演劇批評








「エッセイ〜変容する芝居」


「毎週土曜日更新」************************



子供の頃から芝居を観続けていて、世相と共に芝居も「変容」を遂げて来た。芸能は時代と共に移ろう宿命を持っている。古典の絵画のように、変化せずに時を過ごせるものではない。  私の観劇史の中で、芝居がどんな変容を重ねて来たのか、あるいは今しているのかを、しばらく書いてみようと思う。

2012. 1.28掲載

1.「芝居の浮き沈み」

最近、歌舞伎ファンになった読者の方々には予想もつかないことだろうが、今から30年以上前、私が高校生の頃、歌舞伎の興行成績は惨憺たるものだった。「歌舞伎の殿堂」と呼ばれる歌舞伎座で、10ヶ月間毎月歌舞伎が上演されるのは今でこそ当たり前だが、その頃は、年間10ヶ月、残りの2ヶ月は新派公演や萬屋錦之助(先代)、三波春夫などの公演があった。

そういう状況だから、今のように連日満員で前売り開始と同時に観客が殺到などという事態はなく、いかにものんびりしていた。新聞の広告で売り切れや貸し切りの日を確かめ、その日の朝に出かけて当日券を買っても、入れないようなケースはほとんどなかった。

決して、上演している芝居の質が低かったわけではない。むしろ、昭和の歌舞伎を彩った名優たちがまだ衰える前で、意気盛んにいろいろな演目を演じ、舞台には元気があったが、哀しいかな、観客席はガラガラに近い状態だった。今では想像もつかないほどだ。その後、昭和の末に「歌舞伎ブーム」なるものが起き、ブームはもはや日常現象と化し、最近では「江戸検定ブーム」なども手伝って、歌舞伎は元気を取り戻している。

しかし、歌舞伎の400年という歴史を考えれば、数十年単位でこうした波があるのは当たり前のことで、浮きっぱなしもなければ、沈みっぱなしもない。我々観客が、どの時期に当たるかが問題ではあるが、浮いている時でもまずい芝居はあるし、沈んでいる時でもキラリと光る芝居はある。そういうものを探し、皆さんに伝えるのが、我々「演劇評論家」を標榜する者の重要な役目の一つだ。

これは歌舞伎に限ったことではなく、どのジャンルにも言えることだ。それを四十年近くにわたって眺めて来た中で、ずいぶん多くのシーンを観て来た。感動もあれば怒りもある。喜びもあれば深い哀しみも経験した。その徒然を、思い出すままに少し綴ってみようと考えている。

私が自ら意識的にではないが、最初に観た舞台は昭和45年8月の「マイ・フェア・レディ」である。その感動は今も鮮やかで、その一日の舞台が私をこの道へ進ませる最初のドアだった。以降、何枚もの素晴らしいドアを開けることにより、何とかここまで芝居の世界にいる。舞台そのものをここで見せることはできないまでも、それにまつわる気軽なエピソードを紹介して行きたい。いつまで続けられるか分からないが、毎週一回、しばしのお付き合いをいただければ幸いである。

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2012. 2. 6掲載

2.「小劇場初体験の巻」

劇場の規模は多種多様で、1000人以上を収容する大劇場もあれば、定員50人の小劇場も珍しくない。もっと言えば、屋根がなくとも屋外でも「野外劇場」と称して芝居はできる。

15歳の時だったと思う。東京・早稲田に「早稲田小劇場」という名前そのままの劇場があった。これは劇団の名前も兼ねていて、いわば「小劇場運動」の第一世代とも呼ばれる集団の一つだ。そこで、「サロメ」を白石加代子が上演した。当時からその際立った個性は評価が高く、何としてもこの舞台を観たかった私は、勇躍「早稲田小劇場」の汚い階段を上がった。「狭かった」。それまでに歌舞伎座などでの大劇場での芝居を見慣れた私にとっては新鮮な空間であると同時に、「こんなところで芝居ができるのだろうか…」と、中学生の頭で考えたが、それは束の間、靴を脱いでビニール袋に入れ、それを持って座ったものの、後から後から入って来る観客のためにどんどん私の周りのスペースはなくなっていた。もとより、指定席だの何だの、とうシステムの芝居ではない。

芝居が始まる頃にはいつの間にか前から三列目ぐらいまでに押し出され、体の向きを変えることはおろか、足を組み変えることさえできないほどぎゅうぎゅう詰めになった。蒸れた足の臭いが狭い空間の中に漂うような感覚から来る一抹の息苦しさと同時に、これだけの観客が押し掛ける白石加代子の「サロメ」に対する期待はいやが上にも高まった。しかし…、覚えているのは白石加代子がヨカナーンの首を銀の盆の上に載せている姿ぐらいのもので、後は頭がぼーっとして、おぼろげな記憶しか残っていない。芝居の内容が悪かったとか、理解の範疇を超えるような難解さではなかった。単なる「酸素不足」だったのだ。

「サロメ」はそう長い芝居ではないが、芝居が終わり、家に帰った途端に、急に体調を崩し、一晩苦しんだ挙句に、翌日、近所の医者へ行ったらあろうことか点滴をされた。芝居を観て点滴を受けたのは、後にも先にもこれしかない。医者はカルテに病名を「芝居」と書いたのだろうか…。今も、体調を崩して点滴をされることがあると、この小劇場と点滴がセットになった「初体験」のことをほろ苦くも微笑ましく思い出す。

あの頃の私が純情で、白石加代子の芝居に当てられたのか、酸素不足の中学生の頭には無理な芝居だったのか。もう今となっては証明のしようもない。しかし、なぜか、決して不快な想い出ではないのだ。それは、お世辞にも良いとは言えない環境の中でも芝居を観たいという観客、そして、おそらく100人に満たないであろう観客の前で、今と変わらぬ熱演ぶりを見せていた白石加代子。この「芝居」に対する両者の熱気を自分の肌で感じることができた貴重な体験だったからだ。

その証拠に、私は今でも小劇場の芝居は決して嫌いではない。

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2012. 2.11掲載

3.「生涯のベスト・テン」

時折、芝居の話をしに講演に出かけると、質疑応答の時間で「今まで観た芝居の中で一番良かったものは何ですか」という質問をいただくことが多い。実は、これはなかなか答えにくいものである。今までに何本の芝居を観て来たか、日々増えて行くので正確な数は把握のしようもないが、おそらく8000を超え、10000本位の間だろう。その中には、鮮烈に忘れがたい衝撃が今も鮮やかな芝居もたくさんあるが、正直に言えば、観たことさえも完全に忘れている芝居もある。

その中から、「自分のベスト・テン」を選ぶのは容易な作業ではない。ほぼすべてのジャンルの芝居の中から、たった一本を選ぶのは不可能に近く、歌舞伎、ミュージカル、ストレート・プレイ(国内・海外)、その他と5つのジャンルに分けて考えても、相当の数の芝居が頭の中に出て来る。

その上に、芝居は「生き物」であり、前に観た時に心を震わせるような感動を覚え、再演の折に勇んで出かけてみると、前の舞台の方が良かったケースがあったり、私の観た日のコンディションや芝居全体のまとまりが悪く、本来は良い作品だったのに、私の中での順位が下がっている場合もある。映画のように、いつ観ても同じものが観られるというものではないだけに、そこが芝居の「生の魅力」でもあるのだが、多くはたった一度の舞台との出会いである。この出会いを大切にしたいがために、今もなお、年に200本近い芝居を観ているのだが、なかなか「生涯の一本」に出会うことはできない。

ここで、チャーリー・チャップリンばりに「ネクスト・ワン」とでも答えれば良いのかも知れないが、どうも私には似つかわしくない。同じ芝居を何度も観ても、その時の私の年齢によって感興を覚える部分が違うケースもある。こういう時に、「芝居は生き物」なのだなぁ、ということを痛切に感じるのだ。だからこそ、40年以上も、得体の知れない、本質の見えない「魔物」とも言うべき芝居を追いかけ、付き合っているのだろう。仕事柄、自分の観た芝居の多くはデータベース化している。劇評で過去の事例を引用・比較する時には重要な記録だからだ。今回、この原稿を書くに当たってデータベースを一通り眺めてみたが、やはり「ベスト・ワン」はおろか10本を選ぶことはできない。

劇場へ通うことができなくなる日が来た時に、過去の記憶をたどりながら、ゆっくり生涯の一本を決めることにしよう。私の予定では30年後、である。

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2012. 2.18掲載

4.「熱烈カーテンコール」

最近の芝居はともすると、カーテンコールまでを含めて上演時間とすることが多い。しかし、本来カーテンコールとはそういうものではなく、舞台に感動した観客が劇場を去りがたく、拍手が鳴りやまない状態のことだ。場合によっては一刻も早く劇場を後にしたいような芝居でも、半ば強制的にカーテンコールが行われることがあるが、これは興行側が一考を要する問題だろう。拍手を浴びる役者のためではなく、拍手をする観客のために芝居を上演しているのだから。

とは言え、先に述べたような本当の意味でのカーテンコールに何度も出会うことができ、いつまでも劇場で余韻にひたっていたい、と思うことも何度もあった。最近では市村正親が演じたミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」は、森繁久彌が900回演じ、その後、西田敏行、市村正親へと受け継がれたミュージカルの「古典」である。森繁久彌はこの芝居でそれまでの存在に大きな印象を加えたが、実はこの芝居の初演は素晴らしい配役で幕を開けたにも関わらず、全くの「不入り」に終わった。まだ日本人にミュージカルが馴染んでいない時代だったことや、ユダヤ人の迫害というテーマが共感しにくかった部分もあるのだろう。それが再演で火が付き、瞬く間にそのブームは日本中を席巻した。滅びかけていた日本の家父長制度を森繁が再現したことも成功の要因だったのかも知れない。

私もこの舞台を何回観たか分からないほどだったが、最初の頃は、今のように「カーテンコール」が演出として考えられてはいない時代だった。昭和57年辺りの舞台だっただろうか。幕が閉まると万雷の拍手で、二度三度と幕が上がり、出演者一同が頭を下げて幕が降りる。これは今でも目にするケースだ。しかし、「屋根の上」はこれが七回も八回も続いた。誰一人として観客が立ち去ろうとしないまま、拍手が鳴り止まない。森繁を始め、役者一同、ここまで来ると、黙って繰り返し頭を下げているしかない。その何人かの眼にキラリと涙が光っているのが、私の席からでも見えた。この状態が20分続いたことがあった、とも聞いた。

この芝居から、カーテンコールの時に舞台に小さな花束が客席から投げ込まれるようになった。観客から役者一同へのプレゼントである。あの頃、一つ500円程度で売っていたのではなかっただろうか。大体、50個か60個ぐらいに見えたが、千秋楽などは、役者が立っている場所以外は全部客席から投げられる花束で埋められたこともあったほどだった。「日本の観客は感情表現が下手だ」とは良く言われるが、30年も前にこうした現象があったのも事実だ。制作している東宝もこの

カーテンコールの長さには喜びも困惑もあったのだろう。誰の工夫かは知らないが、ある時期から、何回かのカーテンコールの後、この芝居の最も有名なナンバーである「サンライズ・サンセット」の歌詞を書いた巨大なパネルが舞台に釣られ、観客と役者が一緒にその曲を歌って終わる、という形式になった。

観客はこういう熱狂を待っているのだ。

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2012. 2.25掲載

5.「ああ、時代劇」

テレビでもずいぶん時代劇が少なくなった。需要と供給のバランスでやむを得ない部分もあるのだろうが、舞台も同様の傾向をたどっている。もっとも、特にテレビの時代劇などは、科白そのものに現代語のような言葉が混じる上に、アクセントは完全に「現代」に近いものが多い。先日、都内の大学へ講義に招かれた折に、学生たちに向かって「時代劇を最初はふつうに観てください。後半は、目を閉じて科白だけを聴くようにしてください。アクセント、というものがいかに大事か、あるいはおかしいかが非常に良くわかるはずです」という話をしたら、かなりの驚きがあった。今の学生には、当然の言葉として受け入れられていたのだろう。

当然、江戸時代のドラマをその当時の言葉に限りなく復元したらそれはそれで「聞き取りにくい」「意味が分からない」などのクレームが続出するであろうし、テレビ局が欲しいのは「厳格さ」ではなく「視聴率」であることは分かり切った話だ。私にしたところで、「じゃあそういうものを放送するからシナリオを書け」と言われたら、書けないことはないが、本来の目的である「娯楽」との兼ね合いで、相当に苦しい想いをするだろう。何も研究者に見せるわけではないのだから、それらしい「雰囲気」がほしい、というだけのことなのだ。

三、四十年前の時代劇を観ていると、なるほど、「お侍さんとはこういうものか」とか、「長屋の住人はこんな人たちなのか」いう雰囲気を持った役者が大勢いた。今、テレビをつけると、さっき車でロケ先に着きましたという雰囲気をそのままに、現代の青年や若い女性が芝居をしているように感じることが多い。彼らとて、時代劇専門の仕事をしているわけではないとは言え、プロの役者である以上は、シナリオを読み込んだ上で役柄を研究することや、過去の作品を自分の眼で研究することが必要なのは当然の話だ。

以前、ある時代劇を舞台で主演することになった若い女優さんと対談をしたことがある。対談の前のアイドリングのような雑談の中で、今度の作品に触れたところ、「原作を読んでいない」と聞き、絶句した。何も全100巻に及ぶ超大作を劇化しようと言うのではない。前日に徹夜をすれば読める本だ。これは、「プロの姿勢」ではない。また、このやり方を役者に許しているプロダクションもプロではない。入場券を買うお客様を馬鹿にした話もいいところだ。

時代劇の衰微もやむなし、といったところかも知れないが、釈然としない。

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2012. 3. 3掲載

6.「脇役の座」

「スターの座」とは良く言うが、「脇役の座」とは言わない。誰も好んで脇役などしたくないからだろう。役者を目指す多くの人々が、舞台中央で華やかなスポットライトを浴びていたい、という気持ちは良く分かる。と同時に、その確率がどれほどに低く、スターの座に座り続けることがいかに困難であるかも、長い間に多くのケースを観て来た。もっと言えば、スターの座に駆け上がるよりも、その椅子を維持して、座り続けることの方が遥かに難しいように、私には見える。

しかし、そのスターとて、脇役によってその煌めきや輝きがどれほどに変わることか。脇役は単にスターを盛り立てるための存在だ、と考えがちだが、芝居の腕次第では、スターと互角に張り合う芝居を見せることもできれば、その輝きを消すことさえも可能なのだ。俗に、「主役の芝居を食う」という言い方をするが、そういう舞台で役者が火花を散らすのは面白いものだ。年功を積み、腕に磨きをかけた脇役が尊重されず、正しい評価がなされない原因の一つとして、我々批評家の責任も大きいことは自省しなくてはならない。

その一方で、スターのスケールが小さくなって来たことや、脚本が脇役を活かすような書き方をしなくなった傾向もあり、脇役の腕の奮いどころが減った事実もある。そういう眼で観ていると、同じ演目を配役を変えながら上演している歌舞伎を観ていると、脇役の重要さや腕の巧拙が良く分かる。また、役者が本来備えている個性によって、脇役で大きな力を発揮するケースがあるのも事実だ。しかし、そのポジションが脇役だから、と言って卑下する必要はない。

香川照之の芝居の巧さは、多くの人が認めるところだろう。彼が歌舞伎を演じる云々の問題はここでは触れない。その他の芝居について言えば、彼のポジションは主役ではなくその相手役、ないしは二番手に回ることが多い。そうした時の彼の力は眼を見張る結果を見せることがある。以前NHKの大河ドラマ「龍馬伝」ではそれを特に強く感じた。その一方で、彼を芯に据えた場合、主役の横で見せていた炎の輝きは失せてしまう。これは、彼に責任があるのではなく、彼の芝居の性質がそういうものなのだ。しかし、実は「常に二番手をキープ」しておくことは、役者にとっては有利な戦法だと私は思う。一定以上の評価を維持しつつ、作品によっては主役が狙えるからだ。

そう考えてみると、スターだけではなく、「脇役」と呼べる役にもきちんとした「座席」があることが良く分かる。尤も、その座席数も限られたものなのだ。

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3月6日までにお読み頂いた読者の皆様へ。「風林火山」「龍馬伝」の間違いでした。お詫びして訂正します」

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2012. 3.10掲載

7.「地方公演」

以前は「ドサ廻り」などという嫌な言い方をされていたが、今や地方には多くの公共施設が立ち並び、各地方に「演劇鑑賞団体」などのグループが古いところでは40年以上の歴史を持って運営されている。日本全国、とは言い過ぎだが、かなりの場所で、いろいろな種類の芝居がツアーに回っているのは事実だ。

この地方公演には二種類あって、東京や大阪などの大都市である程度の期間上演した芝居をその後各地で公演するものと、最初から地方公演だけを目的に公演スケジュールが組まれたものとに分かれる。後者の場合、東京や大阪、あるいはその近郊で上演されることもあるが、それでも何十ステージと廻る「地方」の一つに過ぎない。

私は、事情が許せば年に一回は、何かの芝居の地方公演に同行させてもらうことにしている。年により、作品によって東海地方だったり、東北地方だったりするが、批評家の眼で眺めても芝居の「旅公演」は面白いものだ。同じ芝居を上演して廻っているのに、その土地ごとに全く観客の反応が違う。コメディを静かに鑑賞しており、余り笑い声が聞こえないままに幕が閉まった途端、ものすごい拍手が起きる場所もあれば、打てば響くように、東京の観客よりも良く笑う地域もある。それが、わずか20キロしか離れていない場所だったりする。土地ごとの気風が観客席で感じられ、楽しいものだ。

多くの場合、その日の公演の運営スタッフはその地域の演劇鑑賞団体のメンバーを中心としたボランティアの人々が業務に当たる。会場の準備、入場者の整理、アンケートやチラシの配布、出演者のアテンドや楽屋の準備など、雑多な仕事がたくさんあるが、迎える方も長い歴史の中で手慣れた様子で進めている。何よりも、年に数回のことだが「生の芝居が地元へやって来る」という喜びに溢れた顔で皆が立ち働いている姿が好ましい。

平日は大体夕方の開演で、芝居が終わると9:00を回ることが多い。あっという間に舞台の大道具が移動用のトラックに積み込まれ、距離によってはそのまま翌日の目的地に向かう。役者やスタッフは、可能な限り同じホテルに宿泊し、10:00過ぎから地元の飲み屋で遅い打ち上げが始まることもあるし、疲れがたまって来る頃になると、早めにホテルへ引き上げ、翌日の移動や舞台に備える。

日本がどんどん狭くなっているこの時代に、こうして手作りの芝居を持って、日本各地を廻ることは、経済効率だけを考えれば、お互いにとって決して良いとは言えない。しかし、「この芝居を観てもらいたい」「地元へ来てもらいたい」という双方の熱い想いが、楽とは言えない地方公演を今も続けさせる原動力となっている。

それ以上に感じるのは、地方の観客の「温かさ」だ。誰もが、その温かい笑顔に触れたくて仕方がないのである。今年は春から夏の間に、どこかの旅公演に出かける予定でいる。

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2012. 3.17掲載

8.「映画と芝居」

気軽に映画館へ足を運ぶ観客は多いが、気軽に劇場へ足を運ぶ観客は哀しいことに減っている。尤も、最近は映画館も同様の傾向にあるようだ。両者の質の違いは枚挙に暇がないが、一番の大きな違いは、ライブかそうではないか、ということに尽きる。本質的にはここが最も大きな差だろうが、ここ三十年ほどの間に両者の歩み方もずいぶん変わった。

