迎された。今回上演されている「昔の日々」は、現代のイギリスを代表する劇作家、ハロルド・ピンターが生前、演出をルヴォーに託していた作品だと言う。住宅の一室の中で巻き起こる濃密な人間関係の背後にあるものを、ルヴォーの手によって炙り出してほしかったのだろうか。

静かな海辺の片田舎に暮らすディーリー(堀部圭亮)と妻のケイト(若村麻由美)のもとへ、ケイトの「唯一の」友人であるアンナ(麻実れい)が20年ぶりに訪ねて来る。登場人物はこの三人だけだ。久しぶりに旧友に再会するケイトにはさしたる喜びも見られないまま、アンナが現われる。かつて、ロンドンでルームメイトとして過ごした若き日々の想い出を情熱的に語るアンナに、ケイトは芳しい反応を見せない。不思議な一夜が時を刻む間に、三人の関係性に意外な真相が見えて来る…。

ピンターの戯曲は難解なものも多いが、この作品はその中でも屈指、と言えるだろう。自分の作品を知り尽くしている演出家に託した作者の気持ちも良く分かるが、なかなか一筋縄ではいかない芝居だ。まして、家の一室での濃密な時間を描くドラマには、日生劇場はいささか広すぎる感は否めない。科白や想いが拡散してしまうのだ。ルヴォーの演出がすべて小劇場のものだ、とは言わないが、この作品自身は大きな劇場には向かないだろう。

ルヴォーの演出作品への出演経験が多い麻実れいは、もともと芝居の寸法が大劇場の女優であり、その特質を巧く活かした芝居になった。しかし、若村麻由美の芝居が収縮と拡散のどちらへ向かうのかはっきりとしなかった。両者の演技の方法が違ってしまうと、作品の性質上、終盤へ向かっての辻褄が合わなくなる。ここを巧く解決できれば、もっと作品の濃度が上がっていただろう。堀部圭亮のディーリーはどちらへ傾くとも言えないが、その分、印象的になるはずの後半の芝居のテンポが出なかったのが惜しい。

もっとも、ピンターの芝居を大がかりに演じる機会もほとんどなくなってしまった今、この挑戦は果敢なる心意気として評価したい。もう一つ、プラスされる要素があれば、舞台の内容ももっと濃厚な味わいを見せたはずであり、それがもったいなかった。

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2014.06.04掲載

「6週間のダンスレッスン」 2014.06 博品館劇場

自発的なカーテンコールがしばらく鳴り止まない芝居を久しぶりで観たような気がする。その価値がある作品だった。今回が6演目になる『6週間のダンスレッスン』。主演の草笛光子は変わらずに回を重ねて来たが、相手役は3代目で、ダブル・・キャストだ。この日の相手は文学座の若手・星智也。たった2人だけの芝居だ。

フロリダの海が見えるマンションの14階に住むリリー・ハリソン(草笛)が「6週間の訪問個人レッスン」でダンスを学ぶことにした。現われたインストラクターのマイケル・ミネッティ(星)は、とてもではないがリリーが受け入れられるようなセンスや個性の持ち主ではなかった。しかし、レッスンを重ねるうちに、お互いの心の中に潜んでいるものが白日のもとにさらけ出される。レッスン初日に会って5分後には首になりかかっていたマイケルとリリーの間にあった反発は、やがて理解に変わり、共感となり、お互いをかけがえのないパートナーとして認め合うことになる…。今風に言えば「ハートフル」な芝居なのだが、何よりもまず「洒落て」いる。

各場面のタイトルがダンスにちなんで「スウィング」「タンゴ」「ワルツ」「フォックストロット」「チャチャチャ」「コンテンポラリーダンス」と名付けられ、舞台のセットも、良いものを過不足なく納めてある。先ごろ亡くなった朝倉摂による舞台美術で、まさに「王道」とも言うべきものだ。何よりも、6回の上演を重ねるだけあって、草笛光子が素晴らしい。真っ白な髪に場面ごとのドレスが映え、軽快なダンスの動きは、81歳になるとは思えない。今はアンチエイジング真っ盛りの時代で、誰でも若くなくてはいけないような風潮があるが、その中で美しく年を重ねることの魅力を感じさせる。もちろん、これだけの肉体を維持するには人知れず過酷な努力があってこそのものだが、その片鱗さえ感じさせない軽やかさは、「この芝居には草笛光子しかいない」と断言したプロデューサーの眼の良さだ。美しい日本語の表現に「残んの香」という。草笛光子の魅力は、まさに「残んの香」だ。それは、芝居の後半になって、自分の人生を語り始める構成が感じさせるのかもしれない。1950年に松竹歌劇団に入団以後、60年を超える芸歴の中で培われたものがいかに凄いものであるか、名優としてだけではなく、人生の先輩として生き生きとしている女性の姿が舞台の上にある。

マイケルの星智也。192センチの長身は舞台映えがし、姿の良さに登場した瞬間、客席からじわが来たのには驚いた。演技という面では草笛の胸を借りて、というところがあるのは仕方がないが、この機会に多くのものを吸収してほしい。芝居の前半で彼の人生のキーになる部分を早くに感じさせてしまうなどの違和感はあったが、観ているうちに、良いカップルに見えて来た。もう一人の斉藤直樹がこの役をどう演じているのか、比較してみたいところだ。

今の日本は、超高齢化による人口のバランス、先行き不安な時代での若者の絶望や虚無感など、多くの問題を抱えている。それは事実で、逃げようがない。しかし、何もかもお先真っ暗なわけではない。こういう素敵な年の重ね方もあれば、若者と高齢者の接し方もある。老人は若者に過去の自分やそのパートナーの姿を見出し、若者は年を重ねた人が経て来た喜びや哀しみを知る。これを、単に「芝居の中の話」と取るか、「自分には何ができるか」と取るかは観客次第だが、ぜひとも若い人々に見せたい、観てもらいたい芝居であることは間違いない。

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2014.05.29掲載

『錬金術師』2014.05 東京芸術劇場 シアターウエスト

一般的には、イギリスの中世の劇作家と言えば誰もが「シェイクスピア」の名を挙げる。間違いではないが、同時代の劇作家、ベン・ジョンソンもはずすことはできない作家だ。知名度の点でシェイクスピアよりも劣るために、日本ではあまり上演の機会がないが、人間の「狡猾な」本質を見事に炙り出した喜劇の名手とも言える。「演劇集団 円」では、1981年9月に、西新宿にあった「ステージ円」でベン・ジョンソンの『ヴォルポーネ またの名を狐』という喜劇を日本で初演している。その時に、「こんなに面白い芝居があったのか」と感心し、事あるごとに円のスタッフに「ベン・ジョンソンの作品を…」と言って来た。今回、『錬金術師』が鈴木勝秀の上演台本と演出で新しい形で日の目を見たのは、何とも言えず嬉しいことだ。

ペストが流行るロンドン。逃げ出す金も余裕もない庶民たちの中で、屋敷の留守番役とうだつの上がらない詐欺師(うだつが上がっても困るが)が、主人不在の屋敷を舞台に、人の欲に付け込んだ怪しい仕事を始める。最後には、とうとう「錬金術」まで持ち出す次第だ。その被害者の中には、敬虔な信仰家までいる。貧苦と病気の恐怖に脅かされて生きている中、それでも欲の皮だけは見事に突っ張り、この騒ぎに乗じて一儲けしようという、人間の浅ましくも否定はできない根源的な本質をシニカルに描いた作品だ。鈴木勝秀は、この芝居の随所に「現代的感覚」を持ち込み、中世のロンドンであることをしばし観客に忘れさせる。極端に言えば、場所も時代も関係なく、登場人物がこの芝居の中で自分の欲のために生き生きと動いている姿を描きたかったのだろう。

留守番役の橋爪功と詐欺師の金田明夫のコンビが絶妙である。元来が、せこい人間や小狡い人間を演じさせたら今の演劇界では右に出る者がない、と言える橋爪功が、間もなく73歳になるとは思えない軽快な芝居を見せる。作品は違うが、33年前に素敵なショックを受けた『ヴォルポーネ』を彷彿とさせんばかりだ。それに金田明夫のいい加減さが巧くミックスされ、面白い作品に仕上がった。1975年の設立メンバーである橋爪功から、2013年、つまり昨年入団した深見由真まで、実に幅の広い年代がそれぞれの役どころで、お祭り騒ぎのような舞台を呈しているが、決して品が悪くはならない。これだけの年代を揃えられるのが劇団や演劇集団の強みであり、個性である。この作品は、そうしたものがうまく活かされ、良い意味での「暴発」を見せた芝居だ。

