演劇批評








エッセイ「芝居漬け」


「毎週土曜日更新」************************



明けましておめでとうございます。昨年は、「変容する演劇」といういささか硬いタイトルのエッセイを毎週連載していましたが、 今年は、少し柔らかめに、「演劇評論家」なる人種がどんな暮らしをし、何を考えているのかを徒然なるままに記してゆこうと考えています。 よろしくお付き合いのほどを。

2013. 1.05掲載

1.「今年の抱負」

書き出して、「しば漬け」に似ていると一瞬思ったものの、「い」の字が入るだけで随分と違うものだ。十五歳で劇団、とも言えないような物を創って以来、芝居漬けの日々を過ごしたまま、四回目の年男も数年前に超えてしまった。

私の仕事は大別して四つに分かれる。まずは、芝居を観ること。年によって変動はあるが、大体年間180から200本の芝居を観ている。東京に限らず、名古屋、京都、大阪などの大都市の劇場もあれば、地方の巡演もある。次に、原稿を書くことだ。もちろん、批評が中心だが、ここ数年は、芝居にまつわる物であれば、よほどの事情がない限りはエッセイ、劇場のプログラム、戯曲、役者論など、内容は問わない。三つ目は、本を読むこと。これは生来の活字中毒で、芝居の本に限らず、趣味の推理小説、講演材料のための本、興味を持った話題など、いわゆる「雑読」だ。最後が、「データベース作り」。今までの三つとはやや毛色が違うように思われるかもしれないが、私は批評家に求められる大事な機能の一つはデータベースだと思っている。いつ、どこでどんな芝居を観たか、その時の配役、上演時間。どんどん増えるこれらのデータを整理しておくことは、かなり重要な仕事だ。今はパソコンがあるので楽だが、学生の頃は、町の図書館で使うようなカードに一本ずつのデータを手書きで書いていた。その頃から比べれば、天国のように楽な仕事だが、その分、「いつでもできる」とやる気は反比例し、なかなか進まない。データベース化のスピードよりも、芝居を観るスピードの方が早いので、これは永遠に終わらない仕事である。

偉そうに、「今年の抱負」などというタイトルを付けてしまったが、まずはこの四つの仕事を自分なりに密度を濃くすることだ。簡単に言えば、芝居や読書の数は減っても、その分の濃度を高め、より良い質の原稿を書き、より良い読書をすることだ。この歳になってこんなことを書いているということは、今までの仕事がいかに荒っぽかったか、ということだ。特に、四十代は、自分が「したいこと」と「できること」を一緒くたに考えていた。しかし、いつまでも夢を見ているわけには行かない。きちんと両者を選別し、できること、しなくてはならないことをコツコツと積み重ねてゆくことだ。大体が、「今年の抱負」などというものは、あまり壮大な目標にしない方がいいのは経験ずみだ。二ヶ月もすると、すっかり忘れているに違いないことは、自信を持って言える。その証拠に、「コツコツと」と言った舌の根も乾かぬうちに、今年は劇作にも力を入れようとも思い始めている。自分の言動に責任を持たなくてはならない年齢のくせに、なんと進歩のない、締まりのない「抱負」だろうか。

しかし、これだけは絶対、という物だけはある。それは、眼を悪くしないことだ。老眼が進んでいるとか、遠くが見にくいという問題ではない。「批評家としての眼」、これは私にとっての命にも等しいものだ。曇らせることのないよう、時代と演劇との関わりをしっかり見据えながら、読者の皆さんに伝えるには、眼がクリアでなければならない。これが一番大変だ。

皆さん、良い一年でありますように。

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2013. 1.12掲載

2.「初芝居」

俳句の季語にもなっている「初芝居」。江戸時代は芝居と言えば歌舞伎しかないから、当然これは歌舞伎のことを指す。今から30年以上前、私が高校生の頃までは「初芝居」の感覚が芝居好きの間には残っていたような気がする。

今年の春には歌舞伎座が新装開場し、先日6月までの演目が発表になった。楽しみにしているファンも多いことだろう。新しい歌舞伎座がどのような物になるのか、私はまだ知らないが、昭和30年代ぐらいまでは「お見合い」の場所として歌舞伎座が使われていた。それほどに特殊な敷居の高い場所であったと同時に、時間を見計らってサンダル履きで出かけ、天井桟敷で好きな幕だけを楽しんで帰れるという二面性を持っていたのだ。

今はただでさえ季節感がなくなり、和服を着る人が少なくなった。かくいう私も、正月三が日を和服で過ごすのがせいぜいで、外出の折に和服を着ることはない。ただ、「初芝居」だけは、松の内辺りはまだ綺麗な和服姿をロビーで見かけることも多く、無意識の感覚として残っているのかもしれない。同じ顔ぶれ、いつもと同じ演目でも、劇場全体が華やかに艶かしく見えるのは、観客が晴れ着で出かけて来るだけではなく、年が改まった高揚感が舞台にも現われているからだろう。そういうものこそ日本の文化のありようの一つだとも感じる。

歌舞伎役者の正月とは忙しいものだ。大抵が二日には初日が開く。舞台稽古は大晦日までにすませてあり、元日だけは休みだが、我々のように昼頃起きてとっくにどこかへ行ったお天道様を探すような呑気さはない。一門を束ねる立場ともなれば、弟子一同が集まって新年のお祝いをし、それから自分たちも先輩や同輩、友人のところ、あるいはご贔屓筋への挨拶回りがある。今はどれほどの件数があるのか知らないが、以前はかなり忙しかったようだ。あっという間に元日は終わり、翌朝からの舞台に備えなくてはならない。

私が大学生の頃、デパートの中にある劇場でアルバイトをしていた。今のようにせわしない時代ではなく、デパートもきっちり三が日は休んだもので、初日は営業開始日の四日である。私がアルバイトをしていた頃は歌舞伎がかかることはなく、大体が女優を中心にした芝居だったが、それでもお正月の芝居、というのは心あらたまる気持ちで迎えたものだ。

この劇場では五年近くアルバイトをさせてもらい、ずいぶんと芝居の勉強をさせてもらい、現場がどういうものかを学んだ。大学の演劇学科などよりもよほど役に立つ、活きた芝居の勉強だった。ある年の初芝居のこと、少し早めに出勤したら、劇場の事務所がただならぬ雰囲気に包まれていた。夫婦をテーマにした芝居の夫役の俳優が、急病で倒れ、出演不可能になった、という連絡が入ったのだ。劇場としてはトップクラスの緊急事態だ。夜の部のお客様で、連絡先が分かる方には事情の説明と休演のお詫びの電話、昼の部にお見えになったお客様にはカウンターでお詫びと振替日の対応、制作の人々は電話をかけ続け、代役探しに奔走した。インターネットで台本を添付ファイルで送るような時代ではない。ようやく見つかった代役の事務所に200ページを超える台本をFAXで送った。

確か、二日の休演を経て、代役で幕が開いた。私は客席の案内をしていたが、その初日の幕が降りた時に、安堵感と、皆がひたむきに取り組んだ数日を思い、涙がこぼれた。

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2013. 1.19掲載

3.「芝居の旅」

最近、少なくも月に一回は東京を離れて、地方の芝居へ出かけている。これには二通りあり、一つは名古屋・京都・大阪などの常打ちの劇場がある都市への旅だ。もう一つは、それ以外の劇場のない地方への旅だ。巡演に同行したり、関係する劇団やユニットの公演、あるいは批評を書くために東京での上演を見逃し、地方公演に出かけることもある。

最初の都市の劇場への旅は、駅⇒劇場⇒居酒屋⇒ホテル⇒劇場の繰り返しで、東京にいるのと何ら変わりのない生活になる。ノートパソコンを持って出かけるので、夜中にホテルでパソコンに向かっていることを侘しく感じることもある。

もう一つの旅は、大都市ゆえの快適さが求められない代わりに、いろいろな変化が楽しめる。もう数年前のことになるが、仲代達矢・奈良岡朋子の「ドライビング・ミス・デイジー」の旅公演に三日ほど同行したことがあった。私が割り込んだのは静岡県を回っている時だったが、一糸乱れぬ統率の中で、ほぼ全員が参加して大道具が組み立てられ、終演後はバラされ、同じホテルに泊まる。翌朝は決められた時刻に駅へ集合し、次の公演地へ向かう。面白かったのは、同じ県内でも、観客の反応が全く違うことだ。ある場所では、笑うべきところや哀しい場面では、観客の反応がダイレクトに跳ね返って来る。次の場所では、物音一つ立てずに観客が芝居を観ている。「今日は受けないのかなぁ」と思って観ていると、幕が降りた途端に万雷の拍手に包まれた。土地柄、なのだ。

去年もいろいろな旅をしたが、印象的な旅があった。和太鼓のユニットのツアーの最終日。福井県の勝山市、という場所だった。福井駅から私鉄約一時間、道元禅師で名高い永平寺まで車で30分ほどの場所だ。その勝山市の市民会館で、昨年のツアーの千秋楽を迎えた。昼夜二回の公演を客席から観て、夜の部の終演後、出演者、スタッフと打ち上げ。打ち上げが始まる午後9時頃には、もう街は静まり返っている。2時間ほどの打ち上げをすませ、ホテルへ帰って車から降り、ふと空を見上げたら、満天の星空の中に綺麗な天の川が横たわっていた。東京から出かけた何人かは、あまりの美しさに息を呑み、口を開けて夜空を眺めていた。数え切れないほどの星空の美しさもさることながら、星までの距離が圧倒的に東京よりも近い。まさに、手を伸ばせば届きそうな錯覚さえ覚え、数人で感動のため息をついていた。

出演者の一人に、「何をしてるんですか、皆さんで」と聞かれたので、「観てごらんよ、あの空を。こんな星空は滅多にお目にかかれるもんじゃないよ」と言ったが、さして興味のなさそうな様子だ。やがて、口を開くと、「僕らのところはもっとたくさんの星が毎晩のように見られますよ」と、ポツリと言った。それもそのはず、彼らの本拠地は奈良県の明日香である。

旅ではハプニングに見舞われることもしばしばだ。私がかなり深く関係していた公演で、現地へ行ってみたら、あるべきものがない。それが判明したのは、公演の前夜であった。「ないからできない」とは言えるわけもなく、無い知恵を絞り急場を凌いだ。幸い、お客様にはわからなかったようで、その瞬間は鬼のような形相になっても、今になって思い返せば楽しい旅になった。

私があえて地方の公演を好むのは、故郷を持たない者の郷愁、も多分に含まれているのかもしれない。

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2013. 1.26掲載

4.「スター」

昨年は、近年になく多くのベテラン俳優を喪った年だった。個人的なお付き合いのある方、仕事の約束をしていた方もあり、多くの大先輩を亡くした喪失感は大きかった。年の暮れに、先輩に当たる劇作家と偶然酒席で出逢い、その不幸を嘆いた。共に、亡くなった名優の多くの舞台を知っているだけに、寂しさも哀しみも共有できる部分は多い。ひとしきり想い出話にふけった後で、「我々が若き日に、夜空に満天のごとく輝いていたスターがほとんど消えて、闇夜になってしまったような気持ちです」と先輩にこぼしたら、「その分、また、どこかで新しいスターが生まれて来るんだよ。それを楽しみにしよう」と言われた。確かに先輩の言う通りだ。

芝居において大切なのは「同時代性」であることは言うまでもない。どの役者と、あるいはどの舞台と同じ時代を生きて来たか、で大きく芝居に対する考え方は変わるものだ。仮に歌舞伎を例に取れば、私は十一代目市川團十郎を知らない。六代目中村歌右衛門の舞台は観ているが、それとても全盛期のものではない。その代わりに、今の歌舞伎界の若い才能を観ることが出来ている。もう十年早く生まれていれば、古い舞台が観られた代わりに、今はもうこの世にいないかもしれないのだ。当然のことだが、今の若い俳優や俳優志望の人々は、かつて私が胸を躍らせて食い入るように見つめた舞台を知ることはない。その代わりに、彼らが新しい舞台を生み出してくれるのだろう。

スターになるよりも、スターであり続けることの方が難しい、とは良く言われることで、私は真理だと思う。日々の努力に加え、観客の要求のハードルも高くなる。いかに自分を律し、怠けずにいられるか。一度手に入れた栄光は、酔いしれている間にするりとその手を抜けてゆく。ガッチリと胸に抱き、離さないようにするには、不断の努力が必要なことは言うまでもない。今まで、演劇界の夜空に輝いていたスターたちは、ストイックなまでに芝居への研鑽を重ね、怠らずに歩んで来た人々だ。

その一方、世の中は情報が多くなり、選択肢が無数とも言えるまでに増えた分、スターの座を維持することはより難しくなった。「○○一筋に生きる」ということに対する価値観が、大きく変貌したのだ。これは、日本の中で家父長制度が崩壊し、終身雇用制度が危機に瀕していることと無関係ではないだろう。黙々と己が道を進む、という生き方が尊重されなくなったのだ。身軽で多才、多くのことができる器用な人は良いが、この道しか持たない、という人々には生き難い世の中だ。役者の仕事を続けていても、少しの期間テレビに顔を出さないだけで、すぐに「あの人は今…」と言われてしまう時代になって久しい。テレビ番組の品質の低下をことさら嘆いても仕方がないが、それでも出演しなくてはならない人々も気の毒ではある。

今まで、幾多の輝ける星々の芝居を観られたのは、私にとって大きな財産になっている。しかし、いつまでも過去の想い出に縋って生きるわけにも行かない。また、それをそっくりそのままの形で現在の観客に提示できたとしても、私が感じたのと同じ感動を覚えるかどうかは分からない。時代によってスターの色も個性も変わるものだ。だからこそ、同時代性が大切なのであり、演劇が時代と共に変容を遂げている証拠なのだ。

とは言いつつも、そこは人情。昔のスターの芝居を懐かしく感じる折もある。そういう時は、夜中にこっそり想い出箱を開けるのだ。

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2013. 2. 2掲載

5.「観劇」

演劇評論家と名乗る以上、観劇は仕事だ。趣味が高じて、ではあるにせよ、仕事になるとスタンスは変わる。私の場合、年間の観劇本数は180〜200本程度で、先輩の中には年間400本を観劇する批評家もいる。年間365日のうち、月に数回はダブル・ヘッダーで昼夜2本の芝居を観なければ不可能な数字だ。芝居を観るのは、意外に疲れるものだ。場合によっては四時間を超える時間、休憩は取りながらも椅子に座ったままで、時には真っ暗に近い客席でメモを取りながら芝居を観る。これは、ほとんど肉体労働ではないのか、と先輩にこぼしたら、「好きな芝居を観ているんですから、疲れませんよ」と言われ、己の未熟さを恥じた経験がある。

何となく芝居のことを書いているうちに、あちこちから舞台のご案内をいただくようになり、嬉しくももったいないことに、一ヶ月では見切れない数になることもある。そうした場合は、涙を呑んでお断りするのだが、最近は一ヶ月半以上前にご案内をいただくこともある。先にスケジュールが決められて助かるが、しばらくぼやっとしていると、机の上には開封したまま日程の調整をしかねているご案内がすぐに溜まる。

芝居を観たらそれで終わり、というわけには行かない。その夜のうちに批評を書いてしまわないと、明日は別の芝居が待っている。毎日宿題に追われている小学生のようなものだ。もっとも、観た芝居のすべてを劇評として公開しているわけではない。基本的には観た芝居の批評は何らかの形で残してはいるが、ノートへのメモで終わるケースもある。最近は少なくなったが、「劇評を書かない」という私なりの配慮のつもりだ。書けば舌禍事件を引き起こすか、更に恨まれるだけの話で、発展的な批評にならない場合は書かない。私が批評を残すのは、たとえそれが厳しくとも発展的な目的を持ったものだからだ。その意味を持たない批評は、残しても意味がない、と考えている。

人間は、良くも悪くも「狎れ」が生じるものだ。まして、観劇が仕事となれば、30年前のように、厳しい小遣いの中からチケットを買い、カレンダーに印をつけ、その舞台を楽しみにするような新鮮さやときめきが薄れていることは否定できない。その代わりに、私の隣に座っている見知らぬ観客は、かつての私のような想いをして劇場へ足を運び、それが生活の中の幾つかの楽しみの一つなのだ、ということは決して忘れないようにしている。

もう一つ、演劇評論家は、声なき観客の声を代弁する仕事だ、と考えて観劇に臨んでいる。専門的な眼で舞台を観て批評することは仕事としては第一義だが、同様に、多くの観客の代表としての眼も忘れてはならない。

もう十年以上も前の話になるが、ある年の八月に、「どんなに面白そうな芝居があろうとも、一本を芝居を観ない」という、観劇の休暇を自分で作ったことがあった。これにより、ほぼ半月の自由時間ができたわけだが、その間に何をしていたかは忘れてしまった。目的は、「観劇」という行為に馴れてしまった自分を一度リセットし、いろいろな物が染み込んだ頭の中のスポンジを絞り、まっさらにすることだった。一ヶ月の休暇が終わった後に観る舞台はさぞ新鮮に映ることだろうと期待をして劇場へ勇んで出かけたが、結果はいつもと同じだった。身体の奥深くに染み込んだ観劇は、一ヶ月や二ヶ月離れたところで、そう簡単にまっさらになるものではないことを感じ、嬉しいやら残念やら、という感覚だったのを覚えている。結局のところ、芝居なしでは暮らせないのだ。

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2013. 2. 9 掲載

6.「ダメ出し」

「ダメ出し」は、厳密に言えば演出家の仕事だ。しかし、批評家として舞台を観ている以上、気になったところを指摘して、少しでも舞台の内容が良くなるのであれば何とかしたい。批評で書くのが最もオーソドックスではあるが、これは書かれた方が書かれっぱなしで、自分の解釈や意見を言えない場合がほとんどだ。

かと言って、舞台を観た後に楽屋へ押しかけ、出演者に対して「ああでもないこうでもない」というのも失礼な話だ。しかし、何らかの関係で個人的な付き合いのある役者には、遠慮会釈のない批評をする場合はある。不思議なもので、付き合いが長くなればなるほど、良い点よりも悪いところを聞きたがる役者が多い。そういう他人だけを選んでお付き合いしているつもりはないが、私の意見を聴いてくれる、ということは、それだけ芝居に対する体温が高い相手なのだ、と勝手に解釈している。

「ダメ出し」に必要なのは「代案」だ。会議でも反対意見を出すのは難しくないが、それに代わる案を出せなければ意味がないのと同じだ。増して、舞台にいる役者はプロであり、芝居で生活をしている人々だ。そのプロに対して物を言おうというのだから、こちらにもはっきりした根拠と、明確な理由がなければ、無闇にダメ出しなどできるものではない。何となく芝居を観て来た30年以上の間に、自分で覚えたことや、先輩に教えていただいたことを根拠に話をするものの、時として相手のしていることを否定しなければならない場合もある。言ってみれば真剣勝負で、芝居をする方も私も、心のうちに抜き身のドスを忍ばせているようなものだ。

芝居が跳ねて、食事をしながら先ほどまでの舞台について談論風発は、楽しい時間でもある。もとより相手をやっつけることが目的ではないから、芝居の内容についてお互いが納得すれば、何のわだかまりもない、と私は勝手に考えている。先方はどう思っているのかは知らないが。

尤も、こういう楽しい光景ばかりが続いて来たわけではない。時としては、私の勘違いで恥をかいたこともあれば、意見が食い違って激論を通り越し、取っ組み合い寸前に至った若き日もある。しかし、そうしたことどもも、私の人生を豊かなものにしてくれたことに間違いはない。人間が創る芝居だ、人間くささが溢れてこそ、魅力ある舞台になると言うものだろう。

没して久しいが、高名な評論家のエピソードがある。歌舞伎の批評の中で、主役級の後ろに並ぶ腰元の女形たちに、いささか厳しい批評を書いたところ、後日、批評をされた女形の連名で巻き紙の手紙が届いたとか。内容は、「ご指摘はごもっともですが、一度先生がやってご覧なさいまし」というものだったそうだ。巻き紙の手紙というのがいかにも古風な歌舞伎の女形らしくもあるが、この評論家が思わず浮かべた微苦笑が目に見えるような気がする。

ダメ出しという言葉を「愛情」に置き換えて考えるべきだと私は思う。批判のための批判ではなく、どうすれば少しでも次の舞台が良くなるか、ただそれだけのことだ。こちらが愛情を持って批評をすれば、相手は答えてくれる。私は、その人間関係の厳しさと、お互いの芝居に対する愛情が大好きでこの世界に身を置いているのだ。うるさがられても、仕方のない話だ。

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2013. 2.16掲載

7.「原稿書き」

毎年、元日だけはパソコンをいじらないようにしている。それでも、二日になればパソコンをいじり出し、早々に何かを書き始めるのだから、よほど何かを書くことが好きなのだろう。「好きこそ物の上手なれ」と胸をはれれば良いのだが、なかなか会心の出来、という原稿が書けないのは、死ぬまで続く悩みと欲、だろう。