映画は私が子供の頃から「特撮」はあり、まごまごすると空飛ぶ円盤を吊ってある細いテグスのような糸が見えるほどだったが、この分野が大きく進化し、場合によっては本物を凌駕するような細密かつ迫力のある映像を見せることができるようになった。芸術と科学との結合の結果、と言えるかも知れない。この風潮を良しとするかどうかは、個人の好みの問題だろう。VFXなどの技術をふんだんに使用し、迫力のある映画を好む人もいれば、昔ながらの撮り方で創った映画を好む人もある。また、ここ数年では「3D」が大きく映画界を席巻している。これも、子供の頃に「飛び出す映画」を観た記憶はあるが、理屈は変わらないものの、技術は格段に進歩を遂げた。最近では、映画の撮影にもはやフィルムは不要で、ほとんどがデジタルでの撮影に移行している。

そういう点では、芝居はその創り方に大きな変化があったわけではなく、新しいものを取り入れ、時代に寄り添うような工夫はしているものの、その根本を揺るがすほどの革命的な動きはない。最近の芝居では映像を多用する傾向があり、視覚的な工夫を凝らしている。大正時代から映画と芝居を交替で上演する「連鎖劇」というものはあったが、今はそうではなく芝居の中に高品質の映像を取り入れて効果的に見せる工夫が多いという点では質が違うと言えるだろう。

尤も、生身の人間が毎日同じ芝居を演じ、それでいながらその出来上がり具合が日々違っているところに芝居の魅力がある。映画と芝居のお互いが良いところを吸収し合ったり、共通の作品を映像と舞台で創って比較したりという交流は今後どんどん行われても良いだろう。

しかし、似て非なる芸能である以上、今のような距離感を持ちながら、時折接触してはまた独自の方法を取る、という形で発展してゆくのが好ましい姿なのかも知れない。奇妙なのは、舞台中継を録画しても、そこに映っているものは、舞台公演の「記録」であり、芸や役者の魂が映っていないことだ。

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2012. 3.24掲載

9.「名優と名人」

今までの演劇史の中で、幾多の名優、あるいは名人と言われる人が名を遺した。「名人」という呼称は「将棋」やその他の職人芸で使われるケースの方が多いが、役者にも「名優」と「名人」がいる、と若い頃に教わったことがある。その差は一体どこにあるのだろうか…。

私にこの言葉の違いを教えてくれたのはある役者だった。曰く、「名優とは、どんな芝居のどんな役をやっても巧い役者」。「名人とは、もちろんどんな役も巧いのだが、ある役にはまった時の凄さは無類とも言える芝居を見せる役者」。この言葉を聴いたのは20代の前半だったせいもあるのか、あまりピンと来なかったが、芝居を観続けている中で、この言葉がいかに的を得たものであるかがようやく分かるようになった。確かに、何でも幅広くこなす「名優」は、数は少なくなったものの、今でもいないわけではない。また、「この役は他の人では考えられない」と観客に思わせるほどの芝居を見せる「名人」もいる。それぞれに、長い時間や数々の研鑽を積んだ上で、その地位を獲得したのである。

ここで、「名優」と「名人」のどちらが偉いのか、価値があるのかなどという議論は全く意味をなさない。どちらであれ、観客に満足の行くステージを提供できれば良いことに変わりはなく、逆に言えば、観客が満足できればその呼称などどうでも良いのかも知れない。ただ、残念なことに両者の数が少なくなっているのは事実だ。その要素はいくつもあるが、観客が役者に対して、寛容になり過ぎた、ということは言えるだろう。入場料を払い、貴重な時間を使って劇場に足を運んでいる以上、厳しい眼で舞台を観て、面白くなければはっきりとその意志を表明して良いのだ。しかし、それを言葉にするにはかなりの勇気がいる。

それをなるべく的確な言葉を見付け、頼まれてもいないのに「観客の代表」のつもりで文章にするのも、私のように演劇評論を仕事にする者の重要な役割である。

「名優」にしろ「名人」にしろ、その時代の雰囲気や芝居の流行によって、感覚は変わるものだ。それは構わない。しかし、今、どの役者が旬で、どの役者が円熟味を見せているかを見極める眼は、少なくも批評家を名乗る以上は持っていなくてはならない。過去に存在した名優や名人を引き合いに出したところで、その現物をみんなに提供できるわけではなく、時代も観客の感覚も違っている。時代によってその尺度は変わっているのだ。

ただ、最近増えている「迷優」や「迷人」に惑わされないように、しっかりと舞台を見据えて行かなくては、批評家の職責は果たせない。

この事を教えてくれた役者は、私に「50になるまではとにかく勉強をしなさい。若いうちに売ろうと思ってはいけない。ただひたすら勉強を重ねて、ようやく50になって分かるものがある。そうしたら、それを自分なりの解釈で、世に問えばいい」と教えてくれた。その当時は、今までの人生以上の勉強を今後重ねるなど、及びもつかぬ果てしなさを感じたが、間もなく50歳の声を聴こうという今になって、ようやくこの言葉の意味がおなかの中に落ち、実感できるようになった。

後は、自分なりに貯めたと思っているものを、どこまで吐き出せるか、それが私にとっての勝負である。

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2012. 3.30掲載

10.「時代のはざま」

我々の身の回りコンピュータが登場し、我々の生活における感覚は、飛躍的にスピード感が増した。芝居とは無縁のようだが、そうではない。

まだインターネットによるチケット販売がなかった頃は、人気のある芝居は「プレイガイド」に前売り初日の朝、行列ができた。今のようにサーバにチケットのデータがあるわけではなく、その店には実際のチケットが数十枚から百枚ほどあり、その切符が売れてしまえば終わりだ。電話での予約は今でもあるが、一人に一台ではなく一家に一台の時代だったので、人気公演の前売り初日の朝、電話を独り占めしていると良く親父に叱られたものだ。今は、家のパソコンで座席まで選んで買える状態であり、ずいぶん便利になったものだ、と思う。

その一方で、この余りにも速い時代の流れの中で、埋没するものも多い。時代の最先端を行くものはすぐにすたれ、また新しいものが出ては消える。そのサイクルも、どんどん短くなってゆく。ある意味では消耗合戦である。そんな中で生き残ってゆかなくてはならないのは、どの世界も同じだろう。

久保田万太郎という作家がいる。昭和38年に73歳で急逝した作家だが、劇作家としてのみならず、俳人、小説家としても多くの作品を遺し、文化勲章の栄誉にまで輝いた作家だ。久保田万太郎は生粋の江戸っ子で、市井に生きる人々の情を描いた作品が多いが、台本を読んでいると、実に「間」が多い。「…」、「……」。「空白」。短編が多い作家だが、役者にとっては、場合によっては「…」で表現する間は、科白を言うよりも遥かに難しい。そのために、一時は久保田万太郎の作品を科白や間の取り方のテキストとして、かなりの劇団で上演していた時期があった。今も、コツコツと上演を続け、高い評価を得ている「みつわ会」という集団があるが、周囲の状況を見ると、二十年前に比べて万太郎作品の上演回数は激減した。観客の嗜好の問題や、時代の要求など、多くの要素があろう。しかし、「去る者は日々に疎し」の諺の通りに、忘れ去られてしまうスピードが、加速度的に進んでいるのは、ここに例を挙げた久保田万太郎だけの問題ではない。

かつては名作と持て囃された作品がいつの間にか「古臭い」の一言で片付けられる一方で、新作もどんどん出て来るものの、再演、三演と回数を重ねる作品は少ない。戯曲そのものが、「消耗品」扱いにされている時代なのだ。どれもこれもが「不朽の名作」に成りうるわけではない。しかし、この消耗合戦に疲れ、「芝居を書くのが嫌になった」と友人の劇作家が言ったことは真実であり、私の心に痛い響きを残した。

演劇評論家の仕事の一つに、こうして時代の波に呑まれ、アッと言う間にはざまに消えてしまったものの中から、良質のものを探し出し、再び陽のあたる場所へ戻すことも大きな意味がある。そう簡単な作業ではないが、物凄いスピードにそのまま埋もれさせるには忍びない芝居がいくつもある。それを誰に頼まれたわけでもないのに、今の観客に観てもらいたい、という一念だけで戯曲を読み漁り、過去の映像を見直すことも多い。

何もかも時代のせいにするわけには行かないことは承知の上だが、観客の心の移ろいも、正しくキャッチしていなくてはならないのだ。

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2012. 4. 7掲載

11.「マンガと芝居」

ここ数年、特にマンガを原作にした芝居が増えている傾向がある。これを殊更目くじらを立てて批判しようとも思わないが、玉石混交の状況であるのは事実だ。これは、映画やテレビドラマも同様だろう。

尤も、芝居がその時代の「流行り物」に素材を求めるのは今も昔も変わりはない。江戸時代は著作権など存在しない時代だったこともあり、元の話をいかに工夫して面白く見せるか、というのが狂言作者の腕の見せ所の一つでもあった。一番分かりやすい例は「忠臣蔵」だろう。オリジナルの「赤穂事件」をもとにした芝居が、先日調べたら70数種類あった。

形式はともかく、私が今の「漫画」という文字を思い浮かべるのは、江戸末期の絵師・葛飾北斎の代表作の一つ、「北斎漫画」である。

世相を反映し、時には皮肉り、諧謔の精神が込められているという点では昔も今も、根っこにはそう大きな変わりはないだろう。また、芝居も漫画も、観客や読者をいかに楽しませるかという点は変わっていないし、変わってはいけないものだ。

120年を超える歴史を持つ「劇団新派」。今の日本の演劇界の中で、離合集散は繰り返して来たものの、「新派」は一番長い歴史を持つ劇団である。私が高校生の頃、新派で「はいからさんが通る」を上演したことがあった。当然、若い観客を劇場へ呼び込もうという狙いである。私は、少女コミックで当時人気を博していたこの漫画自体は知らなかったが、その当時にもはや古典芸能であった「新派」が、その当時の流行作品をどう舞台化するのか、という興味で劇場へ出かけた。三十年以上も前のことなので、だいぶ曖昧な部分もあるが、通常の新派公演よりも遥かに若い観客が多かったことは覚えている。また、当時水谷良重だった現・八重子と、当時片岡孝夫だった現・仁左衛門が主役のコンビを演じ、この二人の評価が高かったことを覚えている。

今は漫画を舞台化したところでたいしたニュースにもならないが、以前、「こちら葛飾区亀有公演前派出所」が実写化された折に、一つの「問題点」を感じた。私もこの作品のファンであり、1700回を超える連載のギネス記録を持つこの漫画は、国民的とも言えるが、多くの読者が、それぞれのキャラクターの「声」を無意識のうちに頭の中で創造しており、それを演じる役者とのギャップを感じる、ということだ。これを問題にしていたら、どの漫画も実写ないしは舞台化は永遠に不可能で、読者の頭の中にはその人だけが創り上げた登場人物の「声」が必ず存在している。しかし、出来上がった作品が、読者の想像を超えるものであれば問題にはならないだろう。

後は、創る側がどう工夫してくれるか、宿題はそこに尽きる。

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2012. 4.14掲載

12.「襲名」

歌舞伎では相変わらず「襲名披露興行」が盛んに行われている。親から子へ、子から孫へと、その名と共に芸を伝えて行くのが歌舞伎の襲名本来の意味である。かつては、直接の血筋ではなくとも、技量を認められた高弟が師匠の名を継ぐケースもあったし、血縁関係では全く所縁のない役者が継ぐケースもあった。

不思議なもので、襲名をした途端に芝居がうまくなり、芝居の世界でいうところ「化ける」役者がいる。大きな名前を継ぐという責任感、プレッシャーが良い方向に働いて、本人の潜在能力を引き出すのだろうか。こうした制度で続いている芸能は、落語や新派、相撲(ここではスポーツではなく、あえて古典芸能の範疇に入れる)、能、邦楽など、古典芸能の世界では頻繁に行われていることだが、仕掛けが派手なだけに、とかく歌舞伎の襲名が注目を集めるようだ。それと同時に、「襲名」という制度の中で400年以上の歴史を繋いで来た芸能であるがゆえに、「閉鎖的」とも見られる。どんなに名門でも必ず「初代」は存在したわけで、初代で名前を大きくした役者は少なくない。ここ三十年ばかりを見ても、「尾上辰之助」「片岡孝夫」は、初代でその名を大きくした典型だろう。

松本幸四郎が、「襲名とは『襲命』であり、役者の命をつなぐことだ」と折に触れて語っている。これは卓見で、われわれ一般人も、自分の息子に名前を継がせないまでも、命と、自分が生まれ育った家の精神を繋いでいることに違いはないし、つい100年もさかのぼれば、あちこちの村の庄屋や商人でも、「何代目」という襲名は存在していた。庄屋や商人が芸を見せるわけではなし、その職業、あるいは立場としての命を繋ぎ、次の世代に伝えていくことが「襲名」の本来の意味であろう。もちろん、増えれば増えるほどに名誉が伴う代わりに、その責任も重くなる。

日本が第二次世界大戦に負けて、アメリカから民主主義と自由主義が流れ込み、こうした習慣はすべて「封建的」の名のもとに排除され、今は「芸能」というクローズド・サークルの中でその姿を留めているに過ぎなくなってしまった。それと同時に、良くも悪くも日本の家庭の象徴の一つだった「家父長制度」や「長男至上主義」も崩壊した。父親としての権威を放棄させられた男たちは、それでも家族のために額に汗して働いている。

これは皮肉で言うのではないが、いっそのことに一般家庭でも「襲名」の制度を復活、ないしは導入すれば良いのではないか、と私は思う。財産や地位・名誉など、そんなものは関係ない。自分が先代、つまり父に代わってその家の当主となった自覚を、本人は言うに及ばず、家族や兄弟、親戚が理解する良いチャンスではないだろうか。その家ごとにいろいろな方針があり、それを連綿と受け継ぐことも良いが、時代に応じた改革も必要だ。親の血ばかりではなく、名前をも受け継ぐことが、世間からどういう眼で見られるものなのか、それによって自分の責任感がどう変わるのか。役者の襲名は、常に「先代との比較」がつきまとう。その点、我々は襲名したにしても、役者ほどのプレッシャーはかかるまい。

東日本大震災」をきっかけに、家族は言うに及ばず人々の「絆」が見直される時代になった。その中で、まずは最も身近な自分の家庭をどういう気持ちで作り上げて行くか。独身を貫く、あるいは子供を持たないなどの諸事情で名が絶えることは構わない。それは大きな自然の摂理の中のことで、国会議員が親の七光をフル活用して後を継ぐよりは、よほど自然で人間らしい。

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2012. 4.22掲載

13.「女形」

三十年ほど前は、「女形」と言えば歌舞伎と新派ぐらいのものだったが、今はジャンルを問わず、女形が百花繚乱である。もうすでに芝居においてジャンルを設けることに意味はなく、また時代の趨勢で性の境界も曖昧になっている今、歌舞伎などの古典芸能以外の分野での女形の存在の是非を問うことは無意味だとしか思えない。

その一方で、女形が苦難の歴史を背負って来たことも事実である。三月の明治座で石川さゆりが日本最初の女優、川上貞奴を演じていた。芝居の上では、アメリカでの興行で女形が体調を崩したこといなっているが、アメリカの興行師に「男性が女装して芝居をするなどあり得ない」と拒絶されたのが真相である。これは100年以上も前の明治時代の話だが、平成に入ってからも同じような出来事はあった。篠井英介が、かねてからの念願であったテネシー・ウィリアムズの「欲望という名の電車」のブランチを演じたく、アメリカのエージェントと交渉を重ねたが、先に述べたのと同様の理由で断られた。しかし、粘り強く交渉を重ねた結果、篠井ブランチは実現し、青山円形劇場で念願を果たすことができた。海の向こうでは、100年経ってもなお、日本の女形に関する感覚はそう変わっていない部分があるのだ。

歌舞伎を発祥とする女形という存在そのものが、屈折した、ある意味では「隠花植物」のような存在であった。しかし、今はテレビで流行りの「オネエキャラ」の力も手伝ってか、燦々と陽の当たる場所を堂々と闊歩している。これはこれで良いのだろうが、問題は「女形」と「女形芸」の違いだ。たった一文字増えるだけだが、この差は果てしなく大きい。「オネエキャラ」は前者に属するのだろうが、女形として観客を魅了するだけの「芸」を見せることは容易ではない。言うまでもなく、単純に容姿だけの問題ではない。男性が女性に扮して演じるという、人工的な無理を観客に納得させた上で、ある種の感動を与えなくてはならないからだ。若いうちは「美しい」というだけでも価値がある。しかし、それは柔らかな双葉の時代の「旬」でしかない。その後、枝分かれし、丈が伸び、幹が太くなり、役者という樹木は育つ。容姿だけでの勝負が難しくなった時に、芸で勝負ができるかどうか、ここに女形の苦しい闘いがある。観客の視線、そして己との闘い、だ。

観客の好みは移ろう。どんどん新しい人も出て来る。その中で「価値のある」役者として生き残ることは、演じることのできる役の範囲や作品など、他の役者よりも制限が多く、ハードルは高い。江戸時代であれば、芝居は歌舞伎しかなかったからまだ生きようもあっただろう。しかし、これだけ多様化した現代にその図式を当てはめたところで何の意味もない。女形が年を重ねても演じることができる芝居、そういうものがあっても良いのではなかろうか。

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2012. 4.28掲載

14.「コメディあれこれ」

昔から、景気の悪い時期には喜劇(コメディ)が流行ると言われている。当然の話で、チケットを買って劇場へ行き、重苦しい芝居を観るよりも、三時間ほどワハハと笑って家路に着いた方が楽しいに決まっている。しかし、この喜劇、というのは非常に幅が広く、スラップスティックと呼ばれるドタバタ喜劇もあれば、チェーホフの「櫻の園」のように、悲劇的な芝居なのにあえて「喜劇」と作者自らが銘打っている芝居もある。また、シニカルな笑いや、時代を風刺した喜劇もある。伊東四朗と三宅裕司のコントから始まり、今はチケットの入手が困難な純然たる喜劇もあれば、伝統的な大阪の松竹新喜劇のような芝居もある。一口にコメディや喜劇と言っても、その作品の質や演じ方、役者の個性などによって相当の幅があるのは事実だ。

劇団NLTというフランスのブールヴァールと呼ばれるコメディを中心に、喜劇専門に上演している劇団がある。設立が1964年、東京オリンピックの年だ。もう50年に近い歴史を持っていることになる。この劇団は、一貫してコメディを演じて来た。フランスばかりではなく、日本の新作喜劇を上演したり、いろいろな国の芝居で「笑い」を追求している劇団だ。「笑い」も、クスリと笑うものもあれば、爆笑に次ぐ爆笑、という舞台もある。劇団の創立者である賀原夏子が演じた「毒薬と老嬢」という芝居は、この劇団の財産だ。二人の老姉妹が何の悪意もなく、近所の人々を殺していくというストーリーだけを書けば何とも物騒な話だが、これが実に面白く出来上がった作品である。賀原没後は、淡島千景・淡路恵子のコンビで上演されて来たが、この二月に淡島千景も鬼籍に入ってしまった。しかし、作品は残っている。また、絶妙のキャストを得て、「大人の笑い」を楽しみにしているファンも多いだろう。

先に触れた伊東四朗と三宅裕司のコンビによるコントは、最初はテレビ番組から始まったと記憶している。当時から評判は良かったが、舞台で上演されるとライブ感覚が加わり、改めて芝居は観客が一緒に作るものだ、ということを実感した。日本の喜劇にも東京のそれと大阪のそれがあり、明らかに質が違う。一口で言えば、大阪の喜劇は「こってり」しており、東京の方が「あっさり」だろう。これは、料理の味付けと同じで、どちらがどうというものではなく、個人の好みだ。それに加えて。大阪では藤山寛美という喜劇王とも呼ぶべき役者が、一つのパターンを遺したことも大きいだろう。