現代が、ペストに脅かされる中世のロンドンと同じだとは言わないが、驚異の形が変わっただけで、実はかなり近いところにいるのかもしれない。しかし、そこに生まれ合わせたのも巡り合いとばかりに、馬鹿騒ぎを繰り返す愚かでせこい登場人物たちの行動を、観客は大笑いして観ている。芝居とは、これでいいのだ。たまには、自分の人生に深く想いをいたしたり、涙を滲ませたりする芝居も必要だ。しかし、どんな時にもわがままでしたたかな「人間」を、「馬鹿なやつ」と思いながら、たいして程度の変わらない我々が客席で腹を抱えて眺めている。この光景もまた、見事な喜劇だと、ベン・ジョンソンは皮肉な笑いで眺めているのかもしれない。どれほど時代が変わり、文明が進もうと、人間の本質など簡単に変わるものではない。その視点で観れば、この芝居は大いなる「人間讃歌」でもあるのだ。

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2014.05.23掲載

「倭結成20周年記念日本ツアー」2014.05 静岡県・焼津

この「演劇批評」でも、何度か奈良県・明日香村に拠点を置いて活動している和太鼓集団「YAMATO」の事は書いた。年間約200ステージの多くを海外で行い、1993年の結成以来、世界53ヵ国で公演を行い、総観客動員数が600万人を超えたという集団だ。和太鼓集団はどこもそうだが、そのステージはほとんどスポーツに近いほどハードで、ずば抜けた身体能力を持っていなくてはできない。もちろん、太鼓を叩けた上で、のことだ。

最初に彼らのステージに出会った時、その魅力は「土俗的で、我々日本人の『原初』の感覚を呼び覚ますところ」にあると書いた。古代の神に奉納する藝能としての感覚に近いものを持っていたのだ。しかし、同時に藝能は進化するものだ。その土俗的な匂いを微かに残しつつも、ここ数年の間で彼らのステージはみるみる変わった。外国では2000人を超えるホールが満員になる集団でも、日本ではなかなかそうは行かない。それを、地元である日本の人々にどう見せるか、という試行錯誤の結果、ステージが「ショー」として洗練されて来たのだ。

「和太鼓を聴かせる」という本質に何も変わりはない。それ以上でも以下でもいけない。その中で、若いメンバーの技術がずいぶん進歩した。ベテランはさらに力を増した。それが、二幕の構成も徐々に変化をもたらした。その結果、本来の聴かせる要素に加え、「見せる」要素が進化し、2時間のステージのまとまりがより濃度の高いものになった。観客席とのコミュニケーションの取り方も以前よりもスムーズになり、最後にはステージと客席が一体化する。うまく観客を乗せることができるようになった証拠である。

今年は4月12日に奈良県・桜井市でツアーのスタートを切り、全国47都道府県で公演を行うという。それがすべて終わる頃には、同じステージでもさらに密度の濃いものになるだろう。各地の観客が舞台を育てるからだ。ハードなツアーのスケジュールの中で、日々違う土地で同じステージを見せても、各地での観客の反応は違う。これは、「倭」だけではなくどんな芝居にも言えることで、ここが全国ツアーの面白いところだ。

今年のツアーは第一弾「路上」と第二弾「爆音綺譚」の二つのパターンがある。焼津での今回のステージは第二弾の「爆音綺譚」で、下半期のいずれかで第一弾の「路上」も聴いてみたい。なぜ彼らがステージの内容を二種類に分けたのか、その理由が知りたいからだ。演奏する曲は当然違うが、コンセプトがどのように違い、どういうステージを見せるのか。何がどう違い、あるいは違わないのか。20周年を一つの起点として、新たな歩みを踏み出した彼らのパワーに満ちた音楽の先に、何が見えるのだろうか。それが楽しみな集団だ。

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2014.05.18掲載

ロンサム・ウエスト 2014.05 新国立劇場 小劇場

幕が開いて2分後には、主な登場人物である兄弟が、猛烈な勢いで喧嘩をしている。その言葉は下品で薄汚く、世間一般の常識に照らし合わせても、わざわざ罵り合いをするほどの問題でもない。しかも、二人はたった今、父の葬儀を終えて家に帰ったばかりなのだ。神父が慌てて仲裁に入るものの、ハエが止まったほどにも感じていない。

ロンドン生まれのアイルランド人であるマーティン・マクドナーの『ロンサム・ウエスト』。兄のコールマン(堤真一)、弟のヴァレン(瑛太)、ウェルシュ神父(北村有起哉)、近所の女の子、ガーリーン(木下あかり)。登場人物はこの四人だけの一幕物の芝居だ。アイルランドの片田舎を舞台に、決して裕福とは思えない兄弟が、きっかけを探しては取っ組み合い、罵り合い、喧嘩ばかりしている。たまに、一陣の風が吹き抜けるように、二人の生活に彩りを与えているのがガーリーンだ。神父は二人のために何を説いても、自分の無力感に、兄弟と一緒になって酒に溺れている始末。この兄弟は何を考えて生きているのだろうか。「いかにして、一瞬でも相手より優位に立つか」だ。こんなバカげた話はあるまい、と芝居を眺めていると、戯曲の持つ力に引き込まれてゆく…。

堤と瑛太の丁々発止のやり取りが面白い。特に、芝居の後半になり、一旦は考えを改めたか、に見える二人がまた言い合いを始める辺りは、絶妙の間で見せる。よくもこれだけ汚い言葉を、と思えるほどの科白が速射砲のように狭い家の中を飛び交っている感覚だ。無力で愚痴ばかりこぼし、真面目なくせにか、そのゆえにかアルコールに溺れ、やがて絶望して死を選ぶ北村の神父が、二人のコンビを陽とすれば陰の役割を果たし、芝居の中でのよい対照になっている。木下のガーリーンは、天真爛漫な少女のように見えるが、この人心が荒れ果てた村の中で「生きる」ことの意味がどういうことであるかを知っている。

芝居の中には、時折ハッとさせられる科白に出くわすことがある。私はこれを「科白が利いている」と表現するが、この芝居の中で、毎日飽かずに喧嘩を繰り返す二人が、その理由を「相手のことを気にしてるからだ」と言う。二人とも、殺したいほど憎い相手でありながら、どちらかがこの家を出てゆくのがたまらなく恐ろしく、寂しいのだ。「喧嘩するほど仲がいい」という諺の範疇を超えているかもしれない二人だが、この一言は言い得て妙だ。どんな相手でも、一人でいる孤独を乗り越えさせてくれるのだ、という人間讃歌でもある。とは言え、二人の生活ぶりや行動はお世辞にも褒められたものではない。しかし、その分、人間くささがプンプンしている。現代の我々が、「良識」や「常識」の名のもとに心の奥底にしまい、浮かび上がって来ないようにしている「生の感情」のままに生きているからだ。「呑みたいから呑む」。誰の酒であろうが、何時であろうが関係ない。今、呑みたいのだ。考えようによっては羨ましいとも言える。しかし、この生活が本当に幸せであるかどうか、と言えば、誰もがそうは思わないだろう。

演出の小川絵梨子が、こうした感情の深奥に潜むものを丁寧に舞台の上に炙り出している。最近、若い演出家の中には、芝居の骨法をきちんとわきまえ、誠実に仕事をする人が増えて来たような気がする。彼女もその一人だろう。突き詰めると、面白い芝居に欠かせないほ¥ものは、一に脚本、二に役者、三に演出、そして観客なのだ。

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2014.05.13掲載

お染の七役 2014.05 国立劇場 大劇場

1986年以来恒例となっている前進座の五月・国立劇場公演は、鶴屋南北の『お染の七役』だ。ちょうど80年前の1934年、まだ劇団が創立して間もない頃に、先代の五世河原崎国太郎が、渥美清太郎の改訂・脚本で復活上演し、七役を演じて歌舞伎界でのスタンダードな演目となったものだ。以降、坂東玉三郎や中村福助、そして当代の六代目国太郎が演じ、女形の人気演目となった。当代は16年前に国太郎を襲名した折の演目でもあり、祖父以来の前進座の財産演目ということからも、今回の上演に当たっての感慨は一入であろう。今月は明治座で同じ鶴屋南北の『伊達の十役』を市川染五郎が演じており、期せずして南北の「早替わり作品」の競演となった。