ただ、幸いなことに、締め切りに遅れたことだけはない。物を書いて生活する以上、締め切りを守るのは会社員が定時に出勤するのと同じで、いくら素晴らしい原稿が書けたところで、締め切りを守れないようではプロとは言えない。最低限のルールである締め切りを守れてこそ、その原稿の内容の資質について云々できるのであり、それを守れないようでは、お金をいただくことはできない。また、締め切りよりも数日前に原稿を編集者に渡すことで、少しでも良い内容にするためのやり取りをする余白の時間を作っているのだとも言える。自分では完全原稿のつもりでいても、他の人の眼がどう感じるかは別の話であり、最初の読者である編集者の意見は貴重なものだからだ。

とは言え、いつも簡単にスルスルと原稿が書けるわけではない。今までで最も苦労したのは、「事典」の仕事だ。演劇に関わる何冊かの事典の執筆者の一人として五、六冊の仕事に携わったが、これは苦しい。原稿は僅かな行数でも、事典である以上は、その裏付けになる資料を相当数読み込んだ上で、自分の言葉で表現しなくてはならない。これには腸のねじ切れるような想いをしたが、同時に大変に勉強にもなる。本の性質上、学校や図書館などでの購入も多く、残る期間が長いものだけに、他の原稿との意味合いも自ずと違って来るからだ。もちろん、他の原稿を疎かにしているわけではない。

25年ほど前からだろうか、原稿書きにパソコンを使うようになった。その当時はまだ手書きの原稿も併用だったが、今は、手書きの原稿はほとんどのところで受け付けてはくれない。確かに、ワープロソフトで書いた原稿をメールに添付して送ってしまえば、再度入力や校正の必要はなく、圧倒的に効率が良いのは事実だ。しかし、原稿用紙に万年筆で書いた原稿と、ワープロで打った原稿では明らかにその内容の重みが違うのを感じている。キーボードを打てば、ある言葉に類する候補が一度に並び、自分の乏しい頭脳から絞り出す必要がないからだろうか。また、修正の跡が綺麗に見えなくなるので、自分の苦闘の痕跡が消えるからだろうか。いずれにしても、原稿書きに要する時間が短くなった分、大きな何かを喪っている感覚は否めない。

もう一つは明らかに目に見える物質的なものだ。30代に入り、自分専用の原稿用紙が欲しい、との想いで、私にしては随分な金額で名入の原稿用紙を造った。専用のものを造ったからと言って、文章の中身がよくなるわけがないことは百も承知の上だが、気分の問題である。しかし、先ほど記したような状態で、原稿用紙の出番は皆無に等しくなってしまった。何千枚と造った原稿用紙を捨てるのは忍びなく、しかし、置いておけば場所を取るだけで何の役にも立たない。まだ200字詰の方は手紙を書く時や、アイディアのメモなどに使っているが、400字の出番は全くない。どうしようかと時折横目で睨みながら、この原稿もワープロソフトで打っている。どこかから、「手書きで」との原稿依頼が来ないものだろうか。

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2013. 2.23掲載

8.「名舞台」

最近、名舞台に出会わない、と嘆きながら劇場へ通うようになって随分な年月が経つ。それでも飽きずに劇場通いをしているのは、よほど芝居が好きなのか、他にすることがないのか、と言われそうだ。確かに、「出かけただけムダだった」と思う舞台もあるが、それでもその舞台から「何か」を拾って来るように心掛けてはいる。

かつて、昭和の最後を彩った各分野の名優たちが綺羅星の如く芝居の夜空に輝いていた頃に、贅沢な舞台ばかりを観た罰だ、と自嘲的に言ったりするものの、「はて、本当にそうか?」とも思える時がある。仮に、二十年前に、「この舞台を観るために今までの人生があったのだ!」と心を震わせるような舞台があったとしよう。当然、その印象は今も根強く私の中に幸福な想い出として残っており、「伝説」としてどんどん肥大化している。それが、私の主観だけではなく、客観的にも高い評価を受けた舞台であり、タイムマシンを使ってそっくりそのまま今の劇場で上演した時に、私と同じような感動を、他の観客が得るかどうかを疑問に思うことがあるのだ。

最近の時代の流れの速さは尋常ではない。くるくる変わる価値観の中で、「二十年前の最高の舞台です」とそれを提示した時に、生活習慣も考え方も当時とは明らかに変わった2013年の観客がそれをどう受け止め、判断するのか。実際にはそんなことは不可能だが、可能だとしたら、今の観客の反応が空恐ろしい気もするのだ。演劇が持つべき重要な要素の一つは「同時代性」である。作品で扱われている時代には関係なく、今の観客とどう対峙し、何を見せるか、そこからどう共感を呼び起こすか。これは、現代劇であろうが古典芸能であろうが何ら変わりはない。演劇から時代性が失われて久しい昨今、私の恐怖はここにあるのだ。ジャンルによっては、この観客との距離感が、もはや埋めようとてない深い溝になっているものもある。すべての演劇がいずれも素晴らしい時代、などというのはそうあるものではない。しかし、観客は常に名舞台を待っていることに変わりはない。

今の観客にはどういうものが「名舞台」として映るのか。スターが揃って出ていれば、それがすなわち素晴らしい!と騙されるほど、観客は無能ではない。何度となく繰り返し上演されて来た古典劇であろうと、小劇場の芝居であろうと、魂を揺すぶるようなものこそが名舞台ではないのか。とは言うものの、そう簡単に名舞台があれば、誰も苦労はしない。演劇の制作に関わる多くの人々が、鋭敏なアンテナを張り巡らせ、何を上演すれば良いのか、を考えていなくてはならない。私自身も、このアンテナの精度を落とさぬように、自分を磨き、感覚を研ぎ澄ませておくことは、舞台に対する最も重要な仕事だ。

そんなことを考えていると、私たち演劇人に課せられた課題の大きさに呆然とする。どんな小規模の芝居であれ、絶対に一人ではできない。多くの職分を担う人がいてこそであり、彼らが最大級の力を発揮し、それが見事な形で統一され、観客との化学反応が起きた時に「名舞台」と呼ばれる作品が出来上がるのではないか、と私は考えている。どう転んでも、簡単にできるものではない。そんな苦労をした名舞台でも、幕が降りた瞬間にはすべてが雲散霧消し、1時間もすれば舞台は片付けられ、劇場には人がいなくなる。「一期一会」の出逢いだからこそ、名舞台にもなりうるのだ。

道は遠く、険しい。

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2013. 3. 2掲載

9.「点を読む」

だんだんに言うことがやかましくなって来たが、この頃、科白の下手な役者が多い。では、どういう科白が巧いのか、という問題になる。私は、まずは台本に忠実な科白だと考える。よほどいい加減な作家でない限り、役者の生理やイキを考え、科白を書いているはずだ。私も劇作をするが、科白は自分で実際に声に出し、その語感を確かめながら書くことが多い。切れ目なくだらだらと続く科白は役者も言いにくい上に、観客も聞いていて面白くない。演者、あるいは観客の生理を考え、どこに句読点を打つか、は大きな問題だ。

そこまで考えて書いた科白は、書いた側からすればその通りに喋ってもらいたい、と思うのは人の情だ。たまに演出めいたことをする折に、私が徹底的に拘るのは、「科白」である。句読点の読み方、それも「、」と「。」では違う。また、「…」という科白のない「間」がある。これが、「…」と「……」では、役者の心持ちが違って表現されなくてはならない。また、アクセントにもうるさい。明治時代の芝居と昭和の芝居では、おのずとアクセントが違って来る。「そこまでうるさいことを言わなくても…」と思う読者もあるかもしれないが、私が知る限りのことを、役者の肉体を通じて観客に伝えるのが演出の仕事だと私は考えている。

科白の間がおかしいのは舞台だけではない。年にもよるが、NHKの大河ドラマを観ていると、装束はそれらしくても、科白がまるでなっていない。試しに、目を閉じて聴いてみると、まるっきり現代のアクセントで喋っている役者が多いのに呆れた年もあった。台本をキチンと読んでいない、あるいは読めていない証拠である。また、それをそのままにしておく演出家の責任も大きい。「、」も「。」も一緒くたに読まれたのでは、脚本家も業腹だろう。

最近は、どこまでやかましいことを言う演出家も少なくなったが、その中で、今でも一所懸命に科白の「、」や「。」の間を稽古し、発表している役者たちの集まりがある。『みつわ会』というユニットで、久保田万太郎の作品だけを取り上げて年に一回の公演を持っている。小さなホールで一週間ほどの公演だが、近代の戯曲の中では間の取り方やアクセントが最も難しいとされ、プロの役者が科白の稽古に使っていた久保田万太郎の戯曲は、短いものが多いがどれもこれも一筋縄で行く芝居ではない。「久保田万太郎作品用語解」という一章が本の中に収載されているほどだ。今は、もうこの本の存在や、久保田万太郎という作家自身が時代の波に埋もれてしまっている。それをいたずらに嘆くつもりはない。偉そうな顔をして書いている私自身が、明治時代を知るわけではなく、先人の舞台でその香りを僅かに嗅いだに過ぎない。

しかし、だからと言ってそのままにしてしまうのは、悔しいし、演劇人の沽券に関わるような気がする。こうなると、もう意地の問題である。ひたすら頑固爺いへの道を進もうとしているのは承知だが、変に丸くなって「それでもいいですよ」とは言いたくない自分がいるのだ。それは、私に明治の香りを教えてくれた多くの名優に対する礼儀でもある、と私は思う。こんなに不器用なことばかりを言っているから、自分の道は遅々として進まない。それを知りつつも、こういう時代遅れが一人ぐらいはいても良いだろう、と開き直っているのだ。

最近、そういう想いを共有できる人々がどんどん少なくなって来た。それが寂しくもある早春だ。

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2013. 3. 9 掲載

10.「芝居の寸法」

不思議なもので、と言うべきか当然ながら、と言うべきか、芝居は作品も役者も適した「空間」を持っている。例えて言えば、加藤健一は東京では下北沢の本多劇場を拠点とし、よほどのことがない限り、他の劇場での芝居はしない。これは、彼が皮膚感覚として本多劇場の空間や寸法が自分の芝居に最も適していることを感じているからだ。同様に、先月までシアタークリエで大好評を博して再演されていた大竹しのぶの『ピアフ』。大竹しのぶ自身は、シアターコクーンでもルテアトル銀座でも構わないが、『ピアフ』という作品を凝縮して見せるには、シアタークリエの空間が最適だと感じた。仮に、あの芝居を帝国劇場で上演したら、ひどく散漫なものになり、彼女が演じるエディット・ピアフの体温は伝わらないだろう。

最近は、小劇場の役者が大劇場演劇に出演するケースも珍しくない。どこの出身であろうが、面白い芝居になれば観客は満足する。しかし、時折、自分の寸法を把握しないままに寸法の違う芝居をする役者を観て、違和感を覚えることがある。先年亡くなった大ベテランの女優が、正鵠を射た指摘をし、確かにその通りだと感じた。「間口が四間(7.2m)の舞台で芝居をしている役者さんには、それなりの芝居の寸法があるでしょう。そういう若い方々が、大劇場へ出て新しい刺激を与えるのは良いことです。でも、間口が十間(18m)の舞台に出るのであれば、その劇場に合わせたお芝居を見せないとね」。けだし名言だ、と私は膝を打った。取り上げる作品にもよるが、この女優の言葉は、ほとんどの場合に当てはまると言えるだろう。舞台と観客席の距離感を把握した上で、どういう寸法の芝居を見せるかによって、舞台の印象は大きく変わる。

先日、今も上演中のイヨネスコの『授業』という芝居を、世田谷の無名塾の「仲代劇堂」で観た。ここは無名塾の稽古場兼アトリエで、客席数はわずか50席である。しかし、この芝居は、老教授の書斎で行わる一幕劇であり、これを赤坂ACTシアターでは上演できない。観客も書斎の片隅にいるような濃密な小空間でなくては、成立しない芝居だからだ。もう30年近くも前になるだろうか、やはりこの芝居を、今はなき渋谷の「ジャン・ジャン」で毎週木曜日の夜10:00から文学座の中村伸郎が長きにわたり上演していたが、ここも一杯に詰めても60人程度の小さな空間だ。これは、明らかに作品が空間を規程した上で描かれているケースだ。

そういう感覚が崩れている舞台を時折見かけることがある。「この劇場ではもったいない」あるいは「もっと小さな劇場でやれば密度が濃くなって面白かったろうに」と思うケースだ。制作サイドの事情は種々あろうが、作品と役者がどんな空間に適しているか、を知悉しているのもプロデューサーの大事な役目なのだ。何でも大きい場所が良いわけではないし、小劇場で『レ・ミゼラブル』や『ライオンキング』が上演できるわけはない。こうした、はっきり区別のつくものはともかくも、初演、あるいは久しぶりの上演の作品の場合、空間と役者の芝居の寸法を図るのは大事な仕事だ。

『ピアフ』も『授業』も、それぞれがぴったりの空間で演じられていたから良かったし、東京だからこそ多くの選択肢がある。しかし、地方公演となると、場所によって空間が全く違う。その時に問われるのは、作品と役者の腕、この二つに他ならない。良い芝居は全国で観てもらいたいが、泣きどころも多い。

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2013. 3.16掲載

11.「朗読の名手」

『夕鶴』などの民話劇でも有名だった劇作家・木下順二の作品に『子午線の祀り』という壮大な戯曲がある。1979年に初演された、「平家物語」を題材とした芝居で、平家の壇ノ浦での滅亡までを平知盛を中心に描いたものだ。公演にたびにキャストを選び、「第○次」という形式で上演されて来た。初演の舞台は、確か一幕だけで2時間を超えた大作だった。これには、「平家物語」の群読という手法が用いられたり、新劇、前進座、能楽、狂言と、ジャンルを超えた名手たちのキャスティングなど、話題は多かったが、圧倒されたのは、冒頭の朗読だった。暗い客席の中、総合演出の宇野重吉の声が響く。「子午線」という、広大な宇宙空間の中にある見えない線を説明する言葉は、圧倒的な力を持って当時高校生だった私に迫った。嘘のようだが、自分一人が真っ暗な宇宙空間へほっぽりだされたような錯覚を感じた印象は今も鮮烈だ。

宇野重吉は1988年1月、自分の芝居の千秋楽を終えて2週間ほどで壮烈とも言える死を迎えたが、存命中は朗読の名手として知られた。『子午線の祀り』で影身という女性を演じた山本安英も同様で、自ら科白の研究会を立ち上げ、晩年まで自分の目の届く範囲の人数を対象に続けていた。私の個人的な感覚で言えば、今は肢体不自由児施設「ねむの木学園」の園長として知られる女優の宮城まり子も朗読の名手の一人だった。昨今、朗読劇が盛んに催されているが、朗読の名手と絶賛できるような舞台にはなかなかお目にかかれないでいる。

私は役者ではないから、実際の演技も朗読もできないが、30年以上芝居を観て来た感覚で言えば、朗読の方が実際の演技よりも遥かに難しい。役者が芝居をする、という王道を禁じ手とされ、科白を「読む」ことだけで観客の想像力に訴えかけ、その感情を動かさなくてはならないからだ。台本を読みながら芝居ができるので、朗読劇の方が楽だ、と勘違いしている人がいたら、それは危険だ、と言わざるを得ない。言い方は悪いが、下手な朗読を聞かされるのは、睡魔との闘いで、想像力を掻き立てるどころの騒ぎではない。朗読は、いわば高等数学のようなもので、「低予算でできるから」「稽古日数が少なくても」という安直な考え方で臨めるものではないのだ。

朗読の名手が育ちにくい原因は多々あるが、最も重要な原因は、芝居に関わる人々の「科白」に関する意識が下がって来たことだ、と私は考える。書く方も、演じる方も徹底した拘りを持つ人が減って来た。そんなことをしていては、今の効率を第一とする時代にはそぐわないからだろう。しかし、芝居などというものは、効率とはおよそほど遠いところに位置しているものだ。長年の間、自分でコツコツと修行を重ね、先輩の役者や演出家に叱られ、恥をかき、その中で覚えてゆくもので、マニュアルなどありはしない。今どき流行る考え方ではないが、どれだけの苦労を重ねて芝居が巧くなることに専心して来たか、その人間的な味わいや深みが観客の心を動かすのが芝居だ。

古臭い考えだ、と言われるかも知れない。しかし、促成栽培の効かない分野もあり、それは芝居だけではない。樹齢百年の木を使わずとも家は建つ。しかし、手軽に建てた家と、百年の歳月を経た木材の家がどう違うかは、言うまでもないことだ。手軽に建てられる家が必要とされる場合もあり、そこまでをも否定する気はない。しかし、すべてがそれでよい、という風潮になっては困るのだ。そこに、時代の流れとの大きな溝があり、演劇人は頭を傷めなくてはならない。

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2013. 3.23掲載

12.「さよなら御園座」

名古屋の単独劇場として118年の歴史を持つ劇場「御園座」が、今月の歌舞伎公演をもって一旦その歴史に幕を降ろす。今月の歌舞伎公演は松竹の制作で、御園座の自主制作公演は1月から2月にかけて、「異例」とも言える松平健・川中美幸のダブル座長の公演で、連日、名残を惜しむ観客で席が埋め尽くされていた。私は、基本的には自分が関わった公演についてはスタッフの一員としての自覚から批評をしないことにしているが、今回は、スタッフとして愛惜の念を記しておきたい。

双方ともに一人で座長公演を打てる実力を持つ松平・川中が、お互いの公演にゲストとして顔を見せるのではなく、がっぷり四つに組んで芝居をし、お互いのショーを盛り上げるのは、御園座に対する熱い想いが成せる技であろう。その影には、多くの場所で汗を流すスタッフたちの姿があった。1月公演の幕が開いてすぐに、自分の責任として御園座公演を観に名古屋まで出かけたが、2月19日の千秋楽に、想いもだしがたく、再び観客席の人となった。

私が初めて御園座の観客席に座ったのは、昭和56年10月の歌舞伎顔見世公演だった。大学生でお金のない時のこと、往復バスか何かで昼夜通しでクタクタになりながらも、芝居を観に行った充実感は忘れられない。ここ、四、五年は仕事の関係でほとんど毎月御園座へ出かけ、スタッフと深夜まで今後の芝居のあり方について語りもしたし、公演プログラムの原稿も書いた。そんな思い入れのある劇場が、一旦ではあるにせよ118年の歴史を中断するのは、言いようもなく辛い。今や、ハードウェアとしての大劇場は、地域を問わず維持をするのが難しい時代だ。しかし、御園座の灯が消える、ということは他の業種のビルがなくなるのとは訳が違う。岐阜県や三重県、静岡県西部までを含んだ中京圏の「文化」の問題である。名古屋には、他に中日劇場、名鉄ホールがあり、一時はこの三つの劇場が鍔迫り合いを見せていた時代もあった。しかし、時代の流れは、一世紀以上続く文化の灯を守る方向へは動かなかった。

千秋楽の夜の部が終演し、緞帳の降りた舞台に出演者・スタッフが集まり、手打ちをした。その後、荷物を片付けに楽屋へ戻る人、舞台の道具を片付ける人…。千秋楽の楽屋の風景は、私にはさして珍しい風景ではない。しかし、この千秋楽は、私の胸に万感の想いを持って迫って来た。断続的ではあったが、三十年以上にわたって芝居を見せてくれた劇場の姿が変わる。ここに並んだ1400を超える椅子の数々は、どれほどの名舞台を観て来たことだろうか。そのいくつかを自分も観ることができ、また公演スタッフとして関わることができたのは、誇りとも良き想い出とも思える。しかし、それだけではない寂しさが去来するのも事実だ。

数年のブランクを経て、新しい「御園座」が出来るのだろう。しかし、どの劇場でもそうだが、「空間」そのものに想い出があるのだ。とは言え、耐震構造など安全性を考えれば、いずれは避けて通れない道である。新生・御園座の?落としの日が一日も早く訪れること、そして、その折に今までの芝居づくりの精神が脈々と流れていることを期待し、楽屋の頭取部屋に祀ってある神様にお願いをして、楽屋口を出た。寒風吹きすさぶ夜だったが、最後の別れを惜しむファンたちが、楽屋口で役者の帰りを待っていた。心の中で「ありがとうございました」と、今回の公演スタッフの一員としてお礼を言いながらホテルへ向かった。いつもよりも、北風が身に沁みる夜だった。

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2013. 4. 6掲載

13.「時代の波」

時代の波がどんどん速度を上げていることは言うまでもない。今は何よりもスピード感が重要視される時代だ。もう30年ほど前になるだろうか、ガソリンのコマーシャルで「狭いニッポン、そんなに急いでどこへゆく」というキャッチコピーがあったが、今はその比ではない。芝居の世界にしても、チケットの前売り開始時期はどんどん早まり、二ヶ月以上前から前売りを始めるものもある。先に予定がないと不安に駆られる、という現代人の心理も影響しているはずだ。