喜劇は、ただふざけていれば良い、というわけではない。ここを勘違いしている役者がいるのも事実で、余りにも下品な真似をしたり、執拗なまでに観客をいじり倒して笑いを取るようでは、喜劇とは言えない。そこを理解していないのか、あるいは確信犯なのかはわからないが、プロの役者がこれをやるのはルール違反ではないか、と私は考えている。

今の芝居をあえて「喜劇」だの「悲劇」だのとジャンル分けをしたところで意味はないかも知れない。しかし、東京も大阪も、それぞれの地域性に根付いた「喜劇」という脈々とした流れがあり、それが今に至っているのだ、ということは今後のために忘れないでおきたい。

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2012. 5. 5掲載

15.芸談

考えてみると、今までにずいぶん多くの役者から芸の話を聴いてきた。誰もがこの道を一筋に倦まず弛まず歩いている人々で、必ずしも大スターとは呼ばれなくても含蓄の深い話や、勉強になる話題は山のようにあった。もちろん、今も多くの役者たちによって芸談が語られ、活字になったりテレビで放送されたりしている。私も芸談を聴くのが好きで、今までにもいろいろなジャンルで多くの役者の話を聴かせてもらったが、芸談を聴く、というのはかなり難しいものでもある。こちらが何も知らないで「はぁ、そうですか…」とでも言った瞬間に、先方にはこちらの技量が分かる。こちらが相手の球をどの程度打ち返せるかによって、先方の話題も違って来るから、芸談を聴こうと思うと自分でかなりの予習をしてからでないと、結果的に恥をかくことになる。30代の頃はそれでずいぶん恥ずかしい想いをしたものだが、それもまた、「勉強」なのだ。恥をかかせてくれ、自分の無知蒙昧に気付かせてくれた役者にもう一度勝負を挑んでみたい、と思うことがしばしばあるが、そういう先輩たちは皆さん亡くなってしまった。

先日、スクラップをめくっていたら、こんな一節を見つけた。「最近の舞台は寄せ集めの顔ぶれが多いでしょう。このためにけいこ日数が少ない。それでも初日をあけなければならんので、瞬間的に一生懸命にやりますね。ところが、あいた、うけた、それで終わり。こういう習慣をつけてしまったら若い人は伸びませんよ。よほど自戒していないとえらいことになりますよ。消長の激しい世界ですからね。それで良く云うんですが、一に反省、二に反省−反省がなければ進歩しませんよ」

実に的を射た言葉であり、特に我々、演劇の現場に携わる人間にはきちんと心に留めておかなくてはならない。これも一つの立派な芸談だ。しかし、ここで読者に驚いてほしいのは、これは「昭和45年1月21日付けの京都新聞」に掲載された談話なのだ。今から42年も前のことになる。語った主は加藤大介という役者。今の若い役者でも、もうその名を知る人は少ないだろう。64歳という、今では「若い」と言われる年齢で世を去ったが、病を得てもギリギリまで仕事をした根っからの役者である。その談話が、40年以上経てもなお、読むものを納得させるだけの意味を持ち、真実を得ている。

ある一つの役や、一本の芝居について、細かく深く掘り下げた芸談も興味深いものがあるし、意味はある。話を聴いて「なるほど、そういう意図でこの役を演じているのか」と感じる時、あるいは聞かずとも自分の眼や耳でそれを発見した時の喜びは大きいものだ。そうしたものの数々が、芝居について何かを書く時に、どれほど役に立っているか、先人たちの苦労や工夫に頭が下がると同時に、それを手軽に読める時代を感謝もしている。もっとも、これは我々のように芝居の世界の中にいる人間により価値の高いものかも知れない。

先に引用した加東大介の言葉は、芝居だけではなく、いろいろな分野の仕事に共通する警告をはらんでいる言葉だ。今の我々が、日々それほどの反省をしているのか。せわしなさにかまけて、その日を終わらせることだけに終始してはいないのだろうか。役者の一言が、時として自分の来し方行く末を考えるきっかけにもなるものだ。

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2012. 5.12掲載

16.劇場と文化

先日、吉祥寺にある「前進座劇場」が2013年1月一杯で閉館する、というニュースを発表した。客席数は500名と決して大きな劇場ではないが、花道が常設されており、歌舞伎が上演できる劇場だ。この劇場は、「前進座」という劇団が建てた劇場で、劇団「前進座」は1931年に創立し、その6年後の1937年に、吉祥寺に拠点を置き、劇団員が集団生活を送りながら芝居を創り続けて来た。劇場ができたのは、1982年のことだ。それ以前は稽古場兼小劇場で公演を行っていたが、「本格的な劇場を」という座員やファンの熱望で建てた劇場だ。しかし、劇場を建てるのは物置や犬小屋のように簡単な話ではない。

作家の松本清張氏が代表となって、全国各地のファンに「一億円」を目標に募金を呼びかけた。一年で予定の倍に近い一億九千万円が集まった。当時、私は大学生だったが、小口の一万円を、芝居のサークル一同で寄付した記憶がある。嬉しいことに、劇場が完成した後、壁一面に寄付者のプレートが金額に関係なく貼られ、その中に自分たちの名前を見付けた。一万円しか出さないのに、自分の劇場ができたような嬉しさを感じたのを今でも憶えている。

しかし、全く先の見えない経済不況も追い打ちをかけるように、今の演劇界は不透明な状況が日々深刻になっていく。そんな中で、劇場というハードウェアを維持・管理して行くのは並大抵のことではない。折から、昨年の「東日本大震災」で、皆の防災に関する意識や、公共建築の耐震構造についての関心も高まった。失礼な言い方になるが、決して豊かとは言えない劇団が、「自分たちが心置きなく芝居がしたい。それをお客様に観ていただきたい」という一念で、創った、いわば手作りの劇場だ。大資本が作ったものではない。それだけに、この不況の中、30年を経た劇場の耐震や補強工事などの捻出も厳しかったのだろう。

今は、国が破綻しようという時代である。劇場が一つや二つ潰れるのは致し方あるまい、という意見もあるだろう。しかし、劇場は単なる建物だけではなく、その中にある「芸能」「文化」というソフトウェアにも貨幣価値には換算できない重みがある。我々日本人が営々と築いて来た豊かな文化は、建物を建てたり壊したりするようなわけには行かない。劇場をなくすということは、その地域の文化をなくすことに等しいのだ。東京に大小100を超える劇場がある。しかし、その中で、花道が常設されていて、歌舞伎が上演できる劇場が一体いくつあるだろうか。国立劇場、改築中の歌舞伎座、明治座、新橋演舞場、そして前進座しかない。しかも、この五つの劇場のうちの前進座以外は、すべて中央区か千代田区といった都心にある。前進座劇場は、歌舞伎座のように一年中歌舞伎を上演していたわけではないが、武蔵野地域では一番と言っても良いほどの設備を備え、味わいを持った劇場であることに間違いはない。

「文化」は人心に余裕のある国や時代に生まれるものだ、という意見もあろう。しかし、今の日本が、演劇や芸能の文化の火を徐々に消していくほどにまで追い詰められているとは思いたくない。こういう時代だからこそ、たまには芝居でも観て豊かな気持ちになってもらいたい、とは演劇界の住人の勝手な意見だろうか。しかし、国会議員や政府よりも遥かに自分たちの身を削り、観客のための芝居を演じ続けて来た劇場の明かりが消えるのは、言いようもなく寂しい。

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2012. 5.19掲載

17.お手本

私が芝居にのめり込み始めた高校生の頃は、昭和の演劇界を創った名優たちの最後の輝ける時期で、どの分野も「お手本」だらけだった。そうした名優たちの芝居を生で観ることができたのは、お金に換えることのできない一生の財産であり、宝物のような想い出である。しかし、時の流れと共に、そうした名優は次々に鬼籍に入った。その頃の芝居に拘わる人々の中には、「今はお手本になる役者がいない」との声がある。しかし、本当にそうなのだろうか。仮に、我々にとってのお手本であった芝居を、今そのままの形で見せることができたとして、若い役者たちはそれをどういう眼で捉えるのだろうか。私が感動して来た舞台に、同様に感動せよ、というのは押し付けも甚だしい話で、時代と共に変容し、移ろう芝居を固定観念で見せてはいけないのだ、と思う。

もしも本当に芝居に対しての情熱を持ち、ファイトを持っているのであれば、今の時代の「お手本」になる役者はたくさんいる。それを探すだけの気力があるかどうかの問題なのだ。過去の想い出を語り、その甘美さに浸っているのは簡単だが、新しい「何か」や「誰か」の輝きを探して歩くのは大変だ。常に時代に対し、今の舞台に対してのアンテナを機能させていなくては、これにぶつかることはできない。しかし、このアンテナを常に高い精度に磨いておくのも、批評家の大事な仕事だ。今は、三十年前と違って若い役者が芯を取るケースが多い。自分より若い、というだけでは否定の材料にはならない。むしろ、若さのエネルギーでひたむきに走る人たちから教えられることも多々ある。また、数々の舞台で年功を積んだ役者の、ふとした動作や科白の言いように新しい発見をすることもあれば、その巧さに唸ることもある。自分の気持ち次第で、まだまだお手本はいくらでも探せる、ということだ。

ここで気を付けなくてはならないのは、書道でも茶道でも稽古の手順があるように、役者はまず楷書の芸を学ぶことだ、と私は考えている。キチンとした文字を書くことを習得して、初めてそれを崩すことができる。最近は確かに乱暴な人がいて、キチンとした字を覚える前に、いきなり崩し字のような芝居をするケースがある。よほどの天才であればともかくも、これではただの「我流」に過ぎない。「我流」でも、世に認められ、人の心を動かすことができれば、それは「芸」になるが、そう簡単なものではない。現在、名優と言われる人のすべてが、多くの苦労をし、経験を積み重ねてたどり着いた地点まで、いきなりジャンプすることはできないのだ。

そういう意味では、今の若者は、良く言われるように「貪欲さ」に欠けている部分があるのは否定できない。私が芝居の世界でそれを感じるのは、簡単に「じゃあ辞めます」という声を聴く機会が多いからだ。確かに、芝居に関係する仕事は、効率で言えば悪い方から数えた方が早いぐらいに、恵まれたものではない。ごくごく僅かな人々がスターダムにのし上がることはできても、それとて一生の保証があるわけではない。そんな世界で生きて行くには、小手先の器用さよりも、いつ果てるともしれない苦労と勉強の連続だ。辞めたくなる感情が理解できないわけではない。しかし、それをも超える愛情を、舞台に持てないものだろうか。それには、自らがその範となるように、勉強を重ねてゆくしかない。若者に文句を言う前に、自分の足元をもう一度見ろという自戒を込めて、この回のペンを置くことにする。

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2012. 5.27掲載

18.覚悟のない人々

売れっ子芸人が、母親に生活保護の不正受給をさせていた問題がワイドショーで取沙汰されている。涙ぐんで殊勝に謝罪をした本人は、「返還して行きます」とのこと。万引きを見つかった大人が、「金さえ返せばいいんだろ!」と開き直っている姿と何も変わりはない。

しかし、何と「覚悟のない人」なのだろう。昔は、芸能の世界で生きると言おうものなら、一族のうるさいオジさんに「親不幸者!」と怒鳴られ、両親からは「勘当だ!」の罵声を浴びた。それでも自分の好きな道に進みたい、やがては成功して…、それまではどんな修業も、ぐらいの「覚悟」があって、この世界に飛び込んだものだ。それが今では、本人にそんな覚悟の欠片もないのは元より、何も芸のない家族や親族までが一緒にテレビの画面の中で悪ふざけをして、芸能人気取りになっている。芸能人の地位が向上した、と言えば聞こえはいいが、何のことはない、単なる恥知らずの出たがりが増えただけのことだ。

金額の問題や、法律的な罪の重さで言えば、芸能界でもっと悪いことをしている人はいるはずだ。誤解をされると困るが、芸能の世界で華々しく(?)活躍をしている人間が、こんなみみっちいことで不正をするな、と私は言いたい。もっとも、この男の言いぐさがふるっていて、「いつ仕事がなくなるかわからない不安があるもので」と来た。死ぬまでの仕事が固定的に決まっている芸能人がいたら、お目にかかりたいものである。安定した収入が欲しいのなら、当然無理だろうが、どこかの会社で次長か課長にでもなっていれば良かったのだ。

我々は、いつ、どこからどんな形で仕事が来るかわからない、という大前提の中で日々を送っている。不安がないか? 不安に決まっている。このコラム一本で干される可能性だってあるのだ。しかし、好きで志した道、そこで仕事を得るには、自分を磨いて他の人にはない魅力を放てるように努力をするしかない。「もらえるものは何でももらっておこう」などというさもしい了見では、せっかく向上した芸能人の地位も、また江戸時代の「河原乞食」と同様になってしまう。

日本人にあった「恥」の精神は「損得勘定」に変わった。「覚悟」などとうになくなったことは、この一件など可愛いものだ。人間は弱い。人間は悪いことをするものだ。人間は死ぬ。この三つは、すべての人間に当てはまるものだ、と私は考える。「死」以外は程度の差はある。しかし、今回の事件は、「恥」よりもさらに恥ずかしい「浅ましさ」を露呈したことに意義がある。

この事件は、一週間もすれば忘れ去られるだろう。そして、また、たいした覚悟も持たずに芸能の世界で気軽に仕事をしてゆくのだろう。たまたま私も端っこに住んでいる芸能の世界を例に挙げたが、これはどの世界も一緒の話だ。私への原稿依頼が少ないので…と言ったら役所は私に生活保護を支給してくれるのだろうか。そこで、役所で「それはあなたに才能がないからじゃないのですか」と言われ、赤面するのが関の山だ。

もっとも、国のことをろくに考えることのできない人々が国会で見事な茶番劇を演じている以上、いくら収入があっても不安になるのは当然なのかも知れない。変な法案を出すのが得意な政府なのだ、いっそのこと「芸能人保護法」でも作れば良いものを。意外にもすんなり通過して、横に小さな字で「政治家も含む」と書いてあったりして。

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2012.06.02掲載

19.大衆演劇

ここ数年、「大衆演劇」ブームである。早乙女太一、竜小太郎ほか、多くの役者が頑張っている。しかし、「大衆演劇」とは一体何なのだろうか、とふと思う。ミュージカルも歌舞伎もストレート・プレイも、すべては大衆の娯楽のためにある。昔の貴族階級のような身分制度のない現在、「大衆演劇」という呼称に私は何か違和感を覚える。

批評家としての立場から言えば、歴史の中で、芸能に携わる者は「被差別民」としての歴史を明治に至るまで背負わされて来た。その芸能民の中でも、歌舞伎より能が格式が高い、映画より歌舞伎が格式が上だ、という理不尽な差別が繰り返されて来た事実がある。その中で、テレビやラジオなどの娯楽がない時代、各地方を回って芝居を見せる、いわゆる「旅役者」たちの一座が全国に何百とあった。格式など関係なく、年に一度か二度、農閑期に巡って来る一座を楽しみにしていた人々は多かった。彼らは、歌舞伎も演じれば、即興で口立ての芝居も演じ、踊りも踊った。もとは歌舞伎の一座にいた役者もいれば、見よう見まねで覚えた役者もいた。この、「旅役者」の感覚が今の「大衆演劇」という言葉に引き継がれ、他の芝居よりも一段低く見られている傾向がある。

考えてみれば馬鹿な話で、芝居を観るのに格式が上も下もある話ではない。しかし、かつて、無声映画の時代に、地面でチャンバラを演じた役者が歌舞伎の舞台へ上がろうとした時に、「泥の上で芝居をしている役者と一緒に舞台が踏めるか」という内容の言葉を放った役者がいたのも事実だ。それは、自分が千両役者であり、それだけの芝居を見せているのだ、という誇りから出たのであろう。しかし、時代は大きく変わった。経済的な格差はあれど、少なくとも人間としての身分の格差はない時代になったはずだ。それでも、まだゆえない差別を受けている人々は多い。

そんな中で、あるジャンルの芝居を高く見たり、低く見たりすることに意味があるのだろうか。また、演劇のジャンル分けにも意味はない。今でこそストレート・プレイという呼び名が当たり前になったが、つい二十年前まで、あるいは今でも「新劇」という言葉は生きている。新劇の「新」は、歌舞伎に対する「新しい劇」という意味で、100年以上も前の明治時代に生まれた言葉だ。同じく、1000人規模を超える大劇場での芝居を「商業演劇」と呼ぶ。これもおかしな話で、ミュージカルであれ歌舞伎であれ、突き詰めて行けば、芸能に関わる人々はそれを生業としており、そういう意味で言えば、どの芝居もすべて「商業演劇」になるはずだ。いずれも、他に適当な呼称が見つからないまま、今に至っているのだろう。

歌舞伎役者が外国の芝居を演じ、歌舞伎役者ではない役者が歌舞伎を演じる時代に、こうした分類は、便宜的な範囲を出ない。どんな芝居であれ、すべては観客のために上演されるべきものであり、私はもうこした分類はやめて、すべて「芝居」「演劇」と一括りにしてしまえば良いのではないか、と思う。ただ、特定の分野に愛着を持って観劇を続けている宝塚や歌舞伎のファンには、この意見は容れられないかもしれない。その呼称が、自分が観ている芝居の存在価値に等しいからだ。その気持ちも分かる。しかし、ある種の演劇をその印象や成り立ちだけで、「格下」だと判断することは止めたい。また、そう判断されるような舞台を創ることも考え直すべきではないだろうか。すべては、観客のために。

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2012.06.09掲載

20.読む戯曲

必ずしも上演を目的とせずに書かれた戯曲を「レーゼドラマ」と呼ぶ。今も、人気のある劇作家の戯曲集は出版されており、ファンは追体験や見逃した芝居がどんなものあったのか、目的は様々だが戯曲を読む。しかし、小説などの他のジャンルに比べて、戯曲を読む人口は圧倒的に減った。役者でも関係者でもないのに、わざわざ戯曲を読む必要があるのか、と問われれば「ない」と答えるしかないだろう。その答えの中には、「レーゼドラマ」が少なくなっているから、という意味もあるし、読書人の嗜好が時代と共に変わったこともある。

大正末期から昭和初期にかけて、春陽堂という出版社から「日本戯曲全集」全50巻が刊行されていた。我々のような仕事をしているものには非常に貴重な資料だ。全50巻のうちの約7割以上を歌舞伎が占め、残りは当時の近代劇や新派の作品だという構成だが、戯曲全集で50巻というのは、他に類を見ない多さである。これは、当時の一般大衆にそれだけ歌舞伎や新派などの演劇が身近なものであったことの証拠だろう。身近であれば興味も湧く。芝居を観て来て、上演されなかった部分のストーリーはどうだったのだろうか、という想いも出て来るだろう。また、この時期は歌舞伎のみならず、近代劇でも戯曲集の出版が盛んだった。ブームだ、と言えばそれまでだが、我々にも戯曲の楽しみ方はある。頭の中で実際の舞台を想像して読むこともできるし、実際には観られないようなキャスティングで、自分だけの舞台を創ることも可能だ。

数年前から、ハヤカワ書房で「ハヤカワ演劇文庫」の刊行が始まった。海外の古典に近い名作から、現代の日本の芝居まで、幅広いラインアップで着実に冊数を重ねている。現代の演劇の幅が広がっている中で、観劇後に追体験することも可能だし、文庫という性質上、単行本よりは安価で場所も取らず、電車の中でも気軽に読める。「戯曲を読む」と聞くと、普通の小説やエッセイよりも敷居が高いような感覚を受ける読者もいるかもしれない。しかし、活字が並んでいる、という点で言えばどの本も同じことだ。

