演劇批評








エッセイ「役者のはなし」


「毎週土曜日更新」************************



明けましておめでとうございます。日本にとって、演劇界にとって、今年はどんな年になるのでしょうか。どの分野でも厳しい状況が続いていますが、こういう時代だからこそ、演劇というエンタテインメントが必要でもあります。「ダメになった」「面白い芝居がない」と嘆くことは簡単ですが、その中にキラリと光る何かがきっとあるはずで、今年も一年丹念にそれを探す旅が始まりました。

読者の皆さんがご健康で一年を過ごされ、来年もこうして書いていられることを心より祈って新年を迎えました。

毎週土曜日にアップしているエッセイ、今年のテーマは『役者のはなし』。ここ一、二年に観た舞台の中で気になった役者について、毎週一人ずつ書いて行こうと考えています。

どういうタイミングで誰が飛び出すか分かりませんが、芝居の魅力は役者の魅力でもあります。一年間、よろしくお付き合いください。

2014. 1.04掲載

第一回「市川 海老蔵」

私は「オーラ」という言葉が好きではない。どういうものか、感覚では理解できても、納得する言葉が見つからないからだ。日本語で「華がある」とか「凛々しい」という言葉なら、意味は違うがしっくり来る。

一回目は、市川海老蔵。不幸にして、父・團十郎をあれほど早くに亡くすとは予想しなかったが、ここ二年ほどの彼の活躍ぶりを観ていると、内面で「何か」が変わったとしか思えない。はっきり言って、急に芝居が巧くなったわけではない。技術的な問題よりも「意識」が変わったのは確実だ。しかし、それだけで急に芝居が巧くなるわけではない。父の團十郎もよく指摘されていたように、科白の発声には難がある。歌舞伎役者の魅力を評価する言葉に「一声、二顔、三姿」というのがあるが、この「声」には声質の善し悪しだけではなく、科白術も含まれている。その点で言えば、海老蔵は不利な立場とも言えるのだが、不思議な魅力を持っている。その魅力を人は「オーラ」と呼び「華」と呼ぶのだろう。

私が考える海老蔵の魅力は、まず「姿」である。凛と端座した姿は、時に高貴であり、時に限りなく美しい匂やかさを放つ。次に、「眼」だ。市川宗家代々の「にらみ」で見せる眼もさることながら、海老蔵の眼の奥に潜んでいる「悪の眼」に、私は魅力を覚える。歌舞伎の役柄に「色悪」というものがあり、読んで字のごとく、色男の悪人のことだ。例えて言えば『四谷怪談』の民谷伊右衛門であり、『桜姫東文章』の権助である。ぶっきらぼうで女に冷たいくせに、女が惹かれて行くのは、眼の奥深くの燃える悪の爛れた、それでいて力強い魅力に吸い込まれるからだ。この力は海老蔵の大きな武器だ。

もう一つの魅力は、「肉体」だ。役者は誰も肉体が資本で、気力、体力、精神力は欠かせない。また、単に姿が美しいだけでは魅力にはなりえない。そこに加わる「何か」が役者の味になり、個性になる。海老蔵は言うまでもなく二枚目だが、そこに何が加わるのか。私は今まで、三十年以上歌舞伎を観ていながら、歌舞伎役者の肉体をセクシーだと感じたことはなかった。しかし、彼が『夏祭浪花鑑』を演じた時に、大詰めの泥場の立ち回りで緋縮緬の下帯一枚で立ち回りを演じる姿に、歌舞伎役者にセクシーな肉体があることを納得させられた。この役は今まで多くの役者が演じて来たが、何かしっくり来ないのが「身体付き」だったのだ。棒手振りと呼ばれる、天秤をかついで新鮮な魚を売って歩く上方の男伊達の役の肉体が持っているような特徴を、海老蔵の肉体は持っていたのだ。

役者はかなりな重労働ではあるが、スポーツ選手ではない。しかし、人に観られる仕事だ。彼の中には、その意識が非常に高いように見える。それは、市川宗家、十三代目團十郎を継ぐ者、という意味ではなく、30代の一人の青年俳優としての物の考え方だろう。どんな役を演じるにしても、外面も内面も充実していなくては、その表現は不充分になる。外見の充実とは、単に美醜の問題ではなく、その役が持つべき肉体かどうか、ということだ。この時は、偶然の一致、の範疇だったのかも知れない。しかし、そこに新たな海老蔵の魅力が潜んでいることはれっきとした事実だ。彼が、今後、外面と内面をどう充実してゆこうとし、その先に何を見ているのか。偉大な父を亡くしたことによる重責は計り知れないものがあるだろう。しかし、彼には、それをブチ破るほどの破天荒なエネルギーがある。そのエネルギーが暴発し、マグマのように舞台の上で噴き出す日を楽しみに待ちたい、そんな気分にさせる役者が「市川海老蔵」なのだ。

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2014. 1.11掲載

第二回「橋爪 功」

ずいぶん古くから観ている役者の一人だ。30年以上、すべての舞台を、というわけではないが、いろいろな物を観て来た。あえてここで記すまでもなく、役柄の幅の広さ、器用さでは演劇界でも指折りだろう。コメディもやればシェイクスピアもやるし、新作にもどんどん挑む。1975年に劇団「雲」から芥川比呂志を中心に独立した演劇集団「円」の代表取締役でもある。話が複雑になるが、劇団「雲」はそもそもが文学座から分裂してできた劇団であり、私が最初に観たのは1979年のサンシャイン劇場での『夜叉ヶ池』ではなかったか。高校生の頃の話だ。今や、演劇界の重鎮の一人でもある。

橋爪功の凄いところは三点あると考えている。最初に、100人程度の小劇場やアトリエであろうが、1000人規模の劇場であろうが、その規模に応じた自由自在な芝居をすることだ。これは今に始まったことではなく、私が観始めた頃からすでにその能力に驚嘆したものだ。役者には「空間把握能力」とでも言うべき力があって、人により適した大きさの劇場がある。前回書いた市川海老蔵は、歌舞伎役者ということもあるが、100人規模の劇場では収まりきらない。身長の問題ではなく、スクリーンの「画格」の問題、だろうか。歌舞伎は現在は大きな劇場での公演ばかりで、そういう規格の芝居で育ったからだ。それが悪いとは言わないが、橋爪功には自らこうでなくては、という規格はない。劇場や舞台の寸法に応じた芝居をいかようにも演じて見せる。こういう役者はそうはいないものだ。脇役であればまだしも、主役級の役者になればなるほど、「画格」は大きくなって当然だからだ。

もう一つは、柔軟性だ。今年、73歳になるとは思えないほどに、頭も身体も柔らかい。身体はトレーニングで補える部分もあるが、野田秀樹の芝居に平気で出てしまえる感性の柔らかさは、見事な柔軟性だと言える。野田作品には何本か出演しているが、そのうちの『し』は、野田秀樹との二人芝居だ。野田秀樹も良く動く役者だが、10数歳の年齢差を感じさせないほどにしなやかな芝居をする。この柔軟性は、最初の「画格」の柔軟性とも共通した魅力だ。

最後に、これは他の雑誌でも書いたことだが、追い詰められた時の卑屈な芝居の巧さだ。橋爪功がどういう性格で、人付き合いがどうなのか、私は知らないし、知る必要もないと考えている。しかし、2007年に田原町のアトリエ公演『実験 ヒポクラテスに叛いた男』で見せた、ずる賢い役で追い詰められた時の芝居や、役そのものがどうでも良くなっているような心理にある時の芝居は、他の人では代え難い巧さを見せる。昨年の夏に見せた『ドレッサー』などは、後者の点で近年の代表作とも言えるだろう。最初の二つの魅力を持った役者はまだしも、この点で橋爪功の巧さは凄みさえ感じさせる。

年齢に応じた役も多くはなって来たが、姿形で勝負する役者ではなく、もともと腕で勝負の役者だ。ベテランの味、などという凡庸なものではなく、カメレオンのように何色にでも変化する役者としての、これからの老熟が楽しみだ。何よりも、枯れないのが嬉しい。枯れているようで、その中に脈動している人間の生臭さが感じられる。それが、橋爪功の他の人にはない魅力なのだ。これは、年を重ねるごとにコクの出て来る味だ。そうそう、その味わいは、バランタインの30年物などの芳醇な香りに通じるものがある。一級品、である。

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2014. 1.18掲載

第三回「大竹 しのぶ」

毎年、この時期になると、「昨年観た舞台の中で各部門のベスト・ワンをあげよ」というアンケートが来る。女優・男優・演出・作品・スタッフなど、いくつかのジャンルで自分が観た芝居の中から「これは」と思う人や作品を選ぶのは、一仕事だ。毎年、去年の観劇メモをめくっては「ああでもない」「こうでもない」としばし考え込む。その時に、いつも頭の中をよぎるのが、「大竹しのぶ」の名前だ。コンスタントに毎年ヒットを放っている証拠だが、去年シアタークリエで再演した『ピアフ』の出来は凄かった。折から、ピアフ没後50年を迎えた昨年、稀代のシャンソニエ、エディット・ピアフに関するイベントや作品は多かったが、大竹ピアフがすべてを浚った感がある。一昨年の初演が好評で、それを受けての再演だったが、支持されるだけあって、初演よりも舞台は凄みを増していた。

最近の大竹しのぶの舞台には「凄み」がある。私が最初に彼女の芝居を観たのは、1983年9月に新橋演舞場で上演された井上ひさしの『もとの黙阿弥』という芝居で、まだ片岡孝夫時代の片岡仁左衛門、水谷良重時代の水谷八重子に、有馬稲子などのメンバーの、いわゆる「商業演劇」だった。その中で、彼女がどんな役割を演じていたか、正直なところ、あまり鮮明な記憶はない。30年以上も前の話で、当時は若手の清新なアイドルとして舞台を飾ったのだったか。

驚くような変貌を私の記憶に残したのは、2002年5月にシアターコクーンで堤真一のスタンレーを相手に上演した『欲望という名の電車』のブランチだった。この芝居は、現代アメリカ演劇のもはや古典とも言える名作で、歴史的名女優・杉村春子が日本で初演して以来、長年の当たり役として来た。しかし、腕に覚えのある女優ならば、誰もが挑戦したいと思うほど、歯ごたえのある難しい役で、事実、東惠美子、岸田今日子、栗原小巻、水谷良重、樋口可南子など多くの女優ばかりか、女形の篠井英介も上演している。

繊細な外見を持つ女性が、いろいろな要因で暴発の末に崩壊する、という形式を持つ作品での「暴発」の魅力、それは昨年の『ピアフ』にも共通するのだが、これが女優・大竹しのぶの魅力である。それが『ヴァージニア・ウルフなんか怖くない』などの舞台にも脈々と流れている。

「暴発」の対極にある感情は「抑制」だ。では、大竹しのぶに抑制の効いた芝居ができないか、というとそうではない。2004年に新国立劇場で演じた『喪服の似合うエレクトラ』のような沈鬱な空気の澱んだ芝居にも軸がぶれることはない。どんな感情も自由に操ることができるからで、これこそ「役者」というものだ。役の者である以上、どんな役の感情でも表現することができなくてはならないし、自分好みの役ばかりが来るとは限らない。ほとんど科白のない役も来る可能性がある。パントマイムというとまた表現の範疇が違って来るが、一本の芝居の中で、ほとんど科白のない役で舞台に登場していたとしても、その存在感は圧倒的だろう。

こんな話を思い出した。普段から座談の名手で知られたある女形の晩年、主役で新作が書き下ろされることになった。どんな芝居になるのか、と楽しみにしていたら、ほとんど科白のない寡黙な老婦人の役だった。「あたしが普段お喋りなことを知っているからって、ほとんど科白のない役を書いた先生も先生だけれど、こういう役が来ると、それはそれで面白くて、どう見せようかと思うもんだね」と、稽古の前に私に話してくれたことがあった。大竹しのぶにも、そんな役を演じる日が来るのだろうか。楽しみだ。

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2014. 1.25掲載

第四回「片岡 愛之助」

「昨年、一番ブレイクした歌舞伎役者」という点ではどこからも異論はないだろう。ずいぶん前のことだが、尾上菊五郎が菊之助時代に大河ドラマでより大きな人気が出たのと共通している点がある。最も大きな違いは、菊五郎が歌舞伎役者としてはお手の物の時代劇だったのに対し、愛之助は現代のドラマで人気が爆発した、という点だ。  関西の歌舞伎とは関係のない家庭の子として生まれ、昭和56年12月に十三世片岡仁左衛門の「部屋子」として京都・南座の顔見世興行で初舞台を踏んでいる。その後、努力と才能を認められ、片岡秀太郎と養子縁組をし、今や歌舞伎界のホープの一人となった。ホープとは言え、芸歴32年のベテランだ。数年前に分かったのだが、私は彼が歌舞伎役者として初舞台を踏んだ舞台を観ているばかりか、仁左衛門の楽屋で片岡千代丸と名乗っていた少年当時の愛之助と会っている。お互いにびっくりしたものだ。

歌舞伎は言うまでもなく、EXILEとのコラボレーションや大当たりを取ったドラマ、映画と、まさに破竹の勢いを見せているが、彼の頭の中はそれでも常に歌舞伎でいっぱいのようだ。「今のお客様に共感してもらえるような新しい歌舞伎を創るにはどうしたら良いか」。もう一つは、上方歌舞伎の芸をどうやって今の観客に分かりやすいように伝えてゆくか。10年間休んでいない、というインタビューを読んだが、獅子奮迅の活躍が彼の試行錯誤を物語っている。

昨年の10月、大阪の松竹座で『夏祭浪花鑑』を演じた。今でも人気のある演目で、さして珍しいことではないが、愛之助はふだん上演されない場面を復活して上演し、歌舞伎を見慣れていない観客にも前後の事件の関係や登場人物の関係を分かりやすく見せた。この通し上演は私も初めて観る舞台だったが、非常にわかりやすかったのと同時に、今まで見慣れていた『夏祭浪花鑑』では伺えなかった人物の断面が見えたのが大きな収穫だった。

この上演形態は、師である十三世仁左衛門が自主公演の『仁左衛門歌舞伎』で演じた方法を踏襲したもので、その点で言えば、上方の片岡家の『夏祭』が平成の時代につながった、という意味をも併せ持っていた。新しい感覚で古典を見直す眼を持っているのは、今後の歌舞伎には明るい展望だ。彼らの世代に、同じ視点を持った役者が揃っているのも力強いことだ。