芝居は時代と共に移ろうものであり、その時代の観客が何を求めているかを敏感に察知する必要がある。テレビもファッションも食べ物も同じで、次々と新しいものを繰り出して行かないと、民衆はすぐに飽きてしまい、次の「何か」を探し出す。そのサイクルが早くなっているのも事実だ。私が子供の頃は、貧しかったこともあるが、おもちゃが壊れると、まず「修理」だった。それも自分でできる範囲、親父ができる範囲、それでも無理なら買ったお店へ持ってゆく、という暗黙のルールがあった。靴でも電化製品でも同じだった。しかし、今は多くのものが「消耗品」という名のもとに使い捨てされている。ともすると、芝居の脚本や役者までもが消耗品扱いされる時代になった。

今までに何度も書いたことだが、役者は促成栽培も大量生産もできないものだ。それが消耗品になってしまっては、必然的に質が落ちる。野球で言えば、エースがすぐに使い捨てられ、控えのピッチャーも使い尽くし、投球練習さえ満足にできないピッチャーがマウンドに上がるのと同じことだ。それでも、回転させて何かを発信していないと、お金は回らないし、創る側も不安になる。ただ、芝居の場合、新人を思い切って抜擢すると、予想もしなかった成果を見せることがある。歌舞伎なども、親の名前を襲名した途端に、芸の寸法がグンと伸びる役者がいる。これが芸の不思議なところだ。もっとも、こうしたケースはそうたくさんあるものではない。

私が危機感を感じているのは、脚本家だ。役者の志望は多数おり、いくらでも新人の登用が可能な時代だ。しかし、脚本はいささか事情が違う。「芝居創り」の骨法を身体に叩き込み、劇場の規模や顔ぶれに応じた芝居を掛けるだけの技量は一朝一夕に育つものではない。増して、再演に耐えうる力を持った芝居はそう簡単に書けるものではないことは、自分の数少ない劇作の経験からも良く承知している。また、これほど新作が消耗されるのは、海外と比べても多い方だ。

いくら時代のスピードが加速しても、人間の心の奥深くに訴える「情」には、そう大きな変わりはない、と私は信じている。「古臭い」「今の観客にはわからない」と一蹴するのは簡単な話だ。それを、どう加工すれば今の観客に馴染むのか、我々はもう一度、先人の知恵に耳を貸し、遺された膨大な戯曲を丁寧に検証する必要がある。そこまでをキチンと行ってなお、観客の考えがつかめないのが「芝居」という水物のおそろしさなのだ。コンピュータなどの電化製品がバージョン・アップを繰り返してゆくように、芝居も演じるたびに進化しなくては、時代の波に埋もれてしまう。その危機感を持っている人々は演劇界の中に大勢いる。もう少しで、それが大きな「うねり」になって、新たなる地平を拓けそうな予感が私にはある。無責任、とも取られそうだが、今の私の眼には、我々が五年後に何をすべきか、どういう演劇界にするべきなのか、が朧げながら見えて来たような気がするのだ。後は、行動をするのみだ。

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2013. 4. 13掲載

14.「六本木」

一昨年の夏だったか、どうしても観たい展覧会があり、初めて「六本木ヒルズ」を訪れ、街のあまりの変わりように驚いた。行ったことはないが、まるでアメリカかどこかにいるような気持ちになった。浦島太郎はこうも思ったであろう、というほどだ。私は、今までに六本木へ200回近くは出かけているはずだ。しかし、考えてみると、そのうちの95%以上が「俳優座劇場」か、その周辺のライブハウスなどで、六本木という街で遊んだり、呑んだりという経験は数える程しかないのだ。それにしても、何十年も六本木へ通っているのだから、少しは街の変貌に気付いても良さそうだ、と自分でも思ったが、劇場へ行くことしか考えずに歩いているのか、よほど注意力散漫なのか、いずれにしても「東京の田舎者」であることを自覚した。

尤も、いささかの自己弁護をさせてもらうなら、私が子供の頃、六本木だの麻布という町は、「閑静な住宅街」と「辺鄙」というイメージが共存しており、劇場以外に用事がある場所ではなく、今のような猥雑さにまみれてもいなかった。「狸穴」という地名が残っているぐらいで地下鉄も日比谷線しかなく、それでもあの辺りはお金持ちばかりが住んでいるから、自家用車があって苦労がないのだろう、ぐらいにしか考えず、せっせと日比谷線で俳優座に通っていたのだ。もちろん、「お洒落」というイメージはあったが、今のように子供に近い年齢の若者がごちゃごちゃと騒ぐ街ではなく、本当のお洒落や遊びの意味を知った大人の街、という印象だったのだ。バブルの時代に派手なディスコが出来、一時狂騒的な賑わいを見せた時期もあったが、私はそれらがどこにあったのか、恥ずかしいことに知らない。

ここではたまたま六本木を例に挙げたが、六本木に恨みがあるわけではなく、他の街についてもご同様である。渋谷にしても、出かける先はパルコ劇場かシアターコクーン、以前は渋谷の駅の東横デパートの上にあった東横劇場、パルコのそばにあった「ジアン・ジャン」ぐらいのものだ。青山劇場へ出かける時は渋谷から坂を上って行くが、これが道玄坂なのか宮益坂なのかも、未だに区別がつかないままに歩いている。

逆に言うと、劇場が出来たから通うようになり、知った街もある。「森下」は、「ベニサン・ピット」が出来るまでは行ったことのない街だったし、劇場が種々の事情でなくなってからは、一度も降りたことがない。今はせっせと通っている下北沢にしても、高校生の頃に安い洋服を買いに行った程度で、三軒茶屋などは、世田谷パブリック・シアターができて初めて行った街である。北千住など、「シアター1010」ができた折に二十年ぶりぐらいで街に出て、何が何だかわからなかった。

こうして考えてみると、私の日常生活は家と劇場を中心とした何本かの線を往復する行動がほとんどだ、ということが改めて分かった。何とつまらないものよ、と今更嘆いてみたところで仕方がないし、そういう人生を好んで歩いて来たのだから、後悔も残念もない。まさに「芝居漬け」の生活を送っているのだから、これで当然なのだろう。ただ、いい加減な年になって、余りにも何も知らないのも困ることがある。時によっては地方の人の方が詳しいほどで、逆にまごつくこともあり、少しは東京の変貌について行けるように、とも思うのだが、今更若者の人気スポットへ出かけてどうなる、というものぐさが頭を持ち上げ、どうせならこのまま「東京の田舎者」で劇場のある街ばかりへ出かけていようか、と思いもする。

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2013. 4. 20掲載

15.「活字中毒」

私は世に言う「活字中毒」である。地下鉄ひと駅の区間でも、本を読んでいないと落ち着かない。運悪く、電車の中で本を読み終えてしまうと、車内の吊り広告を眺め渡した挙句、鞄の中にある胃腸薬の効能書きか何かまで読んでしまう。月に一度か二度は地方へ出かけるが、たとえ一泊二日の旅で、読み切れないことは百も承知、二百も合点でいながら、最低文庫本を三冊は持たないと不安で仕方がない。もっとも、電車に乗った途端に携帯電話を取り出すほど忙しい生活ではないので、活字中毒が性に合っているのだろう。

読書は子供の頃から好きだった。今は、移動中に読む推理小説やその他の小説、書斎で読む演劇関係書、寝る前に読むさまざまなジャンルの本と三つに分けながら、三冊を並行して読んでいるが、混乱するわけでもない。気を入れて熟読していないのと、几帳面ではない性格の故かも知れない。中学生の頃、小学校の担任だった先生に言われたことがある。「お前は本を読むのが好きだから、そのままにしないで、読書感想文とは言わないまでも、読んだ本の記録をつけておくといいぞ」と。何となくその気になり、大学ノートの1ページを三段に分け、読後の感想などの記録を始めた。ノートが20冊ほどたまり、読んだ冊数も4、000冊を超えた頃、いよいよ置き場所がなくなって処分してしまった。後で、もったいないことをした、と悔やんだが、仕方がない。改めて、南方熊楠は偉かった、と思い直す今日この頃だ。

読書ノートを付け始めるようになった頃、「生涯で10、000冊読もう」という目標を立てた。大体、月に15冊のペースだから、年間に180冊、55年を少し超えれば70歳を過ぎた時点で目標が達成できる。しかし、途中で「読書ノート」も辞めてしまい、その後何冊読んだかは分からないが、今はざっくり7、000冊程度ではなかろうか。少年の頃は、「老眼」を計算に入れていなかったこと、正確な記録を付けていない時期があったこともあり、生涯の目標は遥か遠くに消えた。しかし、仮に目標を達成できたとしても、町の小さな図書館の蔵書をすべて読むことも不可能なほど、自分が卑小な存在であることが分かっただけでも儲けものというものだ。

ここ数年ほど前から、簡単な「読書メモ」を付けている。いつ、どんな本を読んだかだけを時系列で記しているだけで、今はワープロがあるから至極簡単な作業だ。読了年月日、作者、出版社だけを記し、何か気付いたことや留めておきたいことがあれば、箇条書きでメモをするだけなので、A4の用紙3枚ほどで一年の記録ができる。これをたまに読み返してみると、日記代わりにもなり、「あの頃は仕事の関係でこの分野を読み漁っていたのか」などと分かる。

今さら読書の効能を力説するりつもりはないが、年々記憶力と咀嚼能力、理解力が落ちているのは否めない。その中で、自分がこれから読む本も厳選せねば、と思うことがしばしばある。その一方で、書斎には「積ん読」用の本が所狭しと溢れ、時々崩れている。一番悔しいのは、途中まで読んだ本が、過去に読んだ本だ、と気付いた時だ。誰しも経験があるだろうが、何とも言えない気分になる。巷には、本も情報量も溢れ返っているだけに、その中からの取捨選択も一つの仕事になった。その一方で、インターネットのおかげで、長年探していた本が一分もあれば容易に検索できる。ただ、学生の頃に、古書店を何軒も回ってやっとお目当ての本を手にした時の喜びはもう味わうことはできない。何にでも一長一短はあるものだ。

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2013. 4. 27掲載

16.「新劇」

今でも、ふとした折にストレート・プレイのことを「新劇」と呼ぶことがある。これは、私だけではあるまい。しかし、この「新劇」という呼称は、明治になって西欧から近代思想が流れ込んで来た中で入って来た演劇を指す言葉で、それが定着したものだ。今までに何度も、「もう新劇でもあるまい」という議論が出ては消えしているのは、それに変わる名称でしっくり来る物がないからだろう。

歌舞伎の「旧派」に対抗して出来た新しい演劇、という意味の「新派」も、もう120年以上の歴史を重ねている。本来は、芝居の内容の問題であり、今のようにボーダーレスな時代には、呼称などはどうでも良いのだろう。ただ、こうした例を筆頭に、芝居の世界には定義が判然としない言葉が意外にあるものだ。

「小劇場」と言う。この言葉も、本来はハードウェアの劇場としての大小と、小さな劇場で今までとは違う演劇運動を起こそう、という試みの二つの意味がある。今は、大半が前者の意味で使われているようだが、では、「小劇場」という劇場の大きさの規程がどこかにあるのか、と言えばそうではない。何となく、観客個人の頭の中で「200人以下は小劇場かな」とか、あるいは「有名ではない劇団が代わるがわる出るから小劇場」などと、さまざまな定義がなされている。

こうした曖昧な言葉について、きっちりと線を引く必要があるのだ、というつもりはない。ただ、演劇人が中心になって何気なく使っている言葉の本来の意味を、真剣に考える必要はないのだろうか。「新劇」とは、当然ながら「新しい劇」だ。2013年の今、どういう演劇が新しいのだろうか。その新しさには、どういう意味を持つのか。大事なのはここだ。奇抜で、破天荒、というものであれば、演劇史に「歌舞伎」が登場したのと同じ意味合いになる。しかし、歌舞伎もそれだけでは400年の命脈を保つことはできなかっただろう。色や姿を変え、時代と共に動いてきたからこそ、今の歌舞伎が存在している。

今の観客が演劇の何に飽き、何を求めているのか。これを探るのは容易な問題ではない。極論を言えば、どんな芝居のプロデューサーも、常にこの問題で頭を悩ませているのだ。また、本来の意味での「新劇」は、もはや絶滅危惧種に指定されねばならないほどの状況にあるのも事実だ。明治以降の日本の演劇の、時代によってはかなり大きな部分を支えて来た「新劇」を、我々の世代で滅ぼすわけにはゆかない。とは言え、決定打になるような有効策がないのも事実だ。あれば、誰も苦しむことはない。

新劇について言えば、言葉から来るイメージもあるのだろうか、食わず嫌いの観客が多いのは事実だ。「観ろ」と強制するつもりはないし、そんなことをしてもファンにはなってくれないだろう。しかし、多くの劇団が、地道な努力を重ね、苦しみに耐えてきたからこそ、今の状況があるのも事実だ。全国規模でミュージカルを展開し、多数のファンを集めている劇団四季の出発点がフランス演劇の上演を目的とした新劇の劇団であったことはファンなら知っているかも知れない。また、先ごろ亡くなった劇団民藝の大滝秀治。飄逸な味わいで人気があったが、彼は骨太の立派な「新劇役者」だ。もちろん、それ以外の仕事も多く遺したが、劇団一筋に歩んだ役者のスタンスは終生崩れることがなかった。劇団を経済的に支えるために、映画やテレビ、他の舞台など、多くの仕事をしている役者もまだ大勢いる。世の誤解を、快刀乱麻の如く解明したいものだが…。
※次週はG.Wのため、次のアップは5月11日(土)となります。

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2013. 5.11 掲載

17.「歌舞伎ブーム」

ファン待望の歌舞伎座が新装オープンし、華やかな顔ぶれで連日の賑わいを見せている。今から20年ほど前の歌舞伎ブームの再来のような感があるが、大きく時代は変わった。歌舞伎は庶民のための古典芸能、例えて言えば落語のように気軽に楽しめるべきだ、という私の持論は変わらない。歌舞伎も歌舞伎役者自身も、時代と歌舞伎のはざまで何をどう観客に見せたら良いのか、それぞれが苦労をしていることだろう。ブームは結構だが、私はあえてブームを恐れる。ブームは過ぎ去るものだからだ。今の活況が、歌舞伎座建て替えによる一時的な状態にならないように気を配ることが、今の歌舞伎の最大の問題だろう。

歌舞伎座を建て替えている間に、多くの役者が鬼籍に入った。中でも、最近の中村勘三郎、市川團十郎の二人の人気役者を喪った痛手は計り知れないほどのダメージだ。しかし、歌舞伎はしたたかな芸能であり、こうした危機を幾度もくぐり抜け、400年を超す命脈を保っている。とは言え、今から50年ほど前に純粋な「上方歌舞伎」が滅びた、という紛れもない事実も存在する。今の若い歌舞伎ファンは、「上方歌舞伎」が存在したことはおろか、それがどういうものであったかも知る由はないだろう。歌舞伎が賑やかな時に、先の時代を見据えて今後の手を打てるかどうか、がこれからの歌舞伎の命運を決めるような気がしている。

役者、特に伝統芸能である歌舞伎の場合、一朝一夕には一人前の役者が出来上がることはない。物心がつくかどうかの年齢から踊りや邦楽などの稽古に通い、子役として舞台に上がり、親や先輩の芝居を身体で覚えることから始まるからだ。今は研修所のシステムが整備されて、ある程度の条件を備えていれば、誰でも歌舞伎役者になれる。しかし、その中でいわゆる「御曹司」が優遇されるのは、極論を言えば生まれた時から「歌舞伎漬け」だからだ。意味がわかるかどうかはともかくも、身の周りには邦楽の音色や歌舞伎の科白が始終聞こえている中で育ってゆく。言ってみれば「英才教育」だ。

ベテラン、中堅、若手が一体となり、古典芸能としての歌舞伎を演じることも重要ならば、若い感性を今の歌舞伎にどう活かせるか、も重要だ。新しい歌舞伎座が完成したのだから、新しい感覚の歌舞伎もぜひ上演してもらいたい。古典の素晴らしい作品があっても、一幕が1時間40分かかる芝居をそのまま上演するのが正しいのか、現代の眼でも耳でもわかるように、原作の風味を損なわずに再構築し、1時間20分にするのが良いのか。トータルでの上演時間が4時間から4時間半という上演形態が、観客の生理に一致しているのかどうか。演目の選び方は現行のままで良いのかどうか。東京で言えば国立劇場との連携はどうなのか。これからの歌舞伎が考えねばならない問題は山のようにある。

役者は観客を陶酔させるような芸を見せてくれれば良い。しかし、そうするために、歌舞伎に関係する人々が結束して、これからの世代にどういう形で歌舞伎のバトンを渡すのか、今こそ真剣に考える時が来た。今までも考えては来たのだろうが、ならば実行に移すタイミングではなかろうか。今後の10年が、これからの歌舞伎の命運を決める重要な時間になる。私はそう考えている。江戸時代以来の庶民の芸能としてのパワーを、今こそ見せてもらいたいものだ。それが、新しい歌舞伎座の舞台を踏めなかった役者たちに対する何よりの追悼ではなかろうか。

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2013. 5. 18掲載

18.「ロングラン」

日本でも、ミュージカル作品を中心にロングラン公演を重ねる作品がずいぶん増えた。それだけ、観客のニーズが高い、高品質な芝居が増えた、ということだろうか。ミュージカルの本場、ブロードウェイでは、数千回続く作品も珍しくはないが、世界で最も長く上演され続けている作品は、意外なことにミュージカルではない。「名探偵ポアロ」や「ミス・マープル」のシリーズでお馴染みの推理作家、アガサ・クリスティーが、エリザベス女王の即位のお祝いに書き下ろした推理劇『The Mousetrap (ねずみとり)』だ。1952年11月25日の初演以来、上演回数は22000回を超えた。日本でもしばしば上演される人気の高い推理劇で、この記録が世界で最高のロングランの記録であろう。

日本ではなかなかロングラン・システムが根付かないと言われるが、劇団四季のように専用劇場で、千秋楽を決めずにロングラン・システムを採っている劇団もある。もっと言えば、江戸時代の歌舞伎などは、「ロングラン・システム」という言葉を知らずにそれを実行していた。芝居が当たれば客足が落ちるまで上演するし、当たらなければすぐに閉めてしまう。今のようにガッチリ組まれたスケジュールよりも、遥かに合理的なシステムだ。江戸時代にロングラン・システムが成立していた最大の原因は、大雑把に言えば、今の映画の出資制度のような形で芝居が創られていたことに帰するだろう。出資する側は一銭でも多くの金を儲けたいのは当然のことで、当たれば少しでも長く上演していたい。客の入りが悪ければ、損害を最小限にとどめるために、芝居を閉める。実に合理的な考え方である。

春の帝国劇場の恒例の公演となった『Endless SHOCK』のように、毎年公演を続けてゆくものもある。また、『レ・ミゼラブル』のように、期間や上演時期は特定せずとも、キャストを入れ替え、回数を重ねてゆくものもある。こうして演劇は時代と共に変容を重ねているのだ。しかし、昨今の芝居を観ていると、新しいものの中でこうしたロングランの形式で息長く上演してゆける作品になかなかぶつからない。ロングランどころか、再演さえもされないままになっている作品のいかに多いことか。その事情を書き出せば切りがないのだろうが、重要に考えなくてはならない問題の一つではある。ロングランは、ただダラダラと上演しているものではなく、千秋楽が決められていない、逆に言えば明日には打ち切りになるかも知れない、という緊張感を孕んでいる。本来は、千秋楽が決められている芝居でもそうあるべきで、緊張感のない芝居も多い。

ずいぶん昔の話になるが、帝国劇場で『屋根の上のヴァイオリン弾き』を森繁久彌が半年にわたってロングラン公演を行った。その時、ちょうど半分ほどのところで、一週間以上の休演日を設けた。役者が休みを取るためではない。長く演じていることにより、芝居に狎れ、ダレて来ることを戒めるために、アメリカから演出家を呼び寄せ、再度稽古をし直したのである。その直後に再度舞台を観たが、見違えるようにすっきりと垢が落ちていたのを覚えている。芝居創りに欠かせない物が、今の時代の中であちこちでポロポロと欠けてゆくような気がしてならない。

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2013. 5.25 掲載

19.「戯曲を読む」

数年前から、早川書房で「ハヤカワ演劇文庫」が刊行されており、文庫で戯曲が手軽に読めるのはありがたいことだ。とは言うものの、一般的に読書の範囲に「戯曲」を含めない人々が多いのは事実だ。数え切れないほどの本が日々出版されるが、戯曲はなかなか売れない事実がある。いつからこうなったのか、正確な時期は私にも分からない。しかし、一般庶民がもっと身近に戯曲を読んでいた時代もあったのだ。