油屋の娘、お染と丁稚・久松の心中で名高い事件は歌舞伎化され、幾つもの作品群ができた。最も有名で頻繁に上演されるのは、通称『野崎村』と呼ばれる『新版歌祭文』だろう。今回の『お染の七役』は、正式には『於染久松色読販』(おそめひさまつうきなのよみうり)と言い、心中事件に至るまでのドラマ性よりも、一人の役者が二人の中心人物を囲む人々をどう演じ分けて見せるか、に焦点が置かれている。国太郎は、お染、久松の他に、母の貞昌、奥女中の竹川、お光、芸者小糸、お六の計七役を演じる。立役は久松だけで、後は全く個性の違う女性だ。大家のお嬢さん、田舎娘、御殿女中、芸者、中年、「悪婆」と呼ばれる悪女など、女形の役の類型とも言うべきものの多くが詰まっている。これらを早替わりで外見だけではなく、その心情も含めて演じ分けるのが眼目だ。16年ぶりとあって、初演の折には演じ切れなかった、女性の心理が深まったのが全体の印象だ。同時に、それほどの歳月を感じさせない若々しさを持っている。それを意識してか、母の貞昌などは発声の方法や科白づかいに殊更の気づかいが感じられた。唯一の立役である久松は、中性的な要素を持った美少年で、この役の柄が今までに演じて来た役者の中では最も合っている。

回りを囲むメンバーの中では、矢之輔のコミカルな味、圭史の悪の色気と迫力、芳三郎の二枚目ぶりがいいバランスで舞台を構成している。

幕切れには今年84歳の中村梅之助が健在ぶりを見せ、嵐圭史、藤川矢之輔、山崎辰三郎、嵐芳三郎など、座の総力を結集した公演となった。劇団制の良いところは、世代を超えて多くのメンバーが集まり、密度の濃い芝居を見せられることだ。創立メンバーから数えて「第三世代」と呼ばれる国太郎、矢之輔、芳三郎といったメンバーを中心に、こうして国立劇場での大きな芝居が開けられるようになったのは喜ぶべきことだ。この勢いを更に広げ、これからどういう芝居に挑戦するかが、今後の前進座に課せられた大きな課題だろう。

いろいろな意味で「正念場」とも言えるが、演劇界全体の観客の高齢化、演目の選定などは、どこも頭を抱えている問題である。そこをどう打破するか、劇団としてのまとまりの強みを活かせるのはこういう時でもある。丁寧に時間を掛けて磨き上げてきた先人の財産を大切にしながら、今の世代が次の世代へ渡すべき財産演目をも同時に創らなくてはならない。「第三世代」に課せられた義務は大きく、重いが、幸いにも道が閉ざされているわけではない。今回の公演をバネにして、次へ羽ばたくチャンスである。ここで飛翔をすることが、観客や先人への恩返しになるだろう。苦しいところだろうが、乗り切って新たな前進座の魅力を創り上げてほしいものだ。

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2014.05.07掲載

「愛の讃歌」2014.04 新国立劇場 中劇場

美輪明宏がこの作品を初演したのは、約35年前の渋谷「ジァン・ジァン」だと言う。以降、博品館劇場、サンシャイン劇場、ルテアトル銀座とだんだん大きな劇場で回数を重ねて来た。私が最初にこの舞台を観たのは、1981年のサンシャイン劇場での舞台で、この時は二回の休憩を含め、上演時間が3時間だった。今回は、同様の形態で上演時間が3時間40分である。作・演出も美輪自らが行う中で、試行錯誤を繰り返し、内容がどんどん膨らんできた結果であろう。それでもなお、前回に観た舞台と比べると、ピアフの友人の部屋の場面がカットされていたりと、その時々に工夫がなされており、タイトルにも「美輪明宏版 愛の讃歌」と銘打ってある。いまだに現在進行形の舞台、というわけだ。

実在の人物の生涯を芝居で演じるには多くの困難がつきまとうが、やはり圧巻は、この物語の主人公であり、美輪自身が尊敬してやまぬエディット・ピアフの楽曲が聴けることだろう。「アコーディオン弾き」に始まり、「ミロール」「群衆」「バラ色の人生」「愛の讃歌」「水に流して」。ピアフの名曲の数々がよみがえり、ファンとしては歌と芝居と両方が楽しめる、というところだろう。ほとんど出づっぱりの舞台をこなす美輪明宏の元気さには驚嘆すべきものがあり、見事なものだ。

若い人々を中心に多くの支持を集め、半ば教祖の趣も出ているが、今までの美輪明宏という歌手であり俳優である「怪物」とも「巨人」とも言える人の歩みを35年近くにわたって観て来ていると、感慨深いものがある。必ずしも、今のように人気絶頂の時代ばかりが続いていたわけではない。しかし、何度も不死鳥のように甦り、女王の座を手にする姿は、ピアフの生涯に通じるものがあるとも言える。

ピアフの妹・シモーヌを演じているYOUが自然体で、姉・ピアフに関するまさに「無償の愛情」が感じられて、この舞台で一番の収穫だ。前回の2011年公演以来、二回目となるが、すっかり自分の役にしている感がある。美輪明宏のピアフは堂々たる大スターの風格が漂うが、各幕の交通整理をもう少し行えば、エピソードの羅列ではなく、人間・ピアフのドラマがより深まるだろう。

圧巻は二幕の幕切れ、恋人であるボクサー、マルセル・セルダンの死を知ったピアフが、心身共にボロボロの状態でパリのオランピア劇場で「愛の讃歌」を絶唱する場面が秀逸だ。美輪の科白の中には、ピアフの楽曲に対する想いや自分の人生観、「愛」に対する考え方などがふんだんに盛り込まれており、あえて「美輪明宏版」と銘打つ理由もここにあるのだ、と感じる。ピアフの生涯はいろいろな人の手によって何度も舞台化されており、多くの女優が演じて来た。しかし、この舞台はそれらのものとは一線を画している。シャンソン歌手で俳優という両方の立場を持つ美輪明宏という存在、そしてもはや知る人がだんだん少なくなるエディット・ピアフと時代を共にした、という点だろう。

わずか47歳という生涯で、普通の人の二倍も三倍にも相当する濃密な人生を生き切った稀代のシャンソン歌手、エディット・ピアフ。来年には生誕100年を迎える。

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2014.04.29掲載

「ファスター/カルミナ・ブラーナ」2014.04 新国立劇場 オペラパレス

日本が「国立の」オペラハウスを持てたのが歴史的な眼で見ればつい最近のことだが、「国立」に囚われずにどんどん新しい試みを行っているのは評価に値する。今回上演された二本のバレエのうち、「ファスター」は日本初演である。2012年のロンドン五輪の折に、オーストラリアの作曲家・マシュー・ハインドソンがオーケストラのために委嘱された作品に、この公演の芸術監督であるデヴィッド・ビントレーが振付を行ったもので、サブ・タイトルに「オリンピックのモットー『より速く、より高く、より強く』にインスパイアされた、デヴィッド・ビントレーのバレエのための音楽」とある。ここからも分かるように、アスリートたちを主人公にした作品で、40分の小品が「闘う」「投げる」「跳ぶ」「シンクロ」「マラソン」「チームA」「チームB」と分けられており、ダンサーたちが全肉体を駆使し、跳躍し、走る姿は、まるでスポーツのようだ。バレエも究極的には美術も何もいらず、演者の肉体美そのものが芸術品になる、という例だろう。男女を問わず、確かにその肉体美は美しく、中には一瞬、本当のアスリートが混ざっているのではないかと錯覚さえするほどだ。それほどに鍛え上げられた肉体をもってしても、この40分の作品はいかにもハードで、ダンサーの肉体の限界に挑むような側面をも持っている。主な役のいくつかはダブル・キャストで、私が観た舞台では小野絢子と福岡雄大が今後の可能性を感じさせる素材の魅力を感じさせた。

どんなに古い作品や有名な作品にも、必ず「初演」はある。この作品の日本の初演に立ち会うことができたのは、最近の舞台では収穫と言えよう。俳優の肉体による表現、しかも一切科白を発しない代わりに、音楽と共に表現するバレエという芸術が、幾多の歴史的名作を残した上で2012年にたどり着いた一つの到達点とも言うべき作品だ。どのジャンルの舞台芸術にも言えることだが、演者の肉体の魅力が「言語」ないしは「感覚」として観客に伝わる。他の分野と比較をしても意味はないが、少なくも良い意味でのショッキングな作品であることは間違いない。