歌舞伎が古典芸能であることは言うまでもないが、最初から古典だったわけではない。その感覚を、何とか現代の観客に味わってもらいたい、という想いが彼の舞台から感じられる。演劇が時代と共に変容する、という宿命を持っている以上、時代に迎合するのではなく、今の時代をどう捉え、歌舞伎として見せるのか。その一方で、古典として尊重すべきものは尊重し、先人の教えの上にどんな工夫を重ねることができるのか。彼らの世代に与えられている宿題は大きく、重い。しかし、愛之助にはそれに真っ向から対峙するだけのパワーとエネルギーがある。何よりも、「芝居が好きでたまらない」という、役者に不可欠の魅力と才能を持っている。これからの歌舞伎を創る世代の中核の一人として、果たさなければならない責任や、期待にいかに答えるかの重圧はあるだろう。しかし、先人たちがそれを乗り越えて来たからこそ、今の歌舞伎がある。歌舞伎座新開場の賑わいが潮を引くように去る前に、新しい歌舞伎の萌芽とも言うべきものをどんどん生み出してほしい。一回で成功せずとも、今の愛之助には、何度もチャンスがある。それを充分に活かし切るような舞台を、観客は待っているのだ。

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2013. 2.01掲載

第五回「松 たか子」

サラブレッド中のサラブレッドと言っても良い女優である。本人はそう呼ばれることを必好ましくは思わないだろうが、紛れもなく松本幸四郎の血、高麗屋の血が流れている。初舞台が娘役とは言え歌舞伎座だったのが、それを象徴している。17歳の折の1994年5月に、新橋演舞場での新派公演に、父・幸四郎、兄・市川染五郎と共に出演しているが、初期の舞台で忘れがたいのは、1999年1月の新橋演舞場公演『天涯の花』だ。宮尾登美子原作の小説を舞台化したもので、22歳の若さで初座長を勤めた舞台でもある。徳島県の剣山を舞台に、高山植物・キレンゲショウマを撮影に来たカメラマンと恋に陥る無垢な少女を描いた作品で、相手のカメラマンは内野聖陽が演じた。この時の松たか子の可憐な美しさとその中に真っ直ぐに通った花芯の清らかさは忘れがたい。大劇場での一ヶ月公演の座長は、スポットライトの中心に立つ代わりに想像を絶するプレッシャーと神経に苛まれる立場でもある。それを見事に乗り越えたばかりか、この舞台を一つのきっかけに、一度にいろいろな色の花が咲きだしたような感覚で、次から次へとその才能を感じさせる舞台を見せた。

同じ年に演じて2001年に再演を果たした『セツアンの善人』で見せた二役の巧さもさることながら、この作品の演出家である串田和美をはじめ、野田秀樹や鈴木裕美などの演出家に恵まれたことも彼女が自分で手にしたチャンスだ。松本幸四郎というミュージカルの大先達にミュージカルへの道を拓いてもらったことも大きい。初のミュージカル作品は1995年6月に青山劇場で父・松本幸四郎が演じた『ラ・マンチャの男』のアントニア役だった。これを3回演じた後、ドン・キホーテの憧れの姫である相手役のアルドンサに回り、2012年8月・帝国劇場の1200回記念上演を含めて5回演じている。「父だから」「娘だから」という妥協や甘えが一切許されず、かえって厳しい眼差しを注がれる舞台の上で、これだけの経験を重ねられたことは幸運であると同時に、その幸運に値する実力を持っている、という証拠でもある。事実、演じるたびに芝居の質が上がっている。

しかし、それが着実に身についたことを示した忘れがたい舞台がある。2007年2月にシアターコクーンで演じたフランスの劇作家・アヌイの『ひばり』で見せたジャンヌ・ダルクだ。ブレヒトといい、アヌイといい、芝居の中では高等数学にも匹敵する芝居だ。歴史上の実在の人物であるジャンヌ・ダルクを描いたものは他にもあるが、アヌイの『ひばり』は、ある意味では完成されたジャンヌ・ダルク像である。彼女のジャンヌは、満ち溢れる透明感がまず素晴らしかった。綺麗に磨き上げられ、鏡のような輝きを持つガラスのような透明感だった。不思議なことに、それでいて割れてしまいそうな硬さがなくしなやかなのだ。私は、こういう『ひばり』には、今まで出会ったことがなかった。この年、彼女、30歳。それまでに、実に26本の舞台を経験したことが、30歳にしてこのジャンヌを演じさせたのだ。父や兄が演じている歌舞伎には「熟成」が必要だ。長い時間をかけて一つの役を磨き上げてゆく過程は、時として気が遠くなる。もちろん、女優にも熟成は必要だ。しかし、能の世阿弥が言うところの「時分の花」、その年代ごとに咲く花を、これほどに鮮やかに、見事に咲かせた女優は、他には知らない。彼女は、よほど舞台が好きなのだ、と感じる。

若いながら、「安心して観られる役者」だ。こうなるのは、並大抵のことではない。しかし、自然に見せるところが、立派だ。

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2014. 2.08掲載

第六回「堤 真一」

今、最も脂が乗った役者の一人だろう。堤真一に注目をし始めたのは、1990年に江東区・森下にあった「ベニサン・ピット」という小劇場で麻実れいと演じたコクトーの『双頭の鷲』の若き革命家・スタニスラスではなかったか。もちろん、彼がジャパン・アクション・クラブ(JAC、現・JAE)の出身であり、すでに多くのジャンルで活躍していることは知っていたし、『双頭の鷲』以前の舞台も観てはいる。しかし、この舞台が最初の彼の「変わり目」であったことは間違いないだろう。「ベニサン・ピット」は、客席数が200にも満たない小劇場である代わりに、観客席と舞台との距離が近く、濃密な空間である。そこで、現代フランス演劇の名作でもあり、手ごわくもあるこの作品の上演は、画期的でもあった。コクトーの修辞を散りばめた膨大な科白、そして内面の葛藤と若さの発露、今から23年前の堤真一には大きな壁であったことは間違いない。私がこの舞台を好もしく観た理由は、彼が持つ「トゲトゲしさ」だ。若さゆえの暴発寸前のエネルギーが、いつ爆発するのかという危うさを孕んだ革命家の演技は、黒いベールに包まれた麻実れいの王妃の「静」の芝居に対して、「動」という対照だけではない不安感を観客に与えた。それが、この作品における革命家の悩みとオーバーラップして、「ハマった」のである。彼をこの役に選んだプロデューサーの慧眼と言えよう。

以来、彼の舞台はずいぶん観て来た。最近で印象に残っているのは、2013年4月に新国立劇場中劇場で上演された宮本研の『今ひとたびの修羅』の吉良常だ。役名からもわかるように、尾崎士郎の小説『人生劇場』を舞台化したものである。原作は文庫で八冊に及ぶ長編を宮本研が2時間半の舞台にまとめ、堤は「義」に生きる頑なな漢(おとこ)の姿を好演した。彼の魅力の一つに暴力的な力とも言える芝居の拡散がある。観客席へ、物凄いスピードでボールが飛んで来るようなイメージだ。新国立劇場中劇場は約1000席の規模だが、200席前後の世田谷のシアタートラムのような劇場でも、その勢いは変わらない。こう書くと、エネルギーを持て余して、どこでも芝居が暴発しているようだが、抑制の利いた芝居や、コメディに面白みを見せる。

そうした舞台で印象的なのは、2009年にシアタートラムで演じた『バンデラスと憂鬱な珈琲』というコメディだ。所属するシス・カンパニーの主催で、ジェットコースターのように理不尽な出来事に翻弄される主人公を軽快に演じ、客席の爆笑を誘っていた。こうした軽みも彼の魅力の一つである。映画、テレビと多くの仕事を経験しながらも、舞台という軸足を離さず、さまざまな芝居に挑戦して来たことが、彼の財産だろう。若い頃には苦手だった「抑制」が必要な役も、最近は重さが出て来た。

役者にはそれぞれ「空間把握能力」とでも言うべき力があり、300人ぐらいの劇場で最大限の能力を発揮する人もいれば、1000人を超える大劇場での芝居を得意とする役者もいる。10年ほど前までは、彼に適した劇場規模は500人程度だと感じていた。しかし、先日の『今ひとたびの修羅』を観た限り、もう充分に1000人規模の劇場の観客を集中させるだけの能力を持っている。それは、彼が作品の種類を厭わず、舞台の経験を重ねた結果である。努力が無駄にはならないことを、今までの仕事が証明して来たのだ。舞台という「修羅場」をいくたびもくぐり続けて来たことが、役者としての厚みになり、魅力になった。40代後半でこれだけの力を持つ舞台俳優はそう多くはない。これからも、どんどん舞台への野心を広げてもらいたい役者の一人だ。

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2014. 2.15掲載

第七回「野田 秀樹」

先輩に当たる評論家が、「野田秀樹はもうそろそろ舞台へ出るのを辞めればいいのに」と言ったことがある。誤解のないように言うが、これは役者としての才能を否定しているのではない。役者として舞台に立つ時間とエネルギーで、一本でも多くの芝居を書いてほしい、という賛辞だ。私も、それに近い気持ちを持ち合わせえている。野田自身が書き、演じて来た芝居の中の多くは、役者・野田秀樹でなければ演じられないものも多い。同様に、その根幹である作品は、よりコアな「劇作家」としての野田秀樹にしか表現できない世界観のもとに構築されている。そうした意味で言えば、彼が演劇界における稀代のプレイング・マネージャーであることは論を俟たない。

昭和の演劇界には、寺山修司という天才とも異才とも言うべき人物がいた。平成の天才は、間違いなく野田秀樹だ。同い年で盟友でもあった中村勘三郎と池袋の芸術劇場の小ホールで演じた『表へ出ろいっ!』などは、余人を以て変え難い役であると同時に、歌舞伎役者を狂言の役者に扮させ、古典芸能の因習や格調とは裏腹に、家庭崩壊を洒落のめして描くことは、野田秀樹の筆であったからあそこまで面白かったのだ。その一方で、英国でも上演され高い評価を受けた『The Bee』という芝居は、観ているだけで不快感、あるいは嫌悪感を覚えさせる舞台である。お金を払って楽しみに来る観客を厭な気分にさせる芝居、他の意味で厭な気分になることは間々あるが、生理的に受け付けないというところまで科白を駆使し、言葉の力を見せつける力量は、並大抵のものではない。だからこそ、『The Bee』などは、水天宮に近い小さな小学校の跡地で上演していたにも関わらず、平日の昼間の公演に当日券やキャンセル券を求める観客の列ができていたのだ。

東京大学の学生時代に劇団『夢の遊民社』を旗揚げし、それからの活動の華々しさや奇抜な展開は今更説明の必要もない。その華々しい経歴の中で、突出した才能を二つ感じている。一つは、重い問題、例えば天皇制、原子力発電所などのテーマを、芝居の中では鳥の羽根ほどの重さも感じさせずに、笑いの中に封じ込めてしまうことだ。場合によっては、一度さらっと観ただけでは見逃してしまうような場所に、周到なトラップが仕掛けられている。もう一つは、「幼児性」だ。ここで、彼がピーターパン・シンドロームである、などとくだらないことを言う気はない。「どうしたら面白いかな」「これはどうかな」と、子供が新しい遊びを考えだし、それを友達と共に楽しむような幼児性だ。「サービス精神」と置き換えてもよいだろう。

この二つがあるから、野田秀樹の芝居は常に話題になるのだ。「今度は何をするんだろう…」「どういう芝居になるのだろうか」と。2013年の秋には美輪明宏を芝居にする、という「快挙」とも「暴挙」とも言える舞台を創った。現存の人物を芝居にした作品はいくらもあるが、存命中で、しかも第一線で活躍している人間を芝居にする、という例は聞いたことがない。舞台『MIWA』には、限りない作者の美輪明宏に対する尊敬や憧憬が込められていたが、それをストレートに出すわけはなかった。「良くぞこんなことを…」と思うほどに、美輪明宏を多角的にとらえ、分析して見せた。ここまでなら他の作家の芝居でもなくはないが、私が嬉しかったのは、オマージュと同時に、野田秀樹自身の「含羞」が感じられたことだ。恥も外聞もない時代の中で、照れと共に見せた「含羞」こそ、言葉の鎧をまとって舞台で闘う野田秀樹の本質ではなかろうか。そこに価値があり、「平成の天才」と言いたい所以でもある。

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2013. 2.22掲載

第八回「奈良岡朋子」

芸歴66年を迎えるベテラン中のベテランである。研究生を経て、1950年に劇団民藝の創立に参加し、現在は劇団の代表でもある。日本を代表する名女優の一人であることは、今更言うまでもない。奈良岡朋子の巧さは以前から定評のあるところで、自分が軸足を置いている劇団民藝の活動を中心に、『放浪記』などへの外部出演、テレビドラマ、映画、ナレーションと、幅広い活動はつとに知られるところだ。

民藝、文学座、俳優座の三つ新劇の「三大劇団」と並び称するケースが多いが、これらのいわゆる新劇の劇団に共通して言えることは、カリスマ的な存在が先輩や芸の上の師匠として身近に存在し、劇団を牽引すると同時に、その薫陶を身近に受けながら育つことにある。奈良岡朋子とて例外ではない。瀧澤修、宇野重吉という、日本の新劇史の欠かすことのできない名優二人の時には苛烈とも言える指導を自分のものにして来たからこそ、今の奈良岡朋子がある。

昨年の十二月、恒例の年末の三越劇場公演で、『八月の鯨』が上演された。26年前に、当時93歳のリリアン・ギッシュと79歳のベティ・ディヴィスという往年の名女優が顔を合わせ、その静謐な演技が話題を呼んだ作品だ。元は舞台劇だったものが映画化され、それを今回は本来の舞台劇で上演し、彼女は気難しい盲目の姉を演じた。劇団民藝では、上演に際し、演出家の丹野郁弓が新たに台本を翻訳し直している。「劇団」という役者の個性を熟知している中でこその事で、同時に、この作品に賭ける並々ならぬ熱意が感じられた。その熱意に違わぬ丁寧な舞台づくりは期待を上回るもので、役の隅々までを研究し尽くした奈良岡朋子の女優としての気迫を感じた。

こうした経験は過去にも体験しており、『無名塾』の仲代達矢との共演で『ドライビング・ミス・デイジー』でも観られたことだった。70代から90代までの老女を演じるに当たり、年代ごとに変わる微細な動きにわたるまで研究をした後が見られ、非常に質の高い舞台であった。「新劇」と呼ばれるジャンルの中でリアリズムの追求に重きを置き、その中で研鑽を重ねてきた結果は、こうした舞台に成果として現われている。

その一方で、森光子が2017回の上演記録を持つ『放浪記』では、日夏京子という森が演じる林芙美子のライバルを最も多く演じており、舞台のジャンルを問わず、さまざまな抽斗を持った女優である。ずいぶん昔の話になるが、TBSが「日曜劇場」を放送していた頃、橋田壽賀子の脚本で『おんなの家』という炉端焼きの店を舞台にした三人姉妹のドラマがあった。筋立ては何ということのないドラマだが、今でも時折、大劇場演劇で上演されることがある。三姉妹が、上から杉村春子、山岡久乃、奈良岡朋子と、いずれも腕に覚えのある女優が顔を揃えたドラマは、一回限りの予定だったが評判が良く、シリーズ化された。三人のうち二人が没した今となっては、もう新作を創ることは不可能だが、他の誰がやっても観たいという気持ちにはならない。