我々のような仕事をしているものに必須な書籍はたくさんあるが、その中でも大正の末期から昭和の初期にかけて刊行された『日本戯曲全集』という本がある。実に全50巻に及び、そのうちの30巻以上が歌舞伎、残りは新派劇や当時の現代劇という割合だが、全50巻のボリュームと、その中に占める歌舞伎の多さに驚く。しかし、当時はそれほどに、歌舞伎を戯曲として読むことが今ほど特別なことではなかったのだ。最近では、白水社が『歌舞伎オン・ステージ』全25巻を刊行したが、現代劇や翻訳劇の全集はなかなか刊行されない。もっとも、作家別の全集はあり、アーサー・ミラーやテネシー・ウィリアムズ、ジャン・コクトーなどの戯曲集は出版されているし、日本人の劇作家でも岸田國士や木下順二などの戯曲集が刊行されている。

私などは職業柄、多くの戯曲を読みたいのだが、劇作家によってパターンが分かれる。昭和のある時期を担った二人の人気作家、菊田一夫と川口松太郎。菊田一夫は森光子が生涯に2017回演じた『放浪記』をはじめ、三益愛子(川口松太郎夫人である)の『がめつい奴』などの大ヒットを始め、何百という戯曲を残している。川口松太郎も新派の座付き作者として、今も上演される『明治一代女』や『遊女夕霧』、『芸道一代男』など、相当数のものを残している。しかし、二人共に「戯曲」の全集は出版されていない。菊田一夫は『戯曲選集』として3巻、川口松太郎はかなり以前に発行された全16巻のうちの、ほとんどが小説である。二人の共通した考え方は、「芝居は舞台で演じるたびに変わるものであり、活字にするべきではない」というものだ。確かに、つかこうへいの『熱海殺人事件』のように、演者が変わるたびに台本が変わる芝居は、決定稿としての活字化は難しい。また、菊田、川口の論法は芝居という瞬間芸の本質から言えば、間違ってはいない。

更に言えば、二人が生きた時代は、芝居が毎度同じではない状況の演劇、つまり大衆演劇と呼ばれている分野などの芝居が今よりも活発だったこと、自らがそういう芝居の創り方に馴染んでいたこともあっただろう。もう一つは、「芝居の台本なんて本にするものではない」という物書きの意識もあったかもしれない。そんなものが残ってしまっては困る、という当時の人々の含羞を観る想いがする。確かに、上演用台本として印刷されても、稽古の途中で演出家の工夫や意向で、台本の内容はどんどん変わる。そういう場面は何度も自分で眼にしているのだが、やはり名作は活字にしておいて読みたい、という欲求がある。学校の教育現場などで取り入れれば、格好の教材にもなると思うのだが…。読み物としての戯曲を再評価したいものだ。

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2013. 6. 1 掲載

20.「劇団四季の60年」

劇団四季が創立60周年を迎え、新作のディズニー・ミュージカル『リトルマーメイド』も好評のようだ。日本で60年の歴史を持つ劇団は他にもあるが、これだけの大所帯で日本全国に展開している劇団はほかにはないだろう。劇団四季の功績として、『キャッツ』以降、アメリカのミュージカルをそのままの形で日本でも楽しめるようにしたことや、ディズニー作品のミュージカルをファミリーで楽しめるようなシステムで演劇の裾野を広げたことは大きい。その一方で、フランス演劇のアヌイやジロドゥの作品を上演したいという旗揚げ当時の目標を忘れずに、東京の自由劇場を中心に演じ続けていることも評価しなくてはならない。

『キャッツ』の初演時に、新宿に忽然と黒い大きなテントの仮設劇場が現われたのはショックだった。あの作品が日本中に巻き起こしたブームは、昭和の演劇史にキチンと記されるべき事柄である。また、四季からは市村正親、鹿賀丈史、山口祐一郎など、今のミュージカル界を背負って立つ人間が随分輩出されたことも大きい。『ジーザス・クライスト・スーパースター』や『コーラスライン』、『M・バタフライ』で市村が見せた中性的な芝居は強烈な個性を持っていた。

また、東宝が芸術座(現在のシアター・クリエ)でチェーホフの『櫻の園』を上演し、近接する日生劇場で同時に『櫻の園』を競演するなど、ミュージカルだけではなく、ストレート・プレイでも独自のアイディアを見せ、日本の演劇史の中でのあるポイントを押さえたことは忘れないために書いておきたい。

現在は、東京だけでも「春」「秋」「夏」「海」「自由劇場」と五つの劇場を持ち、他にも名古屋、大阪、北海道にも専用の劇場を持っている一大興行会社になった。どこでもそうだが、劇団も規模が大きくなり、歴史が長くなればなるほどに問題は出て来る。それをどう乗り越えて次の10年につなげてゆくか、これは劇団四季だけの問題ではない。

若き日の浅利慶太が、石原慎太郎や三島由紀夫とこれからの日本の演劇はどうあるべきか、と喧々囂々の議論を闘わせ、その理想の旗の下に多くの人々が集まった。他の劇団の成立過程もほぼ同じである。と、家で胡座をかいてそんなことを言ってみても、何の役にも立たない。そういう熱意や高い体温を持った人々がどこかにいないか、と劇場の大きさを問わずに日々劇場通いをしている。時折「おっ」と思うこともあるが、なかなかその先へ進まないのが現状だ。「時代が違う」「今は景気が悪い」と、言い訳ならばいくらでも出て来るが、演劇とはそういう次元で語られるべきものではない。

いい加減な年をして、演劇青年のような話だが、算盤勘定で言えば、こんなに割の合わない話はないだろう。その中で、劇団四季のモットーの一つに、「芝居だけで(アルバイトなどをせずに)生活ができる劇団」を目指したのは画期的とも言える。それほどに、芝居では食えない、ということで、それは今も昔も変わらない。私が大学を出て、芝居の世界の物書きになる、と親父に告げた時に、「河原乞食の仲間入りをするのか」と言われた記憶は痛烈だ。当時はその感覚を否定し、反発もしたが、昭和一桁世代に、その感覚が残っていた、いや生きていたことも否定はできない。

劇団四季の60年の歴史の中には、こうした時代も含まれており、その上での今、がある。先人たちの苦労や熱意を無駄にするのが一番もったいないことだと私は思う。

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2013. 6. 8 掲載

21.「劇場」

今、東京に大小併せてどれだけの数の劇場があるのか、正直なところ、私には把握できない。先月、銀座の「ルテアトル銀座」が閉館した。1987年に「銀座セゾン劇場」として開場し、26年の付き合いだったが、シートの座り心地が良く、作品の選び方も、センスの良い眼を持っていた劇場だけに残念な話だ。ハードウェアとしての「劇場」を考えると、設備の維持・管理をはじめ、人件費や災害対策など、膨大な金額が必要となる。どれほど堅牢な建物であろうと経年劣化は避けられないし、メンテナンスで膨らんだ経費を即座にチケット代に転嫁するわけにもゆかず、劇場を抱えている会社の辛いところではある。

歌舞伎の発生の源が「野外劇」であったことに想いをいたすと、東京でも各地に野外劇に適したスペースがもっとあっても良いのではないか、と私は思う。近隣への騒音の問題やさまざまな法律など、ハードルが高くてできないのだろうが、極端な話、簡単な舞台が組めるだけの照明や音響などのある程度の設備を有した倉庫と、更地があれば良い。後は、芝居を創る側が、その条件で上演可能な芝居をどう創り、見せるかの問題で、閉ざされたスペースで見せる芝居ではないものを創ることは一種の刺激にもなろう。

口で言うのは簡単だが、確かに野外劇の上演は難しい。当日の天候にも左右されるし、閉鎖空間ではないだけに、当日の町の様子で何が起きるか予測がつかない。しかし、何度かチャンスに恵まれたが、野外劇は趣があって楽しいものだ。都市で上演されるものと、地方の山々を背景に演じられるものでは全く味わいが違い、どちらも魅力がある。

今年没後30年を迎えた寺山修司は、存命中に半ばゲリラ的に野外劇を上演したことがある。当然大きな話題にはなったが、上演の場所や形態、方法を含めて寺山が模索していた方法の一つであり、そういう意味では今の人々の方が大人しくなったような気がする。

「劇場」の効能は、芝居の上演だけにあるのではない。長い歴史の中で、劇場機構が整った時期に、「芝居を観に行く」という行為が我々の生活の中での「ハレ」の場であることがより明確に浮き上がった、ということは言えるだろう。もちろん、それ以前にも祝祭や奉納の意味で、野外で演じていても「ハレ」の概念はあったはずだが、空間を仕切ることで、それがより顕著になった、ということだ。その感覚が、今の我々にどれほどの割合で残っているか、だいぶ薄れはしても、全くなくなってはいないはずだ。現に、昭和の中期までは歌舞伎座がお見合いの場所として使われていたケースも少なくない。

私のように、仕事として劇場へ通っている者にとっては、そうした意識は通常の観客よりも希薄だが、その分、仕事場としての意識もあり、また通い慣れた場所という親しみや安心感もある。今までの経験で言えば、厳粛な気持ちを持つのは、?落とし、そして閉館、あるいは「何回」という記念公演などだろうか。一度だけだが、もう30年近く前、当時アルバイトをしていた劇場で、「緞帳」を新調し、その修祓式があった。見慣れた緞帳とは違う、新しい緞帳の目の覚めるような色と、旧に古びてしまったようなそれまでの緞帳に、劇場の歴史を感じた瞬間だった。劇場は、観客と共に歴史を刻みながら息づいている、そう感じたのを覚えている。私が修祓式に立ち会った緞帳が今も健在なのは嬉しい。

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2013. 6.15 掲載

22.アカデミー賞とトニー賞

映画のアカデミー賞は、わざわざ「日本アカデミー賞」まで創り、大騒ぎをしている。観客も製作者もそれだけの「権威」を認めている、ということだ。同じように、音楽部門のグラミー賞、テレビ番組のエミー賞、舞台のトニー賞。これが、各部門において、世界で最も権威ある賞だと言っても良いだろう。アカデミー賞が1929年、トニー賞が1947年、エミー賞が1949年、グラミー賞が1959年の創設と、歴史的には二番目の古さでありながら、日本ではトニー賞がさしたる話題にはならない。これがイコール舞台芸術に対する意識の低さだ、というつもりはない。日本人が製作する作品がなかなか対象になりえない、ここに映画とは違う事情があるからだ。

今年のトニー賞では、嬉しいニュースが飛び込んで来た。アメリカに拠点を置いてプロデュース活動を行っている川名康浩が、ミュージカル部門の作品賞を受賞した。日本人がトニー賞を受賞するのは初の快挙だ。もう一つ、個人ではないがキョードー東京がプロデュースに関わった『PIPPIN』が「最優秀リバイバル・ミュージカル作品賞」「最優秀演出賞」「最優秀主演女優賞」「最優秀助演女優賞」と4部門の受賞に輝いた。『ピピン』は、昭和51年4月の帝国劇場で、上條恒彦、草笛光子、財津一郎、友竹正則、三益愛子らの豪華なメンバーによって上演された舞台である。微かな記憶しかないが、今から37年前のこと、日本で今のようにミュージカルを受け入れる土壌が出来上がっていなかった時代にあっては、いささか前衛的すぎる、という点で、あまり高い評価が得られなかった。

時代のサイクルが異常とまでに思えるほど早い昨今、40年近く前の作品は充分「古典」と呼ばれるに値する。つい先ごろ、1960年代に一世を風靡したミュージカル『HAIR』を上演し、高い評価を得たキョードー東京が、今度は本場でトニー賞を授与した意味は大きい。昔の作品を「古い」「今の時代には合わない」と切り捨てることは簡単だ。しかし、「古い革袋に新しい酒を」の精神で、今の観客に原作の持つシニカルさや劇中劇の形式などの多彩な構造を、現代の視点で表現し、それが評価されたことに意味があるのだ。海外の作品の場合、版権や上演権などの権利関係が複雑に絡み合っており、日本で勝手に手を加えるわけには行かない。であれば、日本から出かけて行き、向こうの国のめぼしい作品の上演に手を貸すというのも、一つの方法である。成功をおさめれば、日本でそのまま上演することができる。

海外ミュージカルにはこうした問題がつきまとうが、どの分野の芝居にも共通して言えることだろう。漫然と同じ舞台を繰り返している間に、観客はどんどん新陳代謝を重ね、時代は変わる。演劇の使命の一つが「時代と共に変容すること」である以上、過去の名作をいかに現代に甦らせるか、それはシェイクスピアの作品から、あるいは近松門左衛門の浄瑠璃からさんざん行われて来た行為だ。古い物は古いことにこそ意味があるのだ、という考えもあるだろが、その逆もある。古い作品に現代の精神をどう注入して、観客の前に提示するか。言うは易く、行うは難し、だ。しかし、それを実際に『HAIR』で証明し、成功した舞台をつい最近目の当たりにしているだけに、キョードー東京が成したこの試みが、早く日本の舞台で観られることを楽しみにしている。もはや、37年前の帝国劇場の舞台を知る観客も少なくなって来た。国際感覚が問われているのは、芝居の世界とて同じことだ。日本からの発信と、世界からの受信。その一つの結果が、今回のトニー賞の快挙である。

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2013. 6.22 掲載

23.「日本の劇作家」

大学の授業で、日本の近代の劇作家の名前を先生が黒板に書き、学生がその中から一人を選び、その作家について研究発表する、という授業があった。私は森本薫という昭和初期の劇作家を選び、発表をしたところ、先生の講評は、「君は久保田万太郎を選んだ方が良かったね」というものだった。要するに失敗だったのだが、今はこの二人の劇作家の名前も歴史の波に埋もれようとしている。この授業で、先生が年代順に劇作家の名前を書いて行ったのだが、最初は誰だか忘れたが、最後が「野田秀樹」と書いてあったことをやけに鮮明に覚えている。当時の野田秀樹は、「夢の遊民社」を率いて演劇界に旋風を巻き起こしていた最初の時代であり、彼の名前が近代の劇作家として挙げられたことがとても新鮮に感じられた。

舞台で、あるいは戯曲で、私に芝居を教えてくれた日本の劇作家は多い。試みに、思いつくままに名前を挙げてみよう。泉鏡花、久保田万太郎、岸田國士、長谷川伸、行友李風、三好十郎、森本薫、北条秀司、八田尚之、川口松太郎、三島由紀夫、菊田一夫、小幡欣治、寺山修司、野田秀樹、向田邦子、木下順二、倉本聰、唐十郎、真船豊、久保榮、村山知義、つかこうへい、坪内逍遥、花登筺、井上ひさし、別役実、岡部耕大、如月小春、大西信行、鴻上尚史、岸田理生、齋藤雅文、横内謙介…。この調子で行くと、今回は劇作家の羅列で終わりそうだ。何も自慢がしたいわけではなく、これほどに多くの劇作家が20世紀から21世紀の演劇をその時点で切り取り、自分のテーマを演劇という形式で表現するのに力を注いだ、ということだ。

この中には、読者が初めて聴く名前もたくさん含まれているだろう。私と同じ演劇人でさえ、年代によっては「知らない」と言う人も多いはずだ。それを責めるつもりはない。時代の流れの中で、何でもすぐに忘れ去られて行く中、半分はどうにもしようのないことだ、と考えている。しかし、残りの半分は、「興味があったらもう一度読み直してみよう」という気持ちがある。時が経てば古くなるのは当たり前のことだ。しかし、それを放り出すのは簡単なことで、放り出す前にリニューアルする方法が全くないのかどうか、検討の余地はあるだろう。古い、というだけで放り出してしまえば、歌舞伎はほとんど上演できなくなってしまう。

明治以降の西欧思想の影響を受け、日本の近代演劇の発展に力を注いだ人々の作品が、全く意味のないものばかりとは言えない。それらを掘り起こし、世に残し、問いかけるのも我々の仕事の一つだ。もうしばらくすると、『日本劇作家事典』という、日本の近代の劇作家の足跡と作品を網羅した大部の書物が出る予定になっている。その一部を担当したが、20数人の足跡を事典の形式で残すためには、その作家の作品をすべて読んだ上でなくては書けず、久しぶりに腸がねじ切れるような苦しい仕事だった。しかし、改めて先達が遺した仕事と対峙することが、どれほどの勉強になるか、を知らされた仕事でもあった。

日本の劇作家というのは、実は経済的には恵まれないし、割に合わない仕事だ。それでも芝居を書く、その情熱が芝居を支えている底力の一つなのだ。

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2013. 6.29 掲載

24.「歌舞伎とは何か」

歌舞伎座のこけら落とし公演も三ヶ月目を迎え、新装なった歌舞伎座の賑わいは相変わらずだ。豪華な顔ぶれにこけら落としに相応しい華やかな演目が並んでいる。

それはそれで結構なのだが、私がずいぶん長い間頭を悩ませているのが「歌舞伎とは何か」という、非常にシンプルな問題だ。「こういう条件を満たせば歌舞伎という演劇だ」という明確な定義が、私の中にはない。専門家の中でも、そういう人は多いのではないか。この「専門家」には、役者も含まれる。

歌舞伎座で上演している芝居が歌舞伎であることはまあ、間違いがないと言っても良いだろう。しかし、歌舞伎俳優である市川染五郎が、かつて三谷幸喜の「決闘!高田馬場」を渋谷のパルコ劇場で演じた折に「パルコ歌舞伎」の名称で呼ばれた。歌舞伎役者が新作歌舞伎を演じる、という意味では何もおかしくはない。勘三郎が野田秀樹の芝居を演じたのも同じことだ。では、新橋演舞場で、ジャニーズの滝沢秀明が上演した「滝沢歌舞伎」は一体何か。当然、彼は歌舞伎役者ではない。しかし、松竹系列の新橋演舞場という劇場で「歌舞伎」と銘打って演じた芝居がどういう意味を持つのか。こうした例は、実は非常に多い。かつては、松竹のライバル会社に「東宝歌舞伎」があったほどだ。逆に言えば、歌舞伎役者の市川猿翁が宙乗りや早替わりなどのアクションに富んだ歌舞伎を始めた頃、同じ歌舞伎役者が「あんなものは歌舞伎ではない」と言った事実もある。

「歌舞伎」という演劇の実態はどこにあるのか。この問題は、シンプルなだけに難しい。時折、「歌舞伎は日本のミュージカルだ」という人があるが、これは全く上っ面しか見ていない甚だしい見当違いだ。音楽的要素が多い演劇だから、ミュージカルと同様と言うのは暴論である。

私に言わせれば、歌舞伎を定義することは、時代が進むに連れて難しくなって来た。江戸時代は、能は別にして、庶民の芝居と言えば歌舞伎しかなく、「芝居=歌舞伎」であった。しかし、明治以降、多くのものが流入し、国内でも生まれ、芝居のジャンルはどんどん細分化された。それによって、歌舞伎の定義が曖昧になって行った。それを巧く利用して、「古典歌舞伎を上品に難しく演じること」と定義し、そのように演じることを強制した役者もいた。演劇は、時代と共に変容する運命を持っている。江戸時代には現代劇であった歌舞伎が今は時代劇になっていることを考えれば明白だ。

『仮名手本忠臣蔵』に代表されるような古典歌舞伎は、今の時代に合わせてどう見せるか、という問題がある。しかし、江戸末期から明治にかけての新作の量を見れば、現代の感覚で、「これが歌舞伎だ」と作者や役者が考える芝居を創れば良いのだ。私は、歌舞伎に必要な条件は「時代を写し取ること」「人間を描くこと」だと考えている。それでは西洋の芝居と何も変わらないし、小劇場だって同じだ、という意見もあろう。同じである。その条件の中で、「こういう歌舞伎の形があるのではないか」と提示することが、今の歌舞伎に関わる人々の重要な役目ではないのだろうか。私も、結論は出ていないが、そうした芝居の提示の方法は考えている。

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2013. 7. 6 掲載

25.「ああ、昭和」

時代が平成に変わって四半世紀が過ぎた。昨今、さまざまな形で「昭和」を懐かしみ、想いを寄せる舞台が増えているようだ。そのきっかけは映画から始まったのかもしれないが、舞台でも多く見かけるようになった。人間は想い出を美化する機能を備えている。今のギスギスした時代に、お金や情報などの便利さには恵まれなかった代わりに、ゆったり時間が流れていた時代が好まれるのだろうか。

個人的なことを書かせていただくと、私は昭和と平成がほぼ半分、という年齢である。理屈から言えば、平成になってからの方の記憶が多いわけだが、物心つかない時期も含めて、昭和を懐かしく思い出すのは、いささか年を取って来た証拠かもしれない。言うまでもなく、昭和は日本の元号の中で最も長い。64年という長さを誇った一つの時代は、やがて「昭和前期」「昭和中期」「昭和後期」などと、のちの歴史家によって分類されるのだろう。

これだけ長い時間にわたると、同じ昭和の芝居でも年代によってそろそろ時代考証が必要になって来た。戦前や戦後、昭和30年代辺りをテーマにしたものでも、怪しい部分が散見されることがある。勘違いも誤解もあるが、時としては重箱の隅をつついてでも目くじらを立てないと、間違ったものが伝えられてゆく恐れがある。