また、時代に関係なく、シェイクスピアやモリエール、ギリシャ悲劇などの古典の戯曲は、岩波文庫や新潮文庫から、多くの版を重ねて何十年も途切れることなく刊行されている。作品によっては翻訳が古く、いささか難解なものもあるが、逆に、時代を経て新しい翻訳で刊行されるケースも多い。最近では、芝居によっては上演している劇場で台本を販売しているケースも見かける。「戯曲を読む」という行為を、身構える必要なく、気軽に行える時代なのだ。ただ、科白やト書きという戯曲だけが持つ形式に慣れるまでは若干の違和感があるだろう。それも、始めの何冊かだけの問題である。

ベストセラーやビジネス書も悪くはないが、たまには趣向を変えて、戯曲を読んでみるのも楽しいかもしれない。頭の中で、自分だけのプロデュースによるたった一つの芝居ができると思えば安いものだ。その上、自らが演出しながら読むこともできる。芝居好きにはもってこいの読書タイムになるかもしれない。一般の読者に戯曲を読むことを勧めながら、我々演劇人が反省しなくてはならないのは、演劇人が戯曲を読まなくなったことだ。自分が出る芝居の台本だけを読んでいても、役者としての世界は広がらない。プロデューサーも、戯曲を読む習慣がなくては務まらない。いや、これは習慣ではなく「仕事」だ。

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2012.06.16掲載

21.初日特定狂言

もう随分前、私が大学生の頃の「風習」だったが、歌舞伎座では「初日特定狂言」という演じ方があった。読んで字の如く、初日だけの狂言(演目)で見せるもので、今流に言えば「公開ゲネプロ」に似た意味合いがなくもない。昼の部三本、夜の部四本の演目の場合、その中から初日だけは五本ぐらいを選び、料金も昼夜を併せて観るよりも安い設定で見せるのだ。そこで観残した演目は、初日が開いてから四階の幕見席で観れば良かったから、貧乏な演劇学生には助かる仕組みだった。

歌舞伎の場合、書下ろしの新作でもない限りは、三日か四日の稽古で幕を開けることが出来るのが、幾度となく繰り返し上演されてきた伝統芸能の強みだ。しかし、時と場合によっては、初日までもう一日ほしい、という状況もあったのだろう。また、芝居好きをターゲットに、初日に少しでもお得な気分で観劇してもらおう、という試みは、決して悪いものではなかった、と私は思う。いつ、どういう理由でこの風習がなくなってしまったのか、事情の詳細はわからないが、ぜひとも復活して欲しいものだ。

最近は、時間と体力の関係で、同じ月に同じ芝居へ複数回足を運ぶことがめっきり少なくなってしまった。また、そうした気持ちにさせてくれる舞台が少なくなったのも事実だ。しかし、学生時代から二十代の終わりにかけては、実にまめに歌舞伎座に足を運んでいたと、我ながら感心したりもする。古い観劇メモをめくっていると、初日に特定狂言で観て、残りを幕見で観て、中日辺りにもう一度、千秋楽にもう一度などという月が年に何回もあった。その頃に比べて、芝居のフィールドがかなり広まったこともあるだろうし、時代の要請、私自身の歌舞伎に対する感覚の変化もある。役者の顔ぶれも変わったし、その頃には「三部制」の公演形態もなかった。これらのどれが良い、あるいは悪いと言うつもりはない。

ただ、「初日特例狂言」という仕組みには、何か昔ながらの、のんびりと芝居を楽しむ感覚が残っていたような気がするのだ。また、おかしな言い方に聞こえるかも知れないが、興行サイドと観客の双方にとって利害が一致する仕組みでもあったように思う。今、これを復活することでどういう弊害が出るのか、つぶさに予想はできない。しかし、たまにはのんびり一日を費やして芝居を見物するような仕組みがあっても良いのではないだろうか。

こうした以前の習慣という点で言えば、「天地会」などもぜひ復活してもらいたい。「俳優祭」は歌舞伎役者に身近に接することができるお祭りとして人気だが、これとは少し違う。千秋楽に、配役を入れ替えて、役者と観客が共に「お遊び」で楽しみながら、舞台と客席の交流を図るものだ。今のメンバーで言うなら、例えば吉右衛門の熊谷、時蔵の相模、芝雀の藤の方、歌六の弥陀六、染五郎の義経という顔ぶれで「熊谷陣屋」が上演されていたとする。この配役を、千秋楽だけ立役が女形に、女形が立役を、と変更し、逆の役柄を演じるから「天地会」になる。芝雀の熊谷、時蔵の弥陀六、吉右衛門の相模、染五郎の藤の方、歌六の義経といった風な配役になろうか。ふだんとは勝手の違う役柄に戸惑い、やり付けない役の所作や科白にまごつくさまに、客席は大喜びだ。もっとも、それも役者にとっては勉強で、ふだん経験のない役を演じることで自分が演じている役が客観的に見える利点もある。

こんなところが、歌舞伎の更なる活性化につながる糸口になるかも知れない。

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2012.06.23掲載

22.「道」

日本人は「道」という言葉が好きだ。「Road」の道ではなく、一つの分野を極めようとする「道」だ。もともと、「道」の概念は中国大陸から入って来たものだが、ここまで適用範囲を広げ、柔軟な発想にしたのは日本人ならではのことだ。ざっと思いつくだけでも、「芸道」「華道」「茶道」「歌道」「武士道」「合気道」「柔道」「剣道」「相撲道」「任侠道」など、実に多くのジャンルでこの言葉が使われている。武芸百般どころではなく、スポーツやヤクザの世界までも広がりを見せている。ジャンルによって歴史の長さも違うし、その考え方に変遷を遂げているものもあるが、それは当然の話だ。

私事になるが、先年亡くなった画家の大先達に不躾にも色紙をお願いした折に、「求道」という字をくださった。筆ペンで安直に書くのではなく、自らが静かに墨を磨り、その場で墨痕鮮やかに認めてくださったもので、怠けがちな私を叱咤激励していただけるように、狭い書斎にかけている。どの道でも、結局はたった一人でとぼとぼと、或いは意気揚揚と歩きながら、いつたどり着くとも分からない中で仕事をしてゆく。スポーツはどうしても選手生命の時間の問題が出て来るが、他の分野は自分の身体と頭が動く限りは、続けることができる。「ゴールがない」と言われる所以だ。

以前は、芝居の中でも「芸道もの」というジャンルがあり、芸の世界に生きる人々の苦労や喜び、師弟の情愛などを描いた作品がずいぶんあった。今でも時折上演されることがあるもので言えば、「浪花女」「歌行燈」「鶴八鶴次郎」「男の花道」辺りだろうか。最近あまり上演の例を見ないものでは「文楽」「芸阿呆」「巷談本牧亭」などがある。貧しくとも厳しくとも、自分が惚れ込んだ芸の道をただひたすらに歩む人々の姿を描いた芝居は、他の道を歩いている人たちにも共通する点は多い。

最近、私が生きている「芸道」の世界で何となく感じているのは、この道に対する執着とも言うべき感情が薄まっている、ということだ。少し厳しいことを言うと、「じゃ、辞めます」といとも簡単に去ってゆく人がいる。今は、破門になろうが自らの意志で辞めようが、アルバイトで食いつなげば何とかできないことはない。しかし、何だか肩すかしを食わされたような気持になることがある。自らが退路を断って、この道で生きて行くのだ、という覚悟のほどが見えない人がいる。また、それ相応に勉強をしても、ある程度の成果が得られればそれで満足し、その先の苦しく厳しい探究を視野に入れていない人もいる。テレビの芸人の中にも、自らが一発屋であることを自覚し、稼げる時に稼いでおいて、飽きられたらさっさと辞めれば良い、という人もいるようだ。

この不安定な時代の中で、先の保証など何もない世界に強いてとどまれ、というつもりはないし、そんな権利もない。先ほど、「一発屋」という言葉を使ったが、極論を言えば、多くの役者も私自身も一発屋であることに変わりはない。「連載」を持っていると言えば安定感があるようだが、その裏には常に「打ち切り」という言葉が潜んでいる。どこかへ何かの原稿を書き、講演に出かけても、それが面白くなければ、次にはお呼びがかからない。どの仕事も「これが最後になるかも知れない」という覚悟がなければ、充実したものにはならないのだろう。しかし、「このぐらいでいいのではないか」と耳元で囁く悪魔がいる。この闘いを制覇した者が、階段を一段ずつ登っていくような気がする今日この頃である。

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2012.06.30掲載

23.「ミュージカル」

私の予想を遥かに超えて、ミュージカル全盛の時代が続いている。中には「ミュージカルにする必要性が全くない」と思える芝居を、無理にミュージカルにしているケースもあるほどだ。30年前には予見できなかったことだが、ミュージカルを日本に根付かせたい、という想いは50年以上前からの演劇人の悲願でもあった。「放浪記」の作者であり、東宝の重役でもあった劇作家の菊田一夫は、60年以上前の昭和26年に、タカラジェンヌとして大人気を誇っていた越路吹雪を起用して、初の和製ミュージカル「モルガンお雪」を自らの作詞で上演している。もっと厳密に遡れば、大正時代に一世を風靡した「浅草オペラ」もオペラを和製に加工したミュージカルと言えるだろう。

私の最初の観劇体験は「マイ・フェア・レディ」で、その時、子供ながらに「舞台って何と明るく楽しいのだろう」と思った。もう40年以上も前のことだ。以来、数多くの名作や駄作のミュージカルに触れて来た。「レ・ミゼラブル」の初演で全編を歌で綴るポップ・オペラ形式のミュージカルに接した時に、「暗いし、科白はないし、これは日本ではヒットしない」と友人と話した予言は見事にはずれ、今や国民的なミュージカル作品だ。ここまで綺麗に予想がはずれると、いっそ気持ちの良いものである。「キャッツ」の初演の折、まだそこここに空間があった新宿西口に巨大なテントが出現したのも衝撃だった。この初演のキャッツには、「何が何でも成功させる」というエネルギーが漲っていたのを覚えている。その後のことは、ここに書くまでもないだろう。

一方、ミュージカル嫌いもいて当然で、先日、アメリカの大女優、キャサリン・ヘプバーンの一人芝居を観ていて、劇中ヘプバーンが「ミュージカルなんて大嫌い。10分おきに唄い出す人のそばになんか、あたしいられない」という科白に、思わず吹き出しそうになった。タモリがミュージカルを嫌う理由として良く引き合いに出す言葉と同じようなものだったのと、いかにも説得力のある言葉だからだ。確かにそういうリアリティをもとに考えれば、ミュージカルなどおかしな話だろう。「雨に唄えば」で雨の中で唄い、踊るのは、いかなる理由があるにせよ、何かの病気かと間違われかねない。しかし、そこが芝居の面白さで、後は個人の好みの問題に帰結する。いかにミュージカルが素晴らしいかを説得しても、嫌いな人には馬耳東風でしかない。その逆もある。

日本にここまでミュージカルが定着するのも意外だったが、それ以前も今も、「純粋な和製ミュージカルを」という声は絶えない。事実、今でも新作は上演されているが、メガヒットにまで行かずに終わるケースが多い。いろいろな理由はあろうが、私は、日本人の持つリズム感が洋楽のミュージカルに乗り切らないのではないか、また、既に歌舞伎という和製ミュージカルとも言うべき古典芸能に対する感覚もその理由ではないか、と考えている。かと言って、和製ミュージカルのメガヒット誕生の要素がないわけではないはずだ。それは、これからの時代と共に、何かが見えて来るのだろう。

私にとって「良いミュージカル」の基準は、幕が降りて家路に着く途中で、初めて観た作品でも、ナンバーのどれかが頭を離れず、うろ覚えながらも鼻歌のように出て来るもの、そんな作品である。

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2012.07.07掲載

24.役者の孤独

アメリカの芝居で「役者の悪夢」という作品がある。演じる者にとっては心当たりのある題名かもしれない。どんな仕事にも喜怒哀楽のさまざまな感情はつきものだが、中でも役者は「孤独感」の強い職業ではないだろうか。ライバルが多い、或いは消えて行くスピードが速いという生活に直結した問題を言いたいのではない。「演じる」という完成型を観客に見せるまでの姿と心のありようの問題だ。

台本が手元に届き、稽古が始まるまでの間、科白を覚え、自分と役がどう近づくか。あるいは、稽古が始まって演出家にダメを出され、翌日の稽古までにどう修正するか。あるいは初日の幕が開いて、どうも自分の芝居がしっくり来ない場合に、どう修正をすれば良いのか。もちろん、稽古が始まれば常に周囲には仲間や先輩、後輩、あるいは適切なアドバイスをくれる人々はいる。しかし、実行して見せるのは本人にしかできない。その苦しみたるや、場合によっては生き地獄のような想いを味わうこともあるだろう。また、どう演じてみても評判が悪く、自分でも納得の行かない芝居の場合は、舞台へ出るのがたまらなく辛い毎日の連続になる。しかし、その舞台の評価が新たなる仕事への継続の要素である以上、結果は出さなくてはならない。また、芝居が千秋楽を迎えてしまえば、そのチームは解散し、いつ一緒になるかは分からない。次の仕事がいつ来るかも分からないのだ。

ここまで書いて、「物書き」も同じではないか、と愕然とした。物書きの場合、一緒に稽古する仲間さえなく、アドバイスをくれる参考資料に囲まれてはいても、本が「ここにいるよ」と自ら声を上げてくれるわけではない。すべては自分の頭の中にある僅かな知識と、ひらめきに頼るしかない。それでようやく絞り出した言葉の使いようや、句読点の打ち方など、すべて一人の作業だ。もっとも、芝居創りに関わる人々は、多かれ少なかれこうした「職人」のような気質で仕事をしている人が多いような気がする。

時代が進み、ITで多くのことが賄えても、自分の身体の中に叩き込んだ経験と勘に頼りながら進める仕事は、今の時代から見れば前時代的にも見えるだろう。しかし、舞台がそういうもので創られているからこそ、観客が劇場まで時間とお金をかけて足を運んでくれるのだ。最近、芝居の世界の中でも、それぞれの職分で「サラリーマン化」が進んでいるという声を耳にすることが多い。ボーナスも時間外手当もなく、自分の肉体で表現するもののみで評価される世界に、サラリーマンの基準は当てはまらないだろうし、当てはめたところで割が合わないのは知れた話だ。それでもなお、この世界で生きて行こうとするには、「孤独感」と共に生きる覚悟がなければ、挫折してしまうのだろう。

不思議なことに、こう考えて行くと、世間一般で言われる「芸術」に携わる人々は、ほとんどこの孤独感の中で生きている。音楽家も画家も、彫刻家も舞踊家も同じだ。もう十年以上も前の統計だが、こうした人々の職種別の平均寿命を見たことがある。どういう範囲で抽出したのか、細かなことは忘れてしまったが、画家がダントツに長命で、当時で80歳を超えており、小説家が最も短命で60歳前後だったように覚えている。同じ一人の作業でありながら、この20年という寿命の差はどこから来るのだろうか。原稿の「締切」が身体に悪いのか、運動が足りないのか、それは知らないが、役者は上から三番目ぐらいに位置していたように思う。それは、ストレスを舞台で発散できるから、ではないだろうかと、秘かに羨んでいる。

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2012.07.14掲載

25.締め切り

世の中に締め切りのない仕事はない。同時に、締め切りを守ることはプロの最低の条件であり、その内容の評価は、「締め切りを守る」というスタートラインに立って初めて行われるべきものだ、と私は考えている。大学生が、世界の常識を覆すような素晴らしい卒業論文を書いても、締切日を過ぎたものは受け取ってはくれないだろう。

私が初めて多少まとまった、と言える仕事をしたのは25年ほど前のことだろうか。インターネットが普及する以前の話で、当時の私には固定の黒い電話機しか通信手段がなかった。しかし、それでは間に合わず、また言い逃れのパターンも限界が来て、泣く泣くFAXを買ったものだ。それまでは電話で、「もう少しなんで、後、二日ばかり待ってください」という言い訳をし、散々怒られはするものの、できていなければ仕方がない。「もう少し」などは嘘も方便の最たるもので、「まだ何も書けていません」に等しい言葉だ。それが、FAXを買ったとたんに、「今、書けている分だけ送ってください」と言われるようになった。逃げ道が少なくなってきたのだ。

しかし、FAXは家にあるもので、まだコンビニで送れる時代ではなかったから、いざとなれば雲隠れという忍術も使える。しかし、インターネットが普及し、メールのやり取りが当然になったのはおろか、今は携帯電話で添付ファイルが送れる時代だ。どこにいようが、「できた分だけ添付で送ってください」と言われれば、もう逃げようがない。そうそう親族を危篤にしたり、知り合いを殺したりというわけにも行かないし、病気ばかりもしていられない。締め切りを延ばす方便も、時代と共に万策尽きた感がある。

その一方で、若い頃にこうして鍛えられたおかげで、「火事場の馬鹿力」ではないが、締め切りに遅れることはない。これはそっくり返って言うことではなく、プロとして最低の条件だ。自分の頭の中からひねり出す乏しい言葉の原稿が遅れただけで、編集者を始め、場合によっては印刷所、製本所など、ずいぶん多くの人たちに迷惑がかかることになる。最悪の場合は、読者の方々にそれが波及する。それを想えば、そう簡単に締め切りを破る度胸はない。

ところが、人間とは勝手なもので、連載などで締め切りに追われている間は、そのことが頭の八割ぐらいを占めているくせに、やっと連載が終了すると、「ああ、もう来月の原稿はないのだ」と一抹の寂しさを覚える。自分にとって心地の良いペースで締め切りがあれば良いのだが、そんな勝手な話ばかりはない。世の中のスピード感が増した分、原稿を書く道具もほとんどがパソコンになり、速くなったのも事実だ。そのおかげで、悔しいこともある。

学生時代、高名な劇作家から、名入りの原稿用紙を1000枚ほどいただいたことがある。「これを使って一所懸命書く勉強をしなさい」と。いつかは、自分で名入りの特製の原稿用紙を造れるようになろうと、大いに励みになったものだ。その後二十年以上経って、念願叶い、自分専用の原稿用紙を造ることが出来た。しかし、もうその頃には、手書きの原稿は迷惑がられるだけの存在になってしまった。原稿用紙を渡しても、先方で再度データに入力しなくてはならない、という理由だ。

名作を書くはずだった原稿用紙は、捨てるのも惜しく、今は便箋の代わりになってしまった。

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2012.07.21掲載

26.録画

私が初めてビデオデッキを買ったのは、大学生の後半頃、30年近く前だったように思う。その当時で20万円以上、もちろんアルバイト代を当てにしての月賦での購入だった。120分のビデオテープが、デパートで4,000円以上した。残しておきたい番組はたくさんあったが、三倍速で録画し、テープも擦り切れるほどに重ね撮りをした。どうしても、という場合に限って、裕福な友達に録画を頼んだものだ。

今は、素晴らしいデジタル映像を、いともたやすく、安価に録画できる時代になった。音声に関しては、もっと早くに進化を遂げた。私が今も持っている古いカセット・テープは、まだ「ラジオカセット」なるものがない時代、あるいはとても高価な時代に、単なる「録音機」で撮った音源である。コードでつなぐような機能をテレビ側が持っていなかったこともあり、撮りたい番組の放送時に、テレビの前に録音機を置き、オートリバース機能など当然ないから、A面からB面へ替えるタイミングを見計らいながら、息を殺してテレビを見詰めていたものだ。だから、当時のテープを再生すると、肝心の舞台中継の音声よりも、狭い茶の間の日常生活音の方が大きかったりする。

一体、いつの時代の人間だ、と言われそうだが、事実だから仕方がない。科学の進歩のおかげで、容易に録画もダビングもできる昨今、以前のビデオやDVDで芝居を勉強しようとする役者が増えた。確かに、名優の芝居を研究する一つの素材にはなりうるが、映像はあくまでも記録であり、そこに「芸」や「魂」は映っていない、と私は思っている。先人の映像を参考にすれば手っ取り早いのは確かだが、それ以前に、まず台本を読み込んで自分の中で役を創る作業を疎かにしてはいけないだろう。