もう一つ特筆すべきは、「朗読」の名手であることだ。ドラマのナレーションには定評があるが、朗読やナレーションは、ただ台本を読めばよいというものではない。本編を妨げずに必要な情報を伝えた上で、聞き手のイメージを膨らませる高度な技術が必要だ。民藝には、朗読の名手・宇野重吉がおり、舞台『子午線の祀り』やテレビのナレーション、民話の読み聞かせなど優れた仕事を遺している。その影響を自家薬籠中の物にしたのが奈良岡朋子の朗読術なのだ。この女優の歩みは、もっと評価されてしかるべきだ。

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2014. 3. 1掲載

第九回「美輪 明宏」

フランスではドキュメンタリー映画が製作され、野田地図が『MIWA』を上演し、と「第何次」だか分からぬほどのブームが起きている感がある。今でこそ女装もゲイも市民権を得て、以前よりは遥かに生きやすい時代になっただろうが、美輪明宏はそれを成し遂げるために大きな功績を残して来ているのだろう。それまでは、隠花植物のような存在であったマイノリティを自らの力で認めさせたばかりか、多くのムーブメントを創って来た。このエネルギーは、美輪明宏ならではのものだ。

私が初めて美輪明宏の舞台を観たのは、1981年6月のサンシャイン劇場の『愛の讃歌・ピアフ』だった。この舞台のイメージは鮮烈で、劇中の「愛の讃歌」や「水に流して」などは、劇場の風景と共にはっきりと覚えている。もっとも、それ以前に、テレビのモーニングショーで初めて美輪明宏の歌を聞いた時の衝撃を引きずっていたせいもあったのだろう。舞台を観る一、二年前に自らの作詞・作曲歌った『老女優は去りゆく』だ。今もリサイタルで歌うことがある、女優の一生を科白入りの歌にしたもので、そのドラマティックな迫力に圧倒された事が忘れられない。確か、7分を超える歌で、当時の主流だったレコードのシングル盤の片面に収まりきらない長さで、しばらく経ってからLPに収録されたものを買った記憶がある。

三島由紀夫や江戸川乱歩、川端康成、寺山修司ら、時代を彩った天才たちとのエピソードをここで羅列してもあまり意味はないので他にゆずるが、こうした人々との「時代」を共に駆け抜けた天才であり、異端であったことは間違いない。それが、今や堂々たる王道を歩いている。しかし、異端が王道に変じるまでの30年以上が、我々の想像を超える苦難の道筋であったことは想像に難くない。

歌舞伎でも新派でもないジャンルの女形として、シャンソン歌手と俳優を両立しながら歩んで来た道は、決して平坦ではなかった。それは本人の著書を読めば分かることでもあり、リサイタルでも曲の合間にいろいろなエピソードを語っていたことでも分かる。もうなくなってしまった銀座のシャンソン喫茶『銀巴里』を含めて、30年以上美輪明宏の歌を聴いていることになるが、圧巻は尊敬してやまぬエディット・ピアフの『愛の讃歌』と先に述べた『老女優はさりゆく』だろう。豊かな声量で歌い上げる見事さとドラマ性は、評価に値する。最近のリサイタルではあまり歌わなくなったが、自作の『愛の贈り物』も恵まれない境遇の人々にスポットを当てたこの人らしい曲だ。

『愛の讃歌』には並々ならぬ情熱と愛情を持っており、一般に流布している歌詞は、曲の本質ではないと、自らが訳し直し、その意味を述べてから、原語で歌っている。ただ、一時期、自らの訳で日本語で歌っていた時期があり、この訳も決して悪いものではない。たまには、日本語版の美輪訳『愛の讃歌』を聞きたいものだと思う。

社会の弱者に光を当てる姿勢もさることながら、一貫してエンターテイナーであろうとする強さは見事なものだ。そのいくつかの部分は、若い世代にはもはや「神話」とも言えるものになっている。芸能に「神話」は付き物であり、否定するつもりは毛頭ない。誰でも神格化したい存在はおり、多くの世代が美輪明宏の中に癒しや厳しさ、優しさや生きる知恵を求め、見出しているからこその現象なのだ。来月幕を開ける『愛の讃歌』がどういう進化を遂げ、若い観客に受け入れられるのか、そこが楽しみでもある。

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2014. 3. 8掲載

第十回「村田 雄浩」

テレビでは、ひたすら人の良い朴訥なおじさん役が多い村田雄浩。実際に優しく、穏やかな人柄なのだろう。2005年の3月の地人会公演で演じた『丘の上のイェッペ』は、まさにその典型とも言える役であり、見事なはまり役だと思ったものだ。デンマークの陽気な酒飲みの農夫で、朗らかに演じる姿は楽しそうでもあった。

しかし、2013年の3月に新国立劇場小劇場で演じた福田善之の『長い墓標の列』という芝居で見せた骨太で硬質な芝居に、こちらがむしろ本質ではないか、と思わせるほどの冴えを見せた。作者が26歳の折に書いたこの芝居は、昭和初期に実際に東京帝国大学で起きた事件をもとにしたもので、閉鎖的かつ独善的な大学の研究者たちの見苦しい権力争いの中、自分が信じる学問に殉じる学者・河合栄治郎の姿をもとに描いたものだ。この辺り、学問をそっちのけで教員同士が足の引っ張り合いをしている今の大学と全く変わらない構造なのが皮肉でもある。

初演の折には5時間を超えたと言われた伝説の作品で、この時も間に15分の休憩を挟んだだけで、上演時間は3時間10分に及んだ。しかも、大学を舞台にした芝居であったためか、多数登場する学生に、演出家の宮田慶子は、新国立劇場の研修所の修了生を多数起用した。素人に近い役者も多い中、圧倒的な力量で、この長い芝居を一人で引っ張ったのだ。

これには瞠目した。舞台よりも映像の仕事の割合が遥かに多かったために、そこで観るイメージがすなわち役者としての個性だと感じていたが、この舞台を観て、彼の本領は硬骨漢であり、逞しいまでに弁舌を奮う芝居なのだ、と感じた。誤解を恐れずに言えば、この舞台を演じるまでの村田雄浩は、ある固定したイメージのために、本来の姿を見せられずにいたのだ、とも言える。しかし、『長い墓標の列』を演じたことで、彼の舞台における地平は遥かに広がった。後は、芝居をプロデュースする人々が彼の芝居の力強さをどこで活かそうと考えるかの問題だ。

今までに彼が演じ、築き上げて来たイメージを否定するつもりはない。得難いキャラクターであり、茶の間の人々をホッとさせる笑顔や行動でもある。しかし、50代前半にして、これだけの硬骨漢ぶりを発揮できる舞台に出会ったことは大きな転換点だ。「役者の乞食袋」と言うように、役者はどんな役でも演じられるように自分の中に抽斗をたくさん持てば持つほど有利だ。既にこれだけの抽斗を持っているのだから、後はどんどんそれを出してくれれば良い。こういう書き方をすると、今までのイメージと『長い墓標の列』がまるで正反対のようだが、共通したキーワードがある。 

良い意味で「愚直」ということだ。イェッペも河合栄治郎も、自分が信じ、生きることに愚直である。前者はそれが陽気さの衣装に包まれているだけの話で、本質が変わるわけではない。大体が、膨大な科白を覚えるために地獄の苦しみをし、長い稽古期間を経て二週間の舞台、というような効率の悪い仕事は、愚直なまでに芝居が好きでなくてはできない。同じことをしてもただ愚かなだけというケースもあるが、そこで結果を重ねることで役者は厚みを増す。今の村田雄浩は、そういう時期に差し掛かったのだ、と私には思える。

一人の役者が長い時間の中で、新しい方向性を発見した瞬間に立ち会えるのは、演劇というライブだからこその喜びで、それを役者自身と観客が共有できることもまた楽しみだ。この芝居を観た日、早春寒さが残る遅い夜、私は家までの道をふだんより時間をかけて歩いた。良い芝居に出会うと、誰とも口を利きたくない時があるものだ。

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2013. 3.15掲載

第十一回「蒼井 優」

昨年11月、『グッドバイ』を観た時のことだ。幕が開いて、決して礼儀正しいとは言えない格好で座っている蒼井優の口から、ものすごい勢いで「河内弁」が迸り出た。私のような東京っ子には、勢いのある関西弁、中でも河内弁は喧嘩をしているように聞こえることがある。そのテンポ、リズム感、そして河内弁の持つ雰囲気のまとい方。「なかなかやるな」という想いと同時に、若いながら実に幅の広い芝居を見せる女優だと感心した。

10代の頃から映画やテレビ、舞台などをまたにかけて活躍しているが、まだ30には間がある。子供のころから地元で子役としての活動をしており、その後、CM出演が大きな転機になった。一見、普通の可愛い女の子に見えるが、役に応じて見せる色は実に多彩だ。「役者である以上は、どんな役でもできなくてはならない。たとえ、演じることがなくても」とは松本幸四郎の演技論の一つだが、彼女を観ていると、穏やかな表情の下に、一体いくつの「顔」が隠れているのだろうか、と思ってしまう。役者が開花する過程はいくつもあり、どの年代でどの作品に出会うかは大きな要素だ。その点で言えば、昨年の『グッドバイ』は彼女の新たな可能性を開いたものだと言える。こうした作品にどれほど出会えるか、で役者の芸の幅も変わって来る。20代後半でどんどん刺激的な役を演じられることは役者の喜びでもあろう。

能の世阿弥が遺した芸の奥義とも言える『風姿花伝』の中に、年代それぞれに花が咲くという旨のことが書かれている。若い頃には旬の花が咲く。さながら、若鮎のみが持つ香気を持っているかのようだ。年を重ね、芸の力量も増して来て、「まことの花」が咲くという。また、老いても枯れるのではなく、「老木の花」が咲くとある。今の蒼井優は、まさに若き旬の花が咲いている時代だ。

この匂やかな花がやがて散り、実を結ぶ。そして、次の時期にどんな花を咲かせるのか、長い女優の一生が楽しみである。年を重ねてなお艶やかな女優も多いし、若い頃から老け役に徹する女優もいる。彼女の場合は、まだ多くのジャンルや役柄に挑戦が可能な時代だ。一本の作品を終えるたびに、そこで吸収したものを次の作品に活かせるだけのパワーを持っている。時として、静かに静かに心の中に貯めておいたものが一気に暴発を見せることもあるだろう。先の河内弁が暴発だ、とは言わないが、「こういう芝居もできます」というレベルではなく、自分の物として演じたところに彼女の才気が感じられる。

これから10年間、彼女が映像を含めてどんな仕事をしてゆくのかに、大いに興味があるところだ。活火山として活動を続ける彼女が、いつ、どんな形でマグマを噴出させるかは誰にも分からない。しかし、この年代で、こうした興味で舞台を見られる女優は他にはあまりいない。そこが、蒼井優の仕事を眺めてゆく楽しみであり、半年、一年という単位ではなく、もっと長い期間を想定して、彼女の変化を楽しみたいものだ。考えようによっては、10年先が楽しみだ、と言える役者はそうはいない。素材が逸材に変わり、やがては大きな女優として成長する姿を、観客席で観られるのは楽しみなことだ。こうした多くの期待を一身に受けた彼女が今後どういう仕事をしてゆくのか、活かすも殺すも企画次第だ。溢れるエネルギーをもってしてもなお彼女が苦しむような作品に出会った時、また一段階段を上ることになるのだろう。役者のたどる人生とは、そんなものではないのだろうか。「待つ楽しみ」もあるものだ。

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2014. 3.22掲載

第十二回「市川 染五郎」

今の歌舞伎界で、「花形」と呼ばれる役者たちのトップグループを疾走している感がある。10代の頃から、折り目正しい芝居と貴公子のような美しさで人気を博していたが、染五郎も子供と舞台を共演する年齢になった。しかし、2013年10月に国立劇場で『鏡獅子』を観た時に、唸った想い出がある。確か10代の終わりに、松本幸四郎家の舞踊「松本流」の舞踊会で一日だけ踊ったのを観たことがあるが、実に結構なものだった。『鏡獅子』は前半が華麗な女形、後半が勇壮な獅子の精という、両極端の個性を求められる。後半、いわゆる後ジテの獅子は、力を求められる代わりに、言ってしまえば「ごまかしが利く」部分でもある。しかし、前シテの小姓・弥生は可憐な娘のおどおどした仕草から獅子の精が乗り移るまで、舞踊としても高度なテクニックを求められ、一瞬たりとも気が抜けない。今までに多くの役者の『鏡獅子』を観て来たが、どちらも共に結構というものにはなかなか巡り会えなかった。

40代に入った染五郎が、今も『鏡獅子』を踊れることに、彼が積み重ねて来た努力を観た想いがした。一昨年は不幸な事故にも見舞われたが、ファンの期待に応えて見事に復帰し、古典・新作とそれぞれに高い熱意で臨んでいる。その姿には今後の歌舞伎界を背負う者の一人としての自負をも感じさせ、事実、昨年に新しい歌舞伎座ができてからも大きな役への挑戦が続いている。今は、歌舞伎役者だから歌舞伎だけを演じていれば良い、という時代ではない。それが幸なのか不幸なのかは歴史が出す結論だろう。しかし、ここ60年ばかりを見ても、いわゆる名優と呼ばれる人々の中で、歌舞伎役者の仕事だけで生涯を通した役者は、「片岡我童」という女形しか私は知らない。

歌舞伎役者が歌舞伎以外の仕事をすると目くじらを立てる人がいるが、それはおかしな話で、染五郎の頭はそれほど硬くはない。現代を生きる以上、現代の観客に歌舞伎をどう見せるか、どう共感してもらうかは、逃れることのできない問題だ。歌舞伎に限らず、演劇とは時代と共に変容を重ねて歴史を刻んで来た。そのことを、演者である染五郎自身も、身体で感じて良く分かっている。

古典も新作もでき、舞踊の才能もあり、姿も口跡も良い。この恵まれた条件を活かして、彼が今後の歌舞伎をどう演じるのか、また、見せたいのか。先月の歌舞伎座で久しく上演されなかった『心謎解色糸』を復活し、好演した記憶は新しい。こうした舞台に、今の彼のエッセンスが詰まっているのではないか、と私は思う。

父・九代目幸四郎は歌舞伎役者として、『勧進帳』という当たり役を持つと同時に、ミュージカル『ラ・マンチャの男』も、ストレート・プレイの『アマデウス』も演じる幅の広い役者だ。それぞれの上演回数を見ても、前人未到とも言える。偉大な父の背中は、彼にはまだ遥か遠くにあるものかも知れない。その大きな背中を見ながら、染五郎の芸の足の速さで、彼の世界や色を構築し、歌舞伎界の中での一つのうねりを作るチャンスが今、ではなかろうか。同世代の市川海老蔵、片岡愛之助らの人気俳優と、新しい歌舞伎のアイディアや古典歌舞伎の継承の仕方などを、舞台の上で「我々の世代は歌舞伎をこう解釈します」という物を見せられる年代になった。