昭和を彩ったスターたち。実際に私が舞台を観た人々で言えば、美空ひばり、大川橋蔵、越路吹雪、市川右太衛門、初代水谷八重子、山田五十鈴、森繁久彌、杉村春子…。今の若い演劇人たちは当然ながら知らない人々ばかりだ。単に懐古趣味に陥るのではなく、こうした人々がどういう仕事を残して来たかを記録し、伝えるのも批評家としての仕事の一つだ。「昔は良かった」と言っているだけでは進歩はない。誰の何がどう良かったのか、そのエッセンスを現代の観客に共感してもらうにはどういう形があるのか。その模索の繰り返しである。

昭和には、決して忘れてはならない「戦争」の問題が大きく横たわっている。戦後何年経とうとも、知らない世代がどんどん増える中とは言え、無関心でいるわけには行かない。今でも、戦争を題材にした芝居は数多く上演されており、さまざまな手段で平和の尊さを訴えている。戦争を知る世代から直接話を聴くことも、そう遠くはないうちに不可能になってしまうだろう。次の世代は、「また聞き」になる。それでも、伝えてゆかねばならぬ問題であり、だからこそ多くの芝居が今も上演されるのだろう。

何にでも表と裏がある。昭和も今の時代から見れば、セピア色の美しい風景の中に温もりを感じることが多いが、決してそればかりではない、ということだ。中村草田男の有名な句に「降る雪や明治は遠くなりにけり」というのがある。古き良き時代への追憶を込めた句は今も人の口の端にのぼる。もう随分昔の話になるが、実業家の澁澤栄一の子息で、田園調布の開発整備事業などを行った実業家の澁澤秀雄が、「古き良き明治に戻れるとしたらいかがですか」とのインタビューに、「嫌ですね、あんなに道が悪くて歩きにくい時代は」と答えていたのを思い出す。我々は、昭和を懐古して、何と答えるのだろうか。

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2013. 7.13 掲載

26.「日本の文化」

最近、日本の文化について話したり書いたりする仕事が多い。雑駁に「日本の文化」と言っても、範囲はとてつもなく広い。文学、建築、美術、思想、邦楽、茶道、香道、和歌、俳句、都々逸、歴史…。

なぜ、このような事になっているのか。私は芝居の批評家である。今まで、この道一筋に、とは聞こえが良いが、これしかできないからかたつむりのようにノロノロと曲がりくねった道を歩いて来た。40代後半になって、「一つの分野を深く追求するには、他のことも知らなくてはダメだ」と気付いた。随分と遅い「無知の知」である。そうなると、新しい学問分野に大いなる刺激を感じ、それらの分野にも関心を持って仕事をするようになった。

それを体験してみて、企業での研修の折に講師が言う「専門バカの『I』ではダメだ、間口が広く、専門分野を持った『T』になれ」というもっともらしい言葉が嘘っぱちだと分かった。『T』どころの騒ぎではない、間口の広い横棒から、深く掘り下げるべきテーマがどんどん出て来て、『U』、『V』と形が変わった。分野によって深度の違いはあるが、今では横棒から何本の縦棒を掘り下げようとしているのか、自分でも分からないほどである。まるで鉄格子の中にいるような状況である。

そんなことを数年間続けているうちに、一番太い芯棒である「芝居」の見え方も変わり、感覚も変わって来た。アメリカなどとは比べ物にならないほどに長い歴史と文化を持っている日本のことを知らずに、「グローバリゼーション」でもあるまい。英会話の勉強を否定するつもりはないが、いざとなれば最低の単語でも通じる外国人とのコミュニケーションに苦労するよりも、着物の着付けでも覚えて外国人に披露した方が、よほど尊敬されるのではないか、とも思う。

古き良き伝統は手間がかかり、面倒くさいのは事実だ。効率第一主義、数字がすべての世の中で、外国を相手に商売をする時に、「英語以外に7カ国の言葉が話せます」というのは立派な才能だ。しかし、同時に、「10分あれば、着物を来て、外国でのパーティに出られます」という才能を認められる土壌が少ないのも事実だ。「それで商売になるのか」と上司に怒られるのがオチだろう。しかし、我々が外国人に対して、抱く必要のないコンプレックスを持っているのも事実だ。藝能の世界一つにしても、世界に誇る藝能は何も歌舞伎ばかりではない。講談も落語も、邦楽も、日本ならではの情緒に溢れたものだ。

そんなことをあちこちで言っているうちに、「そんなら話せ」「書け」という次第で、日本の文化に関する仕事が増えた。何も研究者や学者になる必要はないのだ。通り一遍のことを知っていて、外国で恥をかかない程度であれば良いのだ。私に言わせれば、「国際化」とは、英語のテストの点数なんぞではなく、「自国の文化を、誇りを持って相手に伝えること」から始まる。まず自国の文化を知り、それに誇りを持ち、伝える言葉は三番目で良いのだ。我々は、日本人のくせに、日本の事を知らなすぎる。それでは誇りが持てるわけはない。

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2013. 7.20 掲載

27.「三親切」

先日、私よりも10歳近く若いプロデューサーと芝居の話をした。二人とも、今の、特に大劇場演劇の創り方に大きな疑問を抱いていることから話題が広がった。営業政策上、先々のスケジュールを決定しなければならない事情は良く分かる。しかし、何も決まっていないに等しい状況で、どんな芝居になるかも見えない段階で、役者にオファーがかかる。これは、異常事態なのだが、今はそれが通常になってしまった。これでは、良い芝居ができるわけはない。ごく当たり前のことだが、まずは作品ありきで、「あなたにはこの役を、と思うのだけど…」と台本が渡され、その芝居に自分が出たいと思うか、出られるか、という一番重要な問題がなかなか決まらないのが現状だ。

幕末の歌舞伎の狂言作者で、日本のシェイクスピアとも呼ばれた河竹黙阿弥が心がけていたことに「三親切」というものがある。芝居を一本書く以上は、まず「見物に親切」、「役者に親切」、そして「座元(劇場)に親切」というものだ。お客様が「いい芝居だったなぁ」と感じ、役者は「この芝居に出て良かった」と思い、興行元は「この芝居で儲かった」と喜ぶ。決して迎合したり阿たりしているわけではない。自分の芯棒を貫いたままに、より面白くするための工夫には応じても、安易な妥協はしない。それが、作者としての矜持だ。

今のせわしい時代に何を呑気な、そんなことではいくつあるか分からない芝居の中に埋没してしまう、という現場の声は良く分かる。しかし、時として、「この芝居は誰のために創っているのだろうか」と感じるようなものにでっくわすことも事実なのだ。役者が「この作品に挑戦してみたい」「あの役者と共演したい」という意欲は大事だ。その折に、どの作品で競演させるのか、その眼を持つのはプロデューサーである。そうして生み出された芝居が、観客の心に響くものかどうかは、蓋を開けてみなければわからない危うさが、芝居は水物、と言われる所以だ。

劇場の規模が大きくなればなるほど、出演者やスタッフの数は増えるし、観客の動員数も増え、大きな予算を必要とする。それだけの手間暇をかけて、心血を注いだ結果が、当初の目標と余りにもかけ離れてしまっては、「三親切」どころか「不親切」の謗りは免れないだろう。その中で、「これをやれば確実」というものがないのが、芝居の難しさであり、魅力でもある。同じ芝居でも役者や演出家が変われば色合いもガラリと変わる。内容が良い芝居だからと言って大入りになるとは限らないし、その逆もある。どんな状況にあっても、まず観客のことを第一に考えるのは当たり前の話だ。最近、観客不在の芝居が多くなっていると感じるのは私だけではあるまい。

我々のように芝居の幕の内側にいる人間は、観客として「何が観たいか」という眼を新鮮な状態で保っておく必要がある。何でも理屈通りにゆかないのは世の習いだが、その中で少しでも観客が満足できるような芝居はないものか。私の年間200回に及ぶ劇場通いも、そんな芝居を探すための行為にほかならない。何を観ても素晴らしい名作、でも困るが、どれを観てもパッとしない駄作ばかりではなお困る。世の中、どの世界でも簡単には行かないものだ。

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2013. 7.27 掲載

28.「芝居漬け」

今年も後半に入り、だんだん時間の流れが速くなることにため息をついているが、過去の半年を振り返ってみると、相も変わらず「芝居漬け」の毎日を送っているのだな、と思う。上半期で100本を超える芝居を観て、そのうちの何割かの劇評を書き、芝居のエッセイや準備中の脚本を書き、講演会に出かけ、慌しい日々が過ぎて行ったばかりだ。年々本を読むスピードと理解力が落ちているのは致し方のないことだが、ここ数年は何とか年間200冊のペースは保っているものの、頭の中に残る内容は年々少なくなる一方だ。

「忙しい」という字は「心偏」に「亡ぼす」だと言った人がいた。確かにその通りで、今は忙しくないといけないような世の中で、私のようについでの道楽で生きている人間でも、つい「忙しい」という言葉が口に出る。しかし、よくよく考えてみると、そんなに働いているわけではないのだ。頭が衰えてきた代わりに、それまでの経験年数は増えたわけで、その経験で何とかごまかしているに過ぎない。それが、あまりにも世の中の見方や要望と掛け離れたと実感した時に、私の物書きとしての「死」が訪れるのだろう。肉体の死が先か、物書きとしての死が先か、こればかりは分からない。

最近、痛切に思うのは、「勉強不足」だということだ。20代には、何の根拠もなく、時間なぞ無限にあるものだと思っていた。しかし、50歳を過ぎて、同級生や同年代、場合によっては自分より若い人の死が当たり前になると、自分に残された時間がそう長くはないことに否応なく気付かされる。ここで、初めて自分が勉強不足だったことに気付いた。もっと芝居を観ておけばよかった、もっと本を読んでおくのだった、もっと書いておくのだった、と欲張りな性根が頭を持ち上げる。付け焼刃の勉強が一番役に立たないことを経験上知っているくせに、無闇に焦るのだ。

先日、初めて訪れた和食の店の同年代の店長と話していたら、全く違う世界にも関わらず、同じ感覚を持っていたのが面白かった。曰く、「自分でわかったつもりになっている時が一番危ない」「仕事が怖い、と感じるようになって、ようやく仕事が分かった気がした」など、分野は違えども「職人」という点で共通項があったのかも知れない。今は、もっと「芝居漬け」になるしか、打開策はない。もっと芝居を観て、本を読んで、原稿を書いて、芝居の話をして…。どこまでもどこまでも分け入って行かねば、先が見えない道なのだ。だから、面白いのだ、とも言える。サラリーマンの同級生が「定年がなくていいなぁ」と言うが、逆に言えば死ぬまで働かなくてはならない、ということだ。それが嫌では、この世界で生きてゆくことは叶わないのだろう。多くの先人たちが、まさに「戦死」のような形で、現役のまま鬼籍に入ったのを目の当たりにしている。こんな中途半端な格好で向こうへ行ったら、「まだこちらへ来るには勉強が足りないよ」と追い返されるかも知れない。

自分でも愚かだと思うが、最近になってようやく、「一生勉強」という言葉が実感を持って言えるようになった。いくら高齢化社会と言っても、気付くのが遅すぎた気がしてならない。

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2013. 8. 3 掲載

29.「データベース」

演劇批評をする上で重要な要素は幾つもある。例えば、芝居の知識、感性、経験、文章としての表現能力…。しかし、それらの根幹をなしている最も大きな要素、とも言えるのは、「批評家はデータベースでなくてはならない」ということだ。芝居の批評家を標榜する以上は、相当数の芝居を長い年月にわたって観ているばかりではなく、関係する書籍や文献、台本などの活字媒体も相当多く頭の中に入れておかなくては、比較論としての劇評は書けない。とは言え、数千の単位で芝居を観ていると、小さな脳みその許容範囲を超えるばかりか、年齢と共に忘れっぽくもなる。これはやむを得ない生理現象でもあるが、いくらかでもその不備を補うためには、「データベース」という、およそ芝居にはかけ離れたイメージの機能が必要なのだ。ある程度の年齢になって来ると、昔のことは鮮明に覚えていても二、三ヶ月前、甚だしくは一週間前の記憶がおぼつかないことはしばしばある。特に、繰り返して上演される芝居の場合は、微妙にキャストが違っていたりすると、訳が分からなくなることがある。

私は、最初から「観劇メモ」を大学ノートにチラシやチケットなどと一緒に貼りこんでいるが、30数年でノートの数が100数十冊になる。これでは場所を取るばかり、だと、そのデータをPCで入力し、データベースを作成している。しかし、入力するスピードよりも、芝居を観る速さの方が圧倒的に早く、これでは永遠にデータベースなどできない計算になる。一時は、人に入力を頼んだこともあったが、芝居の世界の住人ではないと、「主な出演者」に誰までを入力して良いのかの判断も付きかねるし、歌舞伎の外題や役者の名前などは、難読漢字に相当するものも多い。結局、過去の記憶を呼び覚ます意味でも自分で作業を進めるしかない。暇を見てはポツポツとやっているが、人間の記憶などいかに当てにならないものか、を痛感する。その作品を観ていたことを忘れていて、「こんなものを観ていたのか」と思うこともしばしばだ。一本の舞台を疎かに観て来たのだ、と自省しながら、データ入力をしている。

データベースには常に「更新」の作業がつきまとう。これは仕方がないが、データ数があるボリュームを超えると、今度は入力するソフト自体を考え直さなくてはならないケースが発生する。これは厄介な話で、同じソフトのバージョン・アップならまだしも、他のソフトへのデータ移行となると、これには相当な苦労がいる。一般に公開する性質のものではなし、あくまでも個人の観劇の記録なのだから、何もそこまでしなくとも、とも思うが、もう30年分近くのデータを入力した今となっては、半分以上が意地だ。

ただ、便利なことも事実で、過去の舞台のことを参照するのに、膨大な数の大学ノートをめくらずとも、検索すれば一発で知りたい情報が得られる。自分が観たものだから、データとしては正確なはずで、今書いている本なども、このデータベースに助けられている部分はかなり多い。パソコンが便利か不便かという議論は随分長い間行われていたが、スマートフォンなどの携帯端末を持つようになってそんな議論もどこかへ消えた。便利なことは認めるが、せっかく作ったオリジナルの原稿用紙が、狭い書斎で寂しそうにしている。

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2013. 8.10 掲載

30.「寺山修司のこと」

多彩な才能を誇った天才とも異才とも言うべき寺山修司。47歳という若さでその生を終えて、今年が没後30年になる。もう15、6年になるだろうか、一度訪ねた青森県三沢市の「寺山修司記念館」に念願の再訪を果たした。多くの作品が今も上演され、人気グループ「嵐」の松本潤が『あゝ荒野』に主演するなど、今も寺山人気は衰えることがない。私が「寺山修司」という作家を意識したのは、戯曲が最初だった。詩人、小説家、劇作家、劇団主宰、歌人、俳人、競馬評論家、映画監督…「僕の職業は『寺山修司』です」とインタビュアーに答えるほどに多くの分野で才能を発揮した天才に、どこで最初に出会ってもおかしくはなかったが、やはり寺山と私を繋いだのは芝居だった。『毛皮のマリー』を文庫で読んだのがもう30年以上も前の話だ。まもなく寺山は亡くなり、美輪明宏が、自身のために書かれた『毛皮のマリー』を追悼公演として上演した舞台に出会った。

「寺山ワールド」とも呼ぶべき世界観は摩訶不思議だが、その後短歌に出会った。「マッチ擦る つかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや」。ドキリとするような心象を、10代で詠んでいる。何とも恐ろしい早熟ぶりだ。今、私は知らぬ間に寺山の没年を超えて馬齢を重ねている。昭和10年生まれの寺山が、今も健在だとて、何も不思議はない。しかし、大学生の頃から腎臓病に苦しみ、入院生活を送った身体は、好きだった競馬馬のように、人生を疾駆することを選んだのだろうか。早世ばかりが天才の条件ではないが、三島由紀夫の45歳、寺山修司の47歳という没年は、私には重い墓碑銘に感じられる。その一方、47歳の若さで死んだからこその寺山修司であり、80歳に近くなって勲章か何かぶら下げている姿は絶対に見たくない、という勝手な気持ちも同居している。

僅かなスペースで寺山修司を論じることはできない。しかし、「久しぶりに会えた」という実感が持てる作家を自分の中に持つことの幸せは今回の旅で充分に味わえた。それと同時に、すべては想い出であり、一瞬のうちに消え去ってしまう「演劇」という仕事に従事していることを、身を以て感じた瞬間でもあった。「自分をリセットする」とはカッコつけすぎだが、「頑張らなくてはならないのだ」という想いに身を引き締めさせてくれた時間ではある。

人の評価は柩の蓋を閉じた時に決まる、という一方で、「去る者は日々に疎し」の言葉もある。明日何が起きるかわからない状況の人生、やはり今この瞬間を大切にすることが、自分の人生に対する最も敬意のある生き方なのだ、とも感じる。長い生涯とは言えなかったが、寺山修司は我々にたくさんの「きっかけ」を遺してくれている。それをどう紐解いてゆくかは、今に生きる人々の仕事だ。「不完全な死体」として生まれ、「完全な死体」となった寺山は、それさえも望んではいないのかもしれない。

夏が短い青森県の小高い丘の上に佇む記念館には、小さな宇宙がある。その広がりは広大で、いろいろな声が呼びかけているような気がする。「書を捨てよ町へ出よう」と呼びかけた詩人の魂は、爽やかな一陣の涼風のように私の前を吹き過ぎて行った。

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2013. 8.17 掲載

31.「夏枯れ」

今年の猛暑は始まりが早く、多くの記録を樹立している。猛暑の記録はありがたいものではないが、こうした時期は芝居などの興行物は「夏枯れ」で、集客が難しい。昔から「二八」という言葉があり、真冬の二月と真夏の八月は、興行界では成績が上がらぬ月、とされている。いくら冷暖房が完備しようが、暑さや寒さの盛りに、ただでさえエネルギーを奪われた身体を家から押し出すのは苦労ではある。

江戸時代の記録をみると、夏場は多くの人気役者がバカンスを取り、涼しいところへ避暑に出かけていたようだ。今のようにせわしい時代ではない、旅に出るのも徒歩が中心であれば、往復だけでも相当な日数を要する。そこで山の温泉場で湯治でもしていれば、すぐに一ヶ月など経ってしまうだろう。その間、まるっきり芝居を休むわけにもゆかないので、興行師たちは若い役者を使い、入場料もその分値下げをし、本水を使うなど夏らしい趣向を凝らして「夏芝居」を開けた。入場料が安い分、観客も気軽に来られるし、舞台を任される役者も、スターばかりの一座ではない代わりに、日頃にはないチャンスを与えられ、それを物にすれば階段を駆け上がることもできたのだ。

今は、そんなことを言っていられる時代ではない。私のような物書きは、「お盆休み」の特別進行で締切が変更になり、慌てるのが関の山だ。ただ、今の人が好んで使う「ピンチをチャンスに」という発想は、江戸時代の芝居の世界でも既にあったのだ、ということだ。「夏枯れ」というピンチに、普段はできない冒険や抜擢を行うことで、芝居を活性化させる方策を探り、なおかつ若手の役者に出世のチャンスを与える。何とも合理的な発想である。もっとも、それらがすべて成功しているかどうかは別の話で、無残な結果ですぐに興行打ち切り、という例もある。

芝居の世界にも、夏の過ごし方があった。歌舞伎座の三部制公演などは、そうした意味も踏まえて始められたものだろう。それまでの11時、4時という基本の開演時間が、働いている人には無理な時間だったこともある。東京は近郊への交通機関も整っており、かなり遅い時間まで遊んでいることが可能だ。夜、いくらかでも涼しくなり、仕事が終わっても充分間に合う時間に芝居が始まり、終わってから軽く食事やお酒を楽しんでも電車で帰れるような、7時半開演で9時すぎに終演、という歌舞伎があっても悪くはないだろう。他のジャンルの芝居も、いろいろ工夫の余地はある。

ただ、あまり早朝から芝居をやっているのにはお目にかからない。「朝8時開演」と言われても、確かに困る。眠気が醒めない頭で芝居を観ているのもどうかと思うし、8時の芝居に出るためには、役者は何時に起きるのだろうか。この世界の住人は、大体夜型の生活者が多い。いくら健康的でも、朝からの芝居は無理だろう。特に、最近の日本の夏は、昔のように『金鳥の夏、日本の夏』などと言っていた頃のような涼やかなものではなく、ほとんど熱帯に近い様相を呈している。こうした時は家で静かに読書でもしながら、昼寝を楽しむ、というのも良いのかもしれない。今までに何度も書き、あるいは言って来たことだが、演劇の分野は促成栽培が効かない物が多い。熟成を待つ仕事だ。夏枯れを逆に利用して、自分の内面を枯らさないように満たすためには良い時期なのかもしれない。それが、秋以降の「実りの時期」に向かうためのものである、と考えれば、暑い夏の過ごし方にも工夫の余地はあるというものだ。