一つの役を割り振られ、それを演じることはとても大変な仕事だ。自分とは全く別の人間を、自分の言葉ではなく台本に書かれた科白で表現しなくてはならない。そのためには、常人にははかり知れない困難が伴う。科白を覚えるのが苦痛で自殺未遂をした役者もいるし、自分の演技に納得が行かないまま初日を迎える恐怖に怯え、劇場への放火まで考えた女優もいる。しかし、「名優」と呼ばれた人々は、誰もがそうした困難を乗り超えて自分の「芸」を創って来た。安直にビデオで研究したところで、成長する寸法など知れているのだ。

それでも、藁にもすがりたくなる人情も分かる。自分が煮詰まっている時に、先人の舞台に何かヒントが隠されているのではないか、という気持ちだ。また、名前だけは聴いていても、実際の舞台を観る機会に恵まれなかった若い役者が、今後の自分の糧とするために昔の映像を見たがる場合もある。そういうリクエストには、私は応えられる限りは応じるようにしている。

好きだった役者の芝居を、映画ファンが往年の名画を楽しむようなつもりで観ることもある。「ああ、やはり巧いなぁ」「懐かしいなぁ」と想って当時を懐かしみながら観ているうちはいいが、そこでふと、細かなことに気づき、「あっ、これはこうだったのだ」とか「あの役者はここではこうしなかったはずだが… などと思ってしまうと、もう楽しみはどこへやら、書斎をかき回して他のビデオと比べて夜中に一人で唸ってみたり、自ら科白を呟いてみたり、ということになる。こうなると、もう「病気」としかいいようがない。

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2012.07.28掲載

27.「劇場不況と携帯電話」

先日、街を歩いていて、若い女性の携帯電話の声が何となく耳に入った。「じゃあ、四時頃に、ALTAのそばで」と、待ち合わせの約束の様子だった。良くある風景だ。しかし、良く考えてみたら、決定的な「約束」ではないことに気付いた。「頃」に「辺りで」という、曖昧なことしか決めていない。恐らく、お互いにその時刻に近い時に電話でどこにいるかを確認し合い、改めて会う場所を決めるのだろう。私は、ここで今の携帯電話のあり方や若者の気質を批判するつもりはない。ただ、私を含めた現代の曖昧な感覚が、現在の劇場の不振と関係があるのではないか、と感じたのだ。

結論から言う。今の人々は、老いも若きも、よほどのことがない限りは、「キチンとした拘束」を嫌う傾向があり、それが携帯電話というツールによって表面化したのではないか。劇場が入らなくなっている理由の一つに、一か月以上も先の特定の時間を拘束され、足を運ぶことを厭う傾向があるのではないか、ということだ。もちろん、自分が魅力を感じている舞台であれば、一年先であろうが必死になって予約を取り、極力予定を空けるだろう。しかし、そこまでの熱意を注がなくても、いろいろなことができる今、きっちりと開演時間が決まり、日時の変更も不可能な芝居へ足を運ぶことに対する拒絶、とは行かないまでもマイナスの感覚があるのではないだろうか。もちろん、劇場が不振な状況は世の中の経済状況や演目、内容によるものが大きいが、陰に潜んでいるのは現代人の気質ではなかろうか、ということだ。

携帯電話が登場する以前は、人との待ち合わせでも「何時にどこで」と具体的に決めておかなくては、会うことはできなかった。また、どちらかが何かの事情で遅れていても、状況を瞬時に把握することはできなかった。ひたすら待つか、心当たりに電話をして、何時頃に出発したかを確認する程度である。しかし、今は携帯のメールで「10分遅れます」と打てば、瞬時に相手の状態が分かる。私自身もその便利さに頼っている。ただ、こうしたことが一つのきっかけになり、「リアルタイム」の貴重さが薄れているのではないか。

ビデオデッキの登場により、家にいなくてもその時間に放送された番組を後日観ることが可能になった。映画館が単体ではなくシネコンと呼ばれる複合施設になったことにより、観たい映画が満員なら同じような時間帯の他の映画を観ることが可能になった。しかし、時代がいくら進もうとも、「ライブ感」が生命線とも言える芝居を、これらの方法に合わせることは不可能に近い。だからこその価値、なのだ。その一方で、ライブの価値を認め、多少の不便さを厭わずに劇場へ通う人々が少なくなって来たのではないだろうか。私自身の感覚を振り返っても、以前に比べて「ゆるく」なっていることは否定できない。

では、携帯電話をなくせば劇場に人が戻るのか。そんなことはありえない。コンピュータにせよ何にせよ、一度手にした禁断の果実の甘味を覚えてしまった我々が、手放せるわけはないし、芝居を観る人口よりもコンピュータを使う人口の方が圧倒的に多いのは言うまでもない。現に、私もこの原稿をパソコンで作成し、読者の方にはインターネットで読んでもらっている。この環境の中で、芝居の興行のあり方、作品の内容を含め、現代の観客の要請にどこまで歩み寄れるか。しかし、迎合はできない。では、どこが適正かという線引きを見極めるのが、芝居を創る人々すべての悩みの一つではないか、と思う。

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2012.08.04掲載

28.科白の力

パントマイムなどの一部を除き、芝居の中で科白が最も重要な要素を持っていることは言うまでもない。歌舞伎でも、いい役者の条件は「一 声、二 顔、三 姿」と言うが、この「声」は単に良い声という意味ではなく、「科白術」−歌舞伎では口跡と言うが−を含んでいる。

古来から、言葉には偉大な力があると信じられている。日本でも、「言霊」という言葉で表現され、我々は無意識のうちに言霊の制約を受けて暮らしている、とも言える。それだけに、舞台の上から多くの観客に向かって発する科白は、それ自体が大きな力を持っている。さしずめ、「劇場はパワースポットである」とでも言いたいところだ。

尤も、私がここで書きたいのは、そうした意味の力ではなく、役者の「科白術」である。多くのジャンルの芝居を観続けていると、役者の科白に対する感覚や表現力への想いが徐々に薄れている感は否めない。今の役者がすべて科白を粗末にしている、と言うつもりはない。しかし、名優と言われた人々は、自分が発する科白の一言に、我々が想像する以上に苦心し、研究を重ねて来た。今までに幾人もの役者から、科白に関するエピソードを聴いたが、いかに専門技術とは言え、舞台で科白を言うことがこれほどに大変な想いの上にあるのかを知った。劇作家も演出家も観客も、科白にこだわりを持っていた時代でもあった。

特に歌舞伎は、長年にわたって観続けて来た見巧者が多く、すぐに先代の父親と比較される。もう随分前のことになるが、私は歌舞伎座の三階席から、ある役者に向かって「大根!」という声が浴びせられたのを聴いたことがある。その時は、一瞬ではあるが歌舞伎座が別の空気に包まれたような気がした。歌舞伎は繰り返し上演される作品が多く、比較もしやすい。しかし、「大根!」と言われた役者は、舞台の上では生きた心地ではなかっただろう。

今の役者が科白への拘りを薄めている理由の一つに、マイクの性能が発達し、多くの舞台で観客からは見えにくいように高性能のマイクを利用していることも大きいだろう。その分、腹の底から声を出す必要がなくなり、口先だけで科白を言う役者が増えた。芝居の性質や場面にもよるが、それでは役の感情は乗りにくいだろう。マイクを使うようになった理由は、役者の責任だけではなく、芝居を上演するには余りにも大きなホールができ、肉声を舞台に仕掛けたマイクで拡大しただけでは、後方へ届かない、という事実もある。犯人を追及するつもりはないが、芝居を取り巻く環境の変化が、役者が科白への意識を希薄にする要因になったことは否定できない。

もう一つ、科白が力を失った理由に、特に現代劇で早口になっている傾向もあるだろう。芝居には緩急の波が必要で、速射砲のようにまくし立てる場面もあれば、じっくり聴かせる科白もある。その山と谷の落差が少なくなっているのだろう。ストップウォッチを持って実際に計測したわけではないが、若い役者に本読みをさせると、明らかに速い。中には、自分の科白を早く言い切ってしまうことが第一の目的のように科白を言う役者もいる。

科白の持つ力は偉大だ。たった一言で、深く考えさせられることもある。作者の意図に、役者が感情を乗せ、それが観客の心に奥に届けばそうなるのだろう。舞台の上に立つ人々やスタッフが考えなくてはいけない大きな問題だ。

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2012.08.11掲載

29.闘わないマスコミとの闘い

先日、作家の曽野綾子さんの新聞記事を読んでいて、「我が意を得たり」と膝を打った。曽野さんは、長い作家生活の中で、常にマスコミの姿勢と闘い続けている、と書いておられた。その内容は「過剰な自主規制」「言葉狩りに等しい言論弾圧」などである。「報道の自由」が保障されている、というお題目とは裏腹に、どこを見ているのか分からないマスコミという正体の見えない物−もしかしたら、私自身もその中に入れられているのかも知れないが−との闘いは、私にも曽野さんとは規模こそ違え、嫌と言うほど経験した。

批評家はけなすだけ、あるいは褒めるだけが仕事だと考えておられる方も多いが、そうなってしまったのはマスコミによる強烈な「言論統制」と、闘いに敗れたことによるものだ。いや、「闘いに敗れた」のではなく、「闘いを拒否された」と言う方が正しいだろう。

私が、ある役者について書こうとした時のことだ。テーマを話しているうちに、編集部から「その人には触れないでください」と言われた。「抗議が来るので」と言うのが理由だ。私が原稿を渡し、それを読んでの上での話であれば、まだ相談のしようもある。私の見かたが偏向している場合もあろう。しかし、まだ一文字も書いていない段階で、だ。これでは闘いようがない。

「記者ハンドブック 新聞用字用語集」という本がある。どこかの新聞で連載を始めた折に渡されたものだが、新聞という公的な媒体において、読者が読みやすいように表記を統一するための執筆者向けのガイドブックだ。対象の90%以上はおそらく新聞記者だろうが、新聞社に属していない立場で原稿を書く我々にも、表記の統一は必要であり、便利な点もある。

同時に、日本語における「情緒」を剥奪するような指示も多い。この「剥奪」という文字も、新聞では不可、とされている。「はぎ取る、取り上げる、奪う」に言い換えるか、どうしても「はくだつ」としたければ「はく奪」とせよ、とある。しかし、芝居は会話によって成り立つものだ。過剰な自主規制で失われるニュアンスは大きい。

特に問題なのは「差別語」とされるものだ。新聞など発行部数が多いものが与える影響を考えれば敏感にならざるを得ない。私も、言葉の影響力には注意を払いながら物を書いているし、差別する意思は毛頭ない。しかし、古来から使われて来た言葉で、前後の文脈を読めば差別の意思などないことがはっきりと分かる言葉にまで制限をされると、表現に困る。

「農婦は仕事を終え、床屋へ行くという夫と町へでた。馴染みの魚屋で鰯を買い、夫を待つ間に、贅沢だとは思ったがたまった疲れを取りにあんまに掛かった」という文章があったとしよう。目に浮かぶ背景は昭和30年代前半の地方の小さな町だ。この文章をチェックしていくと、いくつの「×」が付くとお思いだろう? 以下は「×」か、言い換えを必要とする言葉だ。

「農婦」⇒農家の女性、農村の女性

「床屋」⇒床屋さん(職業の呼び捨てはいけない)

「魚屋」⇒魚屋さん(同上)

「あんま」⇒マッサージ師、マッサージ業

バカバカしくて書き直す気にもならない。しかし、こういう現状の中で、物書きは文章を書いているのだ。

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2012.08.18掲載

30.役者論

今、ある役者について書いている。今までに何人かの役者論を書いて来たが、役者について語るというのはなかなかに難しい作業だ。「物故名優の想いで」というたぐいの原稿と、現在、第一線で活躍している役者を語るのは大きく意味が違うものだ。

また、一本の芝居の批評の中で役者を語るのと、役者を中心に据えてその舞台を語るのでは、同じ舞台でも全く視点が違って来る。良く知っているはずの役者でも、いざ原稿にしようとすると今までは見えなかったことが見えて来ることもあるし、また、日々進化している役者について書く場合は、そうでなくてはならないだろう。

「役者論」を書くのは大変な仕事だが、取組み甲斐のある仕事だ。今までにもずいぶんの役者論が書かれていることからも、演劇ファンにとっては愉しみな読み物の一つであることも事実なのだろう。ただ、ここ三十年の間に、まとまって一冊の役者論を書きたいと思う役者の数が減って来たのは寂しい事実だ。

人間はいつでも「昔は好かった」と言うくせがある。過去の好い想いでは、自分の頭の中で都合の良いように増幅されてゆくからだ。その一方、我々が生きているのは「今この時」であり、同じ日に、芝居をしている役者を、批評家と名乗る人間がどういう眼で眺め、評価しているのかを残しておくことにも意義がある。日々変わりゆく時代の中、毎日芝居も変わっている。二度と同じ舞台がない、その一回を観て批評をし、その集積で一人の役者を語ることは乱暴だ、と言われるかも知れない。興味があり、感動を覚えたものは複数回観ることはあるが、それでも日程的な問題で、三回が限度だろう。

しかし、その一瞬を見切り、自分なりの評価を出すのが批評家の仕事なのだ。時には近視眼的に舞台の細かな部分を見詰め、時に広角レンズで舞台全体を見渡す、という作業を繰り返しながら、一本の芝居を観る。それが批評につながる。その集積をもとに、役者論を書くのが私の手法だ。ただ、困ったことに、昔の舞台は詳細にわたるまで覚えているものが結構多いのに、最近は、すぐに忘れてしまう。これは、単に「昔は好かった」というだけの懐古主義によるものではなく、私の記憶能力に大きな欠陥が出始めた、ということだろう。

役者論は、苦しい仕事だ。しかし、どんな想いをしてでも残しておく必要があるものだとも思う。その役者と同時代に生きた一人の批評家が、どういう視点でその役者を観て来たのか。年代により、作品により観方も変わる。それを、私なりの視点で古い観劇ノートを引っ張り出し、当時の記憶を掘り起こす作業は、のめり込んでしまえば楽しい一面もある。これが、インタビューや対談であれば、私の考えや視点に対してその場で相手の意見を聴くこともできる。しかし、「役者論」は、こちらが一方的に書くものである。場合によっては、当人が考えてもいないような不本意な見方をしているケースもある。そこで、相手に迎合をするつもりはないが、自分の「眼」がどこまで確かなものであるか、を客観的に評価される真剣勝負だ。

「的はずれな批評だ」と言われればそれで終わる。そうならないように、私の中にある役者の姿をあらゆる角度から眺め、検証し、確認する。その結果がどうなるかは、読者の皆さんにお任せするしかない。物を書くのは、博打のような側面も大きいのだ。

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2012.08.25掲載

31.大顔合わせ

久しく聴かない言葉だ。今も、映像で人気のあるスターを並べて豪華な顔ぶれの舞台は多いが、以前は主に歌舞伎で使われていたケースが多いように記憶している。名優たちが一同に会して、渾身の演技を見せる。そんな舞台を今までに何度となく観ることができたのは、生涯の幸せである。尤も、これは生まれ合わせたタイミング以外の何物でもなく、もう二十年後に生まれていれば、この至福の時間は味わうことはできなかっただろう。逆に言えば、先にそうした幸福を手にしてしまった分、これから四十年後の大顔合わせの舞台を観ることはできない。

どの時代にも、象徴的なスターはいるものだ。その人々の、誰が最も輝きを放っている時代に自分が芝居に巡り合うか、これは「運」、あるいは「天命」としか言いようがないだろう。

「大顔合わせ」の楽しみは二通りあると考えている。一つは、その名の如く、スターが綺羅星の如く顔を揃える舞台だ。もう一つは、滅多に共演することない大物が顔を合わせるというもの。どちらもいろいろなパターンで「眼福」を味わっては来たが、それは想い出の彼方にある。

時折、所在なくテレビを眺めていると、「あの大物芸人○○がCMの後に登場!」などと煽り立てているケースが良くある。一体、誰が出るのだろうか、とそう期待もせずに観ていると、ただ態度がでかいだけの「大物」だったりすることがしばしばだ。それが今の売り方である以上、こんなつまらない話に目くじらを立てるほどのエネルギーはない。

そんなことよりも、舞台のスケジュールを調べていると、意外な場所で大物同士が秘かに共演していたりする。最近は、むしろこちらの方が愉しみでもある。時代の移ろいと共に、「大物」の定義も変わり、「大顔合わせ」の意味も変わっている。それは当然のことだ。

舞台とは関係ないが、映画の時代劇などでは以前の作品を観ると、大物がずらりと並び、「スター総出演」などと銘打ったものを今も時折放送している。しかし、映画も著しい技術の進歩で、合成や編集が凄まじいまでの発展を遂げ、大物共演でも実際に顔を合わせることなく一本の映画を完成させることが不可能ではない時代になった。映画が、芸術から科学へ、と移っている段階だ。

海外からの招聘公演でも、「大顔合わせ」のステージがある。もう二十五年も前になるだろうか、フランク・シナトラ、ライザ・ミネリ、サミー・デービス・Jrの三人がコンサートを開いた時は、「夢の競演」という言葉が実感できた。オペラでは、三大テノールが東京ドームを埋め尽くした。いずれもチケットが手の出る価格ではなく、実際のステージを観ることはできなかったが、そうした顔合わせがあった、という記憶は残しておきたい。

今はまだ姿を現わしていない「スター」がやがて成長し、芸能の世界の王座に付き、豪華な顔ぶれの舞台が観られる日を待つのも一つの愉しみだ。ミュージカル「ラ・マンチャの男」の最も有名な「見果てぬ夢」という名バーの如く、それは、芝居ファンにとっての「見果てぬ夢」の一つかも知れない。これからの芝居がどういう方向へ向かってゆくのか。これは誰にも分からない。しかし、ファンが声を挙げることは可能だ。将来の「夢の大顔合わせ」の実現に向けて、スターを育てるのはファンだからだ。

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2012.09.01掲載

32.文化事業

バブルまで遡るつもりはないが、ここまで景気が悪くなかった時代には、多くの企業が「文化事業」を企業のイメージアップの柱の一つにしていた。「メセナ」という呼び方も定着し、日本全国で多くの催し物に企業が協賛をした。「冠公演」と言われる企業の名を前面に押し出したものから協力まで、その差はあれ、やっと日本の企業の中に文化を理解し、育成する土壌が生まれた。しかし、リーマン・ショック以降の景気の悪さはすさまじく、今は企業本体が生き残りに必死で、文化事業にお金を出せる体力のあるところは極端に減った。

事情が理解できないではないが、「文化の育成」とは、非常に時間と手間とお金のかかるものだ。人間一人を取ってみても、一応一人前の大人に育てるまでの20年間に掛かる家族の手間と費用は莫大なものになる。文化を育成する手間はその数倍以上のもので、その見返りがすぐに期待できるものではない。だからこそ、大きな会社や意義を感じる会社が、長い時間をかけて続ける必要がある。もちろん、国を始めとした自治体が行うのが一番正しい筋道だ。しかし、日本の文化レベルが低いことは、国際的にも証明されているし、「官」の手で行う文化事業にはややこしい規則や杓子定規のルールが伴う。野放しにできない理由は理解するが、民間よりも柔軟性が低いことは確かだ。また、杓子定規でもないよりは遥かにましだ。

また、こうした不況の中にあってもなお、文化事業の育成の本質を理解し、規模は多少縮小しても本来の姿勢を崩さないのは企業の「見識」とも言える。従業員の生活を脅かすような真似までをして文化事業の育成をする必要はないが、最近、「見識」を持つ企業が減っているのは事実だ。