もう一本の「カルミナ・ブラーナ」は、1937年にドイツの作曲家、カール・オルフによって発表された作品で、神学校を舞台にした青春時代の若い男女の物語である。冒頭の「運命の女神よ」は映画やテレビでもずいぶん利用されており、聞き覚えのある観客も多いだろう。若い男女の間における恋愛・セックス・出産を通して、生命の輪廻をテーマにしたとも取れる作品だ。今から80年近く前のものだが、当時は神学校を舞台にこうしたテーマを扱うことはスキャンダラスな受け取り方をされたかもしれないが、きっちりと骨格が創られ、納められた「古典」という感覚が作品のバランスを保っている。こちらも日によってキャストが違うが、「神学生3」を演じたタイロン・シングルトンが、鍛え上げらえていながらしなやかな肉体の力強さを見せ、その魅力を発揮した。オーケストラ・ピットに並んだ新国立劇場合唱団の面々、東京フィルハーモニー交響楽団と実に贅沢な舞台だ。その中で、若い才能がこれから開花する瞬間、あるいは秘めた可能性を見せるこうした舞台は、新国立劇場の公演の義務とも言える。今回の二本の作品では、その義務を見事に果たし、観客の期待に応えてくれたことが嬉しい。

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2014.04.24掲載

「きりきり舞い」2014.04 明治座

諸田玲子の小説『きりきり舞い』を原作に、田村孝裕の脚本、上村聡史の演出で、田中麗奈の主演で「時代劇コメディ」が上演されている。加藤雅也演じる十返舎一九の娘・舞を田中が演じ、熊谷真実の一九の妻・えつを中心に、板尾創路の葛飾北斎、篠井英介の踊りの師匠・勘弥姐さんなどの「奇人」ばかりが集まる中での騒動を描いた二幕物だ。最近の時代劇では、洋楽が使われることにだんだん観客も違和感がなくなって来た。こういう方法も悪くはないが、今回の場合で言えば科白のアクセントが現代調の役者と、時代劇の役者が混在していた。これは、どちらかの時代でまとめた方がすっきりしただろう。一幕、二幕がそれぞれ80分で十一場、十二場と場面転換が多いが、昨今ありがちなテレビのカットのようなめまぐるしさではなく、見せるべき場面にはきちんと時間を掛けている創り方には好感が持てる。若い感性が大劇場演劇の中で、どういう才能を発揮してくれるか、これは今後の演劇界に大きな期待が寄せられると同時に、試行錯誤を繰り返さなくてはならない問題でもある。

舞台全体を見渡すと、誰かが突出して巧い、というわけではなく、「きりきり舞い」のチームとしての芝居づくりのような感覚がある。これはこれで一つの方法だろう。その中では、熊谷真実の安定感としなやかさが抜群だ。笑わせるところは笑わせ、締めるところは締め、と芝居のメリハリが利いている。明治座への出演が今回で12回目ということだが、その理由が納得できる。安心して芝居を任せられる役者だからだ。主演の田中麗奈、舞台の経験がそう多いわけではないが、意外に舞台に向いているところがあるかもしれない。もう少し弾け切ってしまえば、もっと大きな笑いを生むことができただろう。場数を重ねて体験することだが、予想よりも良い出来だ。加藤雅也の十返舎一九は、最初は容姿が邪魔をしている部分があったが、後半になって自分の心情や過去に触れる辺りから芝居が深まって行った。舞台映えをする恵まれた身体を活かせるような場面が、もう一つ二つ欲しかった。舞の幼な馴染みで北斎の娘・お栄は南海キャンディーズの「しずちゃん」として人気を博している山ア静代。大柄な体格で男のようにぶっきらぼうな口を利くが、実に丁寧に真面目に芝居をしている。その個性ゆえに役柄を選ぶかもしれないが、この舞台では個性と役柄がぴたりと一致した。篠井英介の踊りの師匠ぶりが賑やかだが、これだけではもったいない。せっかくの得難い個性をもう少し幅広く見せる方法はなかっただろうか。

十返舎一九や葛飾北斎、この芝居には登場しないが東洲斎写楽、喜多川歌麿などが生きた幕末に近い江戸時代末期は、強烈な個性の持ち主がぞろぞろいた時期で、芝居の材料としては大きな魅力を持った時代だ。その中で、今回は戯作者である十返舎一九とその家族にスポットが当たった作品だが、個人だけではなく、この時代が持っていた、煮え滾るようなエネルギー感が芝居の背後に流れていれば、もっと芝居に厚みが出て面白くなっただろう。そこに登場する奇人変人の生き方が、もしかするとまっとうな人々として、より鮮明に浮かび上がったかもしれない。

芝居全体の出来としては悪くはないのが、脚本がもう少し深く人物を書き込んであれば、もっと鮮明でエネルギーに満ちたコメディになっただろう。それが惜しいが、今後に期待することにしよう。

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2014.04.13掲載

「酒と涙とジキルとハイド」2014.04 東京芸術劇場

歌舞伎では、作品の構造を現わすために、「世界」という言葉を使う。みんなが良く知る過去の物語や事件を素材にし、これを大きな骨組みとして芝居を組み立ててゆく。この素材になるものが「世界」だ。例えて言えば「平家物語」であり「太平記」だ。そこに、作者ならではのアイディアである「趣向」を加え、今の言葉で言えばいかに「オリジナリティ」を出すか、今までにない面白さを見せるか、が作者の腕だ。

誰もが知るイギリスの名作の名を借りたこの芝居は、『ジキル博士とハイド氏』の「世界」に、三谷幸喜の「趣向」がたっぷり盛り込まれた、まぎれもない「新作歌舞伎」だと言える。多くの人々が少年少女時代に、子供向けに翻訳されたものや抄訳された形で読んだか、あるいは粗筋だけは何となく知っているが、詳しくは忘れた、というところだろう。イギリスの作家・スティーヴンソンの名作『ジキル博士とハイド氏』が置かれている現在の微妙な立場に眼を付けた三谷幸喜の着眼点の鋭さだ。飲めば人格が変わるという薬を開発するジキル博士を、今、向かうところ敵なしの勢いがある片岡愛之助が演じ、ハイド氏を藤井隆、ジキルのフィアンセ・イブを優香、ジキルの助手・プールを迫田孝也と、四人の登場人物しかいない。

休憩なしの1時間45分、後半は全くのスラップスティック・コメディとなる。前半の展開から一挙にスピードアップし、役者は舞台の上を駆け回っているような状態だ。愛之助と藤井隆という組み合わせの妙も面白いが、西洋の紳士であるジキル博士を演じている愛之助に、あえて歌舞伎調で科白を言わせたり、薬を呑んで人格が変わったイブの動きに歌舞伎の舞踊の動きが取り入れられていたり、と、作者のいたずら心があちこちに散りばめられている。愛之助が大ブレイクしたきっかけの一つになったドラマでの「オネエ口調」も、不自然にならない展開の中でうまく登場させ、爆笑を誘う。こうした、他のヒット作品や役柄からの「頂き!」も、まさに歌舞伎の発想であり、どこにもそうは書いていないが、やはり「新作歌舞伎」にしか見えない。ここまで弾けることができるのは、「歌舞伎座」という伝統の呪縛でがんじがらめにされた空間に関係のない劇場で演じているからであり、これを歌舞伎座で上演したら、ここまで観客は沸かなかっただろう。歌舞伎座で上演する新作歌舞伎よりも他の劇場のそれの方が圧倒的に面白いのは、関係者の多くが無意識に抱えているこの「呪縛」の問題が影響しているからに他ならない。

そういう意味で言えば、この芝居は、昔の歌舞伎の精神に立ち返った「何でもあり」、の面白さなのだ。藤井隆が汗だくになって舞台を駆け回り、それを追い回すようにドタバタと二人が芝居をするその絶妙な掛け合いの面白さと、助手でありながら、他の三人をいいように操り、一人でほくそ笑んでいるような迫田孝也の醸し出す雰囲気が絶妙だ。優香も、完全に開き直って弾けている部分があり、それぞれの役者の個性を巧みに引き出し、楽しい芝居になった。舞台の裏で邪魔にならないように効果を上げている生演奏も贅沢だ。日本ではなかなか上質のコメディが生まれにくい土壌があるが、嬉しいことに最近はかなり増えて来た。観客の指向もそちらを向いている時がしばしばある。劇場でしんみり何かを考え、ドラマに感動することも魅力なら、どうでもいいようなバカバカしいやり取りに腹を抱えて笑うのもまた、芝居の魅力だ。この芝居、役者が弾け切れたこと、この顔ぶれだからこそ成立したところに成功の要因がある。誰か一人でも違っていたら、この成果は上がらなかっただろう。作者の「笑うだけ笑って、後には何も残らない」という作品の主題は、再演を想定していないところにあるのかもしれない。