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2013. 8.24 掲載

32.「歌舞伎と『あまちゃん』」

あちこちで歌舞伎の話をする折に、「歌舞伎の本質とは何か」という事に触れる。私の意見では「同時代性」なのだが、言葉では説明できても、「今で言うなら、この作品です」と具体的な説明ができない。ところが最近、「これがそうです」と言えるものがあり、助かっている。皆さんがどのぐらいの割合でご覧になっているかわからないが、NHKの朝の連続テレビ小説『あまちゃん』だ。近年には珍しく、視聴率が何回か20%を超えたり、往年のアイドルが出たりと、宮藤官九郎が脚本に仕掛けた「趣向」が大当たりに当たっているようだ。

ご覧になっていない方々のためにざっと粗筋を述べると、三陸地方の架空の町に育った高校生が、「おら、アイドルになりたい!」と上京する。元・アイドルだった母は頑強に反対していたが、それが町おこしにつながり、「GMT48」というアイドル・グループを結成して一躍アイドルに…。という、今までのNHKの朝の連ドラにはなかった破天荒な物語だ。主人公の女の子を演じる22歳の能年玲奈が驚いた時に発する「じぇじぇじぇ!」という言葉も流行語になった。

私が、「歌舞伎の本質は『あまちゃん』にある」と言う理由は、巷で起きている事件や事象を作者が巧みに取り入れ、それをドラマの中で活かしていることだ。「GMT48」というアイドル・グループが誰を指すかは言うまでもないことだし、そのプロデューサーと思しき人物も出て来る。また、かつてアイドルとして絶大な人気を誇った小泉今日子が20年ぶりにアイドルの姿を見せる。世の中の現象とドラマのストーリーが、互いに行き来しているのだ。この自由闊達さ、あるいは荒唐無稽こそが、歌舞伎の本質なのだ。

かつて、近松門左衛門が、実際に起きた心中事件に手を加えて人形浄瑠璃に仕立て、わずか数週間後には舞台に仕立てて大人気を博した、という歌舞伎の歴史と、現在の『あまちゃん』人気は本質的には同じで、それは、根っこにある発想が一緒だからなのだ。こういうことを書く取と、歌舞伎の研究者からお叱りを受けそうだが、この際だから言ってしまえば、歌舞伎を難しいイメージにし、敷居を高くした責任の一端は歌舞伎の研究者たちにもある。観たこともない江戸時代の舞台のあれこれを云々することを否定はしないが、今の時代に何が起き、それがエンタテインメントにどう影響を与えたり、反映されているかまでを併せて考えなくては、歌舞伎の本質に迫る研究はできないのではなかろうか。

私のような在野の評論家には、名誉も地位もない代わりに、こうした突拍子もない発想が許される。もちろん、責任は自分が取ることは立場が違えど同じだ。しかし、正統な研究家たちから見ればバカバカしいような発想がなければ、「芝居」などという得体の知れない物を掴み取ることは難しい。私とて、この発想はあくまでもとば口に立ったに過ぎず、この私見をどう展開し、多くの人々に納得してもらえるか、が勝負だ。今は一笑に付されても、それが認められるような公式、難しく言えば理論体系を考えるのが今後の仕事だ。

しかし、「じぇじぇじぇ」と歌舞伎が共通項を持つというのは面白い。事実、歌舞伎座の六月公演の『助六』では、通人の坂東三津五郎が「じぇじぇじぇ」とやって客席を笑わせていたっけ。共通項を肌で感じているのは、むしろ研究者ではなく、役者かもしれない。

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2013. 8.31 掲載

33.「過酷」

歌舞伎の坂東三津五郎が、膵臓の病気で降板を余儀なくされた。以前は、天海祐希が心筋梗塞で降板したこともあった。いずれのケースも、世間的にも働き盛りの年代で、他人事ではない。ストレスのない生活や仕事はないが、役者の生活がいかに過酷なものであるかを、今回の二人の病気で改めて思い知った。仕事柄、いろいろな役者との個人的な付き合いもあるが、この仕事はまず身体が丈夫でなくてはできない。歌舞伎の場合は、一日中出ずっぱりではないにせよ、通常は二十五日間、休演日がない。また、他のジャンルの芝居にしても、昼一回の日や休演日は設定されていても、海外に比べれば遥かにタイトなスケジュールが組まれている。それだけの公演回数をこなさなければ、興行としてビジネスにならない、という問題がまずあるのだろう。

海外では、芸術の現場に携わる人々でも「労働者だ」という考えが強く、組合やユニオンが労働時間の管理を厳しくすると聴いた。日本では、むしろ逆の風潮にあり、こうした仕事だからこそストイックに自分を追い詰め、どこまでも深めてゆくことが美徳とされる。お互いの文化の違いや歴史的な問題があり、簡単にどちらが良い悪いと言えるものでもない。また、芸能に携わる人々は、年齢を重ねても比較的元気なケースが多い。これは、現役として働き、科白を覚え、舞台で動き、大きな声を出す、という肉体を維持するには格好の仕事という一面もあるからだろう。また、常に人に「観られている」という意識が、若々しさの秘訣かも知れない。

その一方で、日本のマスコミは少しの間でもテレビに出ないと、すぐに「あの人は今?」のような扱いをするために、年中仕事をしていなくてはならない。もちろん、サラリーマンのような固定した収入が毎月保障されているわけではない、という職業の性質もある。しかし、それにも限度がある。昭和の後半に活躍した松竹新喜劇の藤山寛美は、連続出演240ヶ月という、常人には計り知れない記録を遺している。20年間、舞台を休まなかった、ということだ。一座の中心的存在であったから演じる役の数も多かったが、行動を共にした弟子や後輩たちの苦労も並大抵ではなかったことは容易に想像がつく。

いつまでも若々しい頭脳と肉体を保ちたい、というのは万人の夢であり、役者は芝居を見せる他に、そうした庶民の夢をも担っている部分がある。「あの人はいつまでも若々しい」「いくつになっても綺麗だ」と言われることを目標にしているわけではないが、芝居を演じる仕事にストレスがないわけがない。簡単に休むわけには行かないし、人によっては二年、三年先のスケジュールまで抑えられている。若さの勢いでやれる時期もあるが、だんだんそうも行かなくなるのは誰も一緒だ。

今回の三津五郎の病気を「歌舞伎座の呪い」などと馬鹿馬鹿しい囃し方をする人がいるが、失礼も甚だしい。役者が舞台の上で、己の肉体を削って芝居を演じることがどれほどに大変なことであるか。それは主役、脇役という問題ではない。その役者が真剣であればあるほどに、過酷な仕事なのだ。袖へ引っ込むなり、痛みで失神した役者や、舞台で怪我をし、入院しながら千秋楽まで演じた役者などを私は何人も見て来ている。そこまで真剣に取り組むからこそ、世間がその人の芝居を認めるのだ。

今は、三津五郎の病気がこれ以上悪くならないことを祈るしかないが、日本の興行形態を考える一つのきっかけにもなるのではなかろうか。

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2013. 9. 7 掲載

34.「迎合」

今や国語の教科書からもはずされてしまった明治の作家・夏目漱石の『草枕』の冒頭にこんな一節がある。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」。昔の人は巧いことを言うとはその通りで、どの世界に住んでもこの通りだろう。正論はあっても、正論だけが通るわけではないのが世の中だ。その中で、どこまで自分の意地を通すか、ということだ。

芝居の世界も同じことで、正論だけでは通らないことも多々ある。いろいろな人々の思惑が幾重にも絡み合い、「分かってはいるんだけどね…」という話になる。しかし、内部でどういう事情があれ、お金を払い、時間をかけて劇場へ足を運ぶのは観客だ。演劇評論はその多くの観客の代弁者としての立場も持っている、と私は考えているから、幕内の事情を斟酌してばかりもいられない。その中庸をゆけば良いようなものだが、それが簡単なものではなく、「とかくに住みにくい」となるのだ。

創る側が見せたいものと、観客が観たいものとがぴったり一致すれば、何も文句はない。しかし、そんなケースは滅多にない。どちらかが歩み寄らなくてはならない。芝居を創る側が、世間や観客に媚びてしまえば、それは「迎合」と言われる。あくまでも凛と背筋を伸ばしたままで提示する芝居が、観客の観たいものであるべきだ。「そんなことは誰もがわかっている理想論だ」と言われるだろう。確かに、「理想論」だ。しかし、「理想」がなくては、目指すべき地点は見えない。いつも「これでいいか」とは思わないまでも、「仕方がない」と諦めてしまっていては、芝居の質が下がるばかりだ。

芝居は芸術だと言われるが、舞台の幕が開くまでの過程を見ていると、とても泥臭く、人間くさい仕事の積み重ねだ。大の大人が本気で喧嘩をしている。その結果が舞台に良い形で反映されれば言うことはないが、悪く出れば「骨折り損」だ。この苦しい作業を飽きずに繰り返すことで、ようやく先に見えて来るものがある。今の芝居を見ていると、誰に何を見せようとして創っているのかが全くわからない芝居が散見される。いい加減な気持ちで創っているわけではなかろうが、とにかく幕を開けてしまえばそれで良い、というケースがある。そういう乱暴な作り方は、観客にすぐに伝わってしまうものだ。

「どんな芝居が今の時代の観客に好まれるのか」を探すのはプロデューサーの仕事だ。観客の好みは時代と共に移ろう。最近は、そのサイクルが目に見えて速くなっているのも事実だ。一本の芝居を創るには時間がかかる。脚本の選定から始まり、キャスティング、稽古を経て本番の舞台が開く。この間に何が起きないとも限らない。世間の動向を見ながらも、「今はこういう芝居を観客に観てほしい」という確固たる眼がなくては、面白い芝居はできない。今は、人気スターを並べれば黙っても観客が来る時代ではない。ライブ感に加えて、舞台からどんなメッセージが発せられるか、だ。これはいつの時代も同じことで、先人も散々苦労して来た問題で、正解はないようなものだ。きっちりと数字であらわすことのできない答えを追い求めることに、芝居創りの面白さがある。劇場へ足を運んでくれる観客の志向や意見は大切だが、そればかりに振り回されてもいけない。この微妙なさじ加減に才能を発揮するのが、プロデューサーの仕事なのだ。バランスを取ることの難しさはここにある。

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2013. 9.14 掲載

35.「エディット・ピアフ」

今年は、『愛の讃歌』などで知られるフランスのシャンソン歌手、エディット・ピアフが47歳の若さで没して50年に当たる。その波乱に満ちた生涯は何度も劇化、映画化されて、日本でも多くの人が演じ、その名曲の数々もいろいろな歌手がカバーをして今も歌い継がれている。

こちらも亡くなって33年が経つが、ピアフの歌を日本に広めたのは、越路吹雪と曲を翻訳した岩谷時子の功績を抜きにしては語れないだろう。幸いにも、越路吹雪にはかろうじて間に合ったが、『愛の讃歌』や『バラ色の人生』を生で聴くことができたのは私の大きな財産の一つだと思っている。

日本ではどこでどう誤解されたのか、フランス版の「演歌」がシャンソンだ、と思われている節があるが、厳密にはフランス語では歌のことはすべてシャンソンと言う。また、今、広く知られているシャンソンの中には、必ずしもフランス産ではない『群衆』のような楽曲も含まれている。いずれにしても、男女の情愛や捨てられた女性の切なさ、身体を売る女性の哀しみや豊かな愛情をドラマティックに歌ったものが多い。また、「シャンソン=陰気」というイメージも巷間にはあるようだが、そんなことはない。『オー・シャンゼリゼ』や『パリ野郎』など、弾むようなテンポの軽快な曲もあれば、ジャック・ブレルが歌ったような「反体制」の歌もある。

しかし、エディット・ピアフが没して半世紀を経てなお歌い継がれていることを考えれば、生い立ちや生涯はともかくも、彼女を「シャンソンの女王」と呼ぶことに異論はないはずだ。140センチに満たないあの小さな身体のどこからあんなに力強い声が出るのだろう、と今残っている映像やCDでもその力を感じる。数え切れないほどの男性と浮名を流し、アルコールやヒロポンの中毒に侵され、交通事故に遭い、莫大な借金を抱え、と世の中の不幸を一身に引き受けたような人生でいながら、そのバイタリティの凄さは、大竹しのぶがシアタークリエで演じた『ピアフ』でも、大変な迫力で観客を圧倒した。ピアフの魅力は、その楽曲ももちろんだが、溢れんばかりのエネルギーを持った歌の力、なのだろう。今から50年前に、その死を惜しむフランス国民が40000人以上も葬送の列に加わり、パリの街が大混乱に陥ったというエピソードもある。

花火のような生涯に、ピアフは華やかな交流関係をも持った。同じ歌手仲間や俳優はもちろんだが、ドイツのマレーネ・ディートリッヒとも親交があったことは有名だ。ここで特筆しておきたいのは、ピアフが亡くなった時に、同じ死の床にあり、ピアフの訃報に接したためににわかに様態が急変し、数時間後に息を引き取った偉大な詩人がいた、ということだ。その名を、ジャン・コクトーと言う。劇作家、詩人、映画監督、小説家、評論家と、天才の名をほしいままにした年長の親友が、ピアフと同じ日に74歳の生涯を終えた。私は、このエピソードに二人の偉大な芸術家の魂の交流と、その哀しくも美しい情景を感じる。

おかしな商売っ気を出して、このエピソードを小説や戯曲にしようとは思わない。ただ、心のどこかにそっと仕舞っておきたいような話だ。「相寄る魂」とは、まさにこのことを指すのではなかろうか。10月11日、ピアフとコクトーの50回目の命日が訪れる。ピアフのCDを聴きながら、コクトーの戯曲でも読もうか。

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2013. 9.21 掲載

36.「ハーフの歌舞伎役者」

尾上菊五郎の息女・寺島しのぶが外国人との夫の間にめでたく男子が誕生した時のこと。歌舞伎の家ではあとを継ぐべき男の子の生誕は、普通の家よりも意味が大きく捉えられがちだ。早速、いくつかのテレビや週刊誌から取材が来た。「ハーフのお子さんでも伝統ある歌舞伎の役者になることは可能なのでしょうか?」と。生まれたばかりの赤ちゃんの職業を、関係のない端の人が云々するのは大きなお世話で、まずは物心が付いた年齢で、自分の未来の希望の中に「歌舞伎役者」という選択があるかどうか、という問題だ。歌舞伎役者になるためには資格が必要なわけではない。

取材に来られた方に、「本人がその気なら、国籍は問題ないでしょう。だって、昭和の初期には大変な美男で人気を集めたハーフの歌舞伎役者がいたんですから」と答えたら、絶句していた。とかく旧弊な世界と見られがちな歌舞伎の世界に、そんなに古くに、スター級のハーフの歌舞伎役者がいたのですか、という顔をしていた。

その名は十五代目市村羽左衛門。昭和20年5月6日、終戦の知らせを待たずに、疎開先の長野県の湯田中温泉で70歳の生涯を閉じたが、晩年まで白塗りの二枚目しか演じなかったし、それがおかしくもなかった。私は写真やいくつかの古い映像でしか知らないが、その顔立ちもともかくも、科白の調子に引き込まれてしまうような魅力の持ち主だった。大正かわ昭和の初期にかけての歌舞伎の一翼を担った人気俳優だけに、女性の噂も絶えなかったし、いかにも当時の役者らしいエピソードも多い。すべてが真実とは思えないが、ヨーロッパへ洋行の折にルーブル美術館で見た「ミロのビーナス」を前に、「手の切れた女には用はねぇ」と言ったというのは、いかにも役者らしい。

もう一つは、相手役の芸談に残されている話だが、相手役を勤めることになり、どのように演じたらいいか、を羽左衛門に教わりに行った時の答えがふるっている。「どうでもいいよ、お客は俺を観に来るんだから」。人によっては自己中心的な嫌な話になるが、そうではなく、いかにも「羽左衛門らしい」と受け止められるところまでを含め、この役者の魅力だったのだろう。一時が万事にズボラで、「ズボ羽左」という仇名があったとも聞くが、これは賛否両論のようだ。

最後に紹介しておきたい、一番好きな話がある。敗戦の色濃く、羽左衛門が疎開をする時のこと。汽車とてぎっしりで、窓から乗り込む人もいる状況だ。どこかの駅で停車中に、新派の名女形だった花柳章太郎と偶然一緒になったと言う。いくら人気役者でも物資も食糧もままならぬ時代のこと、花柳は、当時は大変な貴重品だったいくつかのゆで卵を羽左衛門に差し出し、「またいつか、芝居をやりましょう」と言って別れた。二人の約束は実現を見ぬままに終わったが、稀代の名優が、ゆで卵を大事に抱え、がっちりと握手をして別れてゆく姿に、私は「役者馬鹿」という言葉を想起する。お互いに、明日命を落としてもおかしくない状況の中で、何よりも芝居のことしか考えられなかった二人の姿は、微笑ましくも哀しくもある。

その花柳も、昭和40年のお正月公演の最中に、70歳で急死する。俳画、染物、ガラス絵、衣装のデザインと多才ぶりを発揮した花柳章太郎。羽左衛門との一瞬の邂逅は、二人の役者馬鹿の人生の断面を切り取った、見事な芝居の一場面とも言えよう。

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2013. 9.28 掲載

37.「抱かれ心地」

芝居の批評をしていると、役者の芸談を聴く機会に恵まれる。これは役得ではないか、と考えている。ある女形からは、ずいぶん多くの話を聴き、その一部は活字にもした。そこには書いていないが、良い話を思い出した。初めて共演をしたベテランの相手役とのエピソードだ。初日が六時間かかっても終わらなかったほどの大作の主人公とその妻、という役どころだったのだが、ある場面で、主人公が妻を抱きかかえたまま舞台が暗転になり、回る。そこで、主人公の役者は、舞台が回り、客席から見えなくなってもなお、舞台が完全に止るまで抱いたままの姿勢でいてくれたそうだ。時間にすればわずか数秒のことだ。しかし、それが相手の役者に対する気遣いであり、もっと言えば役者が持っている「芸」のうちなのだ。この話を聴かせてくれた後、女形は言った。「あの人は女形の抱き方が上手でねぇ、芝居をしているあたしもとてもしやすかったよ」と。これは、舞台にいる当事者同士にしかわからない感覚で、こうしたものが書で言えば「滲み」や「掠れ」のような味わいになり、舞台の味を深めてゆくのだ、と私は考える。

一見どうでもいいような話だが、こうした細やかな感情が、最近の芝居では薄れているような気がしてならない。喧しいことを言う先輩たちが減っていることもあるだろうし、若い役者たちの舞台に対する体温が下がっていることも否定できない部分がある。ある歌舞伎役者は言っていた。「教わりに来れば、私が知っていることなら何でも教えるつもりです。しかし、最近は、教わりに来ようという若手が減りました」と。教わるにしても、ビデオやICレコーダー持参が当たり前の時代だ。仕事柄、多くの舞台の映像を所持しているが、「○○のビデオ、持っていたら貸していただけませんか」と依頼して来る役者も少なくない。「ビデオはあくまでも参考に過ぎないから、自分ではこの役にどうアプローチをするか、決めてあるかどうか」で私は映像を貸すかどうかを決めている。

「昔は良かった」という話ではない。芸を積み上げるということは、自分がどこまでその芝居や役にのめり込むことができるかで、それを飽きもせずに繰り返すことで、役者としての味わいになる。いくら時代の流れが速くなっても、昨日撒いた種に明日実をならせることはできないのだ。もう一つ言えば、「抱かれ心地が良い」「見えない場所でも相手役として心を尽くそう」という気持ちが、役者の中にどれほどあるか、が問題だ。時代と共に形を変えるべき芝居と、変えてはいけない芝居がある。同じことで、演じる役者の精神も、変わってゆくべきところとそうではないものがあるはずだ。もはや、その出発点を考え、教わろうとする役者も少なくなった、とは思いたくない。ただ、稽古に録音機器を持って来ることに誰も疑問を感じないのは危険な香りがする。

落語でも踊りでも、昔は三回しか教えなかった。教わる方は、三回で覚えなければプロとして恥ずかしい、という自覚があるから必死だ。それでも完全にできるわけはない。ただ、この「必死の気構え」の方向が、少し角度を変えているような気がしてならない。今も、芝居に必死で取り組んでいる役者は多いはずだ。しかし、自分が何をするために、何に必死になるか、という問題だ。これはこと役者だけの問題ではない。芝居に関係する人々すべてが、もう一度、自分の職分について改めて考えをいたすべき問題なのだろう。かく言う私自身を含めて、だ。時代と共に変容することは必要だが、それと「時代に流される」こととは違うのだ。

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2013.10. 5 掲載

38.「おもてなし」

前にも書いたことだが、最近、「日本の文化」について話す機会が多い。私の本業は芝居の物書きであり、その延長線上で関係のある物を見たり聞いたり読んだりした雑駁な知識に過ぎず、もとより専門家ではない。しかし、その分敷居が低いから、聴いてくださる方も構えなくてすむのだろう。