昭和の頃、「キャバレー王」と言われ、「ロンドン」「ハリウッド」などのキャバレーを多数展開し、財を成した福富太郎氏は、一方で熱心な絵画のコレクターでもある。自分の事業で得たお金を、絵画を蒐集し、時に展覧会へ貸し出すことによって、立派な文化貢献を果たしている。海外には昔から「貴族の義務」という言葉があり、社会的に優位な立場に立つものが負うべき義務があった。日本でも、戦前はその義務を旧財閥が果たしており、美術品の蒐集、展覧を行い、広く一般に公開すると共に、海外への流出を防いだものだ。今でもその名残を残した企業はいくつかあり、立派な文化貢献を果たしている。

世の中に「文化事業は儲からない」という考えが蔓延し、経済状況が厳しくなれば真っ先に削られるようになった。確かに、投資という感覚で行えば、これほど割に合わないものはないだろう。先ほど述べたように、お金も時間もかかる割に、その成果が保障されるものではないからだ。しかし、歴史的に眺めると、文化はパトロンがいなければ進歩はしない。言葉が悪ければ、「スポンサー」である。スポンサーは商品を売って利益を上げることは当然だが、それ以外にも、社会に名を売って企業イメージを高めることも大切だ。そのために、こういう時代だからこそ文化事業に適切な援助をしてもらいたいものだ。

歴史は繰り返す。今、我々が次の世代へつなぐべき文化をキチンと育成しておかないと、日本の文化は危機に瀕する。「歌舞伎が危ない、と言われているうちはまだ大丈夫なんです。誰も何も言わなくなった時が一番危ないんです」と言った歌舞伎役者がいた。これは、歌舞伎だけの話ではない。すべての文化に共通する話だ。

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2012.09.08掲載

33.職人気質

私の父方は祖父以来、職人のようなしごとばかりだ。祖父は明治の末に生まれ、バーテンになった。父は時計屋の職人だった。私は物書きである。物書きのことを「芸術方面」と呼んでくださる方があるが、私は基本的に職人の仕事だと考えている。芝居の批評を書くに当たって、一人パソコンの前で「ああでもない」「こうでもない」とタバコをふかしている姿は、端から見れば植木職人が庭の手入れの最中に一服して、木の枝ぶりをどういじろうか考えているのと同じだと思う。

芝居の世界も、職人の集団だ。作家も演出家も役者も、己の解釈と表現との間で苦しみ、もがく。それが、たとえ観客には一見して分からないような僅かな問題でも、だ。究極の自己満足とも言えるが、誰しも仕事は自己満足のためにするものだ。しかし、自己満足を味わうためには、それ相応の闘いが必要になる。相手は自分だけではなく、共演者だったり演出家だったり、劇場のスタッフだったりする。

しかし、ここ三十年の間に、芝居の創り手に、職人が明らかに減った。「効率化」を第一とする嫌な時代の中で、丁寧な職人の仕事よりも、その場さえしのげれば良い、という風潮が、芝居だけではなく多くの分野に広がり、それで事足りる、とされてしまったからだ。確かに、経済の面からだけを考えれば、「同じように見える」ものに、500円かけるよりも100円で出来れば良いだろう。しかし、それだけがすべてではないはずだ。時として、経済効率を優先する場合もあるだろうが、そればかりではお寒い話だ。

日本の職人の仕事は、世界に誇るべき仕事である。増して、芝居の世界など、良くも悪くも人間の「情」を描き、表現する仕事だ。それが、数字の大きさだけで左右されるようになり、職人の「心意気」だの「誇り」だのというは歯牙もかけられないような状況では、良い物ができるわけがない。職人にも生活があり、道楽で仕事をしているわけではない。しかし、時として、自分に満足のゆく仕事になりそうであれば、自腹を切ることを厭いはしない。また、己の分を弁えているから、不当な要求もしない。

そんな時代がついそこまではあったのに、今、こうして書いているとまるで夢物語に聞こえてしまうほどに世の中が殺伐としている。しかし、役者が一人前になるまでに実に多くの人の手と時間とお金、何よりも本人の努力がかかっているのと同様に、各分野の職人の仕事も、同じような手間暇をかけて創られて来たものだ。それを、効率一辺倒の物差しで測られたのでは、できる仕事もできなくなるというものだ。

いまどき、こんな時代遅れな話を、と思われるかもしれない。しかし、私は時代遅れが悪いことだとは思えない。意味もなく、とは言わないまでも多くのことに駆り立てられ、自分が何で疲弊しているのかさえも考えられないような状況にいるよりは、数は少なくとも納得のゆく仕事を遺したい。後2000年も寿命があり、健在でいられるのならともかく、人生は短い。その間に、少なくも自分で満足の行く仕事を一つは遺したい。年を経るごとに残された時間は短く、確率は低くなる。しかし、無理だとは分かっていても、それを諦めてしまいたくはない。

私を育ててくれた劇界の人々の職人気質を、少しでも若い世代に渡せるかどうか、それが私の今後の仕事の大きな部分を占めているのかもしれない。

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2012.09.15掲載

34.「芝居の本」

私も芝居の本を書いている一人である。私が高校から大学生の辺りだろうか、熱心に芝居の本を漁りに古本屋を廻っていた頃とは二つの点で隔世の感がある。一つはインターネットだ。今は欲しい本が、一発検索はおろか値段の比較までできるようになった。昔は、やっと探し当てたが想像以上に高く、さりとてこのチャンスを逃すわけにもゆかず、と伊達男のつもりで、当時流行っていた金のネックレスを質屋に入れたこともあった。今の若い人には笑われそうな話だ。

もう一つは、芝居の本が、格段に増えたことだ。私が学生の頃は、芝居の本を専門にばかり読んでいる、などというのは一風変わった口であり、それぞれの分野で本は出ていたが、数は少なかった。文庫で戯曲を読もうと思っても、古くて難しい訳の岩波文庫、後は新潮、角川辺りだっただろう。今は、ファンには嬉しい「ハヤカワ演劇文庫」が刊行され、佳品が続々と文庫化されている。「戯曲」という文学が、時代を経て再び読書人の身近な場所へ寄ってきてくれた嬉しさがある。

芝居の批評をするには、過去の舞台との比較検討の必要もあり、また他の仕事のために、足の踏み場もない小さな書斎には、明治時代から一週間前に出たものまでが乱雑ぶりを極めている。必要なもの以外はなるべく処分をするようにしているのだが、離せない書物も多いし、「いつか読むだろう」という類の本も多い。

芝居の本、と一口に言っても、歌舞伎やその他の芝居の脚本や作品研究もあれば、劇作家についての論文もある。役者の芸談があれば自伝もある。私が書いているような劇評をまとめたものや、芝居の世界の暴露本に近いようなものまで、実に種種雑多だ。

当然かもしれないが、私の本棚の一番多くのスペースを占拠しているのは戯曲、だろう。歌舞伎から始まり、明治、大正、昭和、平成。ふと眺めてみると、昔の本の方がどっしりとした重みがある。立派な箱に入っているせいもあるだろう。しかし、本そのものから漂ってくる迫力のようなものが違うのだ。気のせいだ、と言われてしまえばそれまでだが、価格の問題もあるのかも知れない。

何十冊あるかは分からないが、芝居の本に限らず署名本には味わいがあるものだ。本によっては、その本をどういう状況で初めて手にしたかが鮮明に浮かぶものも多い。本と芝居と役者が三つで一つの想い出になっているからだろう。署名本で思い出したが、水上勉の本に、ある女優が署名をしたものが手元にある。著者とサインの名が別人なのだ。この時のことも覚えている。足を痛め、入院している女優を見舞った折に、数日前に読了した水上勉の小説が面白かった、いずれこれを舞台でやりたいと思うので、読んでごらんなさい、と私にくれたのだ。お見舞いに出かけて物をもらって帰るのもおかしな話だが、その本をもらう時に、私が女優に「どうせなら扉に何か書いてくださいよ」ねだったのだ。言われた女優も迷惑だっただろう。自分の著書ではないし、何を書けと言うのだ、とも思ったろうが、快く筆を走らせてくれ、「芝居になるかどうか、感想を聴かせてね」とほほ笑んだ。

一冊の芝居の本には、中に書かれている事柄だけではなく、その本にまつわる思い出がたくさん残っている。とは、流行りの「断捨離」ができない言い訳だろうか。根が貧乏性なだけかも知れない。

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2012.09.22掲載

35.伝統を現代へ

ここしばらくの私の大きなテーマの一つに「伝統を現代へ」というものがある。たかだか三十数年の観劇歴でも、もはや古株に近くなって来た。その分、かつての名優たちが演じた多くの舞台を観られた幸福はある。しかし、それをいくら懐かしんだところで、今ここで現在の観客に見せられるわけではなく、また、現在の観客が私と同じような感動を覚えるかは定かではない。歌舞伎や浄瑠璃、落語など、日本古来の伝統芸能の他に、明治以降の芝居も、すでに立派な「古典」である。しかし、それを「古臭い」「時代遅れ」と一蹴してしまうには勿体ない芝居がたくさんある。

明治時代と現在では観客の嗜好も生理も違う。現代の観客に合うように、古典を「カスタマイズ」し、本来のテーマを変えることなく呈示するにはどうすれば良いのか。ことに、歌舞伎などはその代表だ。ここで大きな誤解があるのは、「歌舞伎は古典芸能だから手を付けてはいけない」という、誰が決めたわけでもない暗黙の了解めいたものだ。そんな規則はどこにもなく、逆に江戸時代は著作権もその意識もなかったこともあり、大胆に改訂や創り直しをし、当時の観客の嗜好に合わせるだけの柔軟性を持っていた。むしろ、今の方が、固定観念のもとに「歌舞伎は難しい」「だから歌舞伎の入門書を読もう」という現象が起きている。

この点で言えば、「伝統を現代へ」の活動が現在もっとも盛んなのは落語だろう。中には、単に時流に乗って内容が伴わない人もいるが、それだけの演者が落語を変えようという意識を持っていることは大事だ。立川談志の薫陶を受けた立川志の輔がこの試みに完全に成功したのを始め、今は多くの若手が独創的な高座づくりに腐心している。尤も、落語は個人芸であり、自分だけのものだからどうにでもなるが、芝居は集団で創るものだ。そこに大きな「伝統」の壁が立ちはだかっている。この壁は、「ベルリンの壁」ほどの強固さを持っており、そう簡単に観客に歩み寄る姿勢は見せない。

嬉しいことに、若手の役者たちが歌舞伎の新たな可能性を探るべく、他のジャンルの役者とのコラボレーションや、古典の新演出、新解釈などに一所懸命力を注いでいる。これまで先人が苦労して創り上げた伝統を無暗矢鱈に破壊する必要はない代わりに、ただぶち壊せば良い、というものでもない。右の眼で守るべきものを見据え、左の眼で現代と共に歩む方法を探りながら、新しい挑戦をする。これが、歌舞伎に限らず伝統芸能が今取るべき姿ではないか、と私は思う。

これが口で言うほどに簡単ではないことは私も承知している。こうして原稿を書くのでさえ、今の読者に適切な言葉を探す苦労は付きまとう。しかし、何事も同じ苦しみを抱えているのは事実だ。逆に言えば、伝統芸能は最先端はない代わりに、これ以上古びない強みを持っている。「いつ時代遅れになるのだろう」という心配とは無縁でいられる。最先端を走る価値もあろうが、その背中を見ながら走るものには作戦を立てる余裕もあるはずだ。

「伝統を現代へ」は、芝居の創り手には重く、大きな課題だ。しかし、成功例がないわけではない。まさに「産みの苦しみ」を伴った挙句に、新しいものが産まれる。後は、そこへ辿り着くまでに泥まみれになることを厭わない覚悟があるかどうか、の問題だろう。スローガンを実行するためには、意外に泥臭い仕事ばかりが付きまとうものなのだ。

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2012.09.29掲載

36.一般教養

入学試験などで出るどうでもいい「一般教養」の話ではない。我々、大人の一般教養の話だ。私自身が年齢を重ねたせいもあるが、最近、昭和初期生まれの方々と話をしていて、自分の一般教養の程度の低さに愕然とすることが多い。特に、文学や芸術の仕事をしているわけではなくとも、「源氏物語」や「平家物語」などの古典や、多くの俚諺に通じ、幅広い知識を持っている。とてものことに、「源氏物語は『桐壷』で玉砕しました」などとは、恥ずかしくて言えたものではない。また、この時代は歌舞伎を始めとした日本の古典芸能が一般教養となっていた時代でもあり、系統だった学問ではないにせよ、その博識ぶりに驚かされることも多い。

夏目漱石や森鴎外などの明治の日本文学が国語の教科書からはずされ、ひたすら口当たりの良いものだけを教えようとする今の教育に文句を言ったところで仕方がない。こんな発想は教育以前、の問題だからだ。しかし、教育の現場で着々と我々日本人を馬鹿にする努力を続けたおかげで、芝居の世界の一般教養のレベルも著しく下がっている。仕事に直結する問題なのに、本人に危機感を覚えさせない「ゆとり教育」とは、見事なものだと改めて感心する。

時代物の芝居に出るのに、着物の着かたが分からないなどは当たり前になって来た。そうなると、武士が刀を自分の右と左に置く場合にどう意味合いが違うのか、女性が年代に応じてどう着物の着付けが変わってゆくのか、あるいは三味線の二上がりと三下がりの調子を聴き分けることなど、こちらが不当ないじめをしているのではないか、とさえ感じることがある。芝居には「それらしく」見えれば胡麻化せる部分もあり、それで許されるケースもある。しかし、そればかりになってしまうと、偽物ばかりが幅を利かせ、本当の事を教えようとすると「うるさい奴だ」ということになる。アマチュアで楽しんでいる分には文句はないが、プロとしてギャラを取る以上は当然ではないか、と思えることが当然ではなくなっている時代だ。

江戸時代から、「芝居は無学の耳学問」という言葉があり、庶民は芸能で多くの歴史や故事を学んだ。今の時代、当時からすれば信じられないような高等教育を受けながら、自分の国のことを何も知らずにいる大人が何と多いことか。私とて、人のことを言えた義理ではない。たまさか芝居の仕事をしているから多少は詳しい、というレベルに過ぎないだけだ。テレビのアナウンサーとてまともな日本語が危なくなっている時代だ。こんなことを叫んでみても、何もならないのかも知れない。しかし、「時代の流れ」と簡単に片づけられる問題ではない。

今、「四書五経」の素読をしろ、とは言わない。しかし、芝居の世界の例でも分かるように、実利的な物事にしか眼の向かない人々の何と多いことか。スキームだのコンテンツだの、キチンとした日本語が使えないままに、まともな意味も良く分からない言葉を使ってその気になっていることの怖ろしさ、そこになぜ気付かないのだろう。気付いていても直そうとしない確信犯なのか。

芝居は言葉を扱う仕事であり、言葉には敏感にならざるを得ない。その感覚さえ持ち合わせぬままに、何となくこの世界に生きている若者も多い。それがいまどきの言語感覚なのだ、と言えば今は良いのだろう。しかし、こんなことでは、次の世代へ残すべき芝居など、産まれるはずがない。日本の言葉や文化を、もっと大事にすべきではないのか。

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2012.10.06掲載

37.役者の評価

ここ三十年の間に、役者の評価基準が随分変わったような気がする。単純に昔を懐かしもうという話ではない。時代の流れと共に人々の感覚が移ろうのは当然のことであり、それを否定するつもりはない。しかし、それにしてもいささか乱暴とも思える事態が見受けられる。

「イケメンブーム」が続いて結構な時間が経つ。これはこれで結構なことだし、いつの世にも二枚目スターなくしては芸能の世界は盛り上がらない。しかし、その比重がいささか偏っているのも否定はできないだろう。劇作家も演出家も、もちろん役者も消耗品のように使われている時代にあって、頼まなくても続々と次の人々が現われる。その中から「使えそうだ」と思う人をチョイスし、当たればしめたもの、というのはこの世界の歴史的特徴だ。それにしても、なのである。

下積みの経験も基礎訓練もないままに、いきなり容姿端麗というだけでステージ中央のスポットライトが浴びるような場所に立たされる。最初のうちは誰しもご愛嬌で評価もしてくれるし、許してもくれる。しかし、この実戦の場をいかに活かすことができるかどうか、で生き残れるかどうかも決まるのだ。どうもこの辺りに、育てる側に「こいつに賭ける」という気概もなければ、本人も「やるだけやってダメならいいや」的なあっさり感があり、この世界で頂点を極めるために、という貪欲さが見えて来ない。「草食系男子」が増えたから、という問題だけではなく、この世界の体質も変わったということなのだろう。ここにいろいろな「大人の思惑」が絡むので、余計にややこしい問題が出て来る。

真面目にコツコツ勉強や修行を重ねていても、それが必ずしも報われるとは限らないのは、どの世界も一緒だ。しかし、こと芸能の世界に関して言えば、「一発に賭けるチャンス」の割合が格段に増えたのは事実だろう。一発に賭けてはずれても、希望者は続々と出て来るからだ。こうなってしまうと、これは一つの「システム」であり、システムで役者を評価することはできない。

いつも書いていることだが、役者が気の毒なのは、評価の多くの部分を一手に引き受けざるを得ないことだ。観客は、脚本の出来や演出などの細かいところまでは見てくれない。作品の仕上がりが良い時はまだしも、悪い場合は、役者の責任範囲の外の部分までもが、その役者の評価にされてしまうことがある。役者、というものは一朝一夕に出来上がるものではない。しかし、最近はブームに乗り切れない役者はもう用がない、とまで言わんばかりだ。これでは、役者も観客も気の毒だ。

「人間の評価は棺の蓋を閉じた時に決まる」と言うが、役者の仕事は生きているうちに評価されなくては困る。その一方で、亡くなって初めてその存在の大きさを認識させる人もいる。このところ、ベテラン・中堅を問わず訃報が多い。眼にするたびに、「ああ、この人もか」と寂寥感が襲うが、生きている以上は仕方がないことだ。しかし、そういう想いを少しでも減らすために、役者が元気に仕事をしているうちに、一定の評価を見定めるのが我々の仕事でもある。評価を定めると言うといかにも偉そうだが、そうではない。あくまでも、「観客の代表の一人」として、批評家としての眼でどう見るか、だ。そこには技術は欠かせないが、一番重要なのは、止むことのない芝居への「熱情」だと私は思っている。今は、それさえない役者がいかにか多いことか。それが寂しくも悔しくもある。

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2012.10.13掲載

38.演じ続ける

一人の役者が当たり役を長年にわたって何百回、あるいは千回以上も演じて来たケースは幾つもある。繰り返し演じることができるのは、その舞台の評価が高く、観客に求め続けられている、ということであり、役者の幸福の一つと言ってよい。その分、前回との比較の中で少しでもクオリティの高いものを見せなければならないというプレッシャーも常に頭を離れないだろう。何事も、「いい事ばかり」ではない。

回数で言えば森光子の「放浪記」2017回を筆頭に、いずれも1000回を超えた松本幸四郎の「勧進帳」「ラ・マンチャの男」、森繁久彌が900ステージを演じた「屋根の上のヴァイオリン弾き」など、多くの公演の記念的な瞬間に立ち会って来たことは、観客として、批評家として幸福なことだ。

どの芝居でもそうだが、回数を重ねて観ていると、こちら側も年齢を重ねるし、見る度に力を入れる場所や感じ方が違って来る。新たな発見も当然ある。「何回も観ていたのに、今までこんなところに気付かなかったのだろうか」と自分の愚かさを嘆いたこともある。それが、同じ芝居を繰り返して観る愉しみの一つでもある。同じ作品に何度も接していると、いろいろな姿を垣間見ることができる。そのエピソードも多いが、印象に残っている経験を一つご紹介しよう。