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2014.04.09掲載

「女殺油地獄」2014.04 金丸座

江戸時代の風情を今に残す香川県「金丸座」での「こんぴら歌舞伎」も、今年で三十回目を迎えた。早いものだと感じると同時に、こうした試みが地域の芸能としてしっかり根付いたことの嬉しさをも感じる。今年は市川染五郎を座頭に、中村壱太郎、上村吉弥、尾上松也などの顔ぶれで一座が開いた。ちょうど桜も見ごろで、春の旅にはよいかもしれない。

夜の部、『女殺油地獄』、この頃は油まみれの殺しを見せる「豊嶋屋内」で終わらせずに、その後の場面まで上演するケースが増えて来たが、これは良い傾向だ。河内屋与兵衛という青年のその場限りの行動がどう完結するか、そこまでをキチンと作品として見せることになるからだ。

染五郎の与兵衛、遊蕩ぶりが板に付いた、良い色気と風情だ。気まぐれな男であり、機嫌の良い時や自分の思うように事が運んでいる時と、追い詰められた時の落差が激しく、この若者がいかにその場限りの人生を生きているかがよく分かる。人により演じ方はさまざまだが、染五郎の与兵衛はその場の感情に任せて動く人間像を色濃く描いている。この芝居の見どころである油にまみれての殺しが行われる「豊嶋屋内」の出の瞬間の顔付きは、凄惨ささえ感じさせるものがあった。最悪の場合は、殺しても仕方がない、という、深く考えもせずに決心をして懐に刀を呑んで来たように見える。まったくの衝動殺人なのだが、それでも与兵衛は少ない選択肢を一応わずかな時間ではあるが考え、その結果、考えること自体が面倒になり、「最悪の場合は…」とその後を考えずに出て来たように見える。それを頭の中で想定し、自分がこれから起こすかもしれない行動に脅えてもいる。そんな数種類の感情がこの時の顔から見て取れた。油屋のお吉を殺した後、何食わぬ顔で逮夜に悔みに来て証拠が見つかってしまい、引き立てられてゆく。中には高笑いをしながら引っ込む場合もあるが、染五郎はそばでおろおろ涙を流す両親に目を走らせ、半ば決然とした、あるいは逆に悄然とした想いを浮かべて花道を引き立てられて行った。改めて自分のしたことの罪の大きさを感じると同時に、「これ以外にどんな方法があったのだ」とでも言いたげである。

この作品が語られる時に、「現代の青年像に通底する」という旨が枕詞のように使われる。しかし、近松門左衛門は予言者ではなく劇作家である。彼が描こうとしたのは、「どこの時代にでもいそうな場当たり的な生き方をする青年。その行動と破滅」の一つのパターンであり、現代にも当然いるが、明治にも大正にも同じことが言えるはずだ。近松が描こうとしたのは、数は少ないがある意味では普遍的な、暴発する青年の姿ではなかったのだろうか。

油屋のお吉は壱太郎。若さゆえに、子持ちの人妻の色気、という点ではいささか物足りない。しかし、お吉の亭主・七左衛門の松也もそうだが、自分の年代よりも上の役を演じることで役者は鍛えられてゆくものだ。そうした意味で言えば、足りないところはあるものの、決して不合格というわけではない。兄貴分の染五郎に引っ張られ、こうした役をどんどん自分の持ち役にすることだ。それに応えることが、こうした役への抜擢に対する答えだろう。

大劇場では感じられない役者との距離感の近さ、客席とのやり取りをしながら手の触れることができそうな場所で芝居をする役者を観ることが、こうした劇場での「ご馳走」である。義太夫の三味線の響きも、歌舞伎座や国立劇場とは明らかに違う。江戸時代をそのまま再現することはできないが、現代人にはいささか窮屈とも言える空間に身を置くことで、ふと自分が江戸時代にいるような感覚になれる。東京からは遠いが、数年に一度はこの空気の中で芝居を観たいものだ。

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2014.03.27掲載

「あとにさきだつうたかたの」2014.03 本多劇場

この芝居の作者・山谷典子は30代後半の女性で、文学座の女優でもある。また、自ら演劇集団「Ring-Bong」を立ち上げ、主宰・劇作・出演を行っている、何ともパワフルな女優だ。そんな女性がタイトルを一見しただけでは内容が想像できない芝居でこだわっているのが「戦争」だ。もちろん、彼女は戦争を知らない世代である。しかし、彼女が祖父母の世代から見聞きしたことは、まだ生々しさを失うことなく残っており、そこへ現代の「戦争」とも言える原子力の問題を絡めた作品だ。私も、作者も当然ながら戦争を知らない世代だ。しかし、「東日本大震災」を機にまだ収束の見通しがつかない原発の問題は、我々の世代にとって、ある意味での戦争ではないか、と私は考えている。そうした感覚を、若い世代の作家が肌で感じ、先の大戦との共通項を見つけて一本の芝居にまとめた、という点では観客として共感できる。

都内にある歴史博物館に毎日訪れる老人。飽きることなく開館から閉館までを博物館で送る老人は、従業員の間でも話題になっている。終幕近くに、その理由を語り出すのだが、それまでの間は、戦争中や戦後の闇市、昭和63年の静岡の原子力館などを、場面を変えずに時代が行き来する。そこで語られるのは、戦争の忌まわしい記憶だけではなく、戦後も形を変えて我々の前に現われる戦争のような生活である。この老人・静雄を演じているのが加藤健一。衣装を変えずに75歳の現在、戦争中の7歳、戦後の8歳、昭和63年の50歳を演じ分ける。形にこだわることなく自由に時代をタイムスリップさせる柔軟な筆も面白いが、演じる加藤健一にも不自然さがない。なぜなら、その少年時代や壮年期は、実際に経験してきた事柄ではあるが、老人の頭の中で起きている「回想」でもあるからだ。ただ、演じる方としては順番が関係なく年齢が変わるので、そこが難しいだろう。もっとも、それが観客には新鮮な驚きをもって迎えられるのだ。

少人数の作品を選ぶ傾向が多い加藤健一事務所にしては珍しく、この芝居には12人の役者が登場する。静雄のおば・たかを演じる伊東由美子の確かな存在感と逞しい母性が好演である。もう一人、盲目の傷痍軍人・外村の高野絹也のすべてを見透かしたような明るさが、逆に哀れを誘う。平成と元号が変わってもう26年になり、来年は終戦後70年を迎える。私が子供の頃には、新宿駅の西口と東口を結ぶ汚いトンネルで傷痍軍人をよく見かけたものだが、そうしたことどもがどんどん遠く微かな記憶になりつつある。これが「風化」なのだ。戦争も原爆も、東日本大震災も、「風化」させてはいけないと叫ぶ人は多い。それは真実だ。一方、日々の暮らしの中で、大事なことの多くを忘れ、風化させてしまう我々の姿もまた事実である。そうならないために、こうして芝居の中で、その当時を生きていない年代の人々によって想像の翼を広げることに、意味があるのだ。もう後数年か十年もすれば、戦争経験者が演じる芝居や書く芝居が観られなくなる、という厳しい現実がすぐそこまで来ている。その中で、風化を防ぐには、形式はどうあれ「語り継ぐ」しかない。休憩なしの2時間の芝居を通して、加藤健一が演じる静雄の幼少から老年期までの人生を、戦争というキーワードと共に語り聞かされているような気がする。そんな芝居だ。

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2014.03.07掲載

「写真提供:テアトル・エコー」

病院でも患者に「様」を付けて呼んだり、プライバシー保護のために入院病棟の部屋には名札を掲げない病院も出て来た。時代の流れとは言え、世の中も変われば変わるものだ。この芝居も、巷によくある「名医100人」のような話題かと思って客席に付いたら、そこへ行く以前の問題を喜劇にしたものだ。コメディ専門のテアトル・エコーの面目躍如とも言える舞台で、病院の格付け「ミシュラン」の調査員が潜入しているとの噂が、大きいとは言えない病院の中でドタバタの騒動を巻き起こす。面白い芝居だが、今の時代、事実だと言われてもおかしくないようなリアリティをも持っている。