今まで地道に重ねて来た修行や研鑽がそろそろ大きく花開く時期を迎えている。そんな気がする役者だ。

ここ数年間で染五郎は大きく変わるような予感がしてならない。

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2014. 3.29 掲載

第十三回「岡本 健一」

彼の舞台俳優としての才能にはかなり前から注目をしていたような気がする。大劇場から中劇場、小劇場とあらゆる空間での芝居を彼のエネルギーの発露で見せて来たが、どの舞台にも共通して言えるのは「陰影」だろう。新橋演舞場で演じた『嵐が丘』のヒースクリフのように、内部に「闇」を抱えた役が良く似合う。昨年、パルコ劇場で演じた『非常の人何ぞ非常に』の杉田玄白にしても、歴史上の偉人というだけではなく、懊悩を抱えて生きる男の姿があった。

ジャニーズ事務所で「男闘呼組」というグループを結成し、楽器のできるアイドルとして人気を博したが、彼は意外に早く次の活動のステップを舞台に見出した。それが成功だったことは、多くの舞台出演の経歴が物語っている。つい先日、新国立劇場で演じたサルトルの『アルトナの幽閉者』で見せた芝居は、20年以上舞台を演じてきた彼ならではのもので、鬱屈した青年像を、3時間を超える芝居の中で見事に表現した点で、近年の収穫としてよいだろう。陰鬱で、性格の振幅の激しい役柄を、彼は好演して見せた。サルトルの芝居だから特別な構えがあったわけではないが、やはり難しい、と終演後に聞いた。どんな芝居も簡単なものはない。長い芝居の約三分の二近くを喋るという時間的な問題ではなく、この作品の主柱を成す役を見事な完成度で演じて見せたことは大きい。彼は、この作品で役者としての階段を一段上がった、と観劇後に私は感じた。役者には、時期はともかくもこうした舞台との出会いを重ねて成長があるのだ。

彼が得をしているのは、小柄なせいか、日ごろの鍛錬のせいか、40の半ばになっても、若い役を演じることに違和感がなく、生活感を感じさせないところだ。それは、「正体が分からないミステリアスな魅力」と言い換えても良いかもしれない。物静かでいながら、その内側にどれだけのエネルギーを持っているのか、ふと見ただけでは判断が付かないことがある。それが、役者の魅力でもあるのだが、一見しただけではその全貌を見せない。だから、多くの役を演じて、その折々に新たな発見をさせてくれるのだ。

一人の役者が成長してゆく過程はいろいろなパターンがある。いきなりボンと爆発して表舞台に躍り出たものの、その次が続かずに終わってしまうケースも残念ながら少なくはない。大劇場演劇などで比較的見られるパターンだ。対照的に、コツコツと積み上げながら、いつの間にか多くの役柄を自分の物にする役者もいる。岡本健一は、明らかに後者に属する。大劇場演劇、小劇場、さまざまな舞台を踏みながら、一本一本の仕事で着実に成果を上げてきた結果が、現在の彼を創り出したのだ。当然のことながら、すべてが納得のゆく仕事ばかりではなかったはずだ。それは誰しもが経験することだ。しかし、コンスタントにクリーンヒットを放てるような役者の一人であることも間違いはない。観客の側からすれば、「安心して観ていられる役者」ということになる。ここが重要なのだ。

しかし、彼は淡々と次の舞台に向かってゆくのだろう。自分がその作品の中で求められている役割を果たすために、どういう芝居をすればよいのか。そうした姿勢は、若いながら何か求道者めいたものを感じることがある。とは言え、もう舞台では中堅からベテランに差し掛かろうという年代でもある。これから、彼の鬱屈や懊悩が、舞台でどういう色彩で発露するのか。そこが、岡本健一の面白みであるような気がする。

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2013. 4. 5掲載

第十四回「大地 真央」

一月の明治座で『コンダーさんの恋』という芝居を観た時に、改めて何と声に透明感のある女優だろう、と感じた。宝塚出身の女優で舞台に立つ人は多いが、現在も大きな舞台で正面切った芝居ができる人、となると数は限られてくる。それは、彼女が長年にわたって『マイ・フェア・レディ』のイライザを演じてきたことを抜きには語れないだろう。イライザも一幕はともかく、二幕は透明感のある声が必要とされる役だ。もちろん、持ち前の個性と不断の努力が寄与する部分も大きいだろうが、この透明感のある声は、大地真央の財産である。

『コンダーさんの恋』では、瀧廉太郎の「花」を披露したが、澄み切った延びのある歌声に観客席から拍手が沸き起こった。観客も大地真央の声の魅力を良く知っているのだ。それがいつまでも衰えを見せないことも見事だ。その一方で、科白の調子が時折イライザとダブって聞こえる印象があった。役者が当たり役を持てることは最大の幸福の一つだが、そこから抜け出すことは幸福を与えられた代わりに潜らなければならない苦行でもある。声の質を変えるわけにはゆかないだろうから、自分の中でどう解決し、観客に他の役を想起させないようにするか、の問題だ。

ここを超えれば、大地真央の七色の声は、どんな役柄であろうと見事にはまるはずだ。それは、『マイ・フェア・レディ』の一幕と二幕で実証ずみで、できないわけではないのだ。ただ、観客の頭の中にそれだけ鮮烈にイメージが残されている、ということだ。そのイメージをなるべく早く払拭してしまわないと、せっかく大きな武器となっている声が、仇をなす場合も出て来るかもしれない。

大地真央のもう一つの魅力は、芯の強い役に向いていることだ。『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラに代表されると言えば分りやすいだろう。こういう役柄の女性が、ぽきりと折れた時に覗かせる心の弱さ、もまた魅力である。気が強い一方ではなく、その中に潜んでいるガラス細工のような繊細さが同居しているから、表面が美しく輝くのだ。

これから、大地真央がどういう役を演じ、どんな女優としての道を歩んでゆくのだろうか。ある意味で、彼女は作者泣かせの役者と言える。鮮烈なイメージを持っているために、そのイメージを完全に取り払い、新しいイメージを生み出すような芝居を創ることは相当に困難な仕事だ。しかし、その困難に立ち向かう価値のある女優であることは間違いない。一本の芝居を企画し、台本が出来上がり、配役が決まり、稽古が始まり、初日の幕が開くまでには大変な苦労が付きまとう。これは規模や劇場の大小には関係ない。どうせ一本の芝居を創るのに苦労をするのであれば、終わって満足のゆく苦労をしたいのは誰しも同じことだ。大地真央という手強い女優のために、「これだっ!」という芝居を書き、プロデュースする人はいないものだろうか。せっかくの逸材を、舞台で活かさない手はないはずだ。

海外のウエルメイド・プレイ、コメディ、明治から大正にかけての日本の芝居。埋もれている名作はたくさんある。今一度それらの作品に磨きをかけ、彼女にぴったりとした寸法に仕立て上げれば、さらに輝きを増す女優であることは間違いない。アヌイ、ジロドゥではなく、コクトーかジュネ辺りの作品で、彼女が演じるフランスの芝居を観たいと思うことがある。きっと良い舞台になるのではないか、そう思うのだが、どこかで上演しないだろうか。創り手にも彼女にも、意義のある挑戦になると思うのだが。

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2014. 4.12掲載

第十五回「平 幹二朗」

一人の役者が演じる同じ芝居を、何度も観るケースは多い。俗に言う「再演」などだ。しかし、その間が実に34年の歳月を隔てているのは、私にとっては珍しい。1978年に日生劇場で蜷川幸雄の演出で演じた『王女メディア』を、2012年にふたたび観るまで、これだけの時間があいている。平幹二朗は抽斗の多い役者であり、『近松心中物語』の初演や三島由紀夫の『鹿鳴館』など、多くの舞台を観て来たが、16歳で観た『王女メディア』の初演の舞台は忘れることができない。当時は蜷川幸雄が脂の乗った演出作品を次々に見せ、多くの観客を驚かせていた時代だったが、辻村ジュサブローの衣裳をまとった平のメディアを観た時は絶句した。決して女形向きの体格ではない彼がメディアを演じたというよりも、その異空間にいる異形の姿に驚いた、といったところではなかっただろうか。

それから34年を経た一昨年、この舞台を「一世一代」で演じた。朗々たる科白術で知られる平幹二朗とは言え、肉体的は相当に苦しい芝居のはずだ。逆に言えば、このタイミングでよく上演に踏み切ったものだ、とさえ感じた。しかし、これが実に素晴らしかった。そんなことはあり得ない、と言われると困るのだが、老境にある平幹二朗のメディアが、美しささえ漂わせたのだ。これを、芸の力と言わずに何と表現すればよいのだろうか。人間が持ちうるすべての感情が綯い交ぜになり、そこにすっくと立っているような印象があった。私は、この舞台を観て役者の恐ろしさを感じたものだ。

「役者に年齢はない」という。確かに、実年齢と役の年齢との差は大きい場合がしばしばあり、観客もあらかじめそれを認めた上で劇場に足を運んでいる。しかし、場合によってはその年齢差を「芸」だけでは埋めることができないこともある。それでも、役者により、演目によっては観客はそれを見たがる。ここに、役者の辛さがあるとも言える。平幹二朗は、『王女メディア』を、この乖離のギリギリの線で演じて見せた。しかも、東京公演だけではなく、その後全国を巡演するツアーに出た。旅公演は、我々の予想以上にハードなスケジュールで、肉体的にも精神的にも過酷なものだ。それを見事に終え、『王女メディア』は幕を降ろした。

私は、16歳の時に観た舞台に不満があるわけではない。しかし、34年間の間に他の多くの仕事をし、経験や蓄積を重ねた上で自分で一つの記念すべき役に幕を降ろした平幹二朗のおかげで、私の中の『王女メディア』にも一つの決着がついた、ということだ。すべての舞台に決着をつける必要はない。しかし、中には、別の形をとっても、自分の中で決着を付けたい舞台はあるものだ。そうそうチャンスがあるわけではなく、むしろ偶然にも近い僥倖だ。それを味わうことができたのは何よりだった。

今、80歳になった平幹二朗だが、一向に衰える気配をみせずに、劇団四季の『ベニスの商人』に客演するなど、更に仕事の幅を広げているのは瞠目に値する。枯れる気配が全くない役者というのは面白いもので、まだどんな役でもできそうな気がする。ストレート・プレイの王道を悠然と歩いているような感覚の役者が、これからどういう仕事をするのか。『王女メディア』は一世一代だったが、他のものはまだそうするには早いような気がするし、これから新しい財産を産みそうな役者でもある。80歳でこれだけの期待を持たせる役者は、他にはそうはいないだろう。この点も、平幹二朗の「恐ろしさ」だ。

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2014. 4.19掲載

第十六回「市川 染五郎」

来月、明治座で『伊達の十役』に挑戦するという。三代目市川猿之助が復活し、一人で40回を超える早替わりで十役を演じ、その上にお得意の宙乗りまで見せるというスピーディかつ楽しさ満載の舞台に、観客は熱狂した。私も、1979年に明治座で初演した舞台を皮切りに、何度も観て来たが、確かに面白い。不幸にして猿之助が病に倒れた後、市川海老蔵がこの芝居に挑戦し、今度は染五郎が挑戦する。二人ともに若手の中では鎬を削りながら、次代の歌舞伎を背負う重要な役割を持った役者である。

海老蔵がイメージと雰囲気で芝居を見せる役者なら、染五郎は一つ一つの芝居を積み上げていく役者だ。これは優劣の問題ではなく、役者としての性質だ。ただ、14歳で『ハムレット』を演じ、神童の誉が高かった染五郎が、歌舞伎を中心にさまざまなジャンルの芝居で武者修行をし、この芝居に挑戦することに面白さがある。彼が今までに蓄積してきたものが、どういう形で噴き出すのか、そこが見どころだろう。もちろん、猿之助の舞台とも、海老蔵の舞台とも違っているだろうし、舞台とはそうであるべきだ。

今の若い歌舞伎ファンには想像もできない事だろうが、猿之助がこうしたスペクタクルや娯楽性の高い歌舞伎を盛んに演じていた頃、歌舞伎界の一部ではこの行為を白眼視する風潮があった。猿之助の本名である「喜熨斗」(きのし)をもじって「喜熨斗大サーカス」などと揶揄する人々が、同じ歌舞伎界の中にいたのだ。しかし、猿之助はそうした雑音に気を取られることなく、己が道を邁進した。その結果、歌舞伎がどう変わったかは言うまでもないことだ。そうした芝居の一つを、市川海老蔵、市川染五郎という人気の二人が継承したことで、この作品は「ナチュラル・スタンダード」になる。三人目のランナーとしての染五郎に掛けられたタスキの意味は大きく、重い。

十役の中で、今までの染五郎の仁になかった役もいくつかある。特に難しいのは、女形の大役として有名な政岡をどう演じるか、だろう。二十代までは女形も演じていた染五郎だが、こうした時代物の大きな女形に挑むのは初めての経験ではないだろうか。昨年、国立劇場で踊った『鏡獅子』で、彼の女形舞踊のレベルの高さは改めて確認できたが、母性豊かな女性像をどう演じるか、早替わりや宙乗りとはまた違った興味と期待を持たせる。

時代物、世話物、舞踊と幅広い守備範囲を持つ染五郎に、新たな分野が加わるのは大きな楽しみだ。猿之助がこの芝居を初演した時は38歳だった。ほぼ同年齢で染五郎が挑むことになるが、その間に35年の時間が経過している。観客、役者ともどもの世代交替、舞台機構や技術の発達という周囲の要件はあろうが、今の観客に彼が演じる『伊達の十役』がどういう関心を持って受け入れられるか、そこに興味がある。同じ演目を違った配役で何度も観られるのが歌舞伎の魅力の一つでもある。染五郎なりの『伊達の十役』が、他の二人の舞台とは違う、どういう味わいと個性を見せてくれるのか。

歌舞伎の作品をいちいちジャンル分けすることに大きな意味があるとは思えないが、新しい作品に挑戦することは役者にとって大きな喜びと不安がつきまとうものだろう。観客の期待以上の舞台を見せてくれるのかどうか、幕が開いてみるまでは誰にも分からないのが舞台の怖さだ。しかし、久方ぶりに幕が開く前から楽しみにできる舞台に出会った予感がする。

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2014. 5.10 掲載

第十七回「加藤健一」

とにかく年中芝居をしている役者だ。一本の芝居が終わると、わずかな休みを挟み、次の芝居の稽古に入る。常に、次にやるべき作品を探している。芝居の嫌いな役者はいないだろうが、これほど舞台が好きな役者もそうはいないだろう。海外の一人芝居、『審判』が演じたいために、たった一人で「加藤健一事務所」を設立し、上演した。以降、作品が決まるたびに作品にあった役者を探し、公演を打っている。役者としてもプロデューサーとしても理想的な方法の一つである。それを続けることの難しさは並大抵のものではなかっただろう。