先月には東京へのオリンピックの招致も決定し、今年の流行語大賞は『じぇじぇじぇ』と『おもてなし』との争いになりそうな気配だ。『おもてなし』という言葉は『お持て成し』と書き、事を取り持って相手に何かを成すという意味から、歓待する、などの意味になった。大変に素晴らしい日本人の心である。これは、先日ある新聞に書いたことだが、オリンピックの決定の際に、日本団は誰一人として和服姿で出かけていなかった。非常に残念なことであり、寂しくもあった。羽織袴の正装で出かける事の方が、言葉を尽くす以上のインパクトを与えたことは想像に難くない。結果がうまく行ったから良かったが、惜敗、ともなれば悔やまれたところだ。

オリンピックにはまさに世界各国から多くのお客様が日本を訪れるだろう。どのように『おもてなし』の心で迎えるかは大切な問題だ。今、少しばかり復調の気配を見せている経済にも良い影響を与えてほしいものだ。しかし、その前に、海外から見えるお客様をもてなすには、我々が日本のことをどの程度知っているか、が大きな宿題になるのではないか。メインディッシュはオリンピックに違いないが、せっかく日本を訪れた以上は、他にも観たいものもあろうし、見せたいものもあるはずだ。誰もが専門的な知識を持つ必要はない。ただ、日本人として、歌舞伎とはどういう演劇なのか、浮世絵の魅力はどういうところにあるのか、一碗の茶を喫することにどういう想いが込められているのか、などを広く浅くは知っておくべきだろう。無理矢理に知識を詰め込み、知ったかぶりをする必要はないし、すべての分野に精通することもない。ただ、これを機会に自分の国で誇れる文化を一つか二つ見つけ、7年かけて自分の趣味にするのも悪くはないだろう。

今から150年ほど前に、ヨーロッパで「ジャポニスム」と呼ばれる日本趣味の時代があり、ゴッホやマネ、ロートレック、ゴーギャンなど、近代西洋画史上に名を残す多くの画家が浮世絵の繊細な美から大きな影響を受けた。どこの国でもあることだろうが、自国民はさほどに思っていないことが、よその国の人々の眼には非常に斬新に写ることは多々ある。浮世絵で一番人気とも言える「東洲斎写楽」を最初に見出し、研究書を書いたのはドイツ人・クルトだ。

150年ぶりに「ジャポニスム」とは言わないが、今度のオリンピックをきっかけに、豊潤な日本の文化の一端を知ってもらうには大きなチャンス、とも言える。オリンピックは言うまでもなくスポーツの祭典だが、出場する各国の選手はその国の歴史や文化をも併せて背負って来る。それを迎える日本文化の足腰が弱っているようでは、勝てる試合も勝てないだろう。これを機会に、わが国の今までの歴史や文化に想いをいたし、大勢のお客様をおもてなすために、何かを始めるには絶好の機会だ。

狭いようでも日本は広い。長い歴史を持つこの国で育まれた文化には、島国ならではの強みも特徴もある。そろそろ芸術の秋、読書の秋でもある。何か、今までとは違う分野の本を手にしてみてはいかがだろうか。そこには日本が詰まっている。

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2013.10.12 掲載

39.「演劇サロン」

ことさら宣伝めくようだが、7月から三ヶ月に一回のペースで、都心のホテルでランチ・ヴッフェを食べていただきながら芝居の話をする『演劇サロン』なる催しを始め、今日、二回目になる。最初は歌舞伎の話で幕を開け、今日はさまざまなジャンルの表現者=役者の話をした。食事前に約30分、一時間少しの食事を挟んでその後60分、合計で一時間半の話をする。

『演劇サロン』とはいやに上品ぶった言い方に聞こえるが、種々の批判を承知でこの名を付けた。何百という聴衆の前での「講演」とも、カルチャーセンターの「講義」とも違った感覚で、皆さんに芝居の話をしたく、また観客としての意見も聴きたかったからだ。今回のテーマも、前回の出席者のアンケートを中心に話題を構成したもので、何回目からでも一回限りでも自由に参加いただき、知識や観劇歴など全く関係のない状態で話を聴いていただけるようにしている。もう一つ、私が拘ったのは、昼から午後の銀座、というロケーションだ。たまには銀座へ出て来て、サロンで私の話を聴いた後、友達同士でショッピングもよし、ご夫婦で映画や観劇もよし、と、14:00には終わる時間設定になっている。40代から50代以上の方々が、子供の教育などから手を放し、充実した自分の時間を楽しんでいただければ、という選択肢の一つだ。

そもそも、今の日本には「サロン」のような場所が少ないように思える。気心の知れたメンバーが定期的でも不定期でも、顔を合わせて酒を呑んだりお喋りに花を咲かせたりするのも立派なサロンだ。井戸端会議、とは言わないまでも、性別を問わずそうした集まりは楽しいものだ。しかし、そうではなく、あるテーマの元に、ないしはある人の元にその都度顔ぶれが多少違いながら人々が集まり、談論風発するような場所や機会がないように思えるのだ。私にはまだ私を目当てに人をあつめられる力はない。そこで、「演劇」という素材を借りて、毎回30人程度のお客様に集まっていただき、話をする。「同好の士の会」とは言わないまでも、最終的にそこまで到達し、私が抜けても自然にサロンが続いてゆくのが理想とするところだ。

誰かゲストを呼んで対談をすれば華やかさを増すのだろうが、まだ二回目が終わったばかりで試行錯誤の段階だ。常に観客席の人で舞台を観ながら批評している人間が、聴衆を前にすると今度は批評される対象になる。お客様を飽きさせないように、寝かせないように、話題を選び、テンポを考えながらその場の空気に合わせて話をすることは私にとっても大いに勉強になる。同時に、「演者」としての役者がどういう気持ちで舞台に臨むかの、ほんの僅かな部分を共有することもできる。このサロンがこれからどういう変化を遂げてゆくのか、どこまで続けることができるのかは皆目わからない。しかし、常に芝居の話を発信し続けることが大事なのだ、と私は考えている。このエッセイにしても同じ事で、どれほどの人がこのエッセイに目を通していただいているか。この文章によって、演劇界の「何か」が即座に変わるわけではないが、私は毎週書き続けるエッセイは漢方薬のようなものだと考えている。何年も気長に続けることが肝要で、そのうちに少しは効果も出て来るだろう、と期待をしている。

サロンでの話は、記録には残していないので、その場での心のビタミン注射にでもなってくれれば幸いだ、という気持ちだ。質は違うが、共通しているのは、「芝居馬鹿」が芝居のために小さな斧をふるっている、ということだ。

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2013.10.19 掲載

40.「読書の秋」

読書の秋、だ。秋は、読書だけではなく何をするにも良い季節だ。その分、足早に過ぎ去って行くのだろう。夏の名残を残した初秋から、冬の足音が聞こえるまでの晩秋はあっという間に過ぎる。食べ物も美味しく、天候にも恵まれ、スポーツ、芸術と秋は何でもありだ。年中芝居漬け、読書漬けの私でさえも、秋は「読書の秋」だ。いつもの晩よりも静かに感じる夜長に、ページをめくる楽しみはまた格別だ。仕事のために、あるいは教養のために読む本ではなく、その時に自分の心が渇望している本を手に取りたい。

私は読書メモのようなものを記し、いつ、何を読んだかの記録をつけているが、10月から11月にかけては極端に読む数が減る。通常の月であれば平均で20冊前後の本を読んでいるのに、この二ヶ月だけはともすると7冊、あるいは8冊と一桁止まりになる。記録や数のために本を読んでいるわけではないが、秋に読む本の数が減るのは理由がある。普段は落ち着いて取り組むことができない大作に挑むからだ。大げさに言えば、ワン・シーズンをかけて大作を一気に読破するのが、私にとっての読書の秋の楽しみの一つである。国の内外、時代、作者、ジャンルを問わず、書斎に積んではあっても慌ただしい日常ではなかなか手の出せない物に挑戦するのが秋だ。

大西巨人の『神聖喜劇 全五巻』、プルーストの『失われた時を求めて 全十三巻』、『泉鏡花全集 全二十八巻』や『白洲正子全集 全十五巻』の再読など、挑戦すべきものは山のようにある。同じ本でも、読む年代や環境によって受ける印象が違い、何度も手に取りたくなる本もあれば、何度挑戦しても挫折するものもある。図書館へ出かけたり、自分の書棚を見渡してみると、いかに自分が読むべき本を読んでいないか、その不勉強ぶりが良く分かる。つい、手が出しやすいものばかりに目が行き、「積ん読」状態のままで出番を待っている本の背表紙を見ると、いささかの後ろめたさを感じるものだ。

本を読むこと自体は苦にならないが、残念なことに年を重ねるごとに理解力や咀嚼力が落ちてくるのは否定できない。若い頃にはスイスイとは言わないまでも頭の中に入って来たものが、今は全然、ということもある。しかし、「負けたくない」という気持ちも大きく、何度も無駄な挑戦を試みている。私の場合、意外に豊富な読書時間になるのが、地方へ泊まりがけで芝居の用事で出かける折で、往復の電車の中では結構まとまった読書の時間が取れる。一度でいいから山のように本を抱えて、鄙びた温泉場へ出かけ、一日読書三昧という贅沢をしてみたいものだ。

読書は楽しみだが、人様に読んでいただけるような本を書くのは苦しみに変わる。推敲を重ねたつもりでも、いざ活字になるとあちこちに「悔い」の跡が点々と残っている。もう少しましな文章が書けないものか、と今も来春刊行予定の本を書くために格闘の最中だ。そう言えば、自分が書いた本や雑誌の原稿は、刷り上がりに誤字脱字を確認する程度にさらっと目を通すが、熟読したことはない。そんな恐ろしく、恥ずかしいことはできないものだ。著者としては無責任の謗りを免れないが、やはり本は自分で書くよりも、人が書いた作品を読んでいる方が楽しいものだ。

さて、今年の秋は何を読もう。あちこちで放置されたままになっている本たちから恨めしい囁きが聞こえてきそうな気配だ。一つ、一番難しいものに挑戦することにしようか。清々しく読み終えることができれば、短い秋はもう冬支度を始めているだろう。

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2013.10.26 掲載

41.「素」

最近、「素」で邦楽を聴く機会が多い。常磐津、長唄、いずれも歌舞伎舞踊での機会が多いが、最近、「素」での味わいを楽しんでいる。踊りもそうだが、衣装をつけない「素踊」は、演者の技量を即座に問われる。邦楽も同じことで、観客の多くは役者の踊りを観に来ており、そこですぐさま技量が問われるケースはそうは多くない。

芝居の世界で考えてみれば、「朗読」が邦楽の「素」に当たる。衣装も装置もなく、ただ台本を手にして「読む」行為は、即座に役者の技量を問われるものだ。素で邦楽を演奏する苦労はわからないが、「朗読」の場に立つ役者の気持ちはいくらか共有できるような気がする。

芝居の話などで講演や講義の場に立つ機会が多いが、元より芸があるわけではなく、聴衆や受講生をいかに飽きさせず、眠らせずに決められた時間を喋るか、を考えると、役者の過酷な状況に少しだけでも歩み寄れるような気がするのだ。こちらの場合は、講義メモは作ってあっても、その通りの順番で話をしなくてはならないルールはないから、聴衆の反応をみて即座に話題を切り替えたり、予定にはない話を始めることができる。芝居で言えばアドリブだ。しかし、芝居では僅かな例外を除き、アドリブはあまり歓迎されない。私よりも、役者の方が遥かに苦しい状況で人前に立っているということだ。覚えた科白をそのまま言っているだけでは、観客を感動させることはできないだろう。同じ科白を違う役者が言えば、違う感覚を受ける。それは、「素」で書かれた科白に役者の感情が乗せられて、はじめて芝居の科白になるからだ。と口で言うのは簡単だが、実際にはそう簡単なものではないことは誰もが承知している。

考えてみれば、言い方は違うが、どんな職業の人にも「素」とそうではない場面とがある。今流に言えば、「スイッチの切り替え」「オンとオフ」だ。それを上手に使い分けることができる人がみんなに羨ましがられているような気がする。私のように顔を出して仕事をする機会が少ない者は良いが、役者はたとえオフの場合であっても、そうは見てくれないケースも多い。家のドアを閉めるまで、あるいは閉めてもなおオンのスイッチのままでいなければならないのは、精神的にも肉体的にも大変なことであるのは容易に想像が付く。

「芸能人にプライバシーはない」とも言われるし、一昔前までは「有名税」などという言葉が平気でまかり通っていた。今は、礼儀を弁えた人々も多く、プライベートなのだ、と判断すれば、誰かを見かけてもそっと遠くで見守っているケースもある。もっとも、それも人と時と場合の問題だろうか。一旦スキャンダルにさらされてしまえば、本人だけではなく、家族も友人も、とんでもない迷惑と精神的な負担がかかる。そういう瞬間がいつ訪れるかわからない職業であり、イメージが大切な役者は、滅多なことでは「素」になれないのかもしれない。考えてみれば、ずいぶんと気の毒な話だ。

有名無名はともかくも、五十を過ぎると、一歩外へ出れば一人の人間として誰にどのように見られているか分からない。最近は規範とすべき振る舞いも減ってはいるが、せめてみっともないと指を差されることのないぐらいの「素」でいられるようになりたいものだ。それには、まだまだ精神修養が必要である。

こんなことに、五十を過ぎてから気づくこと自体が、既に手遅れなのだ。しかし、無知の知だと寛恕願って、今日から心を入れ替えて生きよう。

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2013.11. 2 掲載

42.「ダブル・ヘッダー」

そろそろ手帳も終わりの方に差し掛かり、ボロボロになって来た。手帳は馴染んだものがあり、もう20年以上同じものを使っているが、一年で見事にボロボロになる。物覚えが悪く、しょっちゅう手帳を眺めているからだろう。

芝居の批評の仕事は、特に月の上旬が忙しいケースが多い。大きな劇場の初日が毎月2日、3日辺りに集中するからだ。それをなるべく早い段階で観て、批評を書かねば意味がないと考えると、毎月10日頃までは休みなしに劇場へ通うようになる。一日一回であればまだしも、一日に二本、という日もやむを得ず出てくる場合がある。俗に言うダブル・ヘッダーだ。場所を変えて、一日に二本の芝居を観るのはどうも私は苦手だ。どうしても、夜の芝居になると集中力が低下してしまうからだ。ある先輩が言った。「演劇評論家なんて言うと、頭脳労働者のようだけれど、実質は肉体労働者ですよ」と。蓋し名言だと思う。真面目にメモを取りながら一本の芝居を観ると、意外に疲れるものだ。それを年間200回も繰り返していれば、確かに肉体労働だろう。芝居を観てそのまま、というわけではなく、その批評を書いて、ようやくこの芝居に関する仕事が完結することになる。帰りが遅くなっても、その日のうちに批評を書いてしまわないと、翌日はまた別の芝居があり、批評を書くべきメモが貯まるだけだ。最後は、夏休みの終わり間際の小学生のようなことになる。

しかし、こんなことで音を上げているようではまだ駆け出しもいいところで、大先輩の批評家は、時にトリプルがあると言う。昼夜で芝居を観て、その後で映画の試写会、または遅い時間に幕が開く芝居で三本だ。私など、話を聞いているだけでいっぱいで、とても挑戦しようという気にはならない。

「そんなに芝居を観ていて、頭の中がゴチャゴチャになりませんか」といろいろな方に聞かれることがある。ふだんからゴチャゴチャしているせいか、不思議なことに一日に芝居の掛け持ちをしても、それが混乱することはない。意識したことはないが、移動し、劇場へ入るまでのどこかで、自分でスイッチを切り替えているのだろう。

最近は、ずいぶん短くなったが、毎年十二月に京都の南座で行われる「顔見世歌舞伎」は、上演時間が長い。私が大学生の頃は、昼の部の開演時間が10時、夜の部が4時15分だったような記憶がある。それで、昼の部が4時寸前に終わり、昼夜の観客を入れ替えている間にもう夜の部が開いてしまう。夜の部の終演は10時を回ることが多く、10時半に近かったような記憶がある。通して観ると、丸々12時間以上観劇している計算だ。その上、幕間が長くても20分、短いと5分か10分だった。そばかうどんを掻き込むのがせいぜいだ。何しろ年に一度の恒例で、東西の人気役者が顔を揃える公演だ、そうなれば演目の数も増え、昼夜それぞれ五本は並ぶ。どうしても上演時間が長くなるわけだ。しかし、長い芝居が終わって、冷え切った夜の京都をホテルまで歩いていても、不思議に疲れはあまり感じなかった。若さだけの問題ではなく、一日中かけて、おなか一杯になるまで歌舞伎を観た、という充実感のゆえだったのかもしれない。

間もなく、顔見世の「招き」が南座の正面に上げられた、というニュースが流れるだろう。今年は久しぶりに、南座の顔見世興行でのダブル・ヘッダーに挑戦をしてみようか。そんな気持ちになったのは、一体何年ぶりのことだろうか。

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2013.11.09 掲載

43.「ミクロとマクロ」

芝居を観る折には、なるべく「ミクロ」と「マクロ」の二つの眼を使うようにしている。例えて言うなら、右目が「ミクロ」、左目が「マクロ」のような感覚だ。

「マクロ」の眼では、この芝居全体がどう見え、個々の役者が芝居の中で作者や演出家が意図した芝居を見せているかどうか、観客がどう反応しているか、を中心に見る。もっと遠ざかり、この作品が、今の演劇界の中でどういう役割を果たそうとしているのか、その意義はどうなのか、も併せて考える。また、かつて上演され、自分が観たものであれば、その舞台との比較をすることもある。

「ミクロ」の眼では、セリフのアクセントやイントネーション、時代考証、時には役者の着物の着丈や衣装の柄までも子細に見る場合がある。全場面を通じてこれを行うことはできないが、長い間芝居を観ていると、不思議なことにどこで目玉の焦点をどう切り替えればよいか、無意識のうちにそれを行うようになる。これが、長い間芝居を観ている効能かも知れない。

二回以上の上演回数がある場合、「マクロ」はそうは変わらないし、変わるべきではないが、「ミクロ」は毎回の舞台で大きく変わることがある。科白の間や僅かな動き、観客の反応を受けての芝居など、変わって当然だ。舞台にいるのはコンピュータでプログラミングされたロボットではなく、血の通った人間だ。小さな違いがない方が不自然だろう。ただ、その違いが観客にとって納得のゆく物であり、方向性を間違えなければよいだけの話だ。

観た芝居の劇評を書く時は、この二つの眼で見た事柄を合わせ、自分の中で整理してから原稿にする。ノートを取っている場合もあれば、物理的に取れない場合、あるいは意識して取らずに観ている場合などがある。基本的には、芝居を観たその日のうちに原稿を書く。さぼってしまうと、翌日も芝居があり、宿題が貯まるだけだからだ。ただ、書いた原稿は必ず一晩は寝かせるようにしている。

芝居から帰って来たばかりで感情の高ぶりがおさまらないうちに一気に書いてしまうと、私個人の「ミクロ」の主観がどうしても多くなる。書くだけ書いてしまい、一晩放置して、翌日原稿に手を入れる。この作業で、なるべく多くの読者に最大公約数のように理解が得られるような修正を施す。一夜明ければ出来が良い時の異常な感動も、悪い時の劇的な怒りも収まり、客観的に物が観られるようになっている。単に感想文を書いているだけなら、極端に走ってもよいが、「批評」として読んでいただく以上は、なるべく客観的な要素を多く、また、観ていない人が読んでも簡単に理解できるように書く必要がある。言うならば、これも「マクロ」の眼かも知れない。

芝居を観る時にも、それを批評として書く場合にも、いずれも両方の目が必要だ、ということだ。同じ芝居を五年の感覚を空けて再度観た時には、受け取る私の感覚も変わっている。また、芝居を取り巻く状況も同様だ。その中で、自分が行っている方法だけは変えることなく批評を書くことが大事なのだ、と考えている。物の考え方がぶれない、と言えば格好は良いが、結局は頑固だ、ということになる。尤も、よくよく考えてみれば、よほどの頑固者でなければ、三十年以上も芝居の批評など書いてはいられない。もういい年になったのだ、丸くなろうとは思っても、いつもとんがってしまう。それが良いのか悪いのか、は私が決めることではあるまい。やがて結果が出るのだろう。

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2013.11.16 掲載

44.「酉の市」

11月も半ばになり、カレンダーも二枚になった。東京では、11月の「酉の市」を大切にし、大阪では新年の「戎さん」を大事にする。いずれも、商売繁盛のためのもので、こういう景気では誰しも神頼みをしたくなるものだ。亡くなった父は、小さな商店街を営んでいたから、物心つくかつかない頃から、11月には毎年新宿の花園神社へ連れて行かれた。子供ごころに、大っぴらに夜ふかしができ、屋台がぎっしり並んだ夜のお祭りは楽しかった。先代が亡くなって10年経ち、私は店を経営しているわけではないが、今でも「酉の市」の習慣は欠かしたことがない。熊手を少しずつ大きくして、ある程度のところまでくると、初心に返るつもりでまた小さなものから始める。これを何十回となく繰り返して来た。「縁起物」だから、という気持ちもあるが、一年をつつがなく過ごせたことに対する感謝の意味も大きい。