作者の唐沢伊万里は、1962年生まれで、昨年の7月に、25年に亘るがんとの闘病に力尽き、この舞台を観ることなく世を去った。この作品は、もともとテアトル・エコーが募集している創作戯曲に2003年に応募したもので、最終選考にまで残った。翌年、『改訂版・病院ミシュラン』として、異例の再エントリーをし、佳作入選を勝ち得たものである。今回の舞台用に改稿も考えていたそうで、作者が並々ならぬ情熱を注いだ一本なのだ。それが成就できなかったのは無念だろうが、この作品も充分に面白い。作者の個人的な事情をつぶさに知るわけではないが、長年の闘病生活を送ったせいか、「病人」側の視点が非常に鋭く、リアルに描かれている。閉鎖され、ある意味での管理下に置かれた小さな「閉鎖社会」の中で巻き起こる人間模様。確かに、こうしたものはあるものだ、と短期間の入院ながら経験のある私にも頷ける部分は多い。尤も、入院せずとも医者にかかったことのない人は滅多にいるものではなく、観客のほとんどがどこかしらで「あるある」と頷けるような親近感が、不思議と嫌な感じではなく持てるのだ。

コメディに不可欠な要素はいくつもあるが、中でも「勘違い」と「すれ違い」は重要なウエイトを占める。この二つが、実に巧みに織り込まれ、伏線として張り巡らされているのが、この作品の魅力だ。登場人物も全部で11人、上演時間も休憩を挟んで約2時間と、小劇場の濃密な空間で見せる芝居としてはちょうど良い規模だ。そこに含まれているいささかのスパイスが小気味よく効いている。こうした作品を書ける力のある作家を喪った痛手は大きいが、この作品をよりブラッシュアップしてゆくことが、テアトル・エコーの仕事でもあり、作者への追悼でもあろう。

あり得ないほどの食欲を持ちながら、糖尿病で食事制限をされている設定の田中英樹が、持ち前の体格を活かして、パワフルでぶっきらぼうな中に見せる優しさが自然だ。また、入団3年目で、研究生ではあるが、今どきの若者のノリでのびのびとマイペースの芝居を見せる杜の万平に今後の可能性を感じる。この作品には、テアトル・エコーの大ベテランやスターは出ていない。しかし、芝居にテンポと熱気がある。芝居が上滑りする箇所もないではないが、それは今後、上演を繰り返してゆく中で解消されるべき問題だろう。何よりも「面白い舞台を創ろう」という役者の気持ちが伝わって来る。作者の唐沢伊万里も、泉下で微笑んでいることだろう。

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2014.02.23掲載

「撮影:谷古宇 正彦」

20世紀を代表する哲学者・サルトル。日本でも一時はブームのようにサルトルの戯曲を上演していた時代があった。しかし、それからしばらく、サルトルの戯曲はなぜか姿を消していた。私の記憶にあるのは『狂気と天才』ぐらいのものだろうか。「哲学者が書いた芝居」というイメージで難解と取られ、このところ上演頻度が減っていたが、1960年代から70年代にかけては、サルトルの芝居がずいぶんと上演された。特徴的なのは、プロの俳優ではなく、学生演劇での上演がかなりの数を占めていたことだ。学生運動の盛んな時代に、そのエネルギーは表現としての学生演劇にも放たれ、そこで多くの作品が上演されたのだ。この『アルトナの幽閉者』にしても、1961年に俳優小劇場の旗揚げ公演で『アルトナの監禁された人たち』の名で上演され、その後、1967年に早稲田大学の劇研が『アルトナの幽閉者』として上演して以来である。

1959年ドイツ、ヨーロッパ一の造船王と言われるほどの財を成した父親は、癌で余命が少ないことを知り、後継者を決めるために家族会議を開く。家族会議とは言っても、次男夫婦、娘の四人しかいない。後継者に弁護士の次男を指名するが、次男は拒否する。なぜなら、広大な屋敷には13年間部屋から出て来ない兄がいるからだ。兄は戦争で心に傷を負い、部屋に引きこもったまま、妹が面倒を見ている。死が近づく父親の最期の希望は、13年間姿を見せない長男と会うことだった。戦争に協力して財をなした父と、戦争ゆえに13年間引きこもらざるを得なかった親子がようやく対面を果たし、対峙する…。

全五幕に及ぶ長い芝居で、15分の休憩を一回挟んで上演時間は3時間25分という大作である。しかも登場人物は家族五人のほかに二人、合計七人しかいない。13年間の狂気を背負う長男のフランツを岡本健一が演じているが、3時間を超える芝居のうち、2時間は彼が喋っているのではないかと思える科白の量だ。この膨大な科白に立ち向かい、役の言葉として演じている、まさに力演とも言える出来栄えだ。不安定な精神が見せる薄気味の悪さや狂気ゆえの鋭さ、そうしたものの表現が実に巧みだ。ジャニーズ事務所の俳優の中では舞台歴が相当に長いだけに、力量がはっきりと分かる。ここ最近での最も良い仕事と言ってもよい。フランツを、そして次男のヴェルナー(横田栄司)を圧倒する父の辻萬長が好演だ。傲岸不遜でいながら家族への愛情を捨て切れない男の姿がくっきりと浮かぶ。

一見すると、一つの家族を取り巻く悲劇のようだが、その背後には言うまでもなく「戦争」という国家的、民族的、世界的な悲劇が大きく横たわり、戦後を舞台にしながら誰もがその影響から抜け出ることがいないでいる。広大な屋敷のいたるところに戦争の亡霊が重く横たわっている中での家族の悲劇なのだ。ここにあるのは親子の葛藤だけではない。兄・フランツと妹・レニ(吉本菜穂子)との近親相姦、ヴェルナーの妻・ヨハンナ(美波)のフランツとの不倫など、多くの問題が芝居の中で顔を見せる。「アルトナ」とは土地の名前で、タイトルの幽閉者は一見引きこもりのフランツのようだが、芝居が進むにつれ、この家族全員がそれぞれの観点で「幽閉者」であることが見えて来る。その中には自分たちで決めたルールから抜け出せないケースである「自縄自縛」もあり、自分が自分を「幽閉」しているかのようだ。サルトルは、立場の違う家族に起きる悲劇を描いたホームドラマを描きたかったわけではあるまい。物理的には家の中での幽閉、精神的には戦争という幽閉、あるいは呪縛を抱え込んだ家族の入れ子のような構造の悲劇がここに描かれている。こうしたどっしりした芝居は、新国立劇場ならではの仕事とも言え、2014年の観客にこの作品を提示する意味は大きい。残念なのは、初日が開いて間もないせいか、女優陣が自分の科白をこなすのに手一杯で、そのもう一歩先の演技を深めるところまで芝居が届いていなかったことだ。回を重ねれば余裕が出る、という芝居ではないが、千秋楽までに彼女らの芝居の密度が濃くなれば、もっと優れた舞台になるだろう。

先日の劇団民藝の『蝋燭の灯、太陽の光』でも感じたことだが、平日の昼間の公演ながら、若い観客を含め、良く観客が入っている。芝居は娯楽とは言え、お手軽ながら何も残らないものだけではなく、観客自身も一緒に考えるような重量感のある骨太の芝居が好まれ出したということだろうか。「入場料を払って難しいことを考えに行く芝居などつまらない」という意見は否定しない。しかし、つい数十年前の若者が、こういう硬質な芝居で自分たちの思考や哲学を学んで来たことも決して否定はできないだろう。観客に対し過剰なまでに親切とも言える芝居が多い昨今、こうした作品の胎動は、現代の演劇界の一つの希望でもある。

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2014.02.19掲載

「左より 日色ともゑ、岩谷優志 写真提供:劇団民藝」

著名な作家が若い頃の習作時代などに書いた作品を「若書き」と呼ぶ。場合によっては玉石混交だったりするケースがあるが、アメリカ現代演劇を象徴する劇作家の一人であるテネシー・ウィリアムズが、1937年、26歳の折にこれほど骨格の太い芝居を書いていたというのは驚きだ。しかも、発表当時にアマチュア劇団で上演されただけで、活字になったのが2004年、作者が亡くなって21年後のことであり、日本では今回の舞台が初演となる。アメリカ・アラバマ州の炭鉱の町で貧困に喘ぐ人々の姿を10年間の間に三世代の人物を主軸に描いたこの作品は、非常にがっしりとした骨格を持ち、若書きでありながら破綻なく緻密に計算されている。翻訳者の吉原豊司によれば、この作品にはジョセフ・フェーラン・ホリフィールドという共作者がおり、この人が書いた一幕劇を、ウィリアムズが二幕十場という構成に膨らませたもののようだ。