『審判』にしても、単に一人芝居というだけではなく、戦争中に捕虜として収容所に閉じ込められていた将校が、観客を陪審員に見立て、収容所の中で何があったかを語り、陪審員の判断を仰ぐ、重い作品だ。しかも、休憩なしで2時間30分の長さに及ぶ。観客も大変だが、演じる方はもっと大変で、ワン・ステージで2キロ痩せる、と聞いたことがある。先日、本人に会った時に、「もうそろそろ『審判』をやりませんか」と言ったら、「いやぁ、あれはなかなか…」と口を濁したが、「でも、ラストステージとは言ってないですよねぇ…」と呟いていた。こんな役者ぶりが、加藤健一なのだ。

昭和の偉大な劇作家・プロデューサーである菊田一夫の名を冠した「菊田一夫賞」。演劇界での顕著な功績を残した人に与えられる賞だが、先年、加藤健一もこの賞を受け、授賞式が行われた。しかし、その場に本人はおらず、芝居の地方公演中ということで、映像のメッセージが届き、喜びを語った。スケジュールの問題があったのだろうが、受賞式の最中にも地方公演を行っている辺りが、いかにも彼らしいと思ったものだ。

ベテランの領域に入ったにも関わらず、困難な道のりばかりを選んでいるところも、現代の愛すべき「役者馬鹿」とでも言いたいような嬉しさがある。自分でどんどんハードルを上げながら、着実にその結果を積み重ねている姿は、役者の歩むべき「王道」であるとも言えよう。先日観た作品では7歳の少年から75歳までを演じる、という芝居をやってのけた。この柔軟性を失わないのが魅力なのだ。そうかと思えば老婆も演じるし、インチキくさい役も演じる。その幅の広さが役者の価値だが、一朝一夕にできあがる個性ではない。役者が個性を育て、それが「価値」になるまでの歩みがどれほどに手間暇のかかる仕事なのか、は今までの加藤健一の仕事を俯瞰してみればわかる。若さゆえの勢いで演じ切った作品もあれば、『モリー先生との火曜日』や『詩人の恋』などのように、再演を重ね、練り上げることで内容に厚みを増してきたものもある。決して楽な、あるいは恵まれた時期ばかりだったわけではない。

実際のところ、テレビや映画のオファーもかなり多いようだが、まずは「舞台優先」で、滅多に映像の仕事はしないようだ。それを「不器用だ」と言ってしまうのは簡単だが、そうでなくては自分を納得させることができないのだろう。もっと言えば、テレビや映画では他の役者で間に合う場合もあるだろうが、舞台だけは加藤健一以外では成立しない。観客もそれを分かっており、よしとしているからこそ、いつまでもたった一人の「事務所」でその都度メンバーを決める芝居が成り立っている。その点を考えれば、今までの苦労と引き換えに、役者としての大きな幸福を手に入れたのだ、と言える。

愚直なまでに舞台を愛する加藤健一の芝居を待っている観客は多い。その期待に応えて、そろそろ『審判』を見せてほしいものだ。

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2014. 5.17掲載

第十八回「堂本光一」

21歳の折に天下の帝国劇場で最年少座長記録を作った「Endless SHOCK」。初演の折には、一か月分のチケットが一時間足らずで完売になった、と聴いて驚いた記憶があるが、以来、今もその勢いが一向に衰えることなく、公演回数も1,000回を超えた。白皙の美少年もいつの間にか35歳になったが、あの小柄な身体のどこに潜んでいるのだろう、と思えるエネルギーの発露は変わらない。それどころか、進化を続けているのには驚くばかりだ。毎年彼が演じる「Endless SHOCK」を観ていて感心するのは、決して自らに妥協を許さないところだ。我々人間は弱い生き物で、辛い事を回避するために言い訳であれば即座にいくつでも浮かぶ。しかし、彼はそれを許さない。観客がどれほどこのステージを楽しみに待っているかを知っているからだ。

どんな仕事でも同じかもしれないが、ある程度の経験を重ねてしまうと、ともすると楽をする方法を覚え、それに対して周囲が何も言わない時期がある。これは演劇界にも当てはまることで、演技術でも何でもテクニックを身に付けてしまうと、そのテクニックに過剰に頼り、そこから前への歩みを止めてしまう役者がいる。実は、ここから先へ一歩を踏み出すことが、後に役者として大成するかどうかの大きなわかれ道の一つなのだ。そのことを頭ではわかっていても、「スケジュールが忙しくて」「脚本が良くないから」と言い訳はいくらもできる。それを一切許さない厳しさと潔さがあるからこそ、彼のステージが常に満員盛況なのだ。

この姿勢だけが彼の魅力のすべてだとは言わない。ただ、揺るがぬ根っこがあるからこそ、その上に様々な物を積み重ねることができるのだ。芝居を一つの城に例えれば、天守閣が燦然と輝くために、あるいは堂々とした威容を見せるためには、土台の石垣の石一つが欠けても適わない。芝居の創り方にも似たような部分があり、主役である彼を支える共演者や、ゼロコンマ何秒というスピードで仕事を進めなくてはならない大勢のスタッフが見えるところ、見えないところで「堂本光一」という天守閣を支えているのだ。そこに安閑と座して四方の景色を眺めている殿様であれば、この城は堅固なものにはなるまい。殿様自身が先頭に立って。新しい、より魅力的な城づくりに勤しむから、他の人々が着いてくるのだ。

これは役者の能力ではなく「個性」も預かっての部分が大きいが、生来座長に向く役者と向かない役者がいる。座長を支える立場に回って巧みな芝居を見せてこそ、座長はより輝きを放つことになり、必ずしも座長一人が偉いわけではない。しかし、すでに普通の人々とは違う生き方をしている「役者」という人種の中で、そう多くはないが生来の座長に向いた人もいる。彼には、それが備わっている。羨ましいことではあるが、厳しく、孤独だ。「山は高くなればなるほどに風当たりが強くなる」という。その高さまで登ってみた者でなければ分からない厳しい環境がある。これは、誰にでも共有できるものではないのだ。その孤独に耐え、なお首を持ち上げて前へ進むことができるかどうか。彼は、自分に課せられた運命と言うべき命題を知っている。だからこそ、「これでもか」というほどに自分を酷使し、観客の満足に生命を賭けるのだ。

私が観た限り、彼にはまだ伸びる余地がある、これからの伸びは、同じ長さでもさらに過酷なものになるはずだ。しかし、それを一番良く知っているのは彼自身であり、次のステージでその結果を形にして見せるのだろう。ここに、スターの孤独がある。

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2014. 5.24掲載

第十九回「松村 雄基」

大映テレビで高校生の時にデビューをし、『スクール☆ウォーズ』や『不良少女と呼ばれて』で鮮烈な印象を残した。若い時期にあるイメージで固定されてしまうと、誰しもそこから抜け出すのに苦労し、抜け出せないままになるケースもあるが、彼の場合は年を重ねて新たなイメージを巧く積み重ねて来たケースだ。それは、舞台や映画など幅広い活躍を続け、そこでの仕事が評価されて来た証である。

一言で言えば、「安心できる役者」なのだ。現代劇でも時代劇でも、いろいろな経験を積んでいるから、所作や科白のアクセントなど、細かなことでも多くの事を知っている。また、知っているだけではなく、「できる」。役者にとって「知っている」ことと「できる」ことの差は大きい。頭では分かっていても、芝居で表現することができなければ意味はないからだ。どんな役でも水準以上の物を見せてくれる信頼感が、舞台で引っ張りだこになる理由の一つなのだ。彼と共演した役者は、多くが彼のことを「真摯」だと言い、「ストイック」だと語る。

先日、ある芝居の稽古場で一緒になる機会があった。私は芝居を演じるわけではないので稽古を見ているだけだったが、演出家の「こうしてほしいのですが…」という要求に対し、彼は演出家の意図を自分が納得できるように話を重ね、翌日の稽古でその水準以上の物を見せた。一夜の間にどのような努力をしたのかは知らないが、役者とはこうしたものかと、その一面を見た想いがした。多くの女優が相手役として彼とコンビを組みたがるのは、その「折り目正しさ」だろう。日常の立ち居振る舞いが、芝居にも現われるものだ。「文は人なり」と言われるが、「芸も人なり」なのだ。

いつまでも若々しい外見だが、彼も50の坂を超えた。今の演劇界はいろいろな意味で、俳優・演出家・制作・脚本家・効果・照明・音響など、芝居創りの中心は50代が担ってゆくべきものが大きいと私は考えている。この世界でそれぞれの職分において50代を迎えている、ということは、それなりの経験を持ち、偉大なる先輩たちの仕事や教えも自分の肌で知っている。それを発揮し、上の世代からはまだ教えてもらえることは謙虚に受け止め、盗めるものは盗む。その上で、次の世代にそのバトンを渡してゆく。この仕事は、50代が中心になって行わなくてはならない重要な仕事の一つだ。このエッセイを書いている私も同世代であり、決して他人事ではない。

批評家の眼で松村雄基の「今までにない新しい芝居が観たい」という希望もある。悪役は今までにも何度か経験しており、それも悪くはないが、私は良質な海外の翻訳劇やコメディに期待をしている。今までの30年以上に及ぶ彼の芸歴の中で意外に演じていないジャンルであり、それを今、どう見せるかの期待があるからだ。大劇場、小劇場を問わずに仕事ができる幅の広さを持っているのだから、こうしたことも可能だろう。数年前の話になるが、「南河内万歳一座」の『青木さんちの奥さん』にゲスト出演した時の舞台が、普段は見せない一面を見せた点で印象に残っていると同時に、コメディのセンスをも感じさせる舞台だった。

シチュエーション・コメディや、海外の名作コメディをリニューアルし、彼の新しい一面が見られる日がそう遠くはないことを楽しみにしている。相当に苦しい作業かもしれないが、涼しげな顔で演じるコメディが、彼のエンターテイナーの道への一つの選択ではなかろうか。

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2014. 5.31掲載

第二十回「三宅 裕司」

ずいぶん昔の話になるが、テレビで伊東四朗と見せたコント番組が爆発的に面白かったのが印象的だった。その後、舞台化され、『いい加減にしてみました』のシリーズで人気を博したが、自らが代表を務める劇団、スーパー・エキセントリック・シアターの他に、喜劇を演じるために「熱海五郎一座」を設立、来月は新橋演舞場で一ヶ月公演を演じるまでになった。「熱海五郎」というのは、尊敬してやまない「伊東四朗」には及ばない、ということで、「伊東」の手前の「熱海」、「四朗」の次の「五郎」というネーミングだ。

面白い芝居を見せる役者はたくさんいるが、三宅裕司の得難い魅力は、まさにギリギリのところでつながっている「昭和の軽演劇」の匂いを持っているところだ。今で言う「お笑い」とも「コント」とも微妙にニュアンスが違った、あくまでも「軽演劇」なのだ。かつて、多くの喜劇人が浅草のストリップ劇場で、ショーの合間に短いコントなどで修業を積み、関西とは違った東京独自の笑いのセンスを持った芝居を生み出した。それがすべて「軽演劇」だとは言わないが、そうした生い立ちを持つ「笑い」の匂いが、三宅裕司にはある。良い悪いの問題ではなく、三宅裕司と共演の機会が多い東貴博の父、東八郎も浅草の軽演劇で修業を積み、独自の笑いを遺した役者だ。しかし、親子といえども、他の魅力がある代わりに東貴博には軽演劇の匂いはしない。「芸の筋」を受け継ぐことはこれほどに至難の技であり、微妙な問題なのだ。

三宅裕司がこうした笑いが好きなこと、それが唯一の理由だろう。そこに、天の配剤とも言うべき伊東四朗が現われたことで、東京の笑いの系譜がつながったのだ。主宰する劇団の公演でもそうした匂いをふと感じさせることがあるが、彼が次に劇団内の誰かにこれを渡せるかと言うとそう簡単ではないところに、「芸は一代」の難しさがある。当然のことながら、伊東四朗と三宅裕司が全く同じ芸で笑わせているわけではない。しかし、その根っこにあるものが同じ、ということなのだ。三宅裕司と同じ根っこを持つ役者、あるいは創ろうとする役者が現われるかどうかは、誰にも分からない。

新橋演舞場での一ヶ月公演、しかも自らが「熱海五郎一座」としての座長である。ここまで規模が大きくなると、多くの役者の個性を取りまとめ、その中で個性を発揮させなくてはならない。場合によっては、個性を殺さざるを得ない局面も出て来るだろう。これが芝居の難しいところで、劇場の空間やメンバーによって、同じ芝居でも感じ方が変わることがしばしばあるのと同様に、三宅裕司が本来持っている「笑い」の性質が、100%発揮できない可能性がある。そうならずに、毎日新橋演舞場が大きな笑いの渦に包まれれば、それは大成功であり、そうあって欲しいものだ。

お笑い芸人全盛の世の中のように見えるが、言うまでもなくお笑いはそう簡単なものではない。三宅裕司がつとに優れているのは、テレビのお笑い番組ではいとも簡単に登場する「下品な笑わせ方」をしないことだ。例えば、下ネタを使った方が遥かに楽なことは誰でも知っている。しかし、あえてそれを避けて自分の力で笑わせようとするところに、彼の真骨頂がある。この姿勢が一貫して変わらないところが、三宅裕司がコメディアン、もっと言えば「喜劇人」であることの証拠であり、今後も変わらないだろう。テレビで一気にやってしまえば楽なことを舞台でコツコツと重ねている。これも同じことで、三宅裕司の気概、なのである。

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2014. 6. 7掲載

第二十一回「市村 正親」

市村正親の舞台を初めて観たのは、劇団四季在籍中に上演されたミュージカル『コーラスライン』のポールか『ジーザス・クライスト=スーパースター』のヘロデ王だった。いずれにしても、もう35年も前の話だ。以降、劇団四季での仕事、退団後の仕事と、注視して来た役者の一人だが、これほどの幅の広い役柄を演じる役者も珍しい。四季在籍中は、前述のポールや『M・バタフライ』『エクウス』など、中性的な、あるいは少年の役などが多かったが、退団後は一気に幅が広がった。

得意のミュージカルは当然のことで、『ミス・サイゴン』『ラ・カージュ・オ・フォール』『レ・ミゼラブル』『屋根の上のヴァイオリン弾き』などのヒット作はもちろんのこと、ミュージカル以外の分野で言えば、『炎の人』、『キーン』、果ては『国定忠治』、自らがさまざまな抽斗を見せる『市村座』など、歌舞伎以外の芝居はほとんど演じていると言っても良いほどだ。一歩間違えば、器用貧乏で終わる可能性もあるが、そうではないところに魅力がある。「天性の役者馬鹿」とは失礼かも知れないが、現代において、良い意味での「役者馬鹿」という言葉が当てはまる数少ない役者の一人だ。