もう一つ、「酉の市」の楽しみは、今や日本でただ一軒になってしまった「見世物小屋」を楽しみことにある。「蜘蛛女」「河童太郎」「蛇女」などなど、毒々しい彩色の看板で、呼び込みの声につられ、「さあ、始まるよ」というベルの音に、看板の前に立っている人々が中へ吸い込まれてゆく。「河童太郎」にしても「蜘蛛女」にしても実際にそんなものがいるわけがないことは先刻承知で、今年はどんな趣向で騙してくれるのだろう、という興味で猥雑な雰囲気が溢れる小屋の中へ足を運ぶのだ。「騙す」と書くと悪いことのようだが、観客を期待させ、見えるようで見えない、分かるようで分からないメインの物をなかなか見せずに、他の芸でつなぎ、観客を引き止めておくのも立派な芸だ。設備の揃った劇場で、何度も稽古を重ねて演じる芸もあるが、お祭りでの「大道芸」と呼ばれる芸は、その場限りで、一晩で何人のお客が入ってくれるかが即、生活に影響する。各地のお祭りを転々としながら、日々鍛え上げて来た「庶民の芸」の最たるものだ、とも言えよう。

最近は、お祭りでの露天商に対する締めつけの厳しさや、詣でる人々の嗜好もあってか、「見世物小屋」は激減の一途を辿り、わずか一軒になってしまった。「見世物」という言葉に過剰に反応して、「人権」がどうのと見当違いの方向で議論を展開してきた人々も大きいのだろう。しかし、根っこは一緒の盲目の三味線弾きの放浪芸である瞽女が人間国宝になったのに、同じ生き方をして来た見世物が逆の見方をされるのもおかしな話だ。現場へ足を運びもしない役所のやること、と言ってしまえばそれまでだが、余りにも馬鹿馬鹿しい。

細かな説明は省くが、同じ露天でも、食品などを売っている店と、見世物小屋や、もう絶滅した「ガマの油売り」などは扱いが違っていた。「口上」を巧みに使い、道行く人の足を止め、そこからが一発の真剣勝負だ。こういう大道芸を「大じめ」と言うが、もう絶滅危惧種でありながら、誰も保護の眼を向けない。先方がどう思っているかは知らないが、日々の祭りを追いかけて、旅から旅への興行は、過酷である。

「暴対法」も結構だが、かつて、各地のお祭りが、テキ屋の親分がキチンと仕切ることで露店同士の場所取りの揉め事を収め、酒が入った若い者の喧嘩を収めて、誰もが地域のお祭りを楽しめる時代があったということを忘れてしまってはいけない。陰で支えた人々の役割が果たされていたからこその、文化なのだ。昔は、「祭り」と言えば大概のことは多めに見られたものだ。どこの野暮天がいらぬ規則でがんじがらめにしてしまったのか。最近の祭りは元気がない。

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2013.11.23 掲載

45.「本読み」

芝居が幕を開けるまでには数え切れないほど多くの作業があるが、大雑把な分け方をすれば、稽古が始まるまでの諸準備で一区切り、稽古から本番までが一区切り、とでも言おうか。稽古が始まる前に、衣装合わせ、カツラ合わせ、ポスター用のスチール撮り、チラシの作成など、役者が関わる部分も多い。稽古が始まる前後には、本番で販売ないしは配布するパンフレットの作成も始まる。

稽古は、まずはテーブルに座って全員で科白を読んでゆく「本読み」、そして動きながら稽古をする「立ち稽古」を経て、本番と同じ舞台、衣装やカツラを付けて本番さながらの「舞台稽古(リハーサル)」という順番を経る。歌舞伎のような古典芸能は、演じる方は分かっている作品がほとんどだから、本読みはせずに、いきなり立ち稽古を始めるケースが多いが、歌舞伎も新作や何十年ぶりの復活上演など、特例はある。

江戸の時代から、「本読み」は作者自らが全編を通して脚本をそれぞれの科白で読んだ。今のように、台本を出演者全員に配ることはしないから、ここで初めて主人公や主な役以外の人々は、自分がどこへどういう形で出演するのかを知ることになる。私が「本読み」からを一つの区切りとしたのは、こうした歴史的な経緯があるからだ。今は忙しい時代で、仕事を掛け持ちしている人も多く、以前の通りには行かないケースも多いだろう。途中の稽古にしても、自らが演出を兼ねたり、他の仕事で稽古場に来られない場合は、稽古用の代役を立てて稽古を進めることもある。

演劇界の巨人・坪内逍遥。明治時代にシェイクスピアの作品を日本で初めて全訳したことでも知られる。それだけではなく、『桐一葉』、『沓手鳥孤城落月』、『牧の方』などの新作歌舞伎や舞踊『お夏狂乱』の作者でもある。坪内逍遥の本読みを聞いた、という役者からのまた聞きになるが、実に本読みが巧かった、とのこと。先に挙げた三本の芝居は、五代目中村歌右衛門に当てて書いたもので、逍遥は歌右衛門が贔屓だったようだ。そのせいか、「本読みで役を読み分けるんだけどね、その言い回しが大成駒(五代目歌右衛門を指す)そっくりでねぇ」と私は聞いた。

その場に居合わせたわけではないが、三島由紀夫が書いた『椿説弓張月』の本読みの録音を聞いたことがある。なかなか堂々とした見事な本読みだった。少年の頃から歌舞伎に惑溺し、詳細な『芝居日記』を刊行したほどの三島のこと、納得させられる部分は多い。作者は芝居が書ければ良いのであって、本読みが巧い必要はない。しかし、そこから既に芝居の幕が開いているような楽しさも感じる。これは出演者や関係者しか見られるものではないが、現場での稽古はここをスタートとして、だんだんと形ができてゆくのだ。それが最も良い状態で、本番の幕が開くのが芝居に携わる者の理想である。しかし、現実はそう簡単なものではない。

以前、短かな物で何度か「本読み」をしたことがあるが、舌はもつれるし、自分の頭の中で描いているような調子の科白など、一言も出て来なかった。しかし、いつの日か、何幕かの芝居を書いて、古式に乗っ取った本読みをしてみたいものだ、という夢は持っている。いつ叶う話かは分からないが、うまく行けば、とても気持ちの良さそうなことだ。「うまく行けば」の話だ。それに、まずは稽古場へ大勢を集めて本読みができるような芝居を書くことが先だ。本読みへの道は、まだまだ遠い。

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2013.11.30 掲載

46.「温故知新」

最近、意識的に日本の古典文学を読むようにしている。若い頃に「何だこんなもの」と目をふさいで逃げていた物や、読んではみたもののしっくり来なかった物を含め、手当たり次第、と言うほどでもないがずいぶん多くの古典文学に触れる機会を持つようにした。つい何年か前に『源氏物語1000年紀』なるブームが一瞬訪れたが、原文にせよ誰かの訳にせよ、通読した人はそうはいないだろう。私とて、偉そうに言えた義理ではない。

改めて言うまでもなく、古典文学には実に豊穣な日本の美学や知恵が詰まっている。ドナルド・キーン氏がその魅力に惚れ、外国人でありながら我々よりも遥かに深い理解を示すだけの魅力を持っているのだ。確かに、現代文に慣れている我々には読みにくいし、意味の分からない言葉も多い。私は注意力が散漫な性格なので、親切に脚注などがついていても、目が一旦本文から逸れてしまうと、なかなか本文に戻れない。そのため、丁寧な校註を付けてくださった方には申し訳ないが、分からずとも飛ばして、一気に読んでしまう。少しこれを繰り返していると、分からない言葉でも前後の文脈で何となく意味が取れるようになったりする。この辺りは、歌舞伎のみかたと全く同じだ。

古典文学を偉そうに語れるほど理解が深いわけではないので特定の作品には触れないが、共通して感じることは多い。まず、江戸時代、元禄期以降の戯作者や浄瑠璃作者、あるいは奈良・平安の頃の人々がいかに当時から見た古典や中国文学に通じていたか、その該博な知識量は半端ではない、ということ。今のように簡単に読書ができる時代ではなく、奈良・平安に至っては簡単に普及するような印刷技術も登場していない。その中で、本を読むことがどれほどに大変だったかに想いを馳せると、自分の貧弱な本棚のありさまが恥ずかしくなる。もう一つは、数百年前の作品で書かれている内容で、現代にもそのまま当てはまることが実に多いことだ。身の回りの環境は激変しても、人間の物の考え方の根本は2000年やそこらではそう変わるものではないのかもしれない。

「温故知新」という。言葉の意味は知ってはいても、五十歳を過ぎた今になって、こういう形でそれを実感するとは思わなかった。不勉強の謗りを免れないところだ。考えてみれば、我々は過去の人間が積み上げてきた膨大な歴史の上に立ち、時代の最先端を生きている。これは誰も一緒だ。今よりも二十年先を生きている人はあるまい。ただひたすらに前を見つめ、勢い良く進むのは結構な話だし、そのエネルギーで時代が変わる。その一方で、先人が遺した膨大な知的遺産を全く顧みることなく過ぎてしまうのは、あまりにももったいないことだ、とようやく気付いた。読み方によっては、数百ページの一冊の中に、先人の知恵が凝縮されているものはたくさんある。つい舌触りのよい物を読んでしまうのは仕方がないが、たまには一冊の本を相手に格闘し、つっかえて立ち止まりながら読書をするのも悪いことではない。思わぬ発見もあるだろうし、発見がなくても自分に自信が持てる。ペースはゆっくりで構わない。その人のペースに合わせて、普段の読書にたまに一冊古典文学を混ぜるだけで、やがて見える風景が変わってくるはずだ。

富士山が世界遺産になったのは慶事だ。しかし、すぐ身近に大量の知的世界遺産とも言える豊穣なる知恵の海が広がっていることも、また忘れてはならないのである。それを読み、次の世代に何かを伝えるのも現代を生きる我々の一つの仕事だ。

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2013.12.07 掲載

47.「いい芝居」

恐ろしいことに、「師走」に入った。皆さんも私のくだらないエッセイなど読んでいる暇はないだろう。今年がまだ終わったわけではないが、今までのペースを考えると、今年も200本ほどの芝居を観て、原稿を書きという生活に明け暮れて終わることになるのだろう。

今に始まったことではないが、芝居の関係者に会う度に「最近はいい芝居が減った」という話になる。景気の影響もあるのだろうが、確かに劇場の座席がなかなか埋まらないとも聞く。では、大勢の観客が詰めかけ、満足して劇場をあとにしてくれるような「いい芝居」とは何なのだろうか。「脚本がしっかりしていて、演出が面白く、役者が巧い芝居を見せてくれるもの」という優等生のような答えは出せるが、具体的にそれはどういうものだ、と聞かれると返事に詰まる。芝居の評論をしているくせにだらしのないことだ、と思いつつも、今までにたくさんの芝居を見せてもらったおかげで、自分の中での選択肢が多くなりすぎているのかもしれない。

年が明けると、「評論家が選ぶ昨年の芝居」というアンケートが来て、男優・女優・作品・演出・スタッフなどを選ばなくてはならない。毎年、悩みながら前の年の観劇メモをひっくり返してはああでもないこうでもないと一人悩むが、「いい芝居」がそう簡単にあるわけではない。最大公約数のような物はあっても、心を打つポイントは人ぞれぞれの感覚によって微妙に違うものだ。それをどれほど多く持っているかでいい芝居だと言われるのだろう。ただ、ここで間違えてはいけない、と自分に言い聞かせているのは、「人気がある芝居」=「いい芝居」とは限らないことだ。これが、芝居や本、映画や音楽など、俗に「芸術」と言われる分野の難しいところだ。

観客動員の面から見れば興行成績は芳しくなくとも、多くの人が褒める芝居もあれば、満席の状態でも幕が降りた後に、「それほどでもなかったな」と感じる芝居もある。評判の良かった芝居が待望の再演になり、勇んで出かけてみるとさほどではなかったりするケースもある。もう一つ困ったことには、かつて自分が感動して、今は観られない芝居の想い出は、頭の中で勝手に増幅してゆく。今の眼で見れば、そこまで感動するだろうか、というほどに自分で「神話化」してしまっている舞台もある。それを引き合いに出して「いい芝居」を考えても、前へは進まない。

私の個人的な感覚で「いい芝居」を定義するなら、「見ごたえのある芝居」ということだろうか。脚本でも役者でも演出でも、舞台が醸し出す味わいに歯ごたえや見ごたえのある芝居。喜劇でも悲劇でもミュージカルでもコントでも内容は問わない。今、この瞬間に舞台で起きている「何か」に対し、自分も五感を研ぎ澄ましてぶつかり、幕が降りると同時にそのエッセンスが身体の中に染み込んでくるようなものだ。場合によっては疲れる芝居かも知れないが、それは心地よい疲労感にほかならない。抽象的でもあり、贅沢でもある。しかし、そういう舞台を求めて「芝居漬け」の日々を送っているのだ。笑いの余韻を残しながら家路に着いたり、幕が降りた後に一筋の涙が頬を伝うような、余韻のある芝居はよいものだ。以前、能楽堂では拍手をするものではない、と先輩に教わった。演者が橋掛かりを引っ込んだ後に余韻を楽しむのも能の味わい方なのだ、と。すべてがそうとは言わないが、幕が降りて、劇場の椅子から立ち上がるまでにいつもより少し時間が必要な芝居、それが「いい芝居」の一つ、と言えるのかもしれない。

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2013.12.14 掲載

48.「忠臣蔵」

新暦と旧暦の違いはあれ、奇しくも今日は赤穂浪士が吉良邸に討ち入りを果たした日である。折から、歌舞伎座では『仮名手本忠臣蔵』を通して上演している。歌舞伎に限らず、年末になるとテレビ、映画、舞台、いずれかで必ず「忠臣蔵」に関する作品が創られる。討ち入りから410年。日本人はよほど「忠臣蔵」が好きなのだ。厳密に言えば、「忠臣蔵」に含まれている「忠義」や「強気を挫き弱気を助く」、あるいは「義理」という精神性が、日本人の感覚を揺さぶるのだろう。

「赤穂事件」と呼ばれる「殿中松の廊下の刃傷」から「討ち入り」までの一年余りの期間のエピソードが、初めて舞台に乗ったのは人形浄瑠璃だった。その後歌舞伎に移され、以降、映画などの後発芸能の中でも「忠臣蔵」は生き続けている。世代によっては、大石内蔵助は長谷川一夫であったり里見浩太朗であったりするのだろうが、驚くべきは「ザ・ドリフターズ」の加藤茶と志村けんのコントの中にも「松の廊下」が受け継がれていることだ。尤も、コントのジャンルではこれ以前に由利徹と佐山俊二の「山崎街道」という絶品があった。他の藝能でも講談、浪曲、落語へと「忠臣蔵」は裾野を広げ、日本の藝能における一大山脈となっている。その幅の広さは、恐らく日本一と言えるだろう。

400年以上の歳月の中で枝葉を広げるうちに、「忠臣蔵」の史実を基にした「外伝」と呼ばれる作品が多く誕生したのも、「忠臣蔵」ならではの現象と言える。講談で有名な『両国橋雪の出会い』、これは歌舞伎では『松浦の太鼓』として中村吉右衛門がしばしば上演している。また、浅野の未亡人・瑤泉院と大石が雪の中で別れる『南部坂雪の別れ』、あるいは『赤垣源蔵徳利の別れ』、これらは、もともと歌舞伎にあったものではなく、講談から発生した演目で、史実のエピソードではなく後の創作である。しかし、それが現実と混同されるほどに人口に膾炙しているのは事実だ。

「忠臣蔵」の事件の表面だけを見れば、明らかに「テロ行為」だ。「浅野」という会社の社長が原因は何であったにせよ、「吉良」会社の社長に切りつけ、浅野社長は当時の法で裁かれた。当然会社は潰れた。しかし、判決に不服を抱いた大石専務をはじめその派閥が、浅野社長と喧嘩になった相手の吉良社長を付け狙い、やがて殺す。今の感覚では、どうにも身方のしようがない。しかし、当時の民衆は、幕府が一方的に下した裁断に不満を抱いていた。切り付けた浅野は即日切腹、お家は取り潰し。一方、吉良は「お咎めなし」。被害者ではあるが、何かの原因を作った本人でもあるはずだ。この、余りにも落差のある幕府の処遇に対し、「判官びいき」の感情が頭を持ち上げ、庶民の一大支持を得たのだ。

九郎判官義経が「悲劇のヒーロー」として人気が高く、何度もドラマ化や舞台化されたのと同様である。「判官びいき」は、「強気を挫き弱気を助く」感情である。かつて、昭和の横綱で向かうところ敵なし、というほどに強かった北の湖。「強い」という点においては、横綱としての技量は充分だ。誰もがそれを認める一方、ふてぶてしいとも言えるまでの強さとマスコミ向けの愛想の良さがなかったために、当時の少年であった我々には評判が悪かった。しかし、横綱は相撲に勝つことが第一の目的であり、マスコミのインタビューで笑顔を見せることなど、どうでも良いのだ。しかし、それを全面的に認めないところに、日本人特有の「判官びいき」という複雑な感情があるのだ。「忠臣蔵」が毎年上演されるということは、まだその感覚は生きている、ということなのだろうか。

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2013.12.21 掲載

49.「おしまい」

厳密に言えば来週の土曜日が今年最後なのだが、暮れの慌ただし折、今回で今年のエッセイは最終回。

もう三十年ほど前のことだろうか。女形の古老の芸談を聴いていたら、「日本語の乱れ」の話題になった。この問題はかなり以前から言われていたことで、私の経験では「ら抜き言葉」と呼ばれるものが流行り出してから、特にスポットが当たったような気がする。しかし、言葉は時代と共に変容するもので、今は「イケメン」の事を「二枚目」と表現する人は少ないだろう。尤も、微妙に意味は違うのだが。この「ら抜き言葉」には、私は今でも抵抗を覚えるし、自分では使わないが、戦前の本を読んでいると結構出っくわすことがある。「この当時の人々はどう思っていたのだろう」「書き言葉では使っていても、話し言葉ではどうだったのだろうか」と想いを巡らせたりもする。

この女形との会話の中で、「ら抜き言葉」も当然話題になったが、他にも印象に残っているのは「おしまい」という言葉だ。

「テレビを観ていると、『最後までゆっくりご覧ください』と言うでしょ。字は違いますけれどね、「最後」と言うのは、臨終の時に使う言葉ですよ。ああいう時は『おしまいまでゆっくりご覧ください』と言わないとね」と。確かに、臨終の場合は「最期」と書くが、「最後」の方は今も我々がよく使っている言葉だ。「おしまい」は漢字では「お仕舞い」と書き、「仕舞い」の丁寧語だ。「最後」と同様に、物事の終わりを意味する他に、能楽での「仕舞い」という舞にも使われ、藝能にも関係のある言葉だ。だから私が今でも憶えている、というわけではないが、この話に日本語の複雑さと表現の妙を感じた。確かに、「おしまい」と言った方が、日本語の語感のやわらかさが伝わる。意味さえ伝わればそれでよいではないか、という考え方もあるだろうが、それでは日本語が持っている美しさに対してもったいないやら申し訳ないやら、という気分である。しかし、現代の我々が使用している日本語の語彙が少なくなっているのは明らかだ。物を書くことを仕事にしている私が、自省を込めてそう感じる。時折、わざと古めかしい言葉を使うと、「今の読者には通じません」と直されたりすることもある。

時代と共に変わるものもある一方で、変わらないものもある。後十日ほどで年が改まり、新しい年を迎えるが、形式はどうあれ何かしら敬虔な気持ちで新年を迎えるのは変わらないし、変わるべきものでもないだろう。初詣に出かける習慣は、今も我々の中で根強く生きている。その他にも、新年の行事は数々あり、年代や地方によっての違いはあれ、何かは行い、年が改まったことを自分で再確認しているはずだ。こうして、新しいものと古いものが割合を変えて時代や年代ごとに同居をしているのだろう。

今年も押し詰まり、間もなく年が改まる。来年はどんな年になるのだろうか。また、どんな年にしたいと思うのだろうか。いささか早いが、私は、来年は仕事の量は減るかも知れないが、その分一つ一つをより丁寧にしよう、と考えている。手抜きをしてきたつもりはないが、勢いだけで突っ走れた四十代も終わり、これからは多少減速をする代わりに、仕事の濃度を高めたいと思っている。実現できるかどうかは私次第だ。忙しい時代に忙殺されずに自分の生き方を貫けるかどうか、難しい宿題を自分に出してしまった。

このエッセイも、今年はこれで「おしまい」。皆さん、良いお年を。

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