テネシー・ウィリアムズの作品と言えば、民藝でも手がけてきた『ガラスの動物園』、『やけたトタン屋根の上の猫』、そして代表作とも言うべき『欲望という名の電車』など、女性が主人公の作品が多いが、これは炭鉱の町が舞台になっているだけに、男の芝居である。しかし、その男たちを支える女性の姿に、後の作品の主人公になる女性の姿が垣間見える。食うや食わずのギリギリの貧困に喘ぎ、炭鉱会社に搾取されながらも、それしか生きるすべを持たない男とその家族。しかし、現状打破のために、「組合」を結成し、ストライキを起こそうとする動きが起き、今までに多くの犠牲者を出して来た住人が立ち上がる。しかし、不景気の中で炭鉱を維持するのが精一杯の会社との間に争議が勃発する…。この作品が上演された1937年は、和暦では昭和12年に当たり、日本がだんだんきな臭くなっていく時代に符合する。この当時に、アメリカの労働者が立ち上がる姿を描いていたウィリアムズの未上演作品があり、それが約80年近くの歳月を経て再び陽の目を見ることは快挙であり、劇団民藝の面目躍如たるものがある。

主人公の炭鉱夫・ブラム(千葉茂則)の亡き息子の妻、つまり二世代目に当たるファーンを演じる日色ともゑの芝居が、地に根を張ったような強さを持って迫る。愛する夫を炭鉱の事故で亡くし、三世代目に当たる自分の息子・ルーク(岩谷優志)だけは学校へ行かせようと貯めたお金を、ルークは自らも炭鉱へ入ったばかりか、町の人々を助けるために使うと言う。打ちのめされるような哀しみに、狂乱寸前まで陥るが、組合を結成しようと懸命な炭鉱夫・レッド(吉岡扶敏)の言葉に心を動かされる。こうした極端な感情の動き、その発露が、激しく力強い芝居で示される。時に、人生を達観したような科白は、若きウィリアムズが書いたとは思えないほどの密着感を持って、彼女の口から説得力を持って発せられる。彼女の科白一つで、元より暗い家の中の闇がより濃くなる時もあれば、窓から光が指すように感じることもある。役者が放つ科白の力を感じた想いがした。

こうして、丹念に良質な芝居を掘り起こそうとする民藝の姿勢は、粗製濫造の多い演劇界の中にあっては評価されるべきことだ。地道な活動ではあるが、この志は立派だ。もう一点、日色の息子・ルークを演じている岩谷優志が掘り出し物だ。真っ直ぐな癖のない芝居で、衒いのない若者ぶりを見せる。聞けば、今回が昨年の『無欲の人』に続く二回目の舞台で、今年24歳だと言う。こうした若者が、民藝のような劇団で芝居の勉強を志すことが嬉しいし、また、そういう若者を伸ばしてやりたいものだ。

昨年、『八月の鯨』で年を終えた民藝の年明けの公演、続けてヒットを放った感じだ。

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2014.02.09掲載

Endless SHOCK 2014 2014.02 帝国劇場

2005年にこのタイトルでの上演が始まって以来、今年で10年とは早いものだ。ファンにとっては、「年に一度のお楽しみ」となった恒例の舞台だろう。昨年の3月21日には2000年の『SHOCK』初演以来、1000回の上演を迎えた。毎年、マイナーチェンジを繰り返しながら、エンタテインメントとしての「進化」を続けていることになる。同じ演目で単独主演が1000回を越えているのは森光子の『放浪記』、松本幸四郎の『ラ・マンチャの男』、『勧進帳』、山本安英の『夕鶴』しかない。いずれも長い年月を掛けて積み重ねて来たもので、堂本光一の場合はわずか14年でこの偉業を達したことになる。もっとも、回数を重ねることは大事なことだが、演じる方も観客も「その日一回」の舞台であり、そこにいかに精魂を込められるか、だろう。

小柄のせいかいつまでも20代のような印象でいたが、帝国劇場の最年少座長公演になった初演が21歳の折のこと、今年35歳になった割に、素晴らしい身体能力を見せる。相当強い意志がなければ、維持することは難しいはずだ。舞台を観ていても感じることだが、すべての面でストイックなまでに何かを追求する求道者のような姿は、この作品のテーマである「Show must go on」の精神にも通じるものがある。歌舞伎の世界では、江戸時代から作者の心得るべきものとして「三親切」と呼ばれる考え方がある。「観客に親切」「役者に親切」「座元に親切」の三つで、劇場へ足を運んでもらった観客に楽しかったと思ってもらえ、役者にはこの作品に出て良かったと思われ、座元(劇場)にはこの作品を上演して良かったと思ってもらえるような芝居を書け、という意味だ。失礼ながら、堂本光一がこの言葉を知っているとは思わない。しかし、先に述べた精神で彼が日々舞台の上で上演している「SHOCK」は、14年間にわたって、この「三親切」を満たしている。座長を勤めるのは舞台に立つ者が目指す頂点である一方、その栄光の座を占めるためのプレッシャーや努力は、第三者には計り知れない物がある。座長の椅子の数は限られており、誰かが席を立った瞬間に次の人が座ってしまう。これは、どの世界でも一緒だろう。しかし、35歳の若さでこの席を14年間保ち続けていることは、数字だけではなく多くの結果が証明している。

一例を挙げれば、「SHOCK」の名物は幾つもあるが、一幕のラストの立ち回りからの階段落ち。激しい立ち回りの後で二十数段の階段を一気に転げ落ちた後は、マイクを通して息切れの音が聞こえるほどだ。ここまで自分の身体を酷使するような舞台を日々続けることは、もはや尋常とは言えない。しかし、それでもなお、彼は自分自身にまだ「満足」を見出してはいないだろう。「もう少しできるのでは…」「もっとやらなくては…」という想いが彼を駆り立て、日々の舞台につながるからこそ、進化があるのだ。

昨年は前田美波里が演じていた劇場のオーナー役が今年は森公美子に変わった。この作品のファンであり、出演を願っていたというだけに、豊かな声量を活かした歌の部分に厚みが加わった。もう一点、敵役とも言えるライバルを演じる屋良朝幸がずいぶんと逞しくなった。他の舞台で揉まれていることもあるのだろうが、このカンパニーに意識の高さを充分に認識し、「SOHCK」と共に成長をしてきたのだろう。座長は、こうしてカンパニーの意識を高め、自らが引っ張ってゆくことが素質として求められる。この膨大なエネルギーが、あの細い身体のどこにあるのか、と不思議な想いがする。

役者は、さまざまな点で自分の限界に挑戦し、それを乗り越えようとするものだ。それが役者の「業」なのかも知れない。堂本光一は、タイトルの如く、「Endless」にこの舞台にチャレンジすることが一つの使命なのだろう。ファンもそれを待っている。3月末までに帝国劇場で76回の公演を終え、9月には大阪、10月には博多と上演が続く。どこまでも走り続ける堂本光一という青年の姿は、長距離ランナーの孤独に似たものなのかも知れない。ランナーとの違いは、まだ彼の眼には、ゴールは見えていないのだろう。

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2014.02.07掲載

明治座ダブル座長公演 2014.02 明治座

今月の明治座は、通常の「座長公演」ではなく、「ダブル座長」だ。松平健が主演する「暴れん坊将軍」と「唄う絵草紙」の公演に川中美幸がゲストで出演、川中美幸が座長で演じる「赤穂の寒桜」と「人・うた・心」に松平健がゲストで出演するという贅沢なもの。例を挙げれば、昼の部は松平健の座長公演で川中美幸がゲスト出演、夜の部はその逆、ということだ。一ヶ月の公演の中で、二回の座長公演を観ることができるのは面白い。いろいろな意味で停滞し、暗いニュースが多い演劇界で斬新な試みだが、実は今回が初めてではない。昨年の三月をもって改築のため閉館した名古屋・御園座の「さよなら公演」で、ちょうど一年前に実現した顔合わせの東京公演である。

出ている俳優も、裏を仕切るスッタフも、一日に芝居二本、ショー二本の四本を昼夜で見せなくてはならず、その分の負担も大きいだろうが、久しぶりに明治座らしい、豪華な大劇場での芝居を観た、という気になる。お客様も、それぞれが座長公演を持てる松平健と川中美幸の顔合わせに大喜びで、芝居もショーも堪能しているようだ。

松平健の「暴れん坊将軍」は、幕開きは老人になった松平の吉宗と、川中が演じる幼馴染のお駒の再会から始まるという趣向が面白い。後は、安心して見られる娯楽時代劇で、松平の風姿はやはり時代劇が良く似合う。凛然とした殿様ぶりも板に付いており、安心して観ていられる。二部のショーはお馴染みの「マツケンサンバ」を中心に、きらびやかな衣裳で元気一杯のステージだ。