森繁久彌が帝国劇場で「屋根の上のヴァイオリン弾き」を半年にわたってロングラン公演した。今のミュージカルのように、キャストを入れ替えるわけではなく、1,2名を除いて半年間キャストは変わらない。今思えば、これも凄いことではあるが、これだけ長い期間になると、いかな名優の舞台といえども、「狎れ」が生じて来て、舞台がダレることがある。この半年間の公演のちょうど中ごろにあらかじめ一週間ほどの休演期間を設定してあった。3時間40分の間、ほぼ出ずっぱりで、60代後半の森繁にはいささか体力的に厳しいのだろう、と勝手な予想をしていたが、事実は違っていた。この休演期間に、アメリカから再度演出家を呼び寄せ、稽古をさらい直したのだ。三か月の間に知らず知らずのうちに溜まっていたであろう汚れや垢を洗い落とすための稽古だった、と後で聞いた。

休演期間が終わった後、私は帝国劇場へ出かけた。わずか一ヵ月前に観た芝居と同じ物とは思えないほどに、舞台は輝きを放っていた。その感動もさることながら、あらかじめそれを予見し、再度稽古をし直そうというメンバー、そしてわずか一週間の間に無駄な部分を削ぎ落とし、自分本来の演出に戻した演出家、そうしたプロの怖さと厳しさを目の当たりにした想いだった。

今も、こうしたことは私が知らないだけで、数を重ねている演目では行われているのかもしれない。「演じ続ける」ことの怖さ、それは「慣れた芝居だからやりやすいでしょう」という意見とは対極の場所に位置しているのだ。それでもなお、作品の魅力に取りつかれ、その芝居の到達点を目指して一歩一歩、時には半歩の前進を目指して歩み続けるのは、我々の想像を絶する厳しい行為だ。上演回数が増えれば観客の眼も肥える。その中で、「毎日が初日」の心を持ち続けるのは容易ではない。

長い間舞台を観ていると、こういう瞬間にも立ち会える。それは幸せである。しかし、大きな感動の後には、「これと同じ舞台にはもう二度と会えない」という寂寥感も伴う。だからこそ、舞台は一期一会なのだ、という気持ちが、私には強い。

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2012.10.20掲載

39.役者のこだわり

どの仕事でもそうだが、自分が納得できないものが、他人を納得させられるわけはない。自分の納得を突き詰めてゆくと、それは究極の「自己満足」とも言えるのだろうが、経験を重ねれば重ねるほど、そう簡単に自己満足できるものではなく、同時に、満足した瞬間にその役者の進歩は止まる。これは役の大小や科白の数などの問題ではなく、どこまで自分がその作品に取り組めるか、ということだ。何度も稽古を重ね、演出家とのディスカッションを繰り返しても納得のゆく芝居ができない場合もある。役者も演出家もそこでの苦しみは大きい。そのまま初日が開いてしまうケースもあれば、何かふとした拍子、とでも言いようのないきっかけで、ストンと腑に落ちることもある。

芝居に関して言えば、科白の言いようだけではなく、衣裳、歩き方、動作、声の出し方、間、イキ、多くのことが関係している。こうした動作に移る以前に、自分でどう脚本を読み込み、頭の中にどう役をイメージし、体現しようとするのか、という問題でもある。ゴッホを演じるために、自らが南フランスへ赴き、ゴッホが歩いた道筋を辿り、その時のゴッホの想いに自らをダブらせ、役作りの参考にしようとした役者もいた。今の時代、そんな余裕はない、と言われそうだが、これが「役者のこだわり」である。この役者は、千利休役での映画出演の依頼が来た折に、「これから茶道の勉強をしたいので、三年待ってほしい」と言ったというエピソードも持っている。ここまで言えるかどうかはともかくも、多かれ少なかれ自分の「こだわり」を持てなければ、仕事は進歩しないだろう。

目まぐるしい時代の中で、何もかもスピード感が重視されている感があるが、じっくりと時間をかけ、一つのものを醸成してゆくこともまた大切だ。その過程で気付くこともあれば、仕事が終わった後に気付かされることもある。役者も物書きも、芝居の国の住人は、本来その繰り返しで少しずつ歩みを進めて来たのではなかったか。誰しも道楽で仕事をしているわけではない。ならば、なおのことそこに「こだわり」がなければ、仕事は流れ作業のようになってゆく。

大量生産の電気製品であれば、流れ作業は欠かせない重要な仕事だ。しかし、芝居のように人間の中でもさらに人間くさい人々が集まってする仕事が、流れ作業になってしまっては、面白みがなくなる。ここまで書いて気付いたのだが、ここ十年以上の間に、我々が世間話や酒の席で政治を語ることがほとんどなくなった。三十年前、私が学生の頃には、自分が天下国家を変えるわけでもないのに、政治の話をしている人々は町にも学校にも大勢いた。政治の腐敗は、大衆の無関心と非常に濃密に結び付いている。この伝で言えば、芝居の創る側がこだわりを持たなくなれば、それは鋭敏な観客にはすぐにさとられ、他の物に興味を移されてしまっても文句は言えない。

個人が絶対に許せない「こだわり」を持って暮らしているのと同様に、芝居創りの場でも、もっと多くの人々がこだわりを持つべきではないだろうか。経済効率を優先することは商売の原則だ。しかし、それだけではない「何か」の魅力を、芝居は持っていたのではなかったか。だからこそ、多くの人々が貧乏をしても芝居をやりたい、という熱情に駆られていた。その「何か」を見失って、一発当てて良い暮らしを、だけでは、芝居の世界は成立しないのだ。無理に貧乏をする必要はない。何が大切か、をもう一度考えたい、ということだ。

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2012.10.27掲載

40.落語について

ここ暫く、落語が賑やかだ。若手が既成の「古典落語」の枠をぶち壊し、多くの新作をオリジナルで話している。私の感覚では、落語は、博物館入りするギリギリのタイミングで息を吹き返し、庶民の手に戻った感がある。その救世主となったのは、立川談志であり、弟子の立川志の輔、あるいは春風亭小朝などが魁となっていることに異論はないだろう。他の古典芸能の分野も同じだが、こういう動きが起きると、必ず「古典遵守派」からは「邪道だ」という意見が出る。これは、どちらが正しい、という問題ではないと私は思う。

落語を、時代と共に変容させ、今の聴衆と共に歩みながら新たな物にするか、「古典落語」という世界を死守し、感覚としては通用しなくともそれを「芸」として聴かせるか。寄って立つ場所が違う二通りの考え方がまとまるわけはない。また、無理にまとめる必要もなく、何通りもの方法で語られる落語があり、それを聴衆が好みによって選べば良いだけの話だ。

私自身について言えば、少年の頃から古典落語を聴いて育ったが、新作を否定するわけではない。面白いものは古典でも面白いし、新作でも下手な噺家にかかれば面白くも新しくもない。そこを混同して落語を論じても意味はないだろう。私が何となく専門の研究とまでは行かずとも三十年以上落語を聴いて来た中で、こうした今の大きなうねりの原点は、実はかなり時代を遡るところにある、と考えている。

1978(昭和53)年に、落語会は真打の昇進問題を巡って分裂し、大きな騒動が起きた。その中心にいた一人が、「昭和の名人」と言われた三遊亭圓生だ。圓生は、芸に厳しく人柄よりも芸で真打昇進を決めるべきだと主張し、温情派の柳家小さんと真っ向から対立し、双方一歩も譲らなかった。その結果、圓生は一門を率いて独立し、その翌年に戦死とも言える壮烈な死を遂げた。この問題だけでも何冊もの本が出ているから、興味がある方は古書店を探してみるのも一興だが、この「事件」以降、落語界が変わり始め、その胎動が爆発したのが、昨今の落語人気に深く関係がある、と私は考えている。

落語という芸能が大きく転換するまでに、約30年近い歳月を必要とした、ということだ。この例を考えても、他の古典芸能が変わってゆくことがいかに大変であり、多くのエネルギーが必要か、が良く分かる。私は、圓生の死は、結果的に落語を守ろうとしたための殉死ではなかったかと思う。今の若い噺家の多くは、圓生の高座を生で聴いているわけではない。しかし、多くの映像や音源が発売されており、その芸を偲び、勉強することは可能だろう。

反逆児とも言われた立川談志。彼ほど、落語に対して愛情を注ぎ込み、裏切られて憎しみを持っていた噺家は他にいないのではないだろうか。「憎しみ」と言っても憎悪ではなく、悪女の深情けのようなものだ。惚れ過ぎているから、いくらダメになっても離れることができない。しかし、ダメになった落語に腹が立つ。自分で、どんな落語なら良いのか、を体現して見せることはできても限界がある。談志の晩年は、その相克に苦しんだものだった。

芸は怖ろしい。よく魔物に例えられるが、こうして多くの人々が、芸のために命を落としている。その世界に惑溺すればするほどに怖ろしさは増すものだ。昔の人々は、それを自分の身体で知っていた。

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2012.11.03掲載

41.テレビドラマ

最近、テレビドラマを観る人口が減っているという。事実、番組欄を見ても、ドラマの数は少ない。景気が悪い⇒スポンサーがつかない⇒制作費が削られる⇒手間暇をかけた番組作りをする余裕がない⇒バラエティが増えた、という図式になるのだろうか。テレビドラマ不振論は今始まった話ではない。随分前から言われていたことであり、試行錯誤の結果も尽きた、ということか。

毎年、話題になったりならなかったりするNHKの「大河ドラマ」。半世紀の歴史を誇るNHKの看板番組の一つだ。歴史的な素材を取り上げることの面白さと難しさの両方を持ったドラマで、私はなぜこれを一年にわたって放送し続けるのか、そこに疑問がある。今の視聴者は、同じドラマに一年間付き合ってくれるほどに気が長くはない。よほど良質のものであればともかくも、民放の三ヶ月クールのドラマでさえ視聴率によっては途中で打ち切りになる時代だ。そういう時代だからこそ、あえて王者の風格という発想も分かるが、それにしても現代のスピード感覚で言えば半年で終わるドラマを二本創った方が目先も変わり、話の展開にも苦労はないだろう。

映画と同様に放送が終わった後のDVD化までを含めて制作されていることも、リアルタイムの視聴率という意味では諸刃の剣とも言える。レンタルビデオの店には、ずらりとドラマのタイトルが並び、懐かしいと感じるものから、つい先日放送が終わったばかりのようなものまで、実に幅広い。今はDVDも一枚100円で借りられる時代だ。最初の一枚だけを観て、後は自分が気に入ればいつでも好きな時に観れば良い。子供の頃、観たいテレビ番組があると、大急ぎで家に帰ったことを思うと、隔世の感どころではない。テレビはかつて家の中心、つまり茶の間に一台しかないものだったが、いつしか一部屋一台になり、パソコンはおろか携帯電話でも観られる時代になった。ハードウェアの進化にソフトウェアが追い付けなくなってしまった悲劇がここにある。

こんなスピードで次から次へと進まれては、確かにじっくり時間をかけて良いドラマを、という発想は出にくく、実際に出来る物でもないのだろう。それは理解できるが、人間とは天邪鬼なもので、かつてのドラマが懐かしく、想い出の中でさらに美化されてゆく。それぞれの世代の青春を象徴するようなドラマは、今も色褪せずに多くの人の記憶に鮮烈な印象を残しているはずだ。

最近、多くのドラマが最新の技術で復活し、レンタルや販売されているのは嬉しいことでもある。しかし、簡単に録画が残せるようになる前に放送されたドラマにも良いものがたくさんあった。おぼろげな記憶で言えば、NHK大河ドラマの「元禄太平記」などは稀に見る豪華キャストだったし、今のテレビ朝日がNET時代に放送した城山三郎原作の「落日燃ゆ」なども素晴らしい作品だった。倉本聰がフジテレビに書いた「あなただけ今晩は」もいくつかのシーンが目に焼き付いている。こうした事を思うと、今さらながら「アーカイブ」の重要性をつくづく感じる。特に、私のような仕事をしている者にとっては、舞台の記録など宝物に等しい。ずいぶん集めたつもりではいるが、まだまだ観たいものは多い。

一方、そうしたものは自分の甘美な記憶の中にあるからこそ、貴重なのだ、とも思える。今改めて観る機会を得られたとして、当時と同じような感動を覚えることができるのだろうか。私の感性が、その曖昧な期待と不安のはざまで揺れているような気がする。

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2012.11.10掲載

42.椅子の数

劇場の客席の話ではない。どの分野でもそうだが、あらかじめ頂点に座れる人の椅子の数は決まっている。頂点が決まれば、その次も、あるいはその次も、ということになり、芝居の世界で言えば「スター」あるいは「主役」の椅子は限られた数しかない。しかし、その椅子に座りたい希望者の数は椅子の数よりも遥かに多く、シビアな争奪戦が繰り広げられているのは今も昔も同じことだ。その中で、時代によって椅子の数は変動するという歴史を繰り返して来た。

「椅子」はスターだけではない。芝居に関して言えば、その公演に出演できるかどうか、出演者の数は決まっている。スタッフにしても同じことで、余剰な人員を雇う理由はない。むしろ、少数精鋭のスタッフで、いかに質の良いものを創るか、が課題だろう。こう考えると、世の中のありとあらゆる物の椅子の数が決められているような気がする。難しいのは、真面目にコツコツ励んでいれば必ず誰かに認められる、という保証がどこにもないことだ。むしろ、そうしながら陽が当たる場所に出ることなく人生を終えた役者たちの方が、はるかに多いだろう。

こう考えてみると、門閥や徒弟制度でがっちりと固められているかのように見える歌舞伎は安泰のようにも見える。名門の子息として生まれれば、将来が約束されたように感じるからだ。しかし、芸の世界はそう甘いものではない。いくら父親が名優でその名を襲名しても、自分に実力がなければ、父の名はどんどん光を失い、数々の主役を演じていた華々しい父親とは違って、脇役ばかりを演じなくてはならない状況になるのは誰も同じことだ。それを必死で食い止めるには、実力を見せるしかない。

実力を持っていても、見せる機会を与えられない役者もいる。この状況にどこまで耐えることができるか、過酷な話だ。昨今、また「いじめ」の問題が物議を醸しているが、大人の世界のいじめも陰湿だ。私がかつて聞いた話では、大正時代に、声が良い役者を妬んで喉を潰そうとし、水銀を飲ませようとした役者がいた、と言う。こんな話はいくらもあり、自分がのし上がってゆくためには手段を択ばない、というケースは芝居の世界だけではない。

「生き馬の目を抜く」という諺があるほどだから、こうした人間の生き方は今に始まったことではない。しかし、「人が良いほど割を食う」という風潮が堂々とはびこり、声の大きい人が勝つ状態が正しいとだけも言えない。三十年以上芝居を観ていると、本来の実力が評価されぬままに生涯を終えた役者もいれば、その逆もある。誰もが思う通りの人生など送れるわけがないことは承知しているが、そこに理不尽さを感じた時期もあった。自分が年齢を重ねるに従い、「競争社会」という言葉にいささかの抵抗を感じることがある。他人との競争も大事だし、それがなくては、進歩はない。しかし、人と争う前にまず、自分の力を客観視し、それを更に高めることだ。ともすれば怠惰な日々を送ろうとする私の書斎では、「師匠」とも言うべき人々の遺影が常に私を見ている。

いずれも、生涯を賭けて「芸の世界」の自分の椅子を守った人々だ。そのためにはいかなる努力も惜しまず研鑽を重ね、その結果を観客に示し、感動を与えた人々だ。名前を挙げることはしないが、多くの人が「この人なら」と、その椅子に座っていたことを納得する。そうなるには何を勉強すれば良いのか。芝居の勉強も大切だが、「人間」なのだと、最近になってようやく思う。

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2012.11.17掲載

43.荒っぽい仕事

若い時代には、力任せで荒っぽい仕事をすることがある。何事も丁寧に越したことはないが、それにも限度がある。いくら良い物ができても、期限に間に合わないのでは商品としての価値は失う。ここ数年、特に芝居の創りに「荒っぽい仕事」が増えているように感じているのは、私だけではないだろう。脚本が決まらない、決まっても書き上がらない、ところから始まって、稽古の日数が極端に少ない場合も多々ある。これで、良い芝居ができれば誰も苦労はしない。数回前の「役者のこだわり」で、ゴッホを演じるに当たってわざわざフランスまで出かけた役者の話を書いた。これが極端だと言うのであれば、今の状況は逆の意味で極端だ。

入場料を払って芝居を観に来る観客には、稽古日数の問題や、脚本がいつ出来上がったか、演出家が掛け持ちで稽古場に顔を出したか出さないか、などは問題ではない。今、眼の前で演じられている舞台が面白いかつまらないか、の問題だ。どんな悪条件でも最高に面白ければ文句はない。しかし、スーパーマンでも限度はあろう。今の演劇界の中に、その限度を超えた荒っぽさが散見されるので、文句の一つも言いたくなるのだ。お客様にしてみれば、それが年に一度、自分へのご褒美の観劇かもしれない。誰も手を抜いているつもりはないだろうが、それが面白くなければ、出演している役者のせいになる。「今回の○×の芝居は面白くなかった」と。その背景にどんな事情があったのかを観客は斟酌する必要はないし、変に事情通で斟酌されても困る。

一番困るのは、荒っぽい仕事を繰り返しても一向に反省の色を見せずに「入らない」と嘆いている関係者だ。本当に、観客が観たくなるような芝居を、考えに考え尽くした挙句に幕を開けたのかどうか。問うべきはその一点に尽きる。演劇を含めた芸能の世界では不思議な事が日常茶飯事のごとくに起きている。昨日の夜にすべて決まっていたことが、一夜明けるとすべてひっくり返って、ゼロ地点に戻っていた、などということはしょっちゅうだ。しかし、それに慣れてしまってはいけない。どんな世界であれ、仕事の件で大の大人がまともに話して決めた約束は、余程の理由がない限り一晩で反古にできるようなものではないはずだ。それが「力関係」の名のもとに平然とまかり通っている。ここに、お金を払ってくれるべき観客に対する想いはない。

一方、どんな過酷な状況下にあっても一流の仕事を見せてこそのプロでもある。限れらた時間の中で、よりクオリティの高い仕事ができるかどうか、そこに言い訳はきかない。あるのは、自分との闘いだ。妥協はいつでもできる。それを一寸伸ばし、五分伸ばしにし、「妥協はいつでもできる」と自分に言い聞かせながら、ああでもない、こうでもないと頭をひねり、少しでも増しなものを仕上げる。そんな時こそ「火事場の馬鹿力」が発揮できることもある。人間、ギリギリまで来ると、思わぬ力を発揮するものだ。しかし、物を創るに当たっては、なるべく丁寧に創りたいという想いは誰しも変わらぬはずだ。むやみに時間をかければ良い物ができるか、と言うとそうとも言えない。

焼き物が、長時間の高温にさらされ、窯の火を落とし、作品を出すまで出来上がりが作者本人にも分からないところに似た部分がある。しかし、そこで「納得が行かないからこの茶碗は壊す」と地面に叩きつけるわけにはゆかない。そうならないために、自分が柔軟性と幾つもの切り口を持ち、どんな状況にも対応できるように準備しておくしかないのだ。

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2012.11.24掲載

44.役者の引退

多くの役者は「生涯現役」を目指す。事実、定年のない仕事であり、身体が元気であれば年齢は関係なく仕事はできる。そういう仕事だからこそ「引退」という線引きを自分でするのは難しいものだ。もはや伝説と化した話で、目まぐるしい歳月の中で埋もれてしまう恐れがあるので書いておきたい。役者を引退し、その後、自ら命を絶った役者がいる。昭和四十一年のことであり、私も生まれてはいたが事実を理解できる年齢ではない。ただ、当時の衝撃的な出来事を、多くの作家が書き残している。もっとも、ある程度の推測はできても決定的な理由は本人にしか分からないのだが。