40年以上の芸歴を誇るのだから当たり前だ、と言ってしまえばそれまでだが、もう一つは「はずれ」が少ないことだ。諸条件によって、役者が巧くても、芝居全体の出来で見れば今一つ、という作品は世の中に多い。しかし、市村正親はこういう作品にぶつかった時でも、その傷を最小限で食い止めるだけの「腕」を持っている。主役として舞台を演じる以上、こうした責任までをも背負わなくてはならないのが役者の気の毒なところだが、彼はその技量で60%の芝居を80%に見せることができる。数重ねてきた舞台による修業の賜物なのか、天性の才能なのか。つい最近も、四季時代の盟友である鹿賀武史との芝居で、鹿賀の体調不良による降板を受けて、すぐさま代役に立った。Wキャストで演じているからすぐにできて当然だ、という考え方もあるだろうが、どんな事情によるものであれ「代役」にかかるプレッシャーは果てしなく大きなものなのだ。それを難なくこなす事も役者の腕である。

私は、役者の芸を表現する言葉で「円熟」という表現を好まない。わずかなニュアンスの違いになるが、「成熟」の方が、役者の芸が進化する余地を残しているかのように感じられるからだ。言うまでもなく、市村正親の芸は進化を前提にした「成熟」の過程にある。その幅の広さが、360度の円のどこへ向かって行ってもおかしくないだけの可能性を、60代の今も持っている役者はそうはいない。「舞台の嫌いな役者」というのはあまり聞かないが、それ以上に、彼には「どんなことでもやってみたい」という好奇心の塊のようなものが感じられるのだ。それが、次々に実現できることが、役者としての才能なのだ。そういう成果を残しているからこそ、次のチャンスを手にすることができる。「名優」としての評価がすでに確立している今になっても、ひたすら前のめりになって進んで行こうとするバイタリティとあくなき好奇心が、この役者を生き生きとした存在にし、舞台で輝かせることができているのだ。

誰もがいきなりスターになったわけではない。そこまでの修業や努力が徐々に実を結ぶ。そのスピードには個人差があるのは言うまでもないことだ。しかし、それを維持しつつ、年を重ねるごとに幅を広げている、という点では、比類のない役者であると言えよう。

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2013. 6.14掲載

第二十二回「市川 猿翁」

久しく病の床にありながら、甥の市川亀治郎に長い間名乗って自分で大きな名跡にした「猿之助」の名を譲り、祖父が名乗った「猿翁」の襲名をした。先月、明治座で市川染五郎が、猿翁が猿之助時代に復活した『伊達の十役』を演じたのを観て、改めて猿翁が昭和の歌舞伎に遺した仕事の大きさを感じた。

『伊達の十役』の初演は昭和54年の明治座で、私もその舞台を観ているが、大変な熱気と興奮だった。まだインターネットも普及していない時代のこと、チケットを求める電話が明治座へ殺到し、歌舞伎に興味のないファンが明治座へ押し寄せた。役者の名前や芝居のタイトルに不案内な観客が問い合わせの電話で「さるのすけがやっている『いたちの十役』の切符はありませんか」と言ったというエピソードは、もはや都市伝説の領域だ。

今でこそ、猿之助時代に彼が生み出した多くの復活狂言や早替わり、宙乗りなどの歌舞伎の魅力、また、外部の作家と組んで生み出した『スーパー歌舞伎』はきちんと評価され、定着した。しかし、猿之助が次々に実験的な試みを行っている最中は、歌舞伎界の守旧派の一部からは、「あんなものはサーカスだ」などという、的外れの批判が寄せられたのも事実だ。しかし、猿之助はそうした声に一切揺らぐことなく、自分が信じる道を猛進した。「自分の試みが面白いかどうかは、お客様が判断してくれる」という想いだけだったのだろう。その結果がどうなったかは、言うまでもない。今や、『伊達の十役』は市川海老蔵も手掛けるなどしており、「昭和に創られた歌舞伎」が平成のスタンダードとして広く受け入れらるようになったのだ。

祖父・猿翁の時代から「革命児」と呼ばれて来た市川猿之助の一族。しかし、歌舞伎界にこれほど大きな革命を成し遂げたのは、一族で現・猿翁が特化しているだろう。それが、身体を傷めてしまった遠因になったのかもしれない。そう考えると、猿之助時代の猿翁は、自分の健康と引き換えに「時代に息づく新しい歌舞伎」を創ったのだとも言える。

400年を超える歌舞伎の歴史を振り返ってみると、いたずらに古い物を守ってきたばかりではない。今の観客には「敷居が高い」ものと思われがちだが、敷居が高くなったのはここ四、五十年の話で、それ以前の歌舞伎は庶民にもっと身近なものであり、歌舞伎役者の考え方も柔軟だった。

明治維新を経て、西欧の新しい思想が流れ込んで来た時に、積極的に取り入れようとしたのも歌舞伎役者だし、海外へ芝居の勉強にいち早く出かけたのも歌舞伎役者だ。

古い歴史を持つ大樹のような歌舞伎に、それぞれの時代の人がその瞬間の息吹を吹き込み、観客と共に歩む「同時代性」を大切にしてきたのが歌舞伎の本来の歴史だ。それを、闇雲に「古典でなくては」と恣意的な方向に動かした人々に対するアンチテーゼが「猿之助歌舞伎」だったのだ。かつて、「アンダーグラウンド」と呼ばれた一群の演劇が、今は何の抵抗もなく観客に観られているように、猿之助の数々の仕事も、歌舞伎界のアンダーグラウンドから堂々と日の当たる道へ出てきた。

古典を守るのが悪い、というつもりは毛頭ない。しかし、真面目に歌舞伎と対峙せねば、ただ機械的に歌舞伎を演じる危険性がすぐそこにあることを忘れてはいけないのだ。「慣れる」と「狎れる」は、発音は同じでも意味することが全く違う。

今、歌舞伎を再び新鮮な眼差しで見つめ直す時期が来ているのではないか。猿之助の仕事を見ると、そう感じざるを得ない。

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2014. 6.21掲載

第二十三回「伊東 四朗」

東京の喜劇には「含羞」がある、と言ったら感傷的になり過ぎだろうか。表現はともかく、関西の喜劇と東京の喜劇の質は明らかに違っているのは事実だ。気候・風土・人々の気性が長い間かけて創り上げたものであり、優劣を付ける性質のものではない。しかし、私は東京っ子であり、東京の喜劇を眼にする機会が圧倒的に多かったため、東京の喜劇を好む。これが、地域性というものだ。

伊東四朗は、本当に少なくなってしまった東京の「喜劇人」である。絶滅危惧種に指定しても良いほどの価値のある芸だ。「てんぷくトリオ」で一世を風靡した時代からの伊東四朗の笑いの本質は変わらない。ただ、トリオの時代は三波伸介という強烈な個性を持つリーダーの存在に押され、貴重な味わいをなかなか発揮できなかっただけだ。紆余曲折を経て、トリオ時代とは違う花を咲かせたのが中年以降だったのが、伊東四朗にとっては大きな幸福だったと言える。その間に、芸の修行をさらに重ねることができたからだ。

多くの人が知るエピソードかもしれないが、昔の喜劇役者や漫才師は、浅草のストリップ劇場で修行を積んだ。踊り子が交替する間をつなぐために、短いコントを演じる。ストリップを観に来ている人々には、「無用の時間」でしかない。その時間に、少しでも笑いを取れるかどうか。最初から「お呼びでない」場所でコントを演じるというのは、武者修行もいいところだ。しかし、この苦労があったおかげで、浅草で修行を積んだ芸人たちは「しぶとい」のだ。この時代の苦労に比べれば…と思うことで乗り越えて来たことも多いだろう。

今、伊東四朗は何回目かのブームの中にいる。三宅裕司が彼の芸を崇拝し、盗もうと懸命になって一緒に舞台に立っている。芸の生い立ちは違っても、自分の芸を必死で盗もうとする後輩がいるのは嬉しいことだ。三宅裕司とて、自らが劇団を率い、多彩な活動を行っている。その中でなお、伊東四朗の持つ「笑い」の価値がわかり、自分なりに引き継ぐ必要があると感じているのだろう。その志に、伊東四朗も必死で応えている。

東京の喜劇のすべてが、とは言わないまでも、あくどいギャグや下ネタという「飛び道具」を使わずに、どれだけ観客を笑わせることができるか、という暗黙の了解がある。飛び道具に手を出してしまえば、一瞬大きな笑いは取れるものの、長続きはせずに、本人の芸にもならない。そうしたことどもを、若い時代に経験していることの意味は大きい。何もかもが自由な時代に、そんな制限を掛けても仕方がない、と思う人もあるだろう。

しかし、これこそが東京の喜劇人の中に連綿と伝わる矜持であり、誇りなのだ。楽な手を使わずに生きてきたからこそ、伊東四朗の芸は長続きしている。これは、どのジャンルの芝居にでも共通していることだ。己の芸を厳しく律し、大切にする。それは、自分のためであると同時に、観客のためでもある。少しでも長い間、自分の芸が輝きを失わないようにするには、一発の大きな打ち上げ花火だけでは意味がないことを、長い芸歴の間で嫌というほど味わって来たのだ。その形を今もなお崩さずに、愚直なまでに守り通しているところに、伊東四朗の揺るがない幹がある。

「芸」というものに真摯に向き合い続けているからこそ、今でも変わることのない味わいが見せられるのだ。それが、「東京最後の喜劇人」とも呼びたくなる理由なのである。

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2014. 6.28掲載

第二十四回「小宮 孝泰」

渡辺正行、ラサール石井と共に「コント赤信号」で一時代を築いた後、それぞれの道を歩んでいるが、三人とも舞台を離れることができないようだ。その中で、わざわざ小宮孝泰について書きたいのは、長い間、自作自演の一人芝居を続けているからだ。

昨今、ずいぶん一人芝居や朗読が増えた。不景気の影響を藝能の世界ももろに喰らい、制作費を考えると比較的経費を掛けずに行えるから、という安直な舞台も多い。しかし、彼は世の中がこうなる前から、何本もコツコツと一人芝居を創り、上演し続けてきた。一人芝居に憧れる役者は多いが、観るとやるとは大違いで、かえって大きな芝居に出ていた方がよほど楽な話だ。それでもなお、一人芝居に挑むのは、役者として自らが表現したい「欲求」が多くの労苦を乗り越えさせるのだろう。

昨年10月に、下北沢の小劇場で、自作の一人芝居を三本連続で上演したことがあった。その中の『線路は続くよどこまでも』は、満洲で仕事をしていた父親の姿を描いたもので、1時間半を超える熱演だったが、汗みずくで小さな舞台を動き回る彼には、「コント赤信号」の面影は毫もなく、ひたすらに過酷な人生を生き抜いた一人の男性を演じようとする役者の姿があった。逃げ場のない一人芝居は、よほどの力がないと、観客を惹き付けておくことはできない。それを承知の上で一本ではなく三本連続上演に臨んだのは、決して腕に自信があるから、ではなかろう。

役者の表現者としての「想い」が、この困難に挑戦させる決意をさせたのだ、と私は想う。どう考えても割の合わない話だからだ。これほどの苦労をするのなら、どれか一本に絞って、その濃度を高める方がまだ楽に決まっている。しかし、たとえレベルに多少のばらつきがあっても、「演じたい」という役者の渇望が、あえて三本を一挙に上演することに結び付いたのではなかろうか。

小宮孝泰も58歳。そろそろ自分の持っている物を次の世代にどう伝えるかを考えなくてはならない年代に差し掛かって来た。その、表現方法がこの「一人芝居」ではなかろうか。これほどに一人芝居にこだわるのは、自らが明治大学時代に「落語研究会」に所属していたことと関係があるのではなかろうか。落語の腕前はいかほどのものかは知らないが、明大は三宅裕司、立川志の輔、渡辺正行らを輩出した「名門」だ。ここで落語という一人の演者による「語り芸」を知り、それを「芝居」の形式で表現したい、という役者の熱望の所産ではないか。

落語も一人芝居も、一人で老若男女何人もの人物を演じ分けなくてはならない点ではかなり似ているが、「似て非なるもの」であることも間違いはない。落語が座布団一枚の非常に狭い空間という制限があるのに対し、一人芝居は舞台全部を使うことができる。また、落語はあくまでも「語り」の中で人々を演じ分ける芸だが、一人芝居にはその制限はない。どちらが好きかは観客の好みに委ねるしかないが、落語の本質を知っているからこそ、役者として一人芝居にこだわっているのではなかろうか。

今、50歳を過ぎた我々の世代が、演劇界の中でそれぞれ職分は違え、課せられた問題は大きい。上の世代から受け取ったものを、次の世代にどう見せるか、その中で、自分がどう成熟へ向かってゆくのか、勉強しなくてはならないことは山のようにあるのだ。それに対峙している姿の一つが、小宮孝泰の場合は「一人芝居」に集約されているのかもしれない。

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2014. 6.29掲載

追悼・斎藤 晴彦

今年連載しているエッセイ「役者の話」に、そろそろ登場していただこうと考えていた矢先に、訃報が飛び込んで来た。路上で倒れ、搬送先の病院で亡くなったという。享年73歳。今の時代であれば、「まだ充分働ける年齢なのに…」と言われてもおかしくない。芸が深みを増す年齢に差し掛かった時期でもあり、たださえいくつもの顔を持った役者の晩年を観る楽しみを感じさせてくれる役者だったのだが。

「アンダーグラウンド」という言葉が演劇の分野でも盛んだった頃に、役者として名を挙げ、クラシックの怪しい替え歌でCMに登場してからは一気に全国区の役者になった。自らの劇団「黒テント」の芝居を大切に演じながら、大きな舞台での芝居も深い味わいを見せた。誰もが思い出すのは『レ・ミゼラブル』の因業な宿屋の亭主・テナルディエ、上川隆也との二人芝居『ウーマン・イン・ブラック』、森光子の『放浪記』で演じた作者の菊田一夫だろう。この三つだけを取り上げても、ミュージカル、ストレート・プレイ、大劇場演劇と全く違うカラーを自在に見せた役者だ。

私にとってはどれも忘れ難い舞台だが、この中から一本を選ぶとすれば『ウーマン・イン・ブラック』だろう。個性がないのが個性、とも言えるような役を演じながら、観客の中にしっかりとイメージを植え付ける、という仕事は決して簡単なものではない。難なくこなしていたわけではないだろうが、「引いた芝居」の巧さを充分に堪能させてくれた仕事だった。名作だけにまた上演の機会を待っているファンも多いだろうが、次にこの役を演じる人には大きなプレッシャーになるだろう。

もう一つ、これは齋藤晴彦の人となりを現わすエピソードがある。『放浪記』では、出番が序幕と大詰めしかない。長い芝居で、その間3時間近く時間が空くことになる。この人ほどのベテランであれば、自分の出番がない時は一人楽屋へこもってエネルギーを温存していても、誰も文句は言わないし、うまい具合に空き時間が連続している。しかし、事情が許す限り、舞台の袖で他の役者の出入りの邪魔にならぬように、じっと舞台を観ていた、と聴いた。そこで共演者のコンディションやその日の客席の空気を観ていたのか、毎日違う芝居を確かめていたのか、理由は分からない。しかし、ただひたすらに真面目に舞台に取り組んでいる役者の姿であることに間違いはない。