川中美幸は、大石内蔵助の妻・りくの半生を描いた「赤穂の寒桜」を演じ、内蔵助に松平が付き合う。川中の情の溢れる芝居が、赤穂義士の陰で多くの涙を流した女性の代表の姿のように思え、「女たちの忠臣蔵」などとは違ったしっとりした趣がある。ショーでは抜群の声の伸びを聞かせ、今が一番声が良く出ているような感覚で歌い上げた。お互いの掛け合いのトークが面白いが、ショーの運びは歌手であり、こうした場に手馴れている川中に軍配が上がる。

共演者は二本とも同じメンバーで土田早苗、笠原章、青山良彦、穂積隆信、丹羽貞仁、松岡由美、園田裕久、中村虎之介(「赤穂の寒桜」のみ出演)といった顔ぶれで、名古屋とは主な役が数人入れ替わっている。そのせいかどうか、名古屋の舞台は非常にまとまりが良かったが、この舞台は役者個々の主張が強すぎる部分が散見され、昨年の舞台のようなまとまりが見られないのが残念だ。役の上でも主役の家臣で脇に回るべき人が、主役と同格のように正面を切って芝居をしていたり、自分の科白だけを言うのに手一杯で役にならずに役者のままでいたりするのは、好ましいことではない。大石主税ほか大石の子息を演じる中村虎之介が、16歳とは思えぬ好演を見せた。歌舞伎の家に生まれ、父が中村扇雀であるというだけの理由ではない。自分がこの舞台の中ですべき事柄をきちんと理解している。ごく基本的なことだが、それができていない役者がいるから、16歳の好演が目立つのだ。

今更大きな声で言うまでもなく、芝居は主役だけでも脇役だけでも成立しない。各役を演じる役者が、自分の役がその芝居の中でどのように書かれているか、何を求められているかを理解した上で、主役を盛り立てながら、自分の芝居を見せるのが大劇場演劇というものだ。自分の出ている場面や自分の芝居だけが目立てば良い、というものではなく、多くの人がよってたかって創り上げるところに贅沢さがある。それが、少しずつでもずれ出すと、そのヒビは大きくなり、結局は舞台をまとめる座長が苦労をすることになる。

せっかく斬新なアイディアで豪華な公演でありながら、そこがもったいない。

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2014.01.31掲載

志の輔らくご 2014 2014.01 パルコ劇場

日本一チケットの取りにくい落語家と言われている立川志の輔のパルコ劇場一ヶ月公演も今年で九年目を迎えるという。一人で毎回三席、オリジナル、新作、古典と、休演日はあるにせよ一ヶ月続けるというのは尋常な話ではない。本人いわく、「武道館でやっちゃえば一回で終わるんだけど、落語ってそういう性質のものじゃないから」。まさにその通りだが、一ヶ月を噺し続けるのは並大抵の技ではない。しかし、気力・体力・技術がそれを可能にし、何よりも多くの人がこの公演を待っている。先年亡くなった志の輔の師匠・立川談志は天才とも異才とも言われ、名人の名をほしいままにした。さすがにその弟子だけのことはあるが、談志の芸が客を選ぶ性質があったのに比べ、志の輔の芸は良い意味で万人向けである。古典落語でも、「いかに現代のお客様に分かりやすいものにするか」に心を砕いているのがハッキリと分かる。また、オリジナルや新作でも、まさに「現代の落語」のあり方や本質を探りながら、自ら創り、練り上げている。師匠・談志の功績が平成に名人芸を遺したことであるとするなら、志の輔の功績は、落語の寿命を少なくも20年から30年は延ばしたことだろう。その証拠に、今の落語界に元気があるとは言え、男女を問わず若い観客の姿がずいぶん増えた。

「苦行」とも思えるこの公演だが、考えを変えれば志の輔には他のホール落語や独演会とは違った大きなプラスの意味がある。寄席へは出ない立川流のことゆえ、一日限りのホール落語や独演会への出演になる。しかし、このパルコ公演に限っては、同じ噺を一ヶ月近く高座で繰り返せる利点がある。観客を前に稽古をしようという不遜な了見を持つ志の輔ではないが、毎日の高座の中で試行錯誤や、改良の余地を探すことができ、噺の完成度を一気に高めるチャンスでもあるのだ。もとより、完成度の低い噺を高座へかける人ではないから、それをどこまで高めることができるかが、志の輔の自己との闘いでもあるのだろう。私は、数年前に志の輔のことを「落語と心中する覚悟で生きている人だ」と書いたことがある。その姿勢は微塵も変わらないどころか、ますます色合いを濃くしているように見える。一点一画を疎かにしない芸もあれば、当日の観客の雰囲気に合わせて融通無碍の芸をする噺家もいる。前者は楷書の芸であり、後者は草書や行書の芸だ。最近の噺家の中には、基本の楷書がきっちり書けないのにいきなりくずし字の方へ走る人がいる。自由奔放が許されるのは基礎ができての話だ。今さら志の輔の芸を楷書だ草書だと言うことは無意味だ。しかし、かつて楷書の芸が落語の王道であるとされていた時代を経て来た私にとっては、志の輔の融通無碍とも言える芸が、長年にわたって硬直気味だった落語をようやく時代と共に生きる芸能本来のあり方に戻してくれた点で、感謝と賞賛を送りたい。

今年の公演も一回の休憩を挟んで約2時間40分、その時間をたった一人、高座の上で満席の観客を相手に闘う志の輔の姿があった。しかし、志の輔にとって、毎年一月のパルコ公演は、他の落語会や独演会とは性質の違う、新しい何かを生み出す場所のように思える。この積み重ねがあるからこそ、今の落語が元気でいられるのだ。現在の落語会は志の輔の独走体制にあると言ってもよい。所属や流派を問わず、志の輔を脅かすような後輩を生み出すことが、今の落語界の義務ではなかろうか。

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2014.01.29掲載

RUN TO YOU 2014.01 アミューズ・ミュージカルシアター

多くの若者が、突拍子もないとは言いながらいろいろな夢を見ていた時代が、ついこの間までの日本にはあったような気がする。私の視界に入る若者たちがいささか元気をなくしているだけなのかも知れないが、今回、アミューズ・ミュージカルシアターで上演されている韓国ミュージカル「RUN TO YOU」には、ナイトクラブで働きながら音楽の世界でスターになりたい3人の若者の夢が語られている。かつての無謀で何も知らなかった頃の自分の姿を見るような想いでもある。ナイトクラブで働き、無断で寝泊りして練習を繰り返していた3人組が、社長にたたき出されるが、退職金代わりにもらったオーディションのチャンスで見事にデビューを果たす。しかし、「スターになる以上、恋愛は禁止」と、ジェミニと恋人の仲はだんだんに離れてゆく…。

主役のジェミンは人気グループ「超新星」のグァンスとゴニルのWキャスト、仲間のスチャンもキム・ヨンナムとチョ・ソンジェのWキャストだ。千秋楽間近のせいもあってか、リピーターのファンも多いようで、観客席の体温が非常に高い。昨年の上演に続いての再演ということもあり、舞台と観客席の距離感が近く、キャストも日本語の字幕の科白にはない日本語をポイントで挟み込み、サービスに努めている。ストーリーは複雑ではないが、テンポ良くいろいろな楽曲が盛り込まれており、観客席も大いに乗っている。他のミュージカルではなかなか見られない光景だ。

芝居とは、劇場にいる数時間を、日常とは違う世界を味わわせてくれるものだ。その非日常の時間が楽しいものであれば、帰ってから一週間は幸福でいられるだろう。不幸にしてつまらなければ、観客は損をした気分になる。どういうものが「幸福」を与えられるかは、幕を開けてみるまでは分からず、それが演劇を含めたエンタテインメントの難しいところだ。このシンプルな考え方が、何を第一の目的とするのか、最近の演劇界では判明しかねる歪な構造のまま幕を開けるケースが見られる。この舞台にエンタテインメントのすべてが詰まっている、とは言わない。しかし、この劇場には、少なくも「竹島問題」や「従軍慰安婦」の話題はない。それは、劇場にただよう空気感が物語っている。国同士が政治レベルでどういうやり取りをしようとも、演劇や音楽などの芸術は、国境のないものであり、不可侵なものでもある。こういう時代だからこそ、民間レベルでの交流手段の一つとして、韓国発のミュージカルをオリジナル・キャストで上演し続ける姿勢やよし、とすべきである。

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