八代目市川団蔵。歌舞伎の脇役として長年舞台を勤め、八十四歳の折に歌舞伎座「引退披露興行」を行った。「襲名披露興行」はよくあるが、「引退披露」の公演は珍しい。今から四十年以上前に、八十四歳まで元気に舞台を勤められたことはお祝いとも言えるだろう。引退興行を済ませた団蔵は、一人で四国へ巡礼の旅に出た。一人旅が好きだった団蔵の行動に、すでに覚悟があったことを家族が知っていたのかどうか、それはもう歴史の中であり、スキャンダラスにそれを探ることが目的ではない。八十八か所の巡礼を無事に済ませた団蔵は、小豆島を出たフェリーの甲板から、夜半に身を投げた。遺書めいたメモは遺されていたが、そこには自殺の動機や理由は記されてはいなかった。

団蔵は、もともと役者稼業が好きではなかった。父の七代目があまりにも大きな存在であり、その名を襲名した時からすでに「引退したい」という言葉を何度も口にしていたという。学究肌で、父に関する記録を集め、「七代目市川団蔵」という立派な著書を残すほどの人だったが、舞台では主役を演じる派手な芸風ではなく、常に脇に回っていた。脇役を演じることが嫌だった、と言う単純な問題ではなく、役者という生き方そのものが性に合わなかったのだろう。門閥に生まれたゆえの悲劇、と言えるのかもしれない。自ら命を絶たずとも、こうした例は他にもある。

どの仕事に限らず、自分で引き際を決めるのは難しいことだ。私のような物書きの場合、肉体を酷使するわけではないし、役者と同様定年があるわけではない。しかし、「感性の死」という恐ろしい事がある。本人が先に気づけばまだしもだが、読者に先に気づかれた場合は悲劇と言えよう。物書きで「引退」を表明した、という話はあまり聞かないが、それでも自ずと限界はある。「自分で限界を設けてはいけない」という言葉がある。ある意味では頷ける点もあるが、それも事と次第によるのではないだろうか。スポーツ選手のように明らかな数字で評価されるものであればいくらかは判断もしやすいが、物づくりの作業は物差しが違う。

また、自らの意志とは別に、病気をしたり災害に遭ったりで、仕事ができない状況に追い込まれることもある。それは、この原稿を書き終えた直後かも知れないし、十年先かも知れない。しかし、そう考えてみると、先人が遺した「一期一会」という言葉の重みが、若い頃とは違う感覚を持ってのしかかって来る。常に「この仕事は今回が最期かもしれない」という意気込みを持ってどの仕事にも臨むようにしているつもりだ。しかし、生来の怠け者は、さぼる理由をいくらでも思い付く。批評よりも言い訳の方に才能があるのではないか、と思えるほどだ。

自らの引退の日を延ばすためには、結局のところは努力を続けるしかないのだ。

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2012.12.01掲載

45.「肉体労働」

外国の演劇人に言わせると、日本の演劇人、主に俳優は「芸術家」よりも「肉体労働者」に近い働き方をしていると見られるそうだ。公演は一日一回で、週に一日は休演日がある、というスケジュールでの公演は、役者にとっては夢のような日程だろう。日本では、週に二回は昼夜の公演があり、チケットの売れ行きが好調な場合は、空いているところに追加公演が入ったりする。「日延べ」ができない劇場のスケジュールと、その公演の日程しか押さえていない役者のスケジュールなどの問題もある。歌舞伎など、出ずっぱりではなく、一日に何本かの演目に出演するにせよ、二十五日間休演日はないのが原則だ。先日、市川海老蔵の「伊達の十役」を観たが、芝居の面白さもさることながら、海老蔵一人でトライアスロンをやっているような印象を受けた。確かに、肉体労働には違いない。

ある人に直接聴いた昔の話だ。森繁久彌の「屋根の上のヴァイオリン弾き」。言うまでもなくミュージカルの名作で、日本での人気も高い。森繁が900回のステージに区切りをつけた時、67歳だった。この芝居、休憩を入れて3時間40分に及ぶ上演時間の長い芝居だ。それを、週に二回の昼夜の公演を挟んで、休演日はあるものの、半年のロングランは物凄い体力だ。この折の舞台は、当時の名優たちもこぞって観たものだが、この舞台を観て、大ベテランの女優がこう言った、と聞いた。「あんた、若くないのに、こんな肉体労働みたいなことしてると死んじゃうわよ」。笑うに笑えない名言である。

批評家の仕事も肉体労働に似たところがある。芝居を観るのはただ椅子に座っていればいいだけで、何の疲れも感じないように思う方々もいるだろう。しかし、これも時と場合で、面白くて時間を忘れるような芝居ばかりであれば苦にもならないが、始終時計に目をやる芝居や、必死で眠気をこらえる芝居もある。特に、批評家の場合は、初日になるべく近いところで芝居を観て批評を出さねば意味がないために、毎月初旬には観劇のスケジュールが集中する。私は、よほどのことがない限り、一日二本の芝居を観るダブル・ヘッダーは避けるようにしているが、それでも月に二日か三日はある。ダブル・ヘッダーが一週間続く批評家も珍しくはない。

演劇の批評を書く、というと頭だけを凄く使うようなイメージがあるが、それ以前に肉体を酷使して芝居を観なくては書けない。楽しみに観る分にはまだしも、批評のために暗がりペンを走らせながら集中して芝居を観るのは、なかなかに草臥れるものだ。

こうした芝居のスケジュールをして、海外からは「肉体労働者」だと半ば揶揄の意味を込めて言われるのだろう。尤も、同年齢の人々に比べれば身体を動かす量は総体的に多く、それが役者がいつまでも若々しくいられる秘訣なのかも知れない。楽をして芝居をしている役者の話は聴いたことがないが、中には本当に大変なものもある。加藤健一の代表作とも言える一人芝居「審判」は、休憩なしで2時間30分、しゃべりっぱなしの芝居だ。ワン・ステージ終えると、2キロ痩せると聞いた。もちろん、肉体だけではなく、頭脳も感性も酷使しての果てのことだ。どんな種類の労働に属しようが、それだけの想いをした役者の芝居があるからこそ、観客も感動を覚えるというものだ。

どの仕事でも、相撲ではないが「知力・体力・精神力」が備わっていないと充実した結果は出せないのだ、と自戒を込めて書いている。

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2012.12.08掲載

46.中と外との「境界」

ここ30年の間だけを考えても、多くの分野でボーダーレスが進み、境界線が曖昧になっているものが増えた。それがプラスに作用する分には問題ない。しかし、そういうケースばかりではない。最近、私が感じているのは、特にテレビで、内輪の言葉、あるいは以前は本番では聞かせない言葉を平気で視聴者に聞かせ、それが一般化していることだ。いわゆる「業界用語」というやつだ。さすがに、今の時代に「六本木」のことを「ギロッポン」と言って得意がっている人はいないだろうが、先日、NHKの番組を観ていて気になったことがあった。

ゲストのコメントに、アナウンサーが「噛みましたね、今」と言った。言葉がうまく言えずにつかえたりすることを指すが、少なくとも日常会話ではない。リハーサルの段階で使われる言葉であり、それを本番で聞かせるべきではない、といささかの不快感を覚えた。「業界用語」は芸能界に限ったことではない。職人の符丁や専門的な職業、あるいは医師のように患者に直接聞かれるのが好ましくない場合などにも使われる、いわばその職業に携わる集団の「隠語」だ。それが、今は隠語ではなくなっている。隠語が仲間同士のものではなくなり、大衆のものになった段階で、考え方は二つある。その言葉が「市民権を得た」というものと、「もはや仲間同士の言葉ではなくなった」という考え方だ。自分たちがそうした言葉を使うことで、疑似的に仲間になったような感覚で親しみを覚えるのは構わないが、中には知られては困るものもあるだろう。

こういう現象が珍しくなくなったのは、テレビの中と外の視聴者の境界が曖昧になったことに他ならない。単純に言葉の問題だけではなく、多くの人にとって、テレビに出ることさえも特別なことではなくなっている。以前は、街頭でニュースに関するコメントを求められてもうまく答えられない人も多かったが、今は多くの人が堂々と、中にはプロ顔負けのコメントを述べたり、中には笑いを取ろうとする人もいる。もちろん、そこには「編集」の技術が介在し、面白そうなものだけを集めれば良いのだが、それにしても素人が玄人に近づき、玄人が素人化している事実は否めない。

「玄人はだし」という言葉がある。その道に長けており、プロではないが、プロに近い場所にいて、その分野に才能を持った人のことだ。「玄人も裸足で逃げ出す」が語源と知るが、境界が曖昧になった分、セミプロが増えた、ということだ。アマチュアのレベルが上がる分にはまだしも、プロのレベルが下がって境界線が曖昧になるのはどうしたものだろうか。どの分野でも同じだが、その道のプロになるためには相当の手間暇とお金がかかる。その過程を何段飛ばしかで上がってしまうと、あちこちにアラが見えてしまうものだ。この辺りが怖いところで、自分の中の「核」となるものが定まらないと、アマチュアに追い越されるケースも出かねない。「これに関しては…」というものを持ってこそのプロであり、その仕事にどこまで自分を賭けられるか、だ。

いろいろな部分で垣根が低くなり、双方向での通行がしやすくなるのは悪いことではない。しかし、しにくい分野があっても悪くはないだろう。無暗に敷居を高くする必要はない。一番いけないのは、アマチュアのようなプロが増えることだ。その仕事でお金を稼ぐ以上、中途半端であっては困る。芝居で言えば、昔は「見巧者」と呼ばれる人々が役者や芸人を鍛えた。しかし、見巧者も少なくなり、それに鍛えられよう、という意気込みも減った。なあなあが一番の問題だ。

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2012.12.15掲載

47.古典の現代化

「どこからを古典と言うか」という定義を始めようとすると、大きな問題になる。ここでは、感覚的な意味で古典、と考えることにする。能狂言や歌舞伎の言葉が、今の我々に100%分からないのは当然の話だが、ここで言う「古典」とはそこまで古いものではない。例えば、明治時代の森鴎外や夏目漱石の作品が現代の国語教育の場で顧みられなくなり、感覚的には江戸時代以前と同様の扱いになってしまっている。この流れが続いてゆくと、流れる時代の速さと共に、多くの作品が「古典」として倉庫にしまわれたままになってしまう。これは、芝居の脚本についても同様だ。

私の感覚で言えば、30年前には盛んに上演されていた作家の作品がすでに「古い」「分かりにくい」「時代に合わない」とお蔵入りしている例は多い。芝居は時代と共に移ろうものであり、いつまでも古いものを古いままに上演することだけが良いとは思えない。しかし、倉庫にしまわれた作品の中に、少し手をかければ今でも充分に通用する作品が多く含まれている。それを検証せずに、一括りにしてしまうのはいかがなものだろう。

作家や作品の性質によって、簡単に改変できないものもある。しかし、歌舞伎が「改作」という歴史を持ち、その中で時代に合うように作り直しを何度もして来た優秀な事例がある。明治時代の作品の中にも、こうした方法で蘇る作品はいくつもあるはずだ。テレビや映画でも没後数十年を過ぎた作家の優れた作品をリメイクしているケースは多い。それを芝居でできないことはないだろう、と思う。作家の没後五十年存続する著作権の問題があり、遺族や著作権継承者の考えによってはすべてのケースをクリアすることは不可能だ。それはそれでよい。しかし、私は、数人の作家の遺族から「内容が多少変わっても、根幹を貫くものが変わらずに、父の名前を想い出していただけるのであれば…」という声を聴いた。そういう気持ちを持った遺族が管理する作品を、誠実に手直しし、現代の観客にも分かりやすいような形に直すことは必要だろう。

こうした問題の裏には、新作を大切にして来なかった、新しい劇作家を育てて来なかった演劇界の責任がある。しかし、空白の時間を取り戻すことはできない。今後、新しい劇作家が育つまでの間に、こうした方法を取るのも一つの方法ではないか、と思うのだ。応急手当てに過ぎないことかもしれないが、何もせずに手をこまねいているようは良いだろう。

更に言えば、今の我々がすでに明治の文学を咀嚼する能力が衰えているという更に重要な問題がある。日本のわずか100年前の作品がまともに読めない、という事態が教育先進国と言えるのだろうか。これでは、文化後進国と言われても仕方がない。

時代は還流する。やがて、古典文学の魅力が見直されることもあるだろう。しかし、悠長なことも言っておられず、必ず来る確信もない。私は、豊饒なる日本語で紡がれた古典文学のオリジナル性を冒涜するつもりはない。ただ、そこへ気付くきっかけをいろいろな方法で世間に知らせる必要はある、と考えている。そのために、演劇の分野でもできることはあるはずだ。「古臭い」と片付けるのは簡単だが、観客に単純に迎合するのではなく、その中に含まれている普遍性や新しさに気付かせ、新たな魅力と感じられるような物を提供するのも、劇作家の仕事の一つではないのだろうか。そのために、私は今、ある実験的行為を試みている。折を見てご報告しよう。

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2012.12.22掲載

48.「パトロン」

言葉のとりようで誤解をされると困るが、早い話が「メセナ」だ。大雑把な括り方をすれば、終戦後の財閥解体まで、芸術・文化の育成にはパトロンが多く存在していた。個人的に生活を支援するケースもあれば、企業が面倒を見る場合もある。成功が確約されているものではないが、それがお金持ちの道楽であり、財閥には義務でもあった。一般庶民がなかなか直接見ることがかなわない名画を蒐集し、展観することで社会貢献にもなり、美術品の散逸を防ぐ役割も持っていたのだ。今の時代のようにせせこましい考えばかりではないから、自分が育てた画家の絵が値上がりして、いくら儲かるのか、ということを第一義とはせずに、若い芸術家の才能を伸ばすことに自己満足を覚えていた人々が多かった。

今でも、美術館一覧などを見ていると、旧財閥系の企業が持っている美術館がまだいくらかある。美術品の相場は時として株価よりも大きな乱高下を見せることがある。それに一喜一憂しているような人々のする仕事ではない。虎ノ門のホテル・オークラなどは数多くの美術品の蒐集で名高く、年に数回、所蔵品をホテル内で展観して、一般公開している。また、会社の社長が私財を投じて美術品の蒐集をし、美術館を作った例も数多いが、この不況で維持しきれなくなっているのも事実だ。

こうした考えは、西欧では宮廷や貴族の仕事でもあり、そのいきさつにまつわる人間関係を描いた芝居が「アマデウス」である。ワーグナーのパトロンとして莫大な国費を使ったルードヴィッヒ二世は、国王としての評判は悪かったが、ノイシュバンシュタイン城やリンダーホーフ城など、今に残る文化を築いた。その善悪は、今はここでは問うまい。ただ、先人の行為が今の我々に豊富な過去の芸術遺産を鑑賞できる機会を残してくれたのは紛れもない事実である。

ここで、経済的に困窮している批評家に愛の手を、と言うつもりはない。世界恐慌寸前の今、日々の生活がいっぱいの状況で、腹の足しにならない文化に金を出せるか、という理屈はもっともな話だ。社会貢献に精を出したばかりに肝心の本業を疎かにしては意味がない。こういう時に一番すがりたい国が、もはや文化国家を標榜できないほどにレベルが低い。どこぞでは、人形浄瑠璃のことをろくに調べもせずに数字だけで補助金の削減を掲げ、紆余曲折の挙句、観客の動員数によって補助金の額を決めるという政治家がいた。逼迫した経済情勢の中ではやむを得ない部分も理解できるが、トップに立つ人間が、文化に対してこの程度の見識しか持てぬようでは、日本の文化の先は暗く、「美しい日本」という言葉が余計に空々しく響く。

誤解を招くと困るが、文化は余裕があってこその「ムダ」だ。芝居を観ないと体調を崩すわけではなし、落語を聴かないと血圧が上がるわけでもない。しかし、すべてが「お金」を中心とした功利主義にまみれた日本の中で、かつて大失敗してまだその負債を背負っている「ゆとり教育」などよりも、日本の文化に興味を持たせ、自らが生まれ育った国が誇るべきものを探すことも教育だったはずだ。「情操教育」というお題目を唱える前に、教える側が日本の文化を担って来た人々の歴史と精神があることをまず理解してほしいものだ。

もうパトロンを望むような時代ではない。しかし、精神的な援助は可能なはずだ。どうすれば可能なのか、我々が次の世代にバトンを渡す時の大きな宿題の一つであることは間違いないし、その考えを放棄してはいけない。

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2012.12.26掲載

49.「ないなし尽くし」

時代が大きなうねりを繰り返しながら進むのは否定のしようがない。今は、何もかもが「ないない尽くし」の時代にいるようだ。良い芝居を創ろうにも、「作品が…」「時間が…」「予算が…」ない。その一方で、今月の芝居を開けながら来月の芝居、その翌月の芝居の準備を同時進行でやらなくてはならない。さらに言えば、巧い役者、観客を呼べる役者も減っている。どこをどう見回しても、不利な状況に囲まれている。

前回も書いたが、今は世界全体に経済的な余裕がなく、芝居どころではなく日々の生活で手一杯だ。しかし、演劇人を称する以上、それが「不況」を言い訳にした逃げ口上ではないのか、と自省もしている。杉村春子の話だが、戦時中、空襲がひっきりなしの中、当たり役の「女の一生」を演じた。食べることもままならない時代、劇場があった渋谷のビルの下には長い行列ができており、配給に並ぶ人々かと思ったら、観客だったと言う。ろくに道具や衣装も揃わぬままに幕を開け、空襲警報のたびに芝居を中断し、解除になるとまた芝居を始めたと聞いた。演じる方も観る方も、「これが最後」の想いがあったのだろう。

もう一つのエピソードは、外国の話だ。同じ第二次世界大戦中、ユダヤ人の強制収容所で多数の殺人が行われた。劣悪な環境に詰め込まれ、何百万の命を奪った収容所の一室には、小さな舞台が残されていたと言う。全員がまともに横になることもできない場所の中、最後のよすがとして「教会」が残されていた、という話なら何の疑問もなく頷ける。しかし、どれほどの規模か、何が行われたのかはともかくも、そこに残されていたのは「舞台」だった。

この二つのエピソードが示唆するものは、演劇の力だ。どんな環境に置かれようとも、娯楽を超えた人間ドラマとしての演劇を求める人々の心はある。今の我々がいささか不自由な環境に置かれたとは言え、諦めるにはまだまだ早い。万策を尽くしてなお、というのであれば諦めもつくが、まだそこまでは行っていない。また、そう簡単にやめられるものであれば、こうなる以前にとっくに効率の悪い芝居の仕事などやめているはずだ。何だかんだと文句を言いながらも芝居にしがみついているのは、不自由を超える魅力を持っていることを知っているからだ。私は演劇の魅力を「美毒」と呼んでいる。甘美な、しかし激しい毒だ。事実、「演劇」の「劇」は、「劇しい」の劇でもある。

この毒に三十年以上まみれていれば、いささかの刺激では効き目が弱くなっているのも事実だが、もう抜け出すことはできない。ならば、「ないない尽くし」の時代の中で精一杯の悪あがきをして、行けるところまで行ってみようではないか、と思う。どうせ一度きりの人生、しかも50歳を迎えて残りの方が長いわけはない。一人の力でできることなど多寡が知れているが、目を覆って逃げたのでは、自分で納得ができない。損な性分だが、その分いい想いもした。一瞬にして「あるある尽くし」に変えることは不可能だが、せめてその芽だけでも探しておきたいと考えている。

芝居を批評する仕事が完成した、とも満足した、とも思いはしない。しかし、これからは、演劇人として仕事の枠にとらわれることなく、劇作も演出もプロデュースも、できることは全部挑戦しようとおもっている。そうしないと、何だか芝居の神様に申し訳のないような気がするのだ。

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