誰の訃報を聞いても哀しいものだが、予想だにしていない人が急逝すると、アッパーカットをくらったような気持ちになる。物腰の低い、人当たりの柔らかなベテラン名優がもうどこにもいないのだ、という事実が、訃報を聞いて4時間しか経っていない私にはまだ受け入れ難いところがある。しかし、「芸は一代」、「消える芸」の世界に生きている以上、こうした形での急なお別れも今までに何度も経験してきた。その都度同じような想いをしてきたのだが、自分が50歳を過ぎ、同年代の訃報が珍しくなくなって来た年齢になってみると、「明日は我が身」という言葉が他人事とは思えない。

今はただ、故人の冥福を祈ることと、斎藤晴彦というたぐいまれな個性を持った俳優の舞台を20年以上にわたって観て来られたことの幸せを想うべきなのだ。しかし、こういう形での幸せは、増えてほしくない、というのが本音でもある。本当に、惜しい役者を亡くした。

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2014. 7. 5 掲載

第二十五回「中村 小山三」

1920年生まれ、というから今年で94歳になる。恐らく、現役では最年長の役者だろう。先年亡くなった十八代目中村勘三郎の父・十七代目に入門し、以来、現・中村勘九郎まで中村屋三代にわたって仕えている女形だ。昨年の暮れ、歌舞伎座の『仮名手本忠臣蔵』の『七段目』の仲居で出演した折、さすがに足が弱っており、手を引かれて舞台に登場した折には盛大な拍手で迎えられた。

歌舞伎が「閉鎖的だ」と言われる理由の一つに、「門閥性」や「徒弟制度」などの要素が挙げられることが多い。実際には、世間が想うほどに閉鎖的ではない部分もあり、「実力次第」の側面も大きいが、良い意味で機能しているのが「徒弟制度」でもある。今はもう通じない考え方かもしれないが、以前は自分が弟子入りした「旦那」は自分の命よりも大切な存在であり、自分に何が起ころうとも舞台で旦那に恥をかかせてはいけない、というのが回りについている役者たちの矜持だった。それは、こうやって舞台で輝く大スターがいるから自分たちにも役があり、スターだけでは芝居は成立しない、ということを熟知しており、さらに、自分を客観的に見る厳しさを持っていたからだ。

中村小山三は、そうした体質と考え方を持った最後の役者、と言えるだろう。スターは陰で引き立てる人がいる代わりに輝きを増すが、陰にいるからと言って、決して妥協することはない。「何かがあったらご見物に失礼」「旦那に恥をかかせるわけには行かない」との想いが、頭を離れることがないからだ。顔を見た瞬間に今日の体調から虫の居所、すべてを一瞬に判断するのは夫人なみの力量だろう。こういう役者を「大番頭」と呼ぶ。一門の隅々にまで目を光らせ、「中村屋」にとって少しでもマイナスになる要素は排除する。これには、よほどの信頼関係がなくてはならない。

また、古い芝居を知り尽くしているから、「若旦那」にしてみれば、弟子筋でありながら脅威でもあるのだ。事実、十八代目の勘三郎は小山三のことを「怖いねぇ」とインタビューで漏らしている。実際に、相手が若旦那であろうと、容赦なく「それは違います!」と言えるからこそ、「大番頭」でもあるのだ。「中村屋」という歌舞伎の家に自分の生涯を賭けて生きている、という言葉は大袈裟ではない。小山三にとっては、先代が亡くなって「勘三郎」の名跡を継ごうが、赤ん坊の時から面倒を見て来た「やんちゃな若旦那」であり、自分は先代の勘三郎に育てられて役者になったのだ、という先代への愛情や敬慕と誇りが綯い交ぜになっているのだろう。

こうした関係性は、他の芝居ではなかなか目にすることができない。中にはあるのだろうが、数は圧倒的に少ないだろう。時代の変化と共に、サラリーマンのような感覚で仕事をしている役者が増えた、と嘆く現場のベテランが増えた。舞台を創る仕事は、「残業代」や「休日」などを念頭に置いていてはできない仕事だ。一本の芝居を創り終わるまでの仕事を時間給に直したら、アルバイトより安い場合もあるだろう。それでもなお、舞台を創り、そこに生きる糧を見出せる人々がかつては大勢いた。それだけの磁力を持った魅力的な役者や芝居もたくさんあったのだ。いたずらに昔を懐かしんでも仕方がないが、豪華な歌舞伎の舞台がこうした人々の「心」に支えられて今まで続いている事実、もまた揺るがせにすることはできないのだ。

突き詰めて行けば、「どれほど芝居が好きか」。この一点にすべてが集約されるのではあるまいか。

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2014. 7.12掲載

第二十六回「阿部 寛」

映画『テルマエ・ロマエ』のPARTUもヒットし、引っ張りだこの阿部寛。年齢相応の味わいが出て来たのは、近年の収穫であると同時に、容姿とは裏腹なコメディ・センスを持っていることも披露している。

あれだけの体格だから舞台映えすることは間違いないが、そう頻繁に舞台には立たずに、作品を丹念に選び、映像とのバランスを取っているようだ。阿部寛を劇的に変えたことで知られる『熱海殺人事件』をはじめ、『新・近松心中物語』、10時間に及ぶ大作『コースト・オブ・ユートピア』などに挑んで来たが、今年の秋には『ジュリアス・シーザー』を演じると聴いた。なるほど、と思える作品だ。

ずいぶん昔の話になるが、1977年の1月、当時渋谷の東横デパートの上にあった「東横劇場」で俳優座が河原崎次郎のシーザーでこの芝居を上演した。他に仲代達矢、加藤剛の共演で、主役のシーザーよりも他の二人が印象に残っているが、今度の舞台はそんなことにはならないだろう。

演じる役が、役者の体格に左右される要素は決して小さいとは言えない場合がある。時代劇には顔が大きめで体格もやや太めの方が役に応じた貫録も出るし、雰囲気を創りやすい。すべてがそうだ、とは言わないまでも、時として背が高すぎて帯の位置がアンバランスな役者を見かけることもある。阿部寛の豊かな体躯には、洋の東西を問わず骨格の太い芝居が似合う。役者としての自分の特質を知ることは、自分を活かすための最大の武器にもなるのだ。

そうした点で、秋に上演される『ジュリアス・シーザー』をどう演じて見せるのか、大いに楽しみなところだ。スケールの大きな芝居である一方、その中に描かれる人間の心理や感情に変わりはない。その襞やぶれを、どう創るか、だろう。そこは演出家の意向に任せるしかないが、どう応えるかは彼自身の問題だ。

誰でも平等に年を取る。後は、いかに巧く年を重ねるかの問題で、俳優の場合、この問題は特に深刻な要素である。演技力に深みが出ると評価をされる場合もあれば、急に生彩を欠く人もいる。まだ、阿部寛の老いる姿を想像するのは早すぎるが、彼が今後どのような年の重ね方をしてゆくのかには興味がある。いずれ、娘を嫁に出すような年齢の父親や、定年間近のサラリーマンに近い年齢の役を演じる日が来るだろう。

彼の個性が面白い、と思うのは、あれだけの堂々とした偉丈夫ぶりを見せながらも、ふと我々と「等身大」の部分を見せたり感じさせたりすることだ。そこに親しみやすさと安心感があるのだろう。紛れもないスターでありながら、ふとした瞬間に見せる「素」や「天然」とも言える部分があることで、阿部寛の「バランス」がうまく保たれている。それが役者の魅力でもあり、素材としての人間の魅力にもなっている。

ここまで振幅の広い役者としての存在になったのは、私が観た舞台ではやはり『熱海殺人事件』が大きなターニング・ポイントであったことは間違いない。役者がどこで、どんな作品や演出家に出会うか。一見、これも「運」のようだが、そうばかりとは言えまい。その本質を見抜く眼を持った人々がいたからこそ、出会うべくして出会ったのだ。それに挑戦したのは本人の努力だ。その点で言えば、『コースト・オブ・ユートピア』の初日の舞台も忘れ難い印象を私の中に残している。作品のスケールと共に。

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2014. 7.19掲載

第二十七回「左 とん平」

喜劇役者としてはベテラン中の大ベテランだ。出て来た瞬間にとぼけた雰囲気で観客の笑いのスイッチを入れる力はたいしたものだ。今までの長い芸歴の中で培ってきたイメージが、それほどに強烈なものだった、ということだ。「左とん平が出てくれば、何か面白いことを言ったりしたりするに違いない」とう観客の期待が満ちており、それにきっちり答えることは、いい加減な役者ではできない。

二年ほど前のことだ。あるコメディの地方公演があり、舞台を観て、終演後に酒席を共にした。その舞台で、主役の女優と二人のシーンがあり、そこでやや長い科白があるのだが、この科白が見事なまでにめちゃめちゃだった。「要するに、あのことについて、お前に言いたいのはあれ、だろ。何て言うかな。まあ、なんとかなるだろう」といった感じで、具体的な内容がない。観客は爆笑した。それを、相手の女優が、「あんたねぇ、さっきからあればっかりじゃ何のことだか分からないわよ。あんたの言いたいのはこれこれこういうことでしょ」と切り返したため、観客の笑いはさらに倍増した。これは、単なるアクシデントではなく、百戦錬磨の役者同士の信頼関係から出て来る高等技術だ、と私は感じた。この場面、私は左とん平が意図的に科白をごまかして笑いに導いたのか、本当に忘れたのか、真相を聴くことはしなかった。どちらも、楽にこなせる役者の実力を目の当たりにしたからだ。

ここで、固い話を持ち出せば、「いい加減な演技だ」と言うことはできる。しかし、観客の割れんばかりの声に包まれたあの空間で、それを全面的に否定することが100%正しいのか、それを確固たる自信を持って言うことはできなかった。一言で言えば、「融通無碍」なのだ。それでいて、酒席では、先ほど終わったばかりの舞台の細かな部分までをきちんと覚えており、自分なりに今日の出来を冷静に分析する眼を持っていた。すべてが計算に基づくものだと言われれば納得もできるし、長い間喜劇人として芝居をしてきた結果なのだと言えば、それも頷ける。

こういう笑いの高等戦術を使える役者は他にもいるかもしれない。しかし、左とん平が凄いのは、全く笑いのない芝居で、時にふとした哀愁を漂わせたり、完全な悪役に徹し、ふだんの姿を微塵も感じさせないところにある。明治座で米倉涼子が『黒革の手帖』を演じた折に、最終的には罠にはめる役回りだったが、この時にはふだんの剽軽で気軽なイメージは影もなかった。小柄ながらふてぶてしいまでのしたたかさを重ねた「年輪」を見事に表現して見せた。

こうして、硬軟自由に演じ分けられるところに左とん平の凄さがあるのだ。長らく森繁久彌と共に舞台・テレビの仕事で共演し、先輩から盗んだ芸の蓄積が、こうして役者の財産になっているのだ。森繁久彌が亡くなった翌年、左とん平、松山政路と三人で、「我らがオヤジ、森繁久彌を語る」というトークショーをしたことがあった。

もう時効だが、14:00頃からの鼎談の前に、三人で昼食を取りながらランチビールで燃料を補給し、故人の想い出を語ってさんざん話した挙句、「今日は二回公演だ」と言いながら、本番の鼎談を迎えた。良い意味で三人とも肩の力が抜けていて、楽しく故人の想い出と悪口を語り、お客様も多いに笑って故人を偲んでくださった。今考えてみると、ざっとした打ち合わせの昼ごはんで「軽く入れようよ」とビールを注文した左とん平の言葉は、二人の役者を前に進行の責を担う私への細やかな気遣いだったのだ。

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2014. 7.26掲載

第二十八回「草笛 光子」

誰でも「老い」は避けられない。今は「アンチエイジング」が盛んで、いかに「若さを保つか」がクローズアップされているが、その一方で、「美しい年の重ね方」もある。最近観た舞台の中で、見事な年の重ね方をしていると感じたのは草笛光子だ。女性の年齢を書くのははばかられるところだが、プロフィールにも出ていたので記すが、今年で81歳だという。見事なまでに美しい銀髪と、軽やかな身体の動きには驚いた。

それだけではない。2006年から上演している二人芝居『6週間のダンスレッスン』という芝居の中では、「スウィング」「タンゴ」「ワルツ」「フォックストロット」「チャチャチャ」「コンテンポラリー」と6種類のダンスを踊る。いさかかの危なげもなく、軽やかにステップを踏む様子に、客席からため息が出た。もちろん、草笛光子とて、我々と同様に日々年を重ねてゆくわけで、人の見えないところで肉体を維持するための努力を怠らないからこそ、こうして元気な舞台が見せられるのだ。

しかし、今の「若く見えれば良い」という風潮だけではなく、その年齢相応の美しさや、その年齢にあった役柄をいかに美しく、あるいは観客に納得のゆくように演じて見せるかは、役者の才能である。この作品は、内容自体が非常に素晴らしいものであり、単に何種類ものダンスを踊って見せるのではなく、たった二人の登場人物が抱えている心の問題が二人の間に浮かび上がり、絶対に相容れない水と油のような二人がやがて心を繋ぐ、という物語だ。そのための重要なアイテムとして、「ダンス」が登場する。今までに、草笛光子の相手役は三代変わったが、彼女は初演の頃とほとんど変わらない軽やかさで芝居を演じ、ステップを踏む。ある程度の年齢に達した段階で、実際の年齢とはかけ離れた役に挑戦するのも女優の腕なら、年齢相応の役で人間の深みを見せるのも女優の腕だ。彼女は後者の道を選び、テレビなどでもそうした役回りを演じるようになった。これは非常に賢い選択だ。どちらも、誰もができるわけではないからだ。草笛光子に、この作品を、と考えたプロデューサーも慧眼である。その証拠は、8年にわたって何度も上演されているという結果が示している。

人前で仕事をする俳優は、個人差はあるものの、ある程度の年齢になった段階で、自分の「老い」と対峙し、どう折り合いを付けるかという問題に、我々よりも非常にシビアな選択を迫られる。どういう道を選ぶにせよ、生涯現役の俳優で活躍するためには、人の見えないところで日々の鍛練をどれほど重ねられるか、だろう。「寝ている間に痩せる薬」や、「いくら食べても太らずに筋肉がつく薬」などは、喉から手が出るほど望んでいる人は多い。私もその一人だが、そんな夢のような話はない。

自分の肉体を管理し、維持するのも役者の仕事の大きな部分を占める。勘違いされては困るが、役者という仕事は、明らかに「肉体労働」の部分が多いものだ。人を感動させるための演技を生み出すための頭脳や感性はもちろん必要だが、身体が動かないのでは話にならない。考えようによっては何とも苛酷な仕事だ。

その中にあって、これからも演じ続けることのできる役を持っている草笛光子は、女優としての幸福に巡り合えたのだ、とも言える。後は、この幸福な役を少しでも長く演じてもらうことが、多くの観客の願いだろう。同時に、スターだけにそうした問題を押し付けるのではなく、我々自身が、どう年を重ねるかも考えなくてはなるまい。

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2014. 8. 2 掲載

第二十九回「蜷川 幸雄」

「役者のはなし」というタイトルのエッセイで、世界的な演出家・蜷川幸雄を取り上げるのはおかしい、と感じる向きもあるだろう。ここでは、あくまでも「役者・蜷川幸雄」としての側面を書く。

舞台ではなくテレビドラマで、子供の頃に大好きだった『6羽のかもめ』という作品がある。調べてみたら1974年10月〜75年3月までフジテレビで全26回にわたって放送されていたものだ。脚本は倉本聰を中心とした数人のメンバーで、主題歌は加藤登紀子が唄っていた。とある劇団をモデルにして、座員の大量脱退で生き残りに苦労しながら運営してゆく姿を描いた「バック・ステージ物」だったが、当時はそんな言葉はなかっただろう。先年亡くなった淡島千景が劇団の女座長、座付作者が長門裕之、若手の売れっ子スターが若き日の高橋英樹で、このドラマが初めての現代劇だったはずだ。劇団のマネージャーが名優・加東大介、と言っても今は知る人も少なくなった。役者一家に生まれた人で、長門裕之のおじに当たる。撮影の最中にがんが悪化したが、病院からスタジオに通い続けて撮影を全うし、これが遺作となった。

この作品で、蜷川幸雄はテレビ局のプロデューサーの役で準レギュラー的な存在で顔を見せていた。その当時の私に蜷川幸雄のことが分かろうはずもないが、「テレビ局の人のいい加減な調子よさ」という雰囲気がぴったりしていたのは覚えている。最近、このドラマがDVD化されたので改めて全編を通して観たが、実に巧みなキャスティングで、蜷川幸雄の役者時代の持ち味が、ああした「いい加減さ」にあったことを見抜いていた倉本聰は慧眼だと感じた。テレビ局のプロデューサーに対して視聴者が抱く「胡散臭さ」の最大公約数を人物にしたような感じで、蜷川幸雄はこのキャスティングに見事に応えたと私は想った。どういう事情で役者から演出家に転身したのか、スキャンダラスな意味での興味はない。しかし、皮肉ではなく、蜷川幸雄が役者を続けていたら、世界的にはならなくとも、かけがえのない味を持った名脇役になっていたであろうことは間違いない。どちらが得だったろう、などと考えるのは愚の骨頂だが。

倉本聰は、1981年に『北の国から』という20年以上続いたドラマを書き始めるが、なぜか少年時代の私に鮮やかな記憶を残しているのは、それ以前の倉本作品だ。『2丁目3番地』に始まり、『うちのホンカン』『ぶらり信兵衛  

道場破り』『あなただけ今晩は』『前略おふくろ様』…。『6羽のかもめ』の最終話のタイトルは「さらば、テレビジョン」というものだった。ここからは想像の領域だが、この時期に、倉本聰は薄汚い人間模様や、視聴率第一主義のテレビの現場に疲れていたのかもしれない。そんなテレビ界に、蜷川幸雄も愛想を尽かし、舞台へと大きく傾斜をしたのだろうか。

今はテレビも舞台も、決して良い時期にあるとは言えない。それは多くの人々が感じていることだろうし、最近は若者の「テレビ離れ」が大きな問題にもなっている。役者としてテレビの現場を、演出家として舞台の現場を知悉している蜷川幸雄が、ここらで最後の大暴れを見せてくれたら、という期待がある。混沌として先の見えない時期だからこそ、そして蜷川幸雄だからこそ、のチャンスではなかろうか。せっかく持っている強烈な「毒」の効き目を穏やかなものにはせずに、誰もが目覚めるような役を演出家でも役者でも、どちらの立場でもよいから発揮してほしい。蜷川幸雄が出演する舞台は新鮮さを持って迎えられるだろう。

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2014. 8. 9掲載

第三十回「森 公美子」

その役者が存在するだけで舞台の空気が変わる、とう人がいる。森公美子もその才能を持つ女優の一人だと思う。明るくて賑やかというひたすら陽性の芸風はふくよかな体型があってこそ、なのかもしれない。6月に帝国劇場で演じていた『シスター・アクト』は、日本では『天使にラブソングを』で知られた映画のミュージカル化で、これが素晴らしかったのだ。豊かな歌声はもちろんのこと、身体全身の表現は、舞台に向いている。市村正親が演じている『ラ・カージュ・オ・フォール』の議員の妻も同様だが、幅広い音域を活かし、コミカルに歌い踊っているのを観ていると、最後にはそこに潜んでいる「愛」の深さに涙ぐんだりするのだ。楽しく笑わせながら、ふとした瞬間に泣かせる。これは、一つにはそういう芝居ができる作品に恵まれたこと、次に役に合った容姿を持っていることだろう。そこに、本人の努力が加えられている。

どんな人間でも、何をする人でも人よりも少しだけ優れた部分を持っている。しかし、その天性の資質を自分で活かせるかどうか、は努力次第だ。どんな仕事でも、いくら才能に恵まれていても、寝転がって背中を掻いているだけで上達するものではない。持っている才能が磨かれれば磨かれるほど、自分に課せられたハードルは高くなる。後は「妥協」か「更なる努力」のふた筋道しかない。彼女がどちらを選び、帝劇で『シスター・アクト』を演じたかは、舞台を観れば一目瞭然だった。この作品に関して言えば、正直なところ、映画での評価が高く、イメージがすでに固定化されつつあったために、「彼女であればそこそこのレベルで見せるだろうが…」というのが観る前の感覚だった。しかし、舞台化のために楽曲がすべて書き下ろされたもので、映画とは違う感覚を持った作品を、彼女は実に見事に演じた。久しぶりに、幕が降りても観客席からの拍手が鳴りやまず、スタンディング・オベーションになるのを観た。予想以上のものに仕上げた、と嬉しく予想を裏切ってくれた舞台だった。

芝居の批評をしていると、なまじ長い間、多くの芝居を観ているせいで「悪ずれ」してしまう部分があり、良く言えば経験則で、幕が開く前に大方の予想がついてしまう舞台が多い。「この顔ぶれであればこうだろう」という嫌な予想ができてしまう。しかし、『シスター・アクト』では、久しぶりに予想を裏切ってくれた。これは何とも嬉しいもので、同時に自分の修行不足を感じさせられる瞬間でもある。しかし、こうした感覚は嬉しい「負け」とも言える。贅沢を言えば、すべての舞台がこうであってくれれば良いのだが、なかなかそうは行かないのが実情だ。

森公美子という女性は、ずっと朗らかに輝く女優でいてほしい、という気持ちと、「彼女が悲劇を演じたらどうだろうか」という期待との二つの矛盾した感情がある。あの大きな眼が涙でかすむような時に、芝居の迫力やパワーだけではなく、どうやって観客を泣かせ、森公美子ではなくその芝居の役として大粒の涙を流すのか。その瞬間も観てみたいが、10年先でも間に合うだろう。その間に、女優としてどんな魅力を加えてゆくのか、そこに彼女のこれからの道があるような気がする。

あれだけの大きなスケールで観る者を包み込むことができるのは役者としての個性であり、天性の才能でもある。それに更に磨きをかけ、10年後にどんな芝居を見せてくれるのか。どんな歌で観客の気持ちを揺さぶってくれるのか。ベテランになればなるほど、「もっと」と新たな可能性を求めたくなる女優だ。それも、天性の魅力の一つ、と言えるのかもしれない。いつまでも完成してはいけない、というのが役者の厳しいところだ。

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2014. 8.23掲載

第三十一回「宝田 明」

今の若い人には、先日公開された映画『ゴジラ』の最初の作品の主演、と言えばインパクトが大きいかもしれない。しかし、日本の草創期のミュージカルを牽引するという大きな仕事を果たして来た役者だ、ということも述べておきたい。80歳を過ぎた今も、「宝田座」を主宰し、年に一回名作ミュージカルのナンバーを選りすぐって歌う活動を続けている。

私が初めてミュージカルを観たのは昭和45年8月に帝国劇場で上演されていた『マイ・フェア・レディ』で、今から40年以上も前の話だ。明るくて楽しく、華やかな印象は今も鮮烈で、私が芝居の批評を始める原動力の一つになったほどのインパクトを持った作品だ。『マイ・フェア・レディ』は今も上演されるほどの人気作品で、宝田明はヒギンズ教授を演じていた。相手役のイライザは、宝塚を引退して間もない那智わたるという女優だった。若々しい二枚目ぶりの名残は今も残っているが、いかにも世間知らずの、何不自由なく育てられた我が侭な「大人の坊や」という感じのヒギンズ教授だった。

本来、ヒギンズ教授の演じ方はこうあるべきで、階級制度の中で、身分差のある下町の蓮っ葉な女性と、上流階級で生活の苦労を知らないボンボンとの愛が土台としてしっかりしていないと、成立しないのだ。階級制度のない日本では体感しにくい世界を、よりリアリティを持って演じてこそ、この作品に込められた意味が生きる。宝田明のヒギンズ教授が好感を持って迎えられたのは、当時で言う「バタ臭さ」を持っていたからだろう。まるで英国紳士のような感覚を、当時の日本人に感じさせることができたのが、当たり役になった原因だと言える。それは、80歳を過ぎた今も決して変わっておらず、変わらないための日々の努力が、いつまでも若々しさを保たせているのだ。

全盛期同様とまでは言わないが、その代わりに、日本のミュージカルがまだ芽生えから若葉のころの時代を支えた歌の懐かしさがある。今のミュージカルは、マイクの機能が発達したこともあり、ほとんどの役者が口元近くまでのマイクを使用しているが、そんな時代ではない。子供のころの記憶は鮮烈であると同時に、歳月と共に美化されてゆくものだ。まして、当時小学生だった私に、宝田明の芝居や歌唱力がどの程度のものだったかを客観的に判断する能力などあるわけはない。ただ、今も忘れないほどに鮮烈なイメージを残しているのは、作品の優れた本質だけではなく、子供ごころに本当に楽しいミュージカルだったのだろう。それは、当時、宿題に出されていた夏休みの日記に偶然記されており、こまっしゃくれた文章で、いかに楽しい舞台だったかを書き綴っていることからもわかる。同時に、45年近く前の東京のはずれの決して豊かではなかった家族が、揃って帝国劇場へ「芝居を観に行く」ことが、いかに大きな出来事だったかがよくわかる。今のように数多くの芝居が幕を開けているわけではなく、劇場の数も半分以下だったはずだ。

そんな「ハレの日」を飾る舞台でスポットライトを浴びる宝田明の姿が眩しく輝いて見えたことに、歳月の流れを感じると同時に、「演劇」というものを庶民がどうとらえていたかを見ることができる。宝田明は、そうした時代かた輝きを放ち続けている数少ない生き証人の一人でもある。

「ベテランの味」という言葉は簡単には使いたくないが、まさにこういう役者が醸し出す雰囲気の事を言うのだろう。宝田明は、年を重ねても変わることのない「伊達男」なのだ。

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2014. 8. 30 掲載

第三十二回「宅間 孝行」

主宰していた劇団「セレソンデラックス」を発展的に解消し、劇団のヒット作を新しい考え方で上演しようと、6月にはサンシャイン劇場で『夕−ゆう−』を上演した。その舞台を観て驚いたのは、舞台と観客席の「敷居の低さ」だ。開演直前まで出演者は観客の求めに応じて、ツーショットの撮影に応じている。そればかりか、今は常識である「上演中は携帯電話を切る」というマナーを逆手に取り、芝居の中で家族が揃って記念写真を撮る場面で、観客に合図をすると、多くの観客がカメラの付いた携帯電話やデジカメを取り出し、出演者は各方向の客席に向いてポーズを作り、5分以上の撮影タイムが続いた。その後、「さぁ、芝居に戻ります。携帯のスイッチを切りましょう」と、すんなりと芝居に戻ったのだ。

肖像権などの問題はあろうが、今までの常識を完全に覆したばかりか、観客席と舞台の距離を縮めるには絶大な効果を上げた。この人は、本当に芝居が好きで仕方がないのだ、と感じた。とにかく、お客さんに思う存分舞台を楽しんでもらうための工夫であれば、どんな事も厭わないのだ。多少専門的な話になるが、芝居は本来「祝祭」として、神に捧げるための祭りとしての要素を大きく持っている。古代から続くこの精神を、彼は現代の芝居で再現しようとしているのだ。芝居に祭りの要素があるからと言って、単に馬鹿騒ぎをすれば良い、というものではない。芝居は作品としてきっちり見せた上で、どれだけのプラスを観客に感じさせるか、ということだ。これは演劇の制作に携わるすべての人間が考えるべき問題であり、今までに多くの人が頭を悩ませて来た。それに対する宅間孝行の「提示」が、この舞台なのだ。

私が感じた点では、この舞台は危険な部分を孕んでいるとも言える。見方によっては、観客を巻き込んだ単なる「馬鹿騒ぎ」と捉えられかねないところにある。しかし、それが悪い、という理由はない。むしろ、芝居の上演中に言葉一つ発することなく、観客席で舞台だけを見つめていなくてはならない状態が正しいのかどうか、を考える必要があるだろう。江戸時代の歌舞伎は、客席で芝居の上演中の飲食が許されていた時期もある。それが、明治維新による西欧思想の流入と共に、「荒唐無稽な歌舞伎は為にならない」と、劇場も桟敷へ座って酒を酌み交わし、弁当をつついていたものが、西洋の椅子式の劇場構造に変わり、観客の芝居に対する姿勢や感覚も変化を遂げたのだ。

彼は、今の演劇をいきなり江戸時代に戻そうという過激な事は考えてはいないだろう。ただ、それに近いやり方が、現代の観客にどう受け取られ、それが次のステップにどうつながるのかを考えているのではあるまいか。ここまで敷居を下げるには、今までに多くの試行錯誤が重ねられ、中には成功とは言えなかったものもあっただろう。しかし、『夕−ゆう−』に関して言えば、彼の実験的とも言える方法が、見事に成功した舞台だったと評価できる。それを、観客や我々がどういう感想で受け取るか、だ。芝居には長い伝統がある。しかし、伝統があるものは、必ずしもそのままの形で守られて来たものばかりではない。「伝統は破壊されることで新しい伝統が生まれる」という発想もある。その点で言えば、彼は今後の演劇界の革命児となりうる要素は充分に持っているはずだ。後は、それを観客がどういう眼で観るか、それを支持するかどうかだろう。結果が出るまでには時間がかかるだろうが、彼の試みは、今の演劇界で無視することができない問題をたくさん持っていることは間違いない